リツ&ガブリエルの場合
社長が宮森と外出してしまったので、リツは再び通常業務に戻った。イチカはテーブルの上に何やらテキストを広げて難しい顔をしていた。どうやら勉強を始めたらしい。意外と真面目なことにリツは内心驚く。今日は瀬尾のケージもないので成瀬が来ることもなく静かだった。途中内線が鳴って、代表に電話をかけてきたのはガブリエルだった。
「よ、フィランジェル。今日は旦那もいないんでしょ?どう?僕と不倫でもしない?」
「…何を言ってるんですか…」
「冗談に決まってるよ。面白みのない返しだね。仔猫ちゃんのお守りでどうせ外出できないんでしょ?ランチ二人前届けてやるから早く選んでよ」
「…ありがとうございます…ガブリエルが優しいと何かすっごく気持ち悪いけど…」
「何その言い草は」
「だって…上官だった頃は…わりと鬼だったかったから…」
天界にいた頃の彼は冷酷な鬼上司だったと思う。現にガブリエル軍に所属の天使たちはいつもボヤいていた。時々フィランジェルもきつい言葉を投げかけられた。当然のように体罰もあった。今の彼を当時の部下が見たら腰を抜かすかもしれない。肩の力が抜けたとかそういったレベルではない。だから気持ち悪いというリツの表現もあながち間違いではないと思う。
「天使をつかまえて鬼とはね。愛情の裏返しだよ。分かってないね君も。通常メニューは店名で検索したら出るよ。あと今日の日替わりメニューにはラザニアもある」
リツはイチカを手招いた。集中していたイチカだったが、ようやく気付いてこちらにやって来る。二人で食べたい物を選んでリツは電話を切った。気付けば昼の休憩時間の十分前になっていた。
「やったー今日は人のご飯が堂々と食べれる!」
イチカが嬉しそうに伸びをする。どこか猫のようだと思って、今日はと言ったことにリツは引っ掛かりを覚えた。
「イチカ…もしかして、ちゃんとご飯食べれない日があったの?」
「ケージを見られた日にさ。社長室に他の部署の社員が来ちゃって、猫のフリしなきゃなんなくてさ。結局私の分のランチは宮森さんが食べて、ちょっと食べ過ぎになってたよ。麺類はダメだね。伸びちゃうからさ。あれは失敗だった。氷の王子は案外、大食いだって話になってるかもなー」
「あーなるほど…」
リツは想像できてしまって苦笑いを浮かべた。一度タイムカードを切りに常務室から出ると、休憩に向かう花咲と目が合った。リツは慌ててメッセージアプリで花咲にメッセージを送る。
(休憩が終わる頃に常務室に来て。宮森さんは今日の昼戻れないから)
了解の返事が来て、花咲は多田と一緒に出てゆく。二人は社内の食堂に向かったようだった。だが持田の姿は見えない。仲違いでもしたのだろうか。化粧室で少しおかしな雰囲気になっていたのを思い出す。持田は秋村のことが好きだったのだろうかとリツは思った。秋村はリツに対しては怯えた様子を見せつつも虚勢を張って、軽口を叩いてくるようなところがあった。その頃は魔力切れの甚だしい堕天使だったので相手をする余裕もなくて最低限の会話で済ませていた。だから、秋村がどのような人間なのかリツはいまいち掴みきれてはいなかった。けれども仕事を途中で放り出して行方をくらますほどの勇気が彼にあったかといえば、そんな風には見えなかったので意外な気もしていた。行動が発作的で読めない。
(何か…見落としている気がする…)
そのとき突然、リツの身体に複数の怯えた気配が伝わってきた。波のように一点から広がったざわめきにリツはハッとして非常階段に向かい一気にその階まで飛び降りる。フィランジェルの頃の身体の使い方を思い出せば造作もなかった。食堂のある階だ。駆け込もうとしたリツは、だが背後から口を塞がれて慌てた。
(シーッ、隙を見て突入するよ)
そっと配達用のバッグを床に下ろしたガブリエルがリツの顔を見て笑った。リツは頷く。ガブリエルは片手を振ってエレベーターを停止した。これ以上人が増えないように配慮したのだと思った。ちらりと見た感じでは、それなりに人数も集まってしまっている。そして花咲を人質に取った秋村がじりじりと背後を警戒しながらこちらに下がってくるのが見えた。
「動くな!動いたら殺す!」
花咲は首筋に刃物を突き付けられている。ガブリエルとどちらがどう動くか打ち合わせもなにもしていなかったが、恐らく彼なら派手な方法を取るだろうと思った。今だ。
音もなく背後から現れた長身の胡散臭い男性に血走った目の秋村は一瞬動きを止めた。少し首から逸れたナイフをリツは思いっきり蹴り上げる。ナイフは手からすっぱ抜けて遠くへと飛んだ。秋村がリツの存在に気付いたときには、すでにガブリエルが彼を床に押し倒して拘束しているところだった。リツは花咲を離れた場所に避難させる。多田が走ってきて花咲の肩を抱いた。遅れて警備員が駆け込んでくるのが見えた。
「ちえっ、どうせ押し倒すなら野郎じゃなくて美人が良かったのになぁ…君も往生際が悪いよ。悪いのは自分でしょ?食い散らかしは良くないよ?だから悪夢に苛まれるんだ」
ガブリエルは秋村に馬乗りになったまま、警備員を手招く。
「僕、ランチの配達に来ただけだから、ちょっとこいつ押さえててよ。一応気絶させておいたから暴れないし、もうすぐ警察も来るでしょ。行くよリツ」
「…あ…りがとう。暮林さん…」
花咲の声に頷いてリツはガブリエルと再び動き出したエレベーターに乗り込んだ。
「いやはや、それにしても…あの悪夢はルイくんが編んだの?すさまじいね」
エレベーターでガブリエルが笑う。リツは肩をすくめて長身の相手を見上げた。
「私は詳細は聞いてないけど…指を食いちぎったのはアルシエルの使い魔の方だよ。さすがにルイでも、夢の中で人を食うのは無理だと思う…」
「だよねぇ…それを聞いてちょっと安心したよ。ルイくんの抱えてる闇も大きいからさ。リツも少しは影響を受ける…」
どこか切ない目をしてガブリエルはリツを見つめる。
「リツの魂はまだ澄んだままだけれど、少しずつ悪魔のそれに侵食されるんだ…それが一日でも遅ければいいと…僕は思ってしまうよ…毎日のように抱かれている割にはその変化はゆっくりだけれど…うーん、ひょっとして彼が調整しているのかな?変に器用な悪魔だね彼も。染め上げるならさっさと染めてしまえばいいものを」
「え?色々見えててもあんまり言わないで下さいよ。ここ、会社なんですから」
リツがガブリエルを睨むと彼は笑った。
「失礼。君とこうして四角い箱の中いると、つい忘れてしまってね。今自分がどこにいて何をしているのか。こういう感じの懲罰房、天界にもあったよね。狭いとこで二人きりにする試練…」
「ランチの配達中ですよ!もうっ!しっかりして下さい!いったい、いつのことを思い出してるんですか」
三十階に到着して扉が開く。何がおかしかったのか分からないがガブリエルは楽しそうに笑っていた。エレベーターの前にいた女性社員にガブリエルがランチのチケットを渡す。
「良かったら、ウチも利用してね。配達もするから忙しい日には是非電話して!」
ちゃっかり営業しているガブリエルにリツはため息をついた。女性社員は胡散臭い色眼鏡の相手に愛想笑いをしたが、不意に頬を赤らめた。何か良からぬ力を使ったのかと怪しむリツの横でガブリエルはひらひらと軽薄に閉じるエレベーターの扉に向かって手を振っていた。




