イチカ&花咲の場合
花咲は柔らかな布団の感触に目が覚めた。元いた世界の長い夢を見ていたような気がしたが、起きた途端に忘れてしまった。視界の端に艷やかな黒い毛並みが目に入る。手を動かそうとすると身体には全く力が入らず、その毛並みに触れることは出来なかった。けれども起き上がった緑の瞳は開いていて、花咲を見つめるとすぐに人の姿に変わった。いつも会社にいる宮森だが瞳は緑だ。それに少し乱れた髪のせいかやけに色気があって、花咲はそれだけで心拍数が上がるのを意識した。
「楓…」
肉体も魂も捧げて悪魔のものになった感覚は言葉では言い表しようもなかった。知る限りの語彙をもって伝えようとしても言葉に置き換えた瞬間にどこか違うものになってしまうような気がした。
「ハウラス…」
自分の全てを所有した悪魔の名前を呼ぶ。愛おしくて仕方ない。狂おしいほどに。こんな気持ちでリツは常務の隣にいるのかと思った。優しく抱きしめられて花咲は目の前の美しい相手もまた、その喜びを享受していることに気付いて思わず震えた。
「もう少ししたら…身体を動かせるようになります…少し強い魔界の麻酔薬を使ったので…陛下が痛みを極力抑えるようにと…」
確かに想像した痛みはなかった。常務が花咲に注射をしてからはぼんやりとして、ハウラスが自分の血を飲むのをどこか他人事のように眺めていた。自分が痛みを恐れたせいだったのかと思う。途中からは気を失っていたからよく分からない間に儀式は終わっていた。ただ一瞬宮森に抱かれる花咲をじっと見つめていた常務の顔は、いつもの常務のそれではなかった。頭にはねじれた角があり赤い瞳をしていた。圧倒的な魔力の気配。あれが魔界の玉座に座る国王なのかと思う。
「私…もう…悪魔…なんですね…」
「えぇ…これから力が安定するまでは、もう少しかかりますが、間違いなく悪魔で…私の伴侶です…」
そう言ったハウラスは自身の瞳に手をかざして色を戻すといつもの宮森の姿に戻った。再び花咲の頭を撫でると静かに唇を重ねる。
「今はもう少し眠って下さい。ずっと隣にいますから…安心して…」
まぶたの上に手を置かれる。花咲は急に眠くなるのを感じて目を閉じると、そのまま深い眠りに落ちていった。
***
「おはよ。今日は有給だって。みんなは出社したよ。あ、リツは今日も貧血だからってベッドに押し込まれて仕方なく休んでるけどね」
目が覚めた花咲が慌てて起き上がるとカーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。その光が綺麗だと思って見つめ、我に返って時計を見ると九時だった。やってしまったと思ったが仕方ない。有給は確かに余っている。花咲は諦めて再びベッドに倒れ込んだ。それを見てイチカが笑う。イチカの手元には歴史の参考書があった。
「大丈夫?顔色は悪くなさそうだけど…昼にはガブリエルが来てくれるって。悪魔と天使の魔力を注いで調整するって言ってたよ?何か食べれそうなら軽食持ってくるけどどう?あ…」
ドアの隙間から恥ずかしそうにこちらを見ている影が見えた。お盆を手にしたハルが入ってくる。
「あの、黒木さんからこれを出すようにって…」
ヨーグルトの中に果物が入っているのが見えた。確かに少しだけ何か食べたいと思っていた。ちょうど良い。
「ありがとう」
ハルにイチカは椅子を持ってきて花咲の近くに座らせた。お盆ごと受け取って花咲はヨーグルトを食べ始める。果物が瑞々しくて美味しい。
「なんだか、この家って不思議…」
ハルの肩の上には相変わらずニンフが乗っていた。最初見たときにはギョッとしたが、花咲もようやく見慣れてきた。
「うん…そうだな。変な感じするよな…」
「お姉さんは…儀式をしたの?ごめんなさい、昨日…トイレに行ったときに…ちょっと話が聞こえてきて…気になったから…盗み聞きしちゃったの…」
イチカと花咲は一瞬目を合わせたが、花咲は仕方なく頷いた。
「そうなの。でも望まない人にはしないから大丈夫、安心して。どこまで…話を聞いたの?」
「…悪魔に…なったって…本当?」
「うん、そうなんだ。びっくりした?」
「うん…少し…。でも…お姉さんたちは悪い悪魔じゃないと…思うから…悪い悪魔は…」
そこまで言ってハルはハッとしたように口を目を見開く。そうしてガタガタと震え出した。イチカは慌てて部屋を出てゆく。花咲は急いでベッドから出るとハルの身体を抱きしめた。イチカに呼ばれたストラスが部屋に入ってきてハルの額に手を当てて、眉をひそめた。
「ハル、大丈夫だ。ここには怖い悪魔はいない」
ハルは頼りない表情を浮かべてストラスにしがみつく。その背中を撫でながらストラスはハルの細い身体を抱き上げた。
「ちょっと落ち着かせてくる。大丈夫だ」
ストラスはハルを連れて部屋を出てゆく。イチカはその後ろ姿を見てため息をついた。花咲にとっては突然現れた謎の子どもだった。イチカは花咲の方を見て言おうかどうか迷っていたが、顔を覆って上を向いた。
「イチカ…?大丈夫?」
「うん…ハルのこと見て…どう思った?俺に…ちょっと似てると…思わない?」
「…うん…それは…思った…」
花咲は正直に答える。妹だと言われたら信じたかもしれない。イチカは顔を覆ったまま言った。
「ハルはさ…いなくなった俺の代わりに…銀の枝の用心棒のリーが…自分の相手させてたんだ…楓なら分かるよな?身体に刻まれた記憶は…何がきっかけで蘇るか分からないって…ガブリエルが…記憶消したって聞いたんだけど…あの反応は…多分…覚えてる…」
「イチカ…」
花咲はイチカを抱きしめた。イチカは顔を覆う手をゆっくりと外す。鼻をすすって笑おうとして顔が歪んだ。
「ソーシは俺のせいじゃないって言うけど…それでも…責任感じるよ…だってハルはまだ十三なのに…養父母の虐待から逃げた挙句にそんな…俺がもう少し銀の枝に長くいたら…ハルはそんな目に遭わなかったのに…」
花咲も自身の中に抱える傷は、宮森に癒してもらっても消えない汚点のように有り続ける気がしていた。イチカも同じだと思った。そしてハルまで。自分の面影を重ねて同じ相手が、しかも異世界の悪魔がハルを貪ったのかと思ったら反吐が出そうだった。
「私はイチカのせいじゃないと思うよ…それは…社長の言うことが合ってる。でも、それでも責任を感じるイチカの気持ちもちょっと分かる…でも、あったことをないことにはできないから…先に進む方法を考えるしかないんだと思う…それに、ストラスがいるから…きっと大丈夫」
「うん…ストラスは…実はめっちゃ偉い人だし物知りなんだよな…そりゃそうか…国王補佐官だもんな…」
イチカはそう言って照れたように笑った。
「俺はさ…悪魔に戻してもらった日…なんかどういう訳か全然好きじゃなかったこのクソみたいな世界がちょっと綺麗に見えちゃったんだよな…意味わかんないんだけどさ。隣にソーシがいるならそれも悪くないなって…思った…楓は?」
「分かる…その…世界が綺麗に見えるって感覚…ハウラスにはこんな風に綺麗に見えているのかなって…思った。カーテンの隙間から差し込んでる陽の光を見ただけなのに…少し感動したりして…」
「これって悪魔になったとき、あるあるなのかなぁ?なんか不思議」
その後二人は悪魔あるあるの話を始めた。やけに気配に敏感な話、平気で恥ずかしい言葉を口に出す話。そしてたまに血を飲む話。
「そうなの?私はそこまで頻繁にはないかな…儀式とかそういう特別な時以外は…」
「ソーシも国王サマもだけど、たまに飲むんだよな。美味しいって。俺よりリツの方が飲まれてる回数は多いと思う…旨いって言ってた。エストリエもリツの血は旨い…フルーティー?だったかな、そんなこと言ってた気がする。だからそういうことがあっても、あんまりびっくりする必要はないって言いたかっただけなんだけどさ」
花咲はヨーグルトを食べ終えて着替えを済ませてからイチカと共にリビングへ降りてみた。ストラスはパソコンを前に片手で操作しながら、誰かとスマホで話していた。通話を終えて振り返ったストラスは花咲を見て近付いてきた。
「体調はどうだ?少し補充した方がいいかな…あぁ、ハルは今エストリエが一緒にいるよ。俺よりは安心できるだろ」
花咲は手招かれてソファーに座る。イチカは向かいに座った。
「悪いな。彼氏の代わりにちょっと補うことになってるから…」
ストラスはひょいと膝の上に花咲を乗せると後ろから抱きしめた。イチカと目が合って気まずい。けれどもそれだけで少しずつ魔力の流れ込む気配がした。ハウラスよりも強い。
「強過ぎたら弱める…大丈夫か?」
「はい…あの…イチカ…見られると恥ずかしい…」
「うん、分かってる。でもこれも悪魔としての勉強の一環だから。公開プレイに慣れろってソーシに言われたから、楓も慣れないと悪魔になったのをいいことにこの先振り回されるよ?多分会社でも」
背後でフッとストラスの笑う気配がした。
「確かに言いそうだな。ま、そういうことだから、せいぜい恥ずかしがっておきな。もっと恥ずかしい補い方も出来るけど、他の悪魔の獲物に手を出すほど飢えてないから俺はしない…」
目の前の筋肉質な腕を見て花咲は顔が赤くなるのが分かった。ストラスは宮森よりも身体が大きくて筋肉も多い。見るからに強い男だ。それに鋭くて整った顔立ちをしている。どちらかと言えば花咲の好みの顔だ。それに一見すると怖そうなのに優しい。ギャップ萌えだ。ずるいと思う。
「ストラスは今、ハーレム状態じゃん。男の割合が高いのはともかくとしてさ。ルイは男にも女にもなれるし、そう考えると楽しみ方のバリエーション豊富だよなぁ…」
イチカのつぶやきにストラスはため息をついた。
「ハーレムの均衡を維持するのだって大変なんだぞ?適当にやってる訳じゃない。イチカだってこの先はどうなるか分からない。ルシフェルは複数人で楽しむのも嫌いじゃないからな。そうなってくると花咲さんだって誘われるかもしれない。イチカの好きそうな相手から徐々に慣らして…自分の理想に近付ける…」
イチカは何を想像したのか、眉をひそめて、うぇぇと嫌そうな声を上げた。
「あり得る…ソーシなら…うわーそういうことか。花咲さんのことを頼むって朝言われたんだよ。そりゃ、楓のことは好きだけどさ、ソーシの思う壺ってやつじゃん…」
一方で花咲はストラスの魔力の心地良さに変な気分になりかけて、そんな自分に慌てた。ストラスは察して少し魔力を弱めると花咲の頭を撫でた。そうして不意に天井を見上げた。
「うーん、リツさんもちょっとまずいのかな。花咲さんは今はこのくらいで足りると思う。午後にガブリエルが来るから、少し楽にしておいて。俺はちょっと二階に行ってくる」
二階へ急ぐストラスの後ろ姿を見てイチカは言った。
「さすがは国王補佐官サマだなぁ…フォローが半端ない…」




