第二章
ジャスミン 和名:茉莉花 科・属 モクセイ科・ソケイ属……
翌日、図書館で花の図鑑でまつりと同じ名前の花を探していた。書かれている説明をさっと眺めていると、気になる言葉を見つけた。口に出して読んでみる。
「うつくしい花とかおりをもつ、神さまからの、おくりもの……」
自分とは天と地ほどの差があることを、実感させられたような気がした。いっそう、自分が嫌になる。
「なーにを読んでるのっ、と」
勢い込んで隣に座ってきたので、自分にぶつかってページが勝手にめくられた。
何も知らない、無垢な笑顔を向けるまつり。その顔に、ほんの少しだけ、嫌悪感を覚えてしまった。それに気づき、罪悪感と後悔にさいなまれる。
「は、花のずかん。」
「へぇ。今日は真面目ちゃんだね。」
ふふっといつものように笑う。名前の花言葉と同じ、愛らしい笑みを浮かべている。
「まつりの名前はジャスミンと同じなんだね。か、かわいいな。へへ」
自分もまつりのように上手に笑えたら自分を好きになれたような気がする。
人知れず自身に嫌悪している自分などつゆ知らず、まつりは恥ずかしそうに顔を赤らめてはにかんだ。それすらも可愛らしくて羨ましく思ってしまう。
「わたしの名前はおいといて、レイはどうなの?」
よほど恥ずかしかったのか、話の矛先を自分に向ける。
「……」
しかしその質問には答えられなかった。過去の記憶が走馬灯のように思い起こされ、胸が苦しくなる。その様子が妙だったのか、まつりは心配そうに自分の顔を覗き込んできた。
「……もしかして、聞かれるのいや、だった?ごめんね」
その様子があまりに異質だったのか、まつりは慌てて謝る。
「あ、ううん。まつりは悪くないよ。わ、わたしのほうこそごめん。」
しばしの間、何とも言えない気まずい空気が流れる。何か、なにか話さなければと思って一人あたふたしていると、まつりが口火を切ってくれた。
「わたしね、今まで屋台とか出るお祭りのまつりだってバカにされてさ。あんまり自分の名前好きじゃなかったんだよね。」
「そう、だったんだ……」
「でも、レイのおかげで悪くないかもって思えた。ありがとう。」
お礼を言われるようなことはしていないと言ったつもりが、全く違う言葉を発していた。
「……れいって名前、なにもないって意味なの。」
刹那、はっとして息をのんだ。手で口をふさいだがもう遅い。
「そう。だから黙ってたんだ。」
一瞬目を見開いたまつりは、肩を落としそう言った。
「お母さんが、前に言ってたの。“あの子は空っぽなんだ”って。」
気づくと口をふさいでいた手はだらりと床に落ち、うつむいて過去の記憶を話していた。
全てを話し終えたとたん、周りがしんと静まり返ったような気がした。まつりも黙ったままで、不意に恐怖が湧き上がる。
恐る恐る顔を上げると涙をいっぱいにためた目でこちらを見ていた。その様子を見て手をついてまつりの方を見たまま後ろに下がる。なぜ自分が後ずさりしているのかわからなかった。この場のすべてが分からなくなった。自分が硬直していると、まつりはおもむろに抱きついてきた。
「……ない」
「え……?」
何と言ったのか聞き取れなくて疑問の声が出た。
「レイは空っぽじゃない!だって、だって……レイのおかげでわたしは」
「まつり、お、おちついて。わ、わたしはだいじょうぶだから。」
ぐずりながら訴えかけるまつりを宥める。
「ごめん。」
宥められて落ち着いたのか、まつりは目元をぬぐいながら謝った。へたくそな笑顔で自分は大丈夫だとまつりに言った。
その日の放課後は、そうして終わった。
まつりが泣く姿を見てから数週間がたち、自分たちは以前よりも心の距離が縮まった。何も言わなくても、目配せだけで言いたいことが分かったし、喋り口調もだいぶくだけた調子で話せるようになった。自分にとってこのことは、今までになかった大きな変化であったが驚くことはなかった。そうして冷静に受け止められたのも、まつりのおかげだ。いつしかまつりは、自分にとっての太陽のような存在になっていた。そのことが、ひどく嬉しかった。
やがて夏が来て、秋が来て……季節はめぐり、過ぎていった。夏祭りに二人で浴衣を着て一緒に屋台を見て回った。秋の遠足では山のてっぺんで一緒におにぎりをほおばった。冬には珍しく雪が積もるほど降り、かまくらと雪だるまを作った……。いつだって、どの思い出にだってまつりがいた。二人でいれば何でもできる、自分たちは無敵なんだと本気で思っていた。
だが、いつだって「現実」は平等に事実だけを突き付けてくる。おまえは弱者だと。所詮自分は何も持たない、“空っぽ”な人間だということを、いやおうなしに示してくれる。
――そう、たとえばこんな風に。
「おまえ調子に乗ってんじゃねえぞ!!」
怒りをはらんだ声を浴びせられた後、ガキ大将に突き飛ばされた。教室の、きれいに揃えられた机やいすが自分のせいで規律を乱す。クラスの一角で談笑していた女子たちは大きな音に驚き悲鳴を上げた。
約四十人分の黒い顔が自分と、ガキ大将に向けられる。家に帰りたいと、この瞬間初めて思った。どこにいようと心が休まらないことに変わりはないが、それでも今ここにいるより何倍もましだと思った。とにかくここから離れられるならどこでもよかったのかもしれない。
しかし、背中に走る鈍い痛みと恐怖にすくむ足のせいで一歩も動けない。誰かに助けを求めようにも、たくさんの黒い顔に見られているせいで声が出ない。ただひたすらに心の中でごめんなさいと誰に向けてのものかも分からない謝罪を繰り返した。
「おい、聞いてんのか!このやろう!」
ガキ大将がずかずかとこちらにやってきて胸ぐらをつかむ。自分より体格も大きく力が強い彼によって、自分の体はいともたやすく持ち上げられ、軽く浮いてしまう。
「なんで、お前みたいなやつが……」
足をばたつかせて抵抗していたとき、ぼそっとガキ大将が言った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……うっ、うぅ」
汚い嗚咽と心の中で唱えていた謝罪が自分の口から洩れた。こんなことしかできない自分が情けなくて心底嫌になった。
「ちょっと!何をしているの!」
ほどなくして担任の先生がやってきて、自分に降りかかった危機は去った。のちにクラス内でのいじめを懸念した担任の先生は二者面談を行った。
「……それで、君はこないだの放課後、突然龍牙君に突き飛ばされたんだね。」
「はい。」
先生は確認を取っているだけ、それはわかっているのになぜだか悪いことをして責められているような感じがして怖かった。
「そう……」
先生はそれだけ言うと黙り込んでしまった。たった二人だけの教室に沈黙が漂う。それはやがて形を変えてこわばる肌を突き刺してくる。何もないのに腕が痛い気がして、それを打ち消すように頭を振った。
「君は……龍牙君に何かした記憶はある?」
ようやく口を開いた先生はゆったりとした口調でそう聞いた。まるで、私はあなたの味方よと言ってくれているようだった。その思いに応えようと記憶をたどってみたものの、全く思い当たる節がない。少しだけ顔を上げて、首を横に振った。
「そう。じゃあ、龍牙君に君は……」
おそらく、いじめられているのかと聞きたいのだろう。だが単刀直入に言ったところで先生が欲しい答えは得られない。そういった考えから、すっと聞けないのだろうと子どもながらに先生の心を読んでみる。
「な、なんにもない、です……すみません。」
「そう。これで面談は終わりです。戻っていいよ。次の子呼んでもらえるかな。」
「はい。失礼します。」
先手必勝で言ったのが功を奏したのか、特に言及されることもなく面談は終わった。先生に一礼して教室という名の尋問部屋を出る。帰りに大きなため息をついて、吸ってしまったあの部屋の空気を体の外に吐き出す。
そしてようやく、自分に突き付けられた「現実」は時間とともに風化した。
後々、まつりから聞いた話によるとその場にいた誰かがよくない状況と見たのか、職員室にいた担任の先生に事情を説明して連れてきてくれたらしいということが分かった。
「まあ、わたしも周りの子が話してるの聞いただけだけどね。」
「そうだったんだ。そのとき、まつりはどこにいたの?」
愛らしい顔に疑問の表情が浮かぶ。
「わたし?わたしは先生によばれてて、しょく員室にいたの。」
「そうなんだ。」
「わたしいなくてごめんね。もしその場にいたらりゅうがなんかけっ飛ばしてやったのに。」
「だいじょうぶだよ。まつりが強いのはわかったから。」
百面相のようにくるくると表情を変えるまつりを見るのはとても楽しい。今も、不服そうな顔からこみ上げる笑いをこらえた微妙な笑みを浮かべている。この子は、以前に調べた花と本当によく似ている。そのことがもう自分を苦しめることはなく、ただ純粋に嬉しく思った。
こんなに愛らしい彼女のことだ、きっと私と違って素敵な家族に囲まれてさぞ幸せに暮らしているのだろう、と無知な私は考えていた。
だが自分は浅瀬ですべてを知った気になっていただけに過ぎなかった。
続く