第2章 第9話 負け犬の戯言
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
いける。俺の方が速い。ほんのわずか。一歩か二歩分くらいだろうが、それでも俺の方が速い……! 大樹に勝てる……っ!
こんなのただのかけっこ。社会人だろうが高校生だろうが意味のない、ただの自己満足。たとえ勝っても大樹は悔しいとも何とも思わないだろう。
それでも俺にとっては。生きる上で最低限にして最大の一歩だ。彼女を奪われ、将来の婚約者を奪われかけているどうしようもない俺が。自分で自分を認められるようになるために。今日こそは、俺が……
「……は?」
右脚が動かなくなった。正確には曲がり切らなくなった。
その理由が大樹のバトンが俺のふくらはぎと太ももの間に挟まったからだと理解した時には、大樹は既に俺の前にいた。
俺が次の人にバトンを渡し終えた頃には既に大樹はコースを出ており。俺は結局、再び負けた。
「わりぃわりぃ。当たっちまった」
コースを出て息を整えていると、大樹が肩を叩いてきた。大丈夫、落ち着け。故意にバトンを当ててきたのは明らかだが、そこで怒っても仕方ない。どんな言い訳をしようが負けたのは事実。ここで怒っても負け惜しみにしかならない。落ち着け……。
「大樹くん、おめでとう! すごいかっこよかった!」
「当たり前だろ? 俺を誰だと思ってんだよ」
同じクラスの俺の前を通り、咲が大樹に抱きつく。ずいぶん仲がよろしいようで。うらやましいよ、ほんと。
「ただのかけっこでどんな顔してんの?」
黙って大樹と咲の抱擁を見ていると、遠くから腕を組みながら翠が歩いてきた。
「これでわかったじゃん。やろうと思えばそこの馬鹿なんていつでも勝てる。そんでこいつは妨害しないと勝てないくせに堂々と煽れるほど恥知らずだってわかったんだから」
「あ?」
「ははっ、こーわ。煽り耐性も0かよ。ダッサ」
翠が俺の右脚を軽く蹴り、大樹に一瞥もすることなく煽り続ける。それから少し遅れ、忍さんと光も近づいてきた。
「光輝くんナイスファイト~。かっこよかったよ~」
「少なくとも誰かさんよりは目立ってましたよ」
「…………」
俺には何もない。でも俺のことを理解してくれている人がこんなにいる。翠に光。忍さんが……。
「……忍、さん?」
「な~に?」
違う。目の前の忍さんじゃない。大人忍さん……ノブノブが、観覧席にいない。どこかに移動したのならいい。それならいいが、もしその存在ごとどこかに消えたのだとしたら……!
「忍ちゃん、どうだった? 俺の活躍。1年に負けたどっかの雑魚兄貴よりかっこよかっただろ?」
「あ~ごめんね~。全然眼中になかった~」
「どうしてお前ばっかり……!」
「忍さんっ!」
四者四様。大樹がちょっかいをかけ、忍さんが受け流し、若林さんが俺たちの前に立ち、俺が忍さんを背中に引き寄せる。
大樹のことで頭がいっぱいで気づかなかった。若林さんがここまで近づいてきていることに。
そしてノブノブがその存在ごと消えたとしたらそれは。過去の彼女自身である忍さんが、若林さんに殺されたから……!
「なんでお前なんかが学校一のイケメンに……! お前さえいなければ私が……!」
「忍さん! 絶対に俺の後ろから出るなよ!」
どうしてこんな急に……さっきまで何の前ぶりもなかったのに……! いや……怨みというのはそういうものだ。嫉妬というものはそういうものだ。何か大きな出来事があったからではなく、今までの積み重ねがあるからこそ、爆発する。その気持ちは俺が一番よくわかる。そしてその感情の爆発には。
「全部むかつく……何で誰も私を見てくれないの……!?」
理屈など、存在しない。だから。
「どうせ手に入らないなら、壊してやる……!」
背中からナイフを取り出した若林さんは忍さんではなく、大樹の方を向いていた。
「っ……!」
きっと今の若林さんは正気ではない。人を殺そうとするなんて元々正気ではないが、それ以前に。自分の中だけで理屈を組み上げ、ほとんど関係のない大樹に矛先を向けている。
理屈なんかないんだ。自分が納得できる結末を探しているんだ。その気持ちは本人以外、誰にもわからない。いや、きっと自分でもわかっていないのだろう。だって俺も。
「大樹――!」
大樹を跳ね飛ばし、代わりにその刃を腹で受けたのだから。
「ぐ……う……!」
あんなに怨んでいた大樹を庇い、刺された。自分の行動を理解したのは、俺の腹に突き刺さったナイフと、口から垂れた血が白い体操着を汚しているのを視認してからだった。
「……お前の気持ちはよくわかる。嫌だよな……負け続けるのは。惨めで惨めで仕方ねぇよ……でも……!」
俺も若林さんと同じだ。感情が爆発していた。自分でも自分が理解できない。それでも。
「自分で自分を諦めてんじゃねぇよっ!」
これ以上誰も傷つけられないように、若林さんを投げ飛ばしていた。
「翠ぃっ!」
「っ……忍は止血! 光は救急車!」
翠が絶叫を上げながら地面に倒れた若林さんを取り押さえる。それを確認し、俺も倒れる。遥か下の地面に。
「え……? え……?」
「ドッキリ……ですよね……? じゃなきゃ……こんな……」
指示を受けても尚現状を理解できていないのだろう。困惑した忍さんと光のか細い声がグラウンドに溶けていく。不思議と体育祭の喧騒の音は聞こえない。今俺の耳に届いているのは一つ。
「なんで……俺を庇ってんだよ……兄貴……」
殺したくても殺せなかった、弟の声だけだ。
「俺が……聞きたいよ……」
喉から声を出すだけで感じたことのない痛みが全身を蝕む。痛いなんて言葉では済ませられないほど、痛い。なんで……なんでこうなってるんだ。
なんで俺は……大樹を庇った……? 大樹を助けたいだなんて、これっぽっちも思っていないのに。身体が勝手に動いていた。まるでそれが運命であるかのように、自ら踏み台に下っていた。
これで俺が死んだら大樹は。兄に救われた悲劇のイケメンとしてちやほやされるのだろう。何をしようが仕方がないと許され、俺の馬鹿みたいな行動は美談のように語られる。そんなの……絶対に嫌だ……!
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
嫌だ……嫌だけど、どうしようもない。俺も大人忍さんもいないとなれば、エージェントを動かす人はいない。俺は死ぬ。何にもなれず、何も成し遂げられず、死んでいく。
せめて……何か遺したい。俺のこの無念を、怒りを。俺を裏切った大樹と咲に、刻みつけたい。これから死ぬまで後悔するような、怨みを……!
「俺から奪ったんだ……絶対に咲を不幸にするなよ……!」
怨みを遺したかったのに、口から出た言葉はこんな。まるで聖人のような遺言だった。物分かりのいい、負け犬のような戯言だった。
こんな人間にはなりたくなかった。こんな良い人ぶった謙虚な弱い人間ではなく、誰かを切り捨ててでも勝てるような、強い人間になりたかった。過程なんてどうでもいい。最終的に勝てなければ、結局は負け犬なのだから。
嫌だ。死にたくない。こんなところで終わりたくない。だが俺の願いはいつだって、叶わない。
「ク……ソ……!」
俺の意識はまるで俺の人生のように、深い闇に呑まれていった。