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ああ、どうしてこうなった。
僕は書類の山を前に、思わず天井を仰いだ。
いやいや。これもすべては可愛いヌエラのため。
奮起して次の書類に手をつけはじめると、ぱちぱちという秘書の拍手が聞こえてきた。
「実に素晴らしい! ハイロス様がこれほど真面目に仕事に取り掛かられたことがあるでしょうか」
「僕はいつでも真面目にやってるよ」
「なにをおっしゃいます。五分に一回は休憩にしようとだだをこねていたクセに」
仮にも主人の息子に、クセにとはなんだ、クセにとは。
しかし軽く睨んでみても、秘書はしらっとした顔で「こちらは参考文献です」などと言いながらさらに山を高くしてきやがる。
「うぐぐ……。ヌエラにあんなことさえ言われなければ……!」
未来の妻として、領地の視察に同行したいと言ってくれたヌエラは、「できたら領地の内容がわかる資料が欲しいです」と無邪気に頼んできた。書類なんてそのうちやればいいやとため込んでいた。今はそれらを、執務室で片づけている真っ最中だ。
「なんなんだこの量は! こんなもの一日や二日で終わらないよ」
「当り前じゃないですか。これだけため込んだものを一日や二日で終わらせようとしないで下さい」
秘書の目はどこまでも冷ややかだ。
「というか、こういう事態にならないよう毎日少しずつ進めるものなのですよ。それをあなたという人は……」
「ああもう、お説教は十分だって」
この書類をまとめ終われば、ヌエラに会える。
逆をいえば、完成するまでは会えない。
街でデートした時、ヌエラはボクがなんでも信じてしまうと言って呆れていた。ただでさえ情けなく思われていそうなのに、「いやあ、まとめるもなにも、書類なんて全然やってないよ」だなんて恰好悪すぎる。もちろんちゃんとやってます、と涼しい顔で言うために。今ここで帳尻を合わすしかない。
しばし没頭していると、いつの間にか母上までやってきて秘書と話し込んでいた。
「私はエリザベスと結婚して欲しかったんだけど。でもまあ最終的には本人の気に入った相手がいいのでしょうね。最低限、貴族なら文句はないわ。いえ最悪平民でも、相談してくれればいくらでも手はあるから。とにかく駆け落ちだけは、駆け落ちだけは……!」
「母上。トラウマを発症しなくても大丈夫です。僕は駆け落ちなんてしませんし、彼女はきちんとした貴族令嬢ですから」
追い込まれている母が気の毒で、つい突っ込んでしまった。
「私は断然ヌエラ様派ですね。ご子息にこれだけの仕事をさせたのですから」
秘書がくいっと眼鏡をなおしながら断言した。
はいはい、君はそういう奴だよ。
「あらでも最近、妙な事故が増えているというでしょう? あの子ならそういう噂に惑わされず、一緒に領地を治めてくれると思っていたのだけど」
幼馴染のエリザベスは、母上の大のお気に入りだ。彼女はここ母が寝込んでいた間も話し相手にやってきて、かなり助けてもらっていた。まあ、僕にはヌエラがいるし、たとえいなくともエリザベスと結婚することはないんだけど。
「近々彼女を領地に案内しますから。その時は是非母上も会って下さい」
「まあ、楽しみね。彼女はどんな子なの?」
「どんな子といわれると、ええと」
目つきが鋭くて、何でもハキハキしてて。
思わぬところで知識が豊富だったり、妹思いで、だけど厳しい所もあって。時々ドキッとするような強いまなざしをすることがあって、絶対に素顔をさらさないようなミステリアスなところもあって……。
「いい所が多すぎて、とても一言では表わせません……!」
「あらあらあら。ご馳走様」
母上は上機嫌でころころと笑った。
ついこの間まで、僕の事は嫌っているのかと思っていた。だけど今回は自分から領地に来てみたいといってくれた。これってかなり前向きに、僕との将来を考えてくれてるってことだよね?
(この書類の山さえ終わらせればヌエラに会える。久しぶりのデートだ。そのための準備だと思えば書類だって辛くない。……いや、辛いけど)
彼女はきっと僕を褒めてくれるに違いない。にこやかに微笑みかけ、「さすがね、あなたと婚約出来たら素晴らしいわ!」とか言ってくれるかも。とにかく頑張ろう!
……そう決意したはいいけれど。
まともにやっていたら、一体いつ終わるやら。
(そういえば以前つきあった中で、やたら文字を読むのが早い子がいたな)
どうしてそんなに早く読めるのかときたら、いくつかポイントがあるのだと教えてくれた。その時は必要がなかったからなんとなくそのままだったけれど、今こそ試してみる時じゃないだろうか。僕は憎たらしいぐらいにこにこしている秘書を視界の端にとらえながらも、本気を出して取り組んだ。
そうして数日後、予定よりずいぶん早く迎えに行くことができた。
人間、やればできるもんだ。
よく頑張った、超えらい。
ああ、そのはずなのに……。
どうして、こうなってしまったのか。
「さすがね。素晴らしいわ!」
ヌエラは顔をあげ、優しく微笑みかけていた。
その場所にいるのは僕だったはずなのに。
「だけどマティアス、あなたとこんな場所で会うなんて。本当に驚いたわ」
「この近くで人と会う約束があってね。こっちも驚いたよ」
平凡な茶色い髪をした、これまた平凡な中肉中背の貴族子息がヌエラに微笑み返す。僕があれほど苦労して欲しかったものを、いともたやすく手にしている姿に苛立ちそうになる。
やっとの思いでこぎつかせたデートの真っ最中、まさか彼女の知り合いに会うとは。
「ごほん! ……ええと、ヌエラ? 紹介してもらってもいいかな」
「あ、失礼いたしました。彼は妹の婚約者なんです」
なんだ、身内か。
ほんの少し安心しかける僕に、似たらしい男が憎たらしい言葉を追加する。
「ええ。でもそれ以前に、ヌエラとは幼馴染なんです」
「へ、へー……」
「子どもの頃はいつも後ろをついてまわってたよな、あはは」
可能ならこの場でつかみかかってやりたいほど気分を害していたけど、残念ながら目の前にはヌエラがいる。彼女の前でくだらない諍いはできないと、仕方なく笑顔で手を差し出した。
「あれ、やだなあハイロス様。そちらは左手ですよ」
左手であってる。そう言ってやりたいが、じっとこちらを見ている彼女に気がつき、しぶしぶ右手を差し出した。
いや、こんな感情はよくない。
彼に悪気はないはずだ。
たぶん。
……きっと。
そうであれ。
「まあ、母親たちは俺たちを婚約させたがってたみたいなんですけどね」
「はははははははははは」
――絶対にわざとだろう、コイツ!!




