ジーン&リツの場合 12
口付けと少し昼間よりも過剰な触れ合いが始まる。けれどもやはりジーンは最後に魔力を流すと先にリツを眠らせてしまった。そうして後ろからじっと何かを耐えるようにその細い身体を抱きしめて目を閉じる。首の後ろに口付けの跡を残してジーンは眠るリツにゆっくりと魔力を流す。僅かにリツの方からも魔力が流れ込んでくる。以前は枯渇していたから触れ合いによって増加する魔力量は微弱なものだった。緩んだバスローブから覗く鎖骨と肩の辺りにも思わず口付けの跡を残してしまう。再びゆるやかに魔力が流れ込んでくる。心地よい。ジーンは不意に腹の底から沸き起こる獰猛な本能を何とか抑え込んだ。せめて最低でも新婚旅行までは今のまま穏やかに過ごしたいと思っていた。
(だが…そろそろ限界か…)
怪我をしていない方の右手の細い指に少し冷えた己の指を絡ませる。握っていると少しずつ温もりを取り戻す。指先が冷えるのはジーンの身体の隅々にまで魔力が行き渡っていない証でもあった。この世界の空気は想像以上に悪魔には合わない。リツを抱きしめる腕に力を込めてジーンは目を閉じた。
***
ルイは少し眠ったが程なくして喉が渇いて目を覚ました。階段を降りるとリビングにはまだオレンジの間接照明がついていた。
「…また今日もですか?」
呆れたようなストラスの声が聞こえる。入るべきかどうかためらっていると、後ろから肩を叩かれた。
「大丈夫よ、入っても。でも見ていても別に楽しい光景じゃないから、後の方がいいかもね」
バスローブ姿のエストリエがミネラルウォーターを飲みながら立っていた。
「あ、エリーゼさん…あの…僕も喉が渇いて…」
「私の本名を呼ばないのは賢明な判断ね。飲む?」
巨大な冷蔵庫を開けてエストリエがミネラルウォーターのペットボトルを渡してくる。
「あ…ありがとうございます」
エストリエはキッチンのカウンター横の椅子に座った。手招かれてルイも隣に座る。
「我が君も大概酔狂よね…さっさとリツを抱けば解決するのに、毎晩ストラスに注射でなんとか補って解決してもらってるんだから…」
「え…?あ…そうなんですか?」
意外だとルイですら思う。
エストリエはミネラルウォーターを飲みながら片手でルイの頬に触れてきた。
「ルイって、パートナーはいるの?」
「いないですけど…」
動揺を隠すかのようにルイはキャップを開けてミネラルウォーターを流し込む。
「ふぅん。じゃあ誰と経口摂取しても問題はない訳ね?経験が全くない訳じゃないでしょ?」
エストリエは蠱惑的な瞳で笑う。
「えっ?まぁ…それは…一応ありますけど…」
不意に嫌な記憶が過った。押さえつけられて無理矢理、今野に魔力を注がれた。今日だってリツが来なかったらそうなっていただろう。
「ふぅん。嫌な元天使ね」
エストリエの瞳に剣呑な光が宿る。記憶を読まれたと慌てたが遅かった。
「無理矢理奪うのは私の好みじゃないわ。合意の下でする方が楽しいし気持ちいいものよ?」
ルイの頭を撫でながらエストリエは椅子から立ち上がるとそっと抱きしめてきた。爽やかな香りがする。エストリエの方から魔力が流れ込んでくるのを感じた。
「ルイ…魔力がもっと欲しい?」
「…ほしい…です」
ルイが顔を上げるとエストリエが顔を近付けてきた。ルイは目を閉じる。唇に仄かな熱を感じた。優しくゆっくりと魔力が流れ込んでくる。強引に注がれるのとは違って、とても穏やかで心地よかった。やがてゆっくりと唇が離れる。名残惜しいくらいだった。
「ルイ…気分はどう?」
エストリエに訊かれてルイは思わず赤くなる。
「その顔だと…良かったってことなのかしら?」
エストリエはフフッと小さく笑った。
「やれやれ…ちょっと目を離すとこれだから…その様子だと注射の必要はなさそうだな」
やや呆れたような含み笑いが聞こえてストラスがキッチンに入ってくる。棚から高価そうな酒瓶とグラスを取り出した。
「別にキスの一つや二つでどうこう言うほど俺は心は狭くないから安心しな。エストリエ、血は飲むなよ?せっかく魔力を補ったのに貧血を起こされても困るからな」
ストラスはそう言って再びリビングに消える。あまりの気まずさにルイの心臓はバクバクしていたが、エストリエはいつも通りだった。
「ルイの血を貰うなら、もっと栄養バランスが良くなってからにするわよ。ねぇ、冷凍庫にアイスがあるんだけどルイも食べる?美味しいわよ?」
いつもならこんな時間に何かを食べたりはしないのだが、エストリエの誘いは何だか魅力的に思えた。ルイが頷くと、エストリエは嬉しそうに笑って濃厚そうなチョコレートアイスを出してきた。
「我が君はあぁ見えて甘党なのよね。チョコレートも大好物」
ルイは不意に喫茶店での光景を思い出す。通りでリツがせっせと餌付けしていた訳だと思った。
「私たちは…しばらくはこちらにいるけれど…いずれは魔界に帰ると思うわ。どの世界を選ぶかはあなた次第だけれど、一緒に来たかったら連れて帰ってもいいのよ?そのときはストラスか我が君と…契約することになると思う。私もそうやって…魔界に連れてきて貰ったのよ」
エストリエはスプーンでアイスをすくって口に含んだ。
「え…?じゃあ元は魔界じゃなくて異世界の住人だったんですか?」
ルイは驚いて問い返す。エストリエは微笑んだ。
「私は吸血鬼よ。狩人と争うのに疲れちゃったのよ。少しの血を貰って静かに暮らしたいだけだったのに、生きる為には戦わなきゃいけなくて…もう殺されてもいいやって自暴自棄になってるところに、たまたまフィランジェル…あぁ、リツね、その魂を探しにやって来た彼らに会って拾われたのよ。最初は道案内も含めて単に世界の様子が知りたかっただけで雇われたんだけど…そのときにストラスの血を飲んだらびっくりしちゃったのよ」
「悪魔だったから…ですか?」
「そうそう、人間や半分吸血鬼の狩人の血とも全然違って…一口飲んだら魔力が強過ぎて、ほんとに死にそうになっちゃったのよ」
「えぇ…!?」
チョコレートアイスを食べながらのんびり聞いていたが、なかなかにすごい話だ。
「向こうもびっくりして、まぁそれで私は一度飲んだらもう懲り懲りって思っていたのに…どういう訳か…また飲みたくなっちゃったのよね。もちろん次は舐める程度にしておいたわ」
エストリエはどこか懐かしそうな顔をした。
「一度その味を知ってしまったら耐えられなくて…私も連れて行ってって恥ずかしげもなく縋ってしまった。後になってから気づいたのよ。悪魔の血だからってだけじゃなくて、ストラスのことが好きになってしまっていたんだって。なのにあの悪魔ったら魔界に私を置き去りにしてその後も二百年ほどフィランジェルを探す旅に同行してたまにしか帰って来なかったのよ」
「二百年…」
人の人生なら百年と経たずに終わっている途方もない時間の長さだ。ルイには想像もつかなかった。
「いよいよ腹が立って他の悪魔と新しい恋をしようって思って血を味見させて貰ったの。そうしたら…全然美味しくなくて…またびっくりした…」
エストリエはいつの間にかチョコレートアイスを完食している。ルイよりも食べるのが早い。
「で、今回めでたくフィランジェルを見つけることができて、何だか女手が足りないからって呼び寄せられて、ついでみたいにプロポーズされたからオッケーしちゃったけど…誰かを好きになるって怖いなって思ったわ。ストラスは我が君の為なら簡単に命を投げ打ってしまうってことも重々承知してるから…ま、滅多なことじゃ死んだりしないって分かってもいるんだけど…。それでも異世界では何が起こるか分からないから…」
エストリエの瞳の光が揺れる。人よりも長い年月を生きても不安はあるのだとルイは思った。
「僕は…元々は精霊だったせいか…リツの魂に惹かれてるんじゃないかって…それは恋愛感情の好きってよりは…近くでお仕えしたいとかそれに近い感覚で…そう思った自分にもちょっとびっくりしたんですけど…今までずっと足りなかったピースが嵌ったみたいな初めての感覚だったんです。だから…もしいつかリツも魔界に行ってしまうなら…僕も一緒に連れて行って欲しいなって…思ってます。今のところは…ですけど」
ルイの言葉にエストリエは微笑みながら頭を撫でた。そうして悪戯な瞳でルイを見る。
「この世界の空気…私には影響はないけれど、悪魔にはあまり合わないみたいなのよ。ルイはリツと仲が良いでしょ?ならちょっとリツをけしかけてみてよ。いつまでも注射で補っている訳にもいかないから…」
言いたいことは分かったが、そこまであけすけに何でも話せるほど距離が縮んだかと言えばそういう訳でもなかった。
「急には…ちょっと…でも…努力はしてみます」
ルイは頷いた。