ジーン&リツの場合 9
地下鉄を乗り継いで三十二区まで来てしまった。ようやく降りたのでホッとする。四十区以上になるとさすがに危険になってくる。三十二区も新旧入り混じった街並みはカオスだ。平均的な水準とそこからこぼれ落ちる階層のせめぎ合いがこの街の独特な風景を作っていた。そのこぼれ落ちた方の細い裏路地を迷いもなくルイは進む。怖くはないのだろうか。時折建物の隙間に俯いて座ったままの人影が見えるが見ないようにする。転生者の中には安い薬に溺れる者もいる。やがて蔦に覆われた前世紀の遺物のような古い建物が姿を現した。ここがどうやらお目当ての喫茶店のようだった。かろうじて見える看板に喫茶楽園と書かれている。何やら嫌な名前だ。
「マスターいるー?」
ドアを開けるとカランカランとベルが鳴った。ドアの上に古めかしい鐘がぶら下がっている。
「あーいらっしゃい。ん?珍しいね。ひょっとして…彼氏?いや彼女?パートナー?」
銀髪のウェーブヘアーの年齢不詳な男性がカウンターから声を掛けてきた。胡散臭い薄紫の丸眼鏡をかけている。信用ならない上にこの気配は多分、いや、間違いなく天使だ。しかも流刑者でもない。何故こんなところに。
「そのどれでもないよ。友だち」
ルイは苦笑しながら言う。
「ふーん。いや君、取って食わないから、そんな怖い顔しなくても大丈夫だよ。それに君の魂に手出ししたら、何だかとんでもないのが出てきそうだ」
思わず身構えたリツをルイは不思議そうに振り返った。
「ねぇ、この子リツって言うんだけど、何者なの?やっぱりマスターの目には何か見える訳?」
「いいから注文しな。話はそれからだ」
マスターが言う。
「あなた…ガブリエルでしょ?サリエルは天界を任されて、てんてこ舞いしてるのに、こんなところでのんびり何やってるの?」
リツは相手を睨む。
「だーかーらー。注文しろって。久しぶりだな、フィランジェル。お前とうとう悪魔の嫁になっちゃったのか」
天界の元上官は、リツの顔を見て諦めたように笑い、辞書並に分厚いメニュー本を手渡した。
***
「ねぇ、こんなにあったら選べないよ…オススメは?」
ルイに聞くと困ったように笑いながら、目を閉じてと言われた。
「好きなところでストップって言って」
「…………ストップ!」
「はい、このページの何かを注文する」
「うーそれでもこんなにあるんだ…えっと…うーんと、じゃあ抹茶きなこわらび餅パフェ…」
「ルイは?」
「白玉入りぜんざいと食後にコーヒー」
「りょーかい」
ガブリエルは厨房に消える。
「あのさ、もしかしなくても…昔の知り合い?」
「あぁ…うん。一応、前世の上司だった人…?なのかな。でも途中で行方不明になって…って、こいつのせいでありもしない罪を捏造されて堕天したんだから、元はと言えば全部こいつのせいじゃん」
リツは立ち上がる。
「おーい、全部聞こえてるぞ」
「戻ってきたら一発くらいはぶん殴りたい」
「だから聞こえてるって」
ガブリエルの笑い声が聞こえる。
「リツは堕天使なの?でも今は悪魔…なんだっけ」
ルイが不思議そうに言う。
「うっかり助けられて魂を渡しちゃったから…そうなるね」
リツは店を見回す。しれっとオブジェのように異世界で見た新約聖書が置いてある。どうやって入手したのか。神のいないこの世界では分厚いメニュー本よりも無価値な存在だ。読んだところで誰も救いを見いだせない。それどころか神の言葉を伝える天使に注文を伝えて、のんびりと座って待っている。ここの天使が聞くのは客の注文のみだ。お客様は神さまというのはどの異世界の言葉だったか。
「おまたせ!抹茶きなこわらび餅パフェと、こちらはお詫びのおかき、それに白玉入りぜんざいね」
「おかきで買収する気?五百五十年の恨みはそんなんじゃ晴らせない」
「おやー前にはすれ違っても気付かなかったのに、魔力が満たされてるとこんなにも違うものなんだね。これでも何回か助けたんだけど。僕が仕事帰りの君の後をつけてなかったら、暴漢に犯されるか刺されるかして十回くらいは軽く死んでるよ?」
「え…?」
「マスターでもそれ、ストーカーぽくてウケる。ちょっとキモい」
白玉を口に入れながらルイが笑う。が、あれっという顔をした。
「ん…?今、仕事って言わなかった?」
「おっと失言。気にしないでルイくん」
ガブリエルはおどけた仕草で肩をすくめる。天界にいたときはこんな人じゃなかったハズなのだが。そのときカランカランと鐘が鳴った。こんな裏路地の寂れた店にも客が来るのかと思ってリツがちらりと振り返ると、外国人姿のジーンが立っていた。
「いらっしゃいませーって、うわっ、本当にヤバいのまで来ちゃったじゃないか。ここでやり合う気はないよ」
ガブリエルは降参と言わんばかりに両手を上げる。ルイと向かい合って座るリツの隣に座ってジーンはリツの顔をじっと見る。
「きなこがついてるぞ」
そう言ったジーンは徐に顔を近付けて唇を舐めてきた。そのまま甘噛みされる。
「…!あのっ…仕事は…?」
「うん?リツがこんな怪しい場所に入り浸っていたら、仕事などしていられるか」
普段以上に密着して腰に腕を回しながらジーンが言う。向かいに座るルイは口が半開きになっている。
「あ…えと…これは…」
「あぁ、色々と設定があってややこしいな。元に戻すぞリツ」
目の前のリツの姿が揺らいで僅かに胸が膨らんだ。顔立ちはさほど変わらないのに、紛れもなく少し歳上に見える女性に変わっていることに、ルイは再び驚く。透明感があって綺麗だ。
「私はこういう者だ。ジーン・フォスター。暮林里津の契約者であり夫であり、今は訳あって調査の為に二人で学園に潜入している養護教諭の桜井仁でもある」
ジーンは異世界転生対策本部転生撲滅推進課の名刺を取り出しルイに手渡した。
「いせかい…舌を噛みそうな長い名前ですね。常務?めちゃくちゃ偉い人じゃないですか。えっ?あなたが桜井先生?」
ルイは名刺を見てから、ジーンの顔を二度見して目を見開く。
「そこの天使とは少なからず因縁があるが、リツはどうしてほしい?」
さっきまでは殴りたいと思っていたものの、言ったら本気でボコボコにしそうなのでリツは曖昧に微笑んでパフェの中の抹茶アイスを口に入れた。
「…食べる?」
言いながらアイスをすくってジーンの口に入れる。甘い物を食べているときのジーンは穏やかだ。
「いいなぁ。ラブラブじゃないですか」
ルイが唇を尖らせながらあずきを食べる。
「…何回目のときだっけ…君、僕をストーカーと勘違いして殴ってきたよね」
カウンターに頬杖をつきながらガブリエルが言うとジーンは眉を潜めた。
「当たり前だ。その風貌でコソコソと一定の距離でリツの跡をつけている奴がいたらロクなもんじゃないと相場は決まっている」
「四十九区からリツが消えて、また転生サイクルに入っちゃったのかなと思ったけど君に掠め取られていたとはね。いやはや。何が起こるか分からない世の中だ。魔王さまがこんなところまで来たのは、フィランジェルの魂を回収する為だった訳か」
「魔王じゃない…玉座を一時的に預かっているだけだ」
不服そうにジーンは言う。
「あ!下に白玉も入ってた!食べる?」
会話が不穏な方向になりつつあったので、リツはジーンの口に白玉を放り込んだ。
「…リツ、餌付けするな」
白玉を飲み込んだジーンが不服そうな顔をする。
「私はさっさとこの案件を終わらせて、のんびりと新婚旅行に行きたいんだ。話を聞こうじゃないか。マスターコーヒーをくれ」
「はいはい、分かりましたよ」
ガブリエルは諦めたように喫茶店のマスターの顔に戻るとコーヒーの準備を始めた。