リツの場合 2
「本日付で配属になった常務のジーン・フォスターだ。君たちの活躍には期待している。なお私は転生者ではない。物好きな異世界旅行者だが訳あってしばらくこの世界に滞在することとなった。従って対策本部にもその異世界で得た幅広い知識を活かして貢献できることと思う。これからよろしく頼む」
医務室からこそこそと戻ると、件の彼が挨拶をしているところだった。五日前に真田常務が転生撲滅推進課としては噴飯ものの異世界転生を行ってしまったことで突然空席が出来たのだが、陰謀論やら何やらが飛び交い社内は実に慌ただしかった。
「ちょっと、倒れたって大丈夫?」
陽咲が小声で囁いて顔を覗き込んでくる。が、目を丸くして首を傾げた。
「やだ…すごい魔力…ちょっと濃くて酔いそうなのに…リツはそれ平気なんだ」
そうして急にニヤニヤし始める。
「誰なのよ。とうとうリツにも救世主が現れた?」
「ないない。通りすがりの奇特な人」
小声で返したところで、ジーン・フォスターと目が合った気がした。気まずくて目を逸らす。常務だなんて聞いてない。だいたい職場の上司とそんな関係になるなど、今どきは小説だって流行らない。あれは多分最大限譲歩しても哀れまれただけだ。
昼食を抜いたにも関わらず午後からは身体の調子が良くて仕事も捗った。捗ったどころか、目星をつけたのが当たって異世界転生前の魂の回収も連絡が間に合った。やり遂げた満足感に浸ってタイムカードを切る。が、唐突に現実に突き戻された。
今帰っても、電気どころか水道もガスも全てが止まっている。給料日まであと三日。乗り切る策はほぼ尽きたに等しかった。
Tokyo's 49 wards。四十九区をもじって、四九八区と言い出したのは誰だったか。家に着くと当然ながら真っ暗で、カーテンを開けると街灯の明かりが窓の真横にあるので家の中はそれでも見えるという状態だった。その明かりが明るすぎるという理由で家賃が少し安い。今の私にとってはむしろ有り難い難点だった。私の家は貧困街と呼ばれる治安の悪い区画のアパートのワンルームだ。区画のナンバーは桁が増える毎に治安の悪さも上がってゆくと相場が決まっている。上位二十五区には洒落た区名もついているが、ここは数字のみの底辺地区だった。だからこそ通り名も増える。
「やっぱり…ないよなぁ…」
冷蔵庫を開けたが見事に空で食料も底をつきていた。米は僅かに残っているが電気も切れているので炊けない。仕事に集中しているときは空腹を感じなかったが、こうして現実に直面するとやはりお腹は減っていた。ヨレヨレの部屋着に着替えて布団に横になる。早朝になったら隣の区の公園の水道で髪と顔を洗おうと思った。それが悪いことなのは重々承知だ。本当は洗ってから眠りたいけれど四十九区の夜道を歩くのは危険だ。残業して帰り道に襲われかけたことは何度もあった。だから防犯グッズにはお金をかけた。そのお陰で何とか生きている。再び転生して施設暮らしからやり直すのはどうしても嫌だった。どのくらいうとうとしていたのか、何かの鳴る音に私は目を覚ました。
人を呼べるような場所でもないので大家以外は鳴らさない玄関のインターホンがこんな時間に鳴っている。起き上がって出ようとしたが、途端に足がもつれて倒れてしまった。
「な…」
起き上がろうとした途端に口の中に生暖かいものが流れ込んで鼻血が出ているのに気付く。
(なにこれ、どうなってるの?)
咳き込むと血の味が広がってゴボリと変な塊が迫り上がってきた。ぶつけた訳でもないのにやけに背中が痛む。
ドアの方で大きな物音がして、誰かの入ってくる気配がした。こんなときに。
「こ…来ないでっ…!」
咳き込みながら言ったつもりだったが、果たして相手に伝わったのかは分からなかった。カバンはどこ?強力な催涙スプレーを探す。
「お前が…まさかこんなボロアパートに住んでいたとはね」
人影が低く笑った。聞き覚えのある声だ。
「お陰で突入しやすくて間に合った…」
呆れたような口調でジーン・フォスターは言った。いや、それとも。この気配は。
「…悪魔」
「思い出したか?懐かしい話は後だ。このままだと遅かれ早かれ死ぬから連れて行く」
手慣れた様子で彼は注射器を取り出して背中に刺した。
「なに…?」
「応急処置だ。この先もっと痛みが増す。少し我慢しろ」
軽々と抱き上げられ、部屋から連れ出される。片手で彼はドアを魔力で直しギシギシと鳴る階段を降りた。四十九区には不釣り合いな高級外車が停まっていて、すでに狙われたのか周りに柄の悪そうな連中が何人も気絶して倒れているのが見えた。
「ストラス、出せ」
「はいはい。ったく、悪魔泣かせの治安の悪さですね。礼儀がなってないったら」
彼よりも更にガタイの良い運転手が両手を払いながら軽口を叩く。だがこちらを振り返りギョッとした表情になった。
「血塗れじゃないですか。大丈夫なんですか?」
「ギリギリなんとかな。悪いが車内で契約を交わす。邪魔するなよ」
「うわっ…マジですか。嫌だなぁ…お手柔らかに願いますよ?こんなに華奢なのに…壊さないで下さいよ?」
言いながらも運転手はボタン操作で後部座席と運転席との間にあるガラスの色を変えた。
「防音効果はバッチリらしいんで、お気になさらず」
乗り込むと車は音もなく滑らかに動き出す。
「契約って…なに?」
言った端からまた咳き込んで血が噴き出す。相手の頬にも血が飛んだ。最悪だ。
「少し黙ってろ」
後部座席のシートが倒されて血塗れの口に唇が重なった。口移しに何かを飲まされた。頭がふわふわする。以前死んだときもこんな感じだった気がする。そのときは暗い部屋に一人だったけれど。
「俺が暮林里津のパートナーになるという契約書だ。人差し指を出せ」
契約書の画面にそのまま指を押し付けられた。彼のサインはすでに済んでいる。程なくして指紋認証は済み受理の証として画面が光った。陳腐な祝福の映像と小馬鹿にしたような鐘の音が流れる。パートナー契約は所詮は期限付きのかりそめの契約だ。彼は幾つか処理をし残りはスキップしてタブレットを放り投げる。ぼんやりしている間にあっという間にヨレヨレの部屋着を脱がされうつ伏せにされていた。
「な…に…」
「お前の元いた天界で証拠隠滅が行われたせいで、時間軸を少し弄る羽目になった。本来ならこんな乱暴なことにはならなかったはずだった…許してくれ…」
翼を失った部分には必ず傷痕が現れる。何度転生してもそうだった。そしてその痛みも。それが己の背負うべき罪の重さだと教えられた。その傷痕に彼の両手が触れる。途端に恐怖心が沸き起こってその場から逃れたくなった。
正確には暴れたはずだった。なのに身体はピクリとも動かない。先ほど飲まされた何かのせいだと気付いた時にはすでに遅かった。身体の下に大きな魔法陣が現れる。悪魔の儀式だ。背中の傷痕に許容量以上の魔力を流され痛みが走る。思わず上げかけた悲鳴を飲み込んだ。一瞬にして巨大な生き物の腹に飲み込まれたような感覚に陥った。まずい、と思った。何かが来る。メキメキと音を立てて、やがてそれは私の中から姿を現した。
「え…っ…?」
「今はその程度で止めておいてくれ。車が壊れる」
振り返ると視界の端に小振りな翼が見えた。それでも運転席とを隔てるガラスにぶつかっている。ただし色は黒。闇のような黒さだった。
「どういう…こと…?」
「たった今、お前は堕天使から悪魔に変わったんだ…天界は証拠隠滅を図ってお前の魂まで回収しようとしていたからな。昼のマーキングで魂の処分を保留にして、こちらの正式な契約で掠め取った」
「えっ?だってパートナー契約だって…」
「お前、内容をちゃんと読まなかっただろう?あれは裏面だ。表には私がフィランジェルの魂を貰い受ける内容が書かれている。すでに両方契約済だ。私は天界の毛嫌いする悪魔だぞ?今頃お前を堕天させたジジイ共は歯噛みしているだろうな」
ククッと低い笑い声を漏らすところは昔と変わらない。姿形を変えてはいるが、目の前の男は間違いなくあのときの悪魔だ。目が赤く光る。
「…アルシエル」
その名を呟くと、かつて剣を手に戦った相手はニヤリと笑った。
「これからお前の夫となるジーン・フォスターだ。やっと手に入れた」
黒い翼ごと抱きしめられる。触れられた手から素肌に魔力が流れ込んできた。翼がゆるゆると背中に吸い込まれて消える。もう痛みはなかった。
「どうだ?昔ほど屈辱的ではないだろう?」
話のついでのように胸を揉まれて僅かにイラッとしたがパートナー契約のせいなのか、はたまたうっかり魂を渡してしまったせいなのか、嫌悪感のない自分自身に腹が立っただけだった。結局こうなるのかという諦めがすでに過ぎる。魂の所有権が天界から悪魔個人に移っただけだ。
「お前、想像以上に小さいな。それに痩せすぎだ。いったいここでは今、何歳なんだ?」
腰に手を回しながら聞くことでもないだろうと思ったけれど、抵抗もできないので答える。
「十八…」
突然相手の手がピタリと止まった。
「おい、まさかとは思うが…この身体でこういうことをするのは初めて…とは言わないよな?」
「そうだけど…なに?」
悪魔のくせに変なところを気にするなと思って振り返ると、本当に相手は困惑した表情を浮かべていた。
「これ以上は…今はやめておこう。…その…もしかして…キスも…初めて…だったとか?」
再び悪魔は口ごもりながら聞いてくる。
「昼間のあれが初めてだけど、なんでそんなことを気にするの?散々しておいて、今更そんなに重要?」
ジーン・フォスターの仮面を被った悪魔は両手で顔を覆うと押し黙ってしまった。変なことを言っただろうか。
「いや…むしろそれを重要視しないお前の感性を疑っているだけだ。この世界ではそれが普通なのか?」
「さぁ…転生したら、そんなことを気にする余裕もなかったから…あの部屋を見たから分かるでしょ?私今日の昼に倒れたから何も食べてないの。あなたの魔力のお陰で死なずに済んだけど、今もお腹が減って仕方ない…」
「…家に着いたら好きなだけ食わせてやる。だから今はこれで我慢しておけ…」
脱いだスーツのジャケットを肩に掛けられ、そっと抱きしめられた。こういう触れ合いでもゆっくりと魔力は流れてくる。
「悪魔って…みんなそんなに紳士的なの?想像していたのと…全然違う」
天界の教えではもっと野蛮で残忍な者という印象が強かった。だからこそ決して関わってはいけないと思っていた。
「いつの時代の話をしてるんだ?魔界では魔力の強さで争う時代はとっくに終わっている。異世界への流刑も廃止になった。その流れで堕天使論争が始まって、うやむやなままだった堕天使を魔界が受け入れる準備を整え始めたところに、天界が突然協定を破ったんだ。天界に保管されていたお前の翼を燃やして、堕天の烙印ごと証拠を隠滅しようとした」
「証拠…?」
「それはお前が一番分かっているだろう?お前は事実無根の罪で投獄されたのだから」
「あぁ…そういえば…そうだった…もう理由なんかどうでも良くなってた。繰り返しに疲れて…死んでも再びここに転生して底辺で繰り返すだけで…膿んだ…」
「…五百五十年だ」
「何が?」
「堕天して転生させられたお前を私が探した年数だ」
「なんだか…すごいことを言われた気がするんだけど…」
「お前は誰も待ってなどいなかったかもしれないが、少なくとも私は待たせた分の責任は取るつもりだ」
最初は疑いが晴れることを期待し天使の迎えを待っていた。けれども天使は迎えにも来ず、せめて減刑を期待してひたすら真面目に過ごした。それでもやはり迎えは来なかった。諦めた頃になって、ようやく来たのは天使ではなく悪魔だった。けれども。
「なんであなたが責任を感じるの?変な悪魔…」
言ったら何故か涙が溢れてきた。泣くことなどもうないと思っていたのに。優しい指先で涙を拭われる。唇が重なってそこから静かに魔力が流れてきた。一本五万もする魔力回復薬よりもよほど純度の高い魔力に身体が満たされてゆく。相手の魔力に心地良く身体を委ねていると、このタイミングでお腹がぐうと大きな音を立てて鳴った。とてつもなく恥ずかしい。
だが彼は特に茶化すこともなく顔を上げてボタンを押した。窓の色が変わる。とっくに車は車庫に収まっており、大きなジャケットを羽織ったまま降りると、運転手が車に背を預けて待っていた。
「無事に終わりましたか?」
年齢不詳な見た目の彼はこちらを見るとにっこり笑った。金髪にブルーの瞳。おそらく悪魔なのだろうが全くそれを感じさせない。妙に飄々としている。
「いや、まさか本当に実在するとは思っていなかったんで、ちょっと感動しましたね。最初は独身主義を貫くための体のいい言い訳なのかと。五百年過ぎた頃からは主の誇大妄想に付き合わされてるだけなんじゃないかと、心配になってましたから」
「おい…お前、そんなことを思っていたのか?」
ジーンは相手に向かって眉をひそめた。
「とりあえず食事だ。いや、着替えか。いくらなんでもそれではな…」
車庫は自宅に繋がっていて扉を開けると先の見えない広くて長い廊下に繋がっていた。いったい何区に来たのだろう。
「お帰りなさいませ。魂の契約も無事に完了したようで何よりです」
初老の男性に出迎えられる。誰だろう。格好としては執事のようだ。映像のみで実際に存在しているのを見るのは初めてだったけれど。
「黒木、今すぐに食事の用意を。すまないが、服は私のを着てくれ。明日以降ちゃんとしたものを揃える。後は彼女の自宅の荷物の回収も頼みたいが…」
「い、いえ、明日自分で取りに行きますから…」
慌てると服を手渡されて別室に押し込まれた。
「着替え終わったらサイズを調整する」
ぶかぶかなシャツを着てずり落ちるズボンを握りしめて彼を呼ぶと小さく笑われた。手をかざすとみるみるうちにサイズが小さくなり、程々にフィットした。
「便利…!」
思わず声を上げてしまう。
「お前は魔力を使ってこなかったのか?」
相手が不思議そう言うので仕方ないが教えた。
「一本五万円もする魔力回復薬を使っても疲労したまんまで目の下のくますら消えないのに、そんな魔力の無駄遣いできる訳がない…この世界の札付きの転生者は前世の肩書のせいで底辺での生活を強いられる者がほとんどだし。堕天使なんて無駄に魔力を必要とする身体だからパートナー契約の相手も見つからなかった。それが現実」
「そうだったのか…」
彼はため息をつく。
「重ね重ね申し訳ないとしか言いようがないな。とりあえず食事だったな」
子どものように手を引かれて廊下を進むと無駄に広いテーブルの上に数々の食事が並べられていた。どういう訳かランチビュッフェで皿に盛ったのに食べ損ねたメニューと似たものが並んでいる。
「…何が好きなのか分からないから、昼のを参考にさせてもらった」
黒木と呼ばれた初老の男性が椅子を引く。
「あの…こういうのは…慣れていなくて…」
「緊張するか?黒木、後は私がやるから下がっていい」
ジーンの言葉に彼は一礼して部屋を出る。私の座った椅子の隣に彼は足を組んで座った。
「好きに食べろ」
「じ…じゃあいただきます」
両手を合わせる。目の前の料理に気を取られて夢中で食べていたが、途中でようやく彼はあまり食べていないことに気付いた。
「…食べないの?」
聞くとジーンは苦笑した。
「食べない訳ではないが…私は別のエネルギーの方が吸収効率がいいんだ。こう見えて…実は甘党だし…」
メイン料理もそこそこに、彼はすでにプリンを口に運んでいる。見た目は大柄な外国人男性がちんまりしたプリンを食べる構図はなかなかに面白い。思わず笑ってしまった。
「あの、別のエネルギーって?」
私の問いかけに彼はプリンを食べる手を止め、咳払いをした。言いにくそうに口を開く。
「さっき…車の中でしかけたことの…続きだ…」
「あぁ…なるほど。別に気にしないから大丈夫。私だけ魔力を与えてもらうなんてフェアじゃないし。パートナー契約がそういう行為も含むっていうのは理解してるから」
そう言うとジーンはまた複雑な表情をした。
「お前は生き急いでるのか?なんでもそう簡単に従容として受け入れられると、こっちが動揺する…」
「しょうようとして…?そんな難しい言葉を知っていると素性を怪しまれたりしない?使っている人、見たことない」
「気にするのはそこなのか?まったく…調子が狂う…」
ジーンはプリンの後にチョコレートケーキにも手を伸ばす。
「そんなに甘いのばかり食べて糖尿病にならないの?」
「人とはそもそも身体の構造が違う。お前だってそのはずだ。魔力切れの状態が長く続いたせいで忘れているのかもしれないが、契約後に翼は無事出たんだ。徐々に私たちの身体に近付いてくる…」
そういえば、堕天使から悪魔に変わったのだった。どういう訳か天使に戻るよりよほどいいとすら思っている自分に驚く。いい食事を続けたらこの貧弱な身体も少しはマシになるだろうか?
「もしかして、こんなガリガリだから萎えるってこと?」
ハッとして慌てて尋ねる。確かにこんな身体では女性としての魅力も何もない。けれどもジーンは首を横に振って盛大なため息をついた。
「そういうことじゃない…いいから、食べ終わったら風呂に入って今日は休んだ方がいい」
悪魔は優しい目をして手を伸ばすと、そっと頭を撫でてくれた。




