エピローグ
茉莉の過去。彼女の笑顔を、覚えている。
一ノ瀬茉莉。私を捨てた両親がくれたこの名前が嫌いだった。
「まつりちゃんはみんなから愛されるのよ。あなたは世界で一番かわいいんだから。」
そう言った母は浮気性な父の暴力に耐えきれず、私の目の前で向こう側へ行ってしまった。
「かわいい私のまつりちゃん。お母さん弱くてごめんね。ごめんね……うっ、うぅ」
記憶している母の最期の姿はみすぼらしく、何に対するものかもわからない謝罪を繰り返していた。
母を護れなかった幼い私も心が脆かった母も、大事な人を簡単に壊して捨てた父も。全部全部大嫌いだった。何一つとして気に入らなかった。
自分の人生に価値があるとは到底思えなかった。
理不尽な世の中すべてに嫌気がさしていた頃、彼女と――零と出会った。みんなが物珍しそうな目で私を見る中、彼女は隅の席でうつむいていた。その様子が、最期の母の姿と重なって見えて嫌だった。クラスメイトは皆知能が低いため内心見下していた。話すだけ時間の無駄だと思い、無視を決め込むと自然と私から離れていった。ようやく気に入らないあの子に近づくと、これまで彼女に抱いていた感情はすべて間違いだったと気づいた。
あの子は――零はただ、他人と話すことが苦手というだけで不当ないじめを受けており、恐怖ゆえに下を向き、体を萎縮させていたのだった。
許せなかった。彼女は何も悪くないのに陰で悪口を言ったり、その小さな体に暴力をふるったりしているクラスメイト。全員、話す価値もない烏合の衆でしかなくて一緒にいるのさえ嫌だった。
だから私は零と二人で教室という“地獄”から逃げたくて、頻繁に図書室へと足を運ぶようになった。
それからの毎日は、何をしていても楽しかったのを覚えている。それもこれもすべては零がいたからこそだった。家ではおよそ人として扱ってもらえなかった私が今、こんなにも幸せでいいのだろうかと心のどこかで不安になるほどだった。彼女と過ごしたあの三年という月日が私に人として持つべき“こころ”を与えてくれた。
「ありがとう、れい。」
「なにが?」
「なんでもなーい」
「えぇ……?」
困惑する彼女をしり目に満面の笑みでスキップしながら帰路をたどった。
私からも零にしてあげたい、零は何をすれば喜んでくれるだろう――零と二人でいるようになってからはそんなようなことばかり考えていた。気が付けば彼女のことでいっぱいになり、そばにいないときは無意識のうちに彼女を求め探していた。
いつの間にか、私は彼女の虜になってしまった。
単に友人としての好意で終われていたら、どれほど幸せでいられただろう。だが私にはこの胸の高鳴りを抑えるすべがなかった。どんな結果が待っていようと、彼女を信じて進んでいこうと決めた。
「これは……ナズナ?」
「そう。前に公園でそれを見つけてね。れいはよく本読むし、白が似合うなと思って選んだんだ。」
ナズナの花言葉はあなたにすべてを捧げる。この想いをひそかに届けたくて花に託した。春の陽気に包まれた校舎裏の草原で桜が舞う。彼女はそのただ中で今まで見たことのないほど美しい微笑をたたえ私に、私の為だけに言ってくれた。
「まつり、ありがとう。あなたのことずっと大事する。」
あまりの嬉しさに思わず彼女に飛びついた。
「あなたを愛してる。」
ようやく言えた。今この瞬間だけは、世界のだれよりも私が幸せだという愉悦に浸っていた。
――だがそれも一瞬で終わってしまった。友達よりもずっと脆い糸でつながっていた私たちの関係は中学二年の夏にぷつりと切れてしまった。すべては私の勘違いで、ただの思い上がりだったということをほかでもない零本人から突き付けられてしまった。零の為にしたことのはずが彼女を傷つけ、彼女は私から離れていった。後に残ったのは自業自得のいじめと人として扱ってくれないあの最悪な家庭だけだった。
ただ私の傍にいてくれたらそれで良かった――そんな小さな願いすら聞き届けてもらえない。この理不尽な世の中で、生きてる意味など何処にあるというのか。私は絶望の淵でこの疑問に唯一の答えを見出した。
――簡単に口に出してはいけない答えだと分かっていた。だが、もうこのときの私にはこれしか無かった。最後に一度だけ、彼女と話がしたくて昼休みに教室を訪ねた。
「あの、山本さんっていますか?」
「れいちゃんのこと?あの子なら今の時間図書室にいるよ。」
「そうですか。ありがとうございました。」
「なにあの子……こわ。」
「それな。」
私をいぶかしがる声を背中に受け止め、図書室へ向かった。
「れ……や、山本さん。」
「はい……!ま、まつり。」
零の姿を見た途端、泣きたくなった。まだ生きていたいと思ってしまった。弱気になってはいけない、私はもう今更もう引き返せないのだから。深く息を吸い、気持ちを落ち着かせる。
「この間はごめんね。私が勝手過ぎた。……今までありがとう。こんな私と仲良くしてくれて……嬉しかった。」
今自分は、笑えているだろうか。以前の零が好きな「私」になれているだろうか。
「いや……え、何?急にそんな……この間のことなら私も悪かったから。ほんと、ごめんね。」
「ううん…今日はそれだけ伝えたくて。」
そっか、と安堵したような表情で私の目をちゃんと見てくれた彼女は、とてもきれいだった。それだけで十分だった。
「ありがとう。さようなら、私の光。」
これで終わりです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。