第3章 第16話 ハッピーデー
「光輝様、よくありませんよ。無人とはいえ教室で煙草を吸うのは」
床に置いた金魚の水槽から身体を出しているエージェントが珍しくまともなことを言う。俺を大人の身体にした奴が言う台詞ではないとも言えるが。
「……悪いことをしたとは思ってるよ。でももう悪いことをした後だ。一個も二個も罪は変わらないよ」
俺のジャケットで身体を隠されながら床で眠っている忍さんを視界の隅に置きながら答える。そう。俺はもうやってしまったのだ。忍さんの想いに応えてしまった。一度してしまった罪は償えても取り消すことはできない。
「忍様とはお付き合いしないのですか?」
「……しない。忍さんも言ってただろ。一度きりでいいって。あっちは受験、こっちはお前の被験体って仕事。お互い付き合えない理由がありすぎる。何より俺はいつか未来に帰るんだ。いずれ人格が変わる。それなのに無責任なことはできないよ」
「なるほど。ヤリ捨てですね」
「……まぁ、そうだな」
言い訳はしない。できない。これは俺と忍さんの問題だ。他の奴に何を言われようが関係ない。
「まぁ……あれだ。よくあるだろ。上京して会えなくなるから一度きりの思い出にしようとか……そういう感じのやつだよ」
「ええそうですね、よくある話です。浮気されて恋に臆病になるという話は」
…………。
「俺がいつ、咲の話をしたよ」
「あなたはずっとそうでしょう? 咲様に浮気された。あなたの始まりはそれなのですから」
「もうあいつのことは関係ねぇよ」
「記憶という経験が残っている以上関係ないということはないでしょう。咲様に裏切られ、裏切られるかもしれないから付き合うのが怖い。だから付き合わないために理由を必死に探す。それがあなたでしょう?」
「……なんだよ。俺を責めてるつもりか?」
「いえ別に。ただ自分を特別かのように語っていますが、なんてことはない。私ですら既に知っている思考でがっかりしただけです」
吸っていた煙草の灰が床に落ちた。元々煙草なんかロクに吸ってないんだ。一本吸いきることすらきついが、俺の手は自然と次の煙草を掴んでいた。
「じゃあ……どうすればいいんだよ……! 何をすればよかったんだよ俺は……!」
だが何度ライターを擦っても火が灯ることはなかった。理由は単純。煙草の先が、俺の涙を受けて湿っていたからだ。
「本当にわからないんだよ……忍さんを好きなのかどうか……! 全然、わからないんだ……!」
何をしても感情は変わらなかった。忍さんと付き合ってもいいのか。その答えがいつまで経っても出ない。忍さんは好きだ。幸せになってほしい。でもその想いが恋なのかどうか。それが俺にはわからない。
咲の時とは全然違う。咲のことは本当に好きだった。結婚したいと思った。でもそれは叶わなかった。それを経て俺は……俺は……!
「……光輝様と私は同じです」
「何が……同じなんだよ」
「私は完成してからまだ数ヶ月。光輝様も27歳。社会全体で言えば若者と言っていいでしょう。まだまだ知らないことだらけ。学ぶことだらけです。好きだから付き合うだけが道じゃありません。付き合いながら好きになっていく。いつの間にか好きになっていく。この世界には色々な道があります。だからきっと光輝様はもっと……」
気がつけばエージェントの姿は隣から消えていた。代わりに正面から、目を覚ました半裸の忍さんがよろよろと俺に近づいてきていた。
「もっと……いっぱいしたい……」
その身体は俺へと抱きつき、感情のまま背伸びをしてキスを迫ってくる。
「ごめん……一回だけなんて無理……。もっとしたい……気持ちいいこともっと……もっといっぱい、幸せになりたい……!」
人間だって動物だ。理性で感情を抑えられないことくらいある。でも……駄目なんだ。俺は……大人の俺が、その枷を破ることは、あってはならない。
「忍さんは……俺でいいのか……?」
「光輝くんだからいいの……。光輝くんと、付き合いたいの……!」
俺はまだ忍さんのことが好きかわからない。だから絶対に駄目なんだ。俺が経験した26年間がそう叫んでいるのに。
「わかった……付き合おう」
俺の口は理性とは真逆のことを口走っていた。ああ、そういえば。
「今更だけど……誕生日おめでとう」
今日は俺の、新たな一年を迎える日だった。




