第1章 第10話 大人
「仕事やめたーい!」
忍さんがソファに倒れ込みながらそう叫んだのは飲み始めてから30分ほどが経った頃だった。元々酒に強い人じゃなかったけど、学生時代より酔っ払うのが早い気がする。
「いいじゃん大手でしょ? 酒も俺じゃ手が出ない額だし高給取りなんだからさ」
「大手も中小も関係ない! お酒とかは接待費だし、給料だって入社してからほとんど変わってないし、逆に大手だから変わりはいっぱいいる。だから文句は言えないし、女だからってだけでお茶汲みとかサポートにばっか回される! もうやだこんな会社ーーーー!」
大手にも大手の苦しみがあるのだろうが、中小企業の平社員の身としてはそれでも羨ましいと思ってしまう。隣の芝生ってやつだ。
「しかもこんなのほとんど単身赴任じゃん! 時間超えるだけのエネルギーを使うとお金すごいかかるからしばらく帰れないらしいし! 私独身だよ!? 彼氏いないよ!? もう今年28だよ!? もう……ああああああああっ!」
時代が進みAIが仕事をやってくれても時間旅行ができるようになっても、社会の本質は変わらない。どれだけ便利な世の中になっても、生きるためには金がいる。金を得るには働くしかない。こういうしがらみは一生続くのだろう。子どもの頃は将来に希望もあったが、大人になって現実が見えてくるとこんなもんだ。
「光輝くんに会えたからいいけどさ……でもこんなの私たちを利用してるだけだし……! あぁもうっ!」
しばらくソファでバタバタしていた忍さんはグラスに入っていた酒を一気に飲み込むと、スカートのポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「……煙草吸ってたっけ?」
「あー……実は学生の頃からね。みんなには隠してたけど」
そう語りながら口から煙を吐く姿はやけに様になっている。そうか……そうだったのか……。
「学生の頃は『え~煙草なんて吸わないよ~』とか言ってたのに。なんで俺たちにまで隠してたんだよ」
「……みんなには、かわいい私でいたかったんだよ。のんびりしゃべって、ふわふわしてて。そんな昔のままの自分でいたかった」
そして忍さんは一度目を伏せ、言う。
「過去が変われば未来は変わる。でも私が知ってる未来でも、光輝くんは浮気されてた」
……それはつまり。
「結局俺の努力は無駄だったってこと?」
「少なくとも、この1週間は。これから10年間。結婚してからもずっと咲さんを守り続けてたら結果は変わるかもしれないけど。それだけの努力をする価値は、咲さんにはある? 簡単に弟さんになびく女と、一生を共にすることはできる?」
その言葉に何も返せなかった。酔っているから、言ってはいけない言葉を口にしてしまいそうだったから。突然静寂が訪れた部屋に、忍さんの煙を吐く音だけが聞こえる。
「……どれだけがんばっても、勝てない相手はどうしてもいる。光輝くんはずっと昔から知ってたんだろうけど、私がそれに気づいたのは大学生になってからだった。それからだよ。のんびりしていられなくなったのは」
言葉の代わりに酒を飲み、話に耳を傾ける。大人になった今だからこそ聞ける話を。
「実家が貧乏だから、空いた時間はバイトしてた。そうするとどうなると思う? 家が金持ちで、研究室に入り浸っている人の方が熱心に見えるんだよ。勝てないと思った。見えないところでいくらがんばろうが意味はない。結局人って相対評価だから。表面だけで誰かの比較材料にされて、知らないところで評価が落ちていくだけ。どうやったって勝てないよ」
忍さんのグラスから氷が割れる音がする。飲まなきゃやっていけない時もあるが、飲んでもどうしようもない時だってたくさんある。
「私なんかより光輝くんの方がずっと詳しいよね。今までずっと、そうだったんだから。本当にすごいよ、光輝くんは。言わなかったけど、ずっと尊敬してた。でもさ、こうも思うんだよね。誰かと比べなければ、きっと誰もが幸せなんだって。羨ましい。悔しい。そう思うから、辛くなる。弟さんにやり返したい気持ちはすごいわかる。でもさ、そんなことをしてても自分が幸せになれるわけじゃない。だからさ、せっかく過去に戻れたんだから。自分の幸せのためだけに生きてみたら?」
「理想論でしょ、それは」
さっきまで黙っていたのに、驚くほど簡単に声は出た。
「生きている以上、どうしても人が目に入る。誰もかれもが俺よりすごい特別な人。到底敵わないって、いつも諦めてる。それでも思うんだよ。俺だって、って。少ないチャンスだからこそ、勝てる機会は逃したくない。勝てるなら、勝ちたいんだよ。自分でも小さいって思うけど、欲望は止まらない。生きたいって思うこと自体が欲望なんだから。そんな自分だけで完結できる坊さんみたいにはなれないよ」
俺がどれだけがんばろうが、結局は大樹が勝つのだろう。どうしようもない。持って生まれた物の差だ。それでも、途中だけでも勝てるなら、勝ちたい。そう思うのは悪いことなのだろうか。勝てないと逃げて、別の道を探すことが幸せなのだろうか。きっとそういう道も、間違っていないのだろう。でも世の中は正解不正解だけでできているわけではない。俺の姑息で惨めな勝負だって、間違っていない。
「……私は光輝くんもすごいと思うよ。私じゃ絶対に、敵わない」
「……隣の芝生だな」
こうして夜は更けていく。敗北者たちの負け惜しみが飛び交う中で。
あともうちょっとだけ忍さんとの話は続きます。それが終わったら第1章クライマックスに向けて話が動いていきます。どうぞお待ちください。
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