1 芽衣と和
4月の雨はあと1度でも気温が下がれば霙になりそうな程に寒い。傘をさす右手や雨が滲みた足の爪先は悴んでいて、家を出て5分もした頃から感覚がなくなっていた。
今日は始業式だけだし今すぐにでも引き返して家に帰ろうか、なんて考えが既に数え切れない程に浮かんでいるが、帰るわけにはいかない。
始業式から休むのは新担任から見たら第一印象として良くないし、もし、いつもネチネチと校則違反や遅刻した生徒に絡んでいる山崎が担任にでもなっていたら、卒業するまでそれをネタに絡んできそうだ。それだけは御免被りたいので、我慢して足を進める。
小学校からの仲である和の家の前まで来ると、呼び鈴を押す前にタイミング良く和が出てきた。和とは小学校では場所の関係でそれぞれ登校していたが、中学校の通学路では丁度和の家の前を通る。その為、入学してからかれこれ一年間、待ち合わせをして一緒に登校している。
互いにおはようと挨拶をして、いつも通り和は芽衣の左隣に並んで歩き出すとこの時を待っていたとばかりに「ねえ。昨日のこと、誰かから聞いた?」と話を切り出した。
昨日の……? 傘の下からちらりと覗いた和の貌は上気し、ニンマリと笑みを浮かべている。思い返しても、昨日は朝からずっと塾の春季講習に行っていたうえに、友達からの連絡といえば宿題のことをSNSアプリで訊かれたことくらいのものだ。何も思い浮かばない。
寒さでそれ以上は真面目に考えるのも面倒になり、さっさと「昨日のことって?」と訊き返す。すると待ってましたとばかりに弾んだ声で話し始めた。
「実は昨日の部活でさ、怖いことがあって」
和の所属する吹奏楽部は毎年の入学式で新入生の入退場の演奏を行なっている。入学式は明日に控えており、昨日も練習をしていたらしい。全員で頭から通して演奏していた時のことなんだけど、と和は続ける。
「最初、楽譜には全くないところで大太鼓が一回鳴ったんだよね。でも間違えようもないタイミングだったし気のせいかな、くらいに思って気にせず続けててさ」
また、違うタイミングで大太鼓が鳴った。それも今度はドンドンドンと繰り返され、流石にどうしたんだ、と和や他の部員達が振り返って一番後ろに立っているパーカッションの方を見たそうだ。奈々という名前らしいパーカスは青褪め強張った顔をしてよろよろと後退り、大太鼓から離れていたと言う。
ドンドンドンドンドンと太鼓は鳴り続いている。それを見た部員達は皆呆然としたが、それまた誰も触れていないシンバルがガシャンと音を立てたことで我に帰り一斉に音楽室を飛び出したという。
何と言うか……全く怖い話をしているようには感じない楽しげな話し方もあるが、流石に話を盛り過ぎて嘘臭さが凄い。アメリカ版学校の怪談みたいな映画があったら出てきそうな派手な演出だ。
思わず胡乱な目を向けてしまうが、和は気にせず心霊現象なんて生まれて初めて遭遇した、とニコニコしている。
「それで?」
ん? と和が首を傾げる。
「その後はどうしたの? 練習に戻ったの?」
「ああ。勿論、練習に戻った。ただ、やっぱり飛び出した直後は皆パニックでさ、怖がりな人達は泣いちゃったりしてたんだよね」
本当に目の前でそんな事が起きていたら泣いてもおかしくはない。信じてはいないが、私もきっとその場にいたら泣くと思う。けど、隣で楽しそうに恐怖体験を話しているこの女はきっと、泣くどころか今と同じような笑顔だったに違いない。
和は尚も続ける。泣く部員や何、何と繰り返し叫ぶ部員など阿鼻叫喚となっていた中、誰かがあれって美幸先輩なんじゃ……と呟いたそうだ。
「美幸先輩って?」
「吹奏楽部にいた、あたし達の2つ上の先輩。いつだっけ、確か……あ、そうだ。去年のハロウィン前くらいに火事で亡くなったんだけどさ。その美幸先輩のパートがパーカスだったんだよね」
「そういえば、聞いたことがあったかも……」
生徒数の少ない田舎の学校だ。名前までは知らなかったが、昨年に3年生が1人亡くなったというのは噂で知っていた。
「最後の中文連直前だったから、それが未練でまだ音楽室にいるんじゃないかって話になって。ウチの顧問がアケミちゃんって知ってるしょ? したっけ、『成仏できるよう、今年の中文連、皆で頑張ろうよ!』とか言い出してさ。それで普通に再開した」
まるで折角の楽しみを台無しにされたかのような言い方だ。きっとそういうお涙頂戴路線やアオハル路線は求めていないのだろう。
私が言えたことではないが、こう言う時に和は歪んでいると思う。ちょっと所謂厨二病というのか非日常的な面白いことと昭和チックなもの、変わったものが好きで、女子中学生らしい恋愛や青春には全く興味がない。吹奏楽部に入ったのだって金管楽器で昭和の懐メロをやりたいからという理由だ。
言動や行動が自由気ままだから皆が遠くから眺めているだけで全く和に声をかけようともしない。黙っていたら普通の美少女なのに……。
気もそぞろに歩いていた所為か、芽衣の片足が深い水溜りに勢いよく突っ込んだ。べシャンッと雨音に負けない派手な音が聞こえ、跳ねた泥水は和の足にも掛かり膝下までの靴下に濃い滲みを作った。
「うわ、ごめん!」
「なんもなんも。芽衣なんて足首まで浸かってるじゃん。大丈夫?」
「私はだいぶ前から手も足も凍れているし、何も感じないから大丈夫」
「いや、それ駄目なやつ」
不幸中の幸いなことに学校はもう目前だ。早く入ってストーブに当たりたい。同じ轍を踏むまいと足元に注意を払い、水溜りを避けつつ足を早める。
気付けば雨はすっかり雪へと変わっており、路肩に薄らと積もり始めていた。
ふと、お喋りな和が静かになったので、ちらと和を見た時。
さっきまで怖い話をしていた時の楽しげな様子はなく、一切の表情が抜け落ち、どす黒く変色した顔の和がすぐ隣で此方を見ていた。血走った眼球は視線が定まらず、口は半開きになっている。
「っ!」
あまりの豹変ぶりに芽衣は思わず仰け反り、近くを歩いていた生徒にぶつかる。
「あ、すみませ____」と咄嗟にぶつかった生徒へ声をかける。
「えっ、何、芽衣どうしたの? 大丈夫?」
再び和を見ると、いつもと変わりない姿の和が怪訝な顔をしてこちらを見ており、先程の変貌ぶりはどこにもなかった。
「え……」
気のせいか……。そうだ、傘に滴る雨粒の影であの様に見えたのだろう。きっとさっきまで怖い話をしていたから無意識に神経質になっていたのかもしれない。
「な、何でもない、大丈夫……」と和に声をかけるが、それはどこか自分に言い聞かせているようでもあった。




