あの娘が履いていた靴の色を僕は思い出せない
広浦洋海という男がもう予備校に行かなくなって四日が過ぎた。以前は三十一日行かなくなったが、今は四日だけである。キッチンで母親と将来について口論をしたこともあったが、今は予備校に行っていないことも気づかずに、すき焼きへ小松菜を入れた後にナツメグを放り込んでいる。
予備校へ行ったふりをして行っていた、ネットカフェから帰ってきたばかりで腹が減っている。あと二十分はかかると見込んで、インスタントコーヒーを飲むために電気ケトルへ水を入れた。
今年の日記はまだ半年ちょっとしか過ぎていないが、一年分では足りないので、もう数十冊買った。何日か前の今日の日のことを書いたページを開ける。そうして、前回とは違ってネットカフェで一日過ごした今日という日の無収穫な諦めを記録した。
初めは九月一日が無くなって、八月三十一日を過ぎると再び八月一日を迎えていたが、何度か満期の八月を繰り返すうちに三十日、二十九日と減って、とうとう七日になった。いずれ、ついたちからむいかを繰り返すばかりと思い込んでいたが、今回ついたちが無くなった。広浦は頭を掻いて、血流が巡るのを祈る。ついたちが無くなると、途端にこの八月の繰り返しにハめたやつの気配を感じる。運命の悪戯とか次元の狭間に落ちた事故などではなく、この期間にあえて限定するのだというヒントを出そうとしている奴の気配を感じる。
電気ケトルは一九時四十一分に乾いたお知らせ音をさせて水を沸かすのを止めた。インスタントコーヒーの粉を計らずにカップへ入れて、その上からお湯を注いだ。溶けきれなくて粉がお湯に浮かんでいる。広浦は溶けきっている部分だけを飲み込むと、もう一度お湯を注いで軽く中のお湯を回し、机の上にカップを置いた。
もう一度日記を見直してみる。以前のついたちは関係なくなったので、二日目から六日目の情報だけを見ればいい。数十冊の日記の中からついたちの部分を折ってめくれなくした。広瀬が気づいたことの一つは、初めの方の数回目の今週、松崎千春という女の名前が繰り返し出てきていたことだ。女の名前は日記に何人も出てきていたけれど、この週に出てきたのは松崎だけだ。あの、砲丸投げの選手だった女。この情報を見ても特に右脳は反応しなかった。
それから、もう一つ気づいた。日記は繰り返しを持ち越している。いや、さらにもう一つ。予備校のノートの記述もだ。つまり、記録媒体は持ち越している。しかし、スマホを見るが、前回の今週分のSNS上での母親とのやり取りは消えていた。広浦はインスタントコーヒーの瓶の側面に男性器と排泄物の絵を油性マジックペンで描いた。
キッチンから母親が機嫌よく呼ぶ声がして、返事をせずに食卓へと向かった。
ふつかからむいかは、よっかだけになった。
男性器と排泄物の絵は、何度描いても繰り返しを持ち越さなかった。
よっかの日記は、松崎千春という女が大学の先輩からホテルに誘われたのを物陰から覗き見た日であることが記されていた。
広浦は志望校の赤本を解くのが嫌になると机の右端に追いやって、机の上に組んだ腕に頭を預けながらスマホを見ていた。短い動画をインターネットに晒すことで承認欲求を得るサービスをやっていない彼女を液晶画面で見るために、昨年に行われた体育大会の盗撮動画を繰り返し再生している。徒競走をしている場面だ。周りがクラウチングスタートをしているのを見て、彼女もそれに倣う。ピストルが鳴ると、地面を蹴って、彼女の体が縦に跳ね上がる。躍動感が真っすぐ弾ける。その瞬間を停止して眺めていると、唇の右端がにやける。松崎千春という女の鳩胸にでっ尻の体のラインを指でなぞっては、満足するまでシークバーを巻き戻した。
彼女のゴールシーンは飛ばす。二歩目からは差がつくことに負けん気の脂汗を数度吐く空気と共に流しては、鈍重な体を苦しんで運び、最下位を目指して手足をばたつかせているだけだからだ。六番の旗の下で足を抱えて、日焼け止めでは防ぎきれない太陽光による左の頬のしみを手の甲で拭っていた。
競争が終わって、松崎は広浦の隣の席に座る。いかに自分が砲丸投げなら、あの足だけは速く、頭の出来が鈍重な者共に負けないかを広浦に演説する。松崎は、汗にまみれた体操着の胸元ばかりに注目する広浦の目線に気づかないで、次の種目へ行くために立つ彼に伝えた。
「ここで君を待ってる」
冷めたコーヒーを飲み干して、時計を見る。二十二時五十九分。一分経ってよっかの零時になった。
明日、松崎は先輩の胸元で、一夜を過ごしたのだろうか。
もう予備校に行かなくなって一日も過ぎない。母親がナツメグを追加で振りかけている工程から次へ移ることはない。母親の顔をつつく。体をつつく。松崎の筋肉量の半分もない弛んだ体に指先は沈む。脂肪は元の所へ戻らない。つつかれた痕を残したままだ。零時が無くなって、二十二時も無くなった。この世には十九時四十分しかない。
視界は明るいので、光源は止まっても光だけは動いているらしい。この、体にまとわりつく一粒一粒の光の粒で誰かに確かに監視されている。
日記はもはや不要だった。何も手掛かりはない。いつまでも動かない男に宇宙がいら立って、十九時四十分に止めた。コーヒーを飲もうと思って沸かしたケトルは、飲もうと思う前から湯気を上げ、沸騰せずに息絶えた。
自分の部屋で全裸になり、すき焼きの付け合わせとなるはずだった小松菜を生で齧った。丁寧に咀嚼して胃に送ったが、腹は減ったままだ。どうにも内臓に圧迫感を覚えてカップに吐き出す。そのままの姿で家から出て、道路に寝ころぶ。空は星の見えない明るさで埋め尽くされている。
宇宙の意図が分からずに、喃語で叫んだ。声は響かない。頭を掻いて、血流が巡るのを祈る。この時間の停止は停止ではない。限りなく期間を狭めていって、同じ瞬間を無限に近く繰り返しているだけだ。このことを意図したのは誰か。口に出して問うても静けさだけが返ってくる。母親はいつまでもすき焼きにナツメグを余計に入れられないまま、家の中に居続けている。
十九時四十分というヒントは一切解決されないまま、夜道を歩いた。数瞬が巡って十九時四十分になる。最早ケトルの前にも場所は戻されない。この瞬間に何か意図が必ずあるはずだと思った。いや、このまま繰り返しの始まりが未来に始まって、終わりが過去に終わるのだろうかとも思った。
意図は胃と頭を揺らし、自己の内側に向かう。広浦の未来が広浦の過去に意図を投げかけているのだとしたら。そうであれば、どうか、未来の自分が意図するのを止めて、過去の自分から手を引き、放っておいてくれないだろうかと念じる。
こんなときにも、松崎の肢体が脳に繰り返される。声が頭の中で繰り返される。あの体育大会の日、目には松崎の胸元しか焼き付いていないが、耳に焼き付いていた言葉はなかったか。
頭を振って、爛れた脳を元の軸に戻そうと試みる。十九時四十分を繰り返している。音がないのでそれと分かる。
家の中に入って、服を着て、生煮えの牛肉を胃に詰めて、やっぱり吐いた。ケトルのお湯のなりそこないで口をすすぐ。
日記帳を細かく破ってゴミ箱に捨てた。これまでの講義ノートをはさみで切って捨てた。松崎が通っている大学の赤本を捨てた。もう、あとは何もない。何度か松崎の盗撮動画を見る。十九時四十分に何度も繰り返し見て、飽きるほどに見て、スマホを放り投げて天井を見た。
そして、運命に祈った。どうか、この繰り返す運命に至らせた未来の僕の中にある三千大千世界の決議が固まって、僕のことを忘れてくれますように。
それから、松崎が言った言葉をようやく思い出した。
数瞬が一回か無限に近い回数を過ぎて、ホテル街の真ん中でガラの悪い男の、筋肉質な女の手首を引っ張る右手を止める者がいた。そうして、松崎は脂汗を流し始めた。