オウムは喋らない【短め】
口からこぼれた。
それは、なぜか光って見えた。
輝いていたような気もした。
だが、拾い上げようとすると、それは暗闇に飲み込まれていった。
もう二度と。
つかみ取れないのだと、言っているようだった。
――朝は憂鬱でしかない。外で鳴く鳥の代わりに、俺が泣いてやろうと思うくらいには、気だるさが体を縛り付けてくる。どうにも布団とやらは束縛思考も強いようで、メンヘラかヤンデレかのどちらかでしかない。一度入ったら最後、抜け出すのも一苦労だ。
まさしく、蟻地獄だと言えよう。この戦いは有無を言わず俺の負けと主張してくる。あぁ、今日は敵わないようだ。これでは仕方ない。このまま素直に意識をもう一つの世界へ送ってあげるのもいいだろう――
「いいわけあるか。起きな、朝ごはん食べてさっさと学校行きな」
――転がり出されるとは思いもしなかった。文字通りだ。愛おしく抱きしめた妻が手放され、新しくできた愛人とキスまでしてしまった。
つまるとこ、ベッドから床に叩き落とされたわけで。
「らんぼう……おに……」
「うっさい。歯を磨いて、顔洗え。私は仕事に行くんだ、しゃっしゃかする」
「へい……」
虚ろな思考には不釣り合いな背筋の伸びた声を聞き、項垂れ、生きている証を吐き出しては、窓の外を見る。
あぁ、今日も快晴なり。晴れ渡るなり。絶好の新学期なり。
言われた通り、歯を磨き顔も洗う。この時間だけは鬱陶しいとさえ思う。面倒の極まりではあるが、起床時の口はとてつもなく汚いと聞けば、するしかない。
人前でうんこの口を開くわけにもいかないのだ。怠け心にも、羞恥心とプライドはあるのだ。
「ご飯はテーブルの上、弁当は冷蔵庫にあるから、忘れないように」
「ふぁいよ。今日も遅い?」
「働き盛りに景気が追いつかないからね」
そうせかせかと玄関を飛び出す茶褐色の髪。我が母親ながら、忙しないものだ。その息子はこうものんびり惰眠へ向かおうとさえ意識が逸れていくのだから。
「……いや、社会人になればそうなるんだろうか」
こればかりはいつかくる、未来の話でしかない。あいにくも、相変わらずとも、日ノ本は不変な景色に包まれている。むしろ、変わっているとすれば掛け算の値と年功序列の順位くらいだろう。
そう思えば、磨く歯が黒くなりそうだ。吐き出してしまおう。
「…………」
そのまま、テーブルに置かれている弁当の余りで作られた朝食を平らげる。母親が働き盛りなら、息子は育ち盛りだ。生きるだけで命は少しずつ減っていくのだから、脂肪と筋肉をつけなきゃ身なりが整わないものだ。
生まれた時からある椅子をギコギコ揺らしながら、真っ黒で酸っぱい液体を飲み干す。そうすれば、だいたい出掛けるにちょうどいい時間がくる。
「……はぁ、クラスなんて今更変える必要もないだろ」
そう愚痴垂れる。この少子高齢化の社会でも、学校という個の集団は、定期的に環境を変えたがる。まぁ、そうやって他者交流を増やすことが目的なんだろうし、もっと言えば、クラス単位の社会での生き方を身につけるのも人生目標とやつだろう。
そう思えば、学校に行きたくなくなる気持ちもわからんでもない。鬱陶しいのだ。基本的に。
「自分の面倒は自分で見るなんて、靴を履かせて貰ってる分際で言っていい文句じゃないよな」
履きなれて、長年の雨風を受けて最高の品質を劣化維持している靴を履きながら思う。というより、口にしてしまう。靴べらの匂いも最悪なんだろうけど、これが無ければ外に出られないのだ。そういうものかもしれない。子どもとやらは、選挙権を得ようとも自分を面倒見切れるほど、親ほども稼げないのだ。
この靴も、制服も、鞄も。
全ては最愛の者からの愛であるわけで。
「我ながら臭い」
それが足の匂いだと思っておこう。そうするのが、気恥ずかし頬を隠すには充分な言葉だ。
「行ってきます」
誰もいない家へ僅かなさよならを告げ、しっかりと家の口を閉じる。そうすれば、前を向けるものだ。
いきなりイタズラを仕掛けてきた風に、顔を顰めるも、不機嫌な気持ちも吹き飛ばしてしまったのだろう。
「……いい天気だな」
感嘆を漏らす。目の前に広がる光景は、絶景で。すこぶる元気にさせるような風情溢れるものを、心まで運んでくれるのだ。
我が家の立地はあまり御年寄にはよろしくないものであるが、どうにも坂道や道路脇には植林をしたい行政の意向が咲き乱れているのだ。開花宣言から少し遅れての桃色のそれらは、この日にしてしまおうと開き直ったらしく、目の前の一本道を埋め尽くしていた。
「流石、花屋の娘である母君」
これには、散歩ついでに学校へ行こうと思ってしまう。まぁ、今日の風の強さからして数日ほどの景色だろうけど、近隣住民の人たちがわざわざ眺めに出てくるほどの圧巻だ。市役所も嬉しい限りだろう。
「さ、勇猛果敢な学生は個々の大名となって行きましょうかね」
見慣れたブレザーが、あちらこちらに。一本道に疎らで点在しているのだ。うちの学生であり、俺はその一部になるわけだ。まぁ、毎朝のいつも通りだし。学生がのびのび歩けるのは、いいことだろう。たまに自転車が駆け抜けることもある。そういうものだ。
だが、なぜかその日はいい気分だったはずの心情を、どうにも掻き乱す存在に出会うのだ。
不思議なことに、歩いていると、わざわざ立ち止まって真上を見上げている女生徒がいた。まぁ、桜に見蕩れるなんてある話。そんな人の視界を邪魔しないよう立ち回るのも、必須スキルだろうと思い、その子の後ろを通り抜けようと僅かに膨れた歩みをする。
しかし、女生徒はぴったり俺の進行方向に被さるよう、後ろに下がってきたのだ。
思わず、立ち止まったわけで。しかし、これもよくある話。よく見えるように、もっと遠目からの眺めからしてみれば、ありきたりなもので。お見合いというやつ。
だとすれば、少しばかりの不機嫌を含みながら、もっと膨れて歩けるようにする。
――――また、邪魔された。
見事、俺が右へと進路をとったはずなのに、目の前の女生徒は見計らったように同じ動きをしたわけ。
だったら、結局意味がないわけで。
かといって、もっと桜を見たいからと後ろに下がった可能性もあるわけだから、ここで堪忍袋の緒を切るなんて感情の昂りと理性の衰えを証明することもないだろう。
まだ右にスペースがあるのは幸いだ。もう一度、立ち止まった足を持ち上げ、右側へと下ろす。
――しかし、また後ろに下がってきた女生徒によって、俺の足は不自然な開き方をした。
痛いって。
いや、それよりもだ。股関節と太ももの悲鳴をなるべく抑える。そうした方が、考えもまとまるというもので。
朝っぱらからのトラブルには、大抵は動じない精神を誇っていたものの、今回の件はどうにも看過できない。むしろ、おかしい点があるわけで。
明らかに、この子、俺の道を塞いでいるよな。
そう。別にこちらを一瞥ともしていないけど、動き方からしてタイミングが噛み合いすぎているのだ。いや、もちろん、こんなことだってただの被害妄想だってありえるのだ。
ただの偶然を妄想で必然とするほど、この世界は運命を軽んじていない。転がしたダイスを突風で動かし続ける遊びを好んでするような神様が、こんな被害妄想で亀裂の入る人間関係など形成しない。
そう思う方がいいのだ。
そうした方がいいのだ。
だから、仕方なく、動かした足を再び、次は左側へと向けようとした瞬間。
本当に一瞬だけ。僅かな違和感というやつだろうか。不思議な感性とやつが、逡巡の暇に主張してきたのか。
その女生徒に目線を向けたら、彼女は――こちらをいたずらっ子の笑みで見つめていたのだ。
それに驚いてしまったからか、(なんだこいつ……)と思ったからか、どちらかは分からないものの。ただ、確かとして。
この瞬間でしか分からないような、胸のどこかを叩くようないい匂いがした。
読んでいただきありがとうございます。
良ければ評価ポイントなど入れていただけると嬉しいです。