リツ&イチカの場合 1
出社したリツはいつになくがらんとした常務室で事務作業を始めたが、程なくしてドアがノックされて猫のイチカを肩に乗せた社長が入ってきた。
「ちょっといいかな?」
「何かありましたか?」
「いや…別にどうってことはないんだけどね…」
言いながらも社長はソファーに座る。
「何か飲みますか?」
「じゃあ珈琲をちょうだい。ミルクと砂糖もお願いね」
社長の好みがお子様ランチ風だと知っているリツはドリップ珈琲を淹れながら、ミルクと砂糖を取り出す。陶器のカップで出すと社長は苦笑した。
「別に紙コップで良かったのに」
「ジーンは珈琲の風味に紙コップの香りが加わるのは嫌なんですよ。私もそれは感じるので…単純に珈琲に対するこだわりの問題です」
「彼は何かとこだわるからね。僕は食べ物にもそんなにうるさくはないし…と言ったら聞こえはいいかもしれないけど、要するに味覚がそこまで鋭くないんだ。味音痴とまでは言いたくないけどさ」
それでも社長はリツの淹れた珈琲をブラックのまま一口飲んで目を見張った。
「あれ?何だかいつもより美味しい気がするよ。これに砂糖を入れるのはもったいない気がする」
「私も何か飲みたいから、覗いてきていい?」
猫の姿から人に戻ったイチカが、リツが自分の飲み物を淹れている隣に音もなくやってきた。
「これはベルガモットの香りのついた烏龍茶なんだけど、一緒に飲んでみる?」
イチカは猫のようにクンクンと香りを嗅いで、ニッと笑うと頷いた。すでに猫化した影響が出ている。
「いい匂い。飲む!」
ティーカップに二人分注いでソファーに戻ると社長はそんな二人の様子を微笑んで見ていた。
「この光景は何だか和むなぁ…」
言いながら社長は片手でパソコンを開いて画面をスクロールし始める。監視カメラの映像が並んでいた。チラリと見たリツはそこに見覚えのある光景を発見して、思わず社長の横顔を見た。
「あぁ…バレちゃった?あんまり公にできないサイトにあるんだけど、見ての通り監視カメラの映像だよ。リアルタイムのね。瀬尾くんが大丈夫かどうかは…うん、事務室はここだね。けっこう仕事が溜まってて大変そうだ」
社長が苦笑する。瀬尾のデスクの近くにリツはジーンの気配を感じた。社長は画面を切り替える。清葉学園の外の映像だ。駐車場や正門、裏門が見える。今のところ異変はなさそうでホッとする。
「リーって、やっぱり悪魔だったんだな…」
不意にぽつりとイチカがつぶやいた。一口飲んだイチカはティーカップを両手で持って、その中をぼんやりと見ていた。
「今思うとたまに変なことがあったんだよ。なんでリーが知ってるんだってこととか…いなかったはずなのに見てたみたいに言うこととか…あいつ警備と監視を兼ねてたんだけど、見逃す代わりにとか言ってけっこう上前を跳ねるようなズルいこともやってたしさ…」
イチカの手がわずかに震えていることにリツは気付く。イチカは揺れるティーカップをテーブルに置いた。
「ねぇ…ソーシ。ほんと、ごめん。俺…あいつが悪魔だなんて思ってなかったから…時々アリアに内緒で仕事を紹介してくれたりもして、いい奴なんだって勘違いしてて…だから相手をしろって言われたときも…断れなかったんだ…」
イチカは顔を覆った。リツはティーカップを置いてイチカの肩を抱いた。リーとイチカがそういう関係だったとは少し意外だったが、今イチカが猛烈に後悔していることだけはひしひしと伝わってきた。
「大丈夫だよ。何回かマーキングされたくらいじゃ、僕にはさほど影響は出ないから。それにイチカを悪魔に変える儀式のときに魔法陣に弾かれた原因は恐らくそこにあるって分かっただけでも前進だからね。しばらくは自由に出歩けなくて不便だと思うけど、そこのところは我慢しててよ。イチカをさらわれちゃたまらないからさ」
「あの…社長が襲撃されたのって…」
「僕はリーじゃないから、彼が何を考えてるのかは分からないけれど、彼はサタンを探していて、恐らくはサタンもこの世界に逃げてきたかで…リーは強い魔力の気配を探って攻撃をしてる…相手の姿もかなり変わってて気配でしか見分けられない…そんな気がするんだ。そして僕らが同胞を探して連れ帰ろうとしているのとは間逆に、彼はサタンを含む強い魔力の持ち主を片っ端から葬り去ろうとしている。しかも僕は彼がマーキングしたイチカを奪った。でも彼が縛ったのは肉体のみだったから、魂と肉体の両方を縛った僕の方が今のところは優勢…そんな感じかな。彼はイチカの何かしらの気配には気付いていたのかもね。でも確信が持てなかったから抱いて確認したんだ。それですっかり味を占めた。魔力が上がったんだろうね。イチカは記憶を失っていたし都合が良かったんだ」
社長はそう言ってリツの腕の中で俯いているイチカの顎を持ち上げた。イチカは泣いていた。涙を拭って社長はリツの腕からイチカを抱き取ると静かに唇を重ねた。
「不安なら、何度だって僕はイチカの身体に上書きをするよ。忘れていたんだから仕方ないよ。僕だって大事なことを思い出すのに時間がかかって、イチカを見つけるのが遅くなった。全部この世界の空気のせいだよ。ぼんやりして本来の目的を見失う…」
リツは少しぬるくなったお茶を飲む。自分もジーンが来るまではぼんやりしていたことを思い返していた。自分はたまたま堕天使で他の転生者から敬遠される存在だったから、イチカのように巻き込まれる事態に発展することにはならなかった。それだけのことだ。
社長はどこか名残惜しそうにイチカを抱きしめていたが、リツの方を見て言った。
「これから宮森と取引先に少し外出しないといけないから、イチカのことを頼んでもいいかな」
リツは頷く。用件はこれだったのだと納得した。
「分かりました。留守番していますね」
リツの言葉に社長はホッとしたように頷くと、イチカの頭を撫でて出て行った。




