第3章 第15話 理性と本能
「ふぅ……っ、ふぅ……っ」
どうしよう。ただ廊下を歩いているだけなのに、忍さんの息を吐く音が聞こえてくる。しかも周りが祭りの喧騒で満ちているのにだ。俺たちだけが世界から取り残されたように、2人だけの空間が広がっている。
「……ごめん、手離す?」
「っ……!」
そう訊ねると、手汗で滲んだ忍さんの手がビクリと震え、俺の指をぎゅっと掴んできた。何も答えてくれないが、それが返事だろう。
「どうしようか。昨日は俺の行きたいこと行かせてくれたから今日は忍さんのやりたいことやりたいんだけど」
「イかせてくれたっ!? ヤりたいっ!?」
「…………」
さーて参った。どうしたもんかなぁ、この展開……。
「忍さん……」
「ど、どうしたの光輝くん!?」
正直言ってありえないんだ。この場に大人忍さんが現れないことは。あの性格だ。陰からでもどこからでも、この様子を覗きに来ないなんてありえない。だからつまり、そういうことなのだろう。このままでは。
「彼女がほしい、彼氏がほしい。それは生物として当たり前のことだと思う。繁殖こそが生物の生きる意味なんだから」
「は、繁殖……!?」
「でも人はその理性を抑えられる。だから社会を形成できたし、ここまで発展できたんだと思う。次の世代を生むことより大事なものができたってことだからな」
「そ、そうだね……?」
「ようするにさ。人と人が付き合うってのはそう簡単なことじゃないと思うんだ。好きだから付き合う。結構なことだよ。でも感情で付き合うってことは、感情で別れるってことでもあるんだ。だからちゃんと頭で考えないといけないんだ。こういう理由があるからこの人と付き合いたいって。そういう覚悟がないと、気持ちが浮ついていずれ別れることになる」
「……そう……なのかな……」
別に大人だからって偉そうに言うつもりはない。それでも伝えておきたかった。自分に言い聞かせるためにも。
はっきり言って、俺と忍さんは付き合える。でもそうじゃないんだ。それで終わらせたら、咲との別れで得た経験を何も活かせない。
理由がほしい。忍さんじゃなきゃいけない理由が。俺じゃなきゃいけない理由が。それがないと、お互いに失礼だ。
「まぁその……あれだよ。ちゃんと関係を深めないとって話で……」
「……私のやりたいこと、付き合ってくれるんだよね?」
俺に連れられるように歩いていた忍さんの歩が速くなる。俺も置いていかれないよう歩を速め、行き着いた先。この祭りの中で最も静かで誰にも注目されない、空き教室へと辿り着いた。
「……いいのかよ。最後の文化祭じゃなかったの?」
出し物のために机や椅子が摘み取られ、わずかに残った椅子の一つに腰をかける。すると正面から、忍さんが俺の膝の上に乗ってきた。
「……ぎゅって、して」
「…………」
真っ赤な顔でそう頼み込んできた忍さんの言う通りに行動する。だが小さく口を開け、ゆっくりと近づけてきた顔には決して踏み入らなかった。ここで何も考えずに行動できるほど、俺は子どもじゃない。
「……ごめんね。おかしいよね、私」
俺の無言の拒否に気づいた忍さんがゆっくりと顔を離す。それによりその表情の全てを見ることができた。辛く、今にも決壊しそうなその表情を。
「自分でもわかってるんだよ……おかしくなってるって。光輝くんのかっこいいところなんてほとんど見てない。私を庇ってくれたわけでも、私を女の子として見てくれたわけでもない。ただ仲のいい、バイト仲間でしかない……。それ、なのに……」
そしてその瞳から。
「どうしようもなく……光輝くんのことが好きなの……!」
一粒の雫が零れた。
「でもダメなんだよ……今は絶対にダメ……。勉強がんばらなきゃいけないの……他のことをしてる余裕なんてないの……。それなのに……どうしても我慢、できないの……!」
世の中の全てがこうだ。一度壊れたら、抑えることはできない。ぽつぽつと際限なく涙が溢れ、俺の膝に想いが零れていく。
「ごめんね……理由なんて全然思いつかない。根拠なんて一つもない。それでも……すごい、好きなの。理性なんかで抑えられない。光輝くんのことを想うと胸が痛くて、光輝くんのことを想うとキュンキュンして他のことなんて考えられなくなるの……。きっと10年後も大好きだって胸を張れるくらいに、大好きなの……!」
ああ、そうだった。俺は大人で、忍さんは子どもだった。
「ねぇお願い……! 付き合ってなんて言わない。一時の気の迷いでもいい! 私を……愛して……!」
生きてきた土台が違う。気持ちを忍ばせて対等に言葉を交わすことはできない。できることは、ただまっすぐに感情をぶつけ合うことだけだった。