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寝過ごす男

作者: 津上座

(……寝過ごした)


 「ぼく」は未だに少しばかりまどろんだ頭で周りを確認する。

 誰もいない。

 ものの見事にもぬけの殻で、電車の音を除けばシーンという音すら聞こえそうなほどの静けさである。

 電車に乗ったのがかなり遅い時間であるからそんなものかもしれないが、やはり朝には満員で揺られているだけに、些かばかりの驚き、そして恐怖を感じる。車窓から見える真っ暗ながらも変わらない地下の様子に、自分が今どのあたりにいるのか、不安になって車内の案内表示を見る。


(……良かった。まだ二つ前の駅だ)


 ひとまず「ぼく」は胸をなでおろす。一瞬掻いた冷や汗のせいで、もう目が完全に覚めてしまった。そんな状態になって初めて自分の場所、自分が長い座席の右端に座っていたことに頭が思い至る。静寂がやけに深く感じ、唐突に気温がぐっと下がった気さえしてくる。

 「ぼく」はこの手持無沙汰の状態を解消するものを何も持っていなかったので、座席へと完全に体を預けてただ脱力する。少し妙な感覚があるのは、冬の冷たい空気と座席のヒーターの確かな熱のせいだ。

 相当疲れが溜まっているのか、最近いつも電車に乗ると寝過ごしてしまっている。「ぼく」は自分が寝ているときは口を大きく開けて涎を垂らしていると友達に指摘されたことを思い出して、口元を拭って確認する。問題ない。口の中も全く乾いている感じはしない。いつのまに癖が治ったのだろうと自分の思わぬ成長に首を傾げる。


『まもなく××駅ー、××駅ー』


 「ぼく」はしばらくぼーっとしていたが、案内されている駅が自分の降りる駅だと気づいて慌てて電車を降りた。


――


(まただ……また寝過ごした)


 また次の日。気づけば「ぼく」はまた同じ電車で寝過ごしてしまっていた。しかも、また車内の案内表示は二つ前の駅を示している。こんなに寝過ごすのが続くようなら対策でも考えなくては、と口元を確認しながらぼんやり考える。

 そこで「ぼく」は気づいた。冷たい空気、暑いぐらいのヒーター、車窓から見える真っ暗な地下の景色、そして車内に満ちる静寂の空気感。そのどれもが奇妙なぐらいに先日と同じなのだ。

 しかし、大きな違いがあった。見過ごすにはあまりにも大きなものだ。

 もう一人、もう一人だけ「ぼく」の他に乗客がいるのだ。

 その人物は「ぼく」の斜め前、向かい合う座席の左端の隅に座っている。長い黒髪の女性で、目を閉じてただ静かに座っている。寝ているのだろうか。

 知らない女性だ。少なくとも「ぼく」は会ったことも見たこともない。

 今日もなにも持っていなかった「ぼく」は、何かをして気を紛らわすこともできず、座席に座って前を見ることしかできない。すると、自然とその女の人に視線が吸い寄せられていくのだ。自然と気になる。


『まもなく○○駅―、○○駅―』


(彼女ここで降りるのか)


 女の人は次の駅に着いたときに、目をふっと開けて案内板を確認したと思ったら、駆け出すような勢いで電車を降りて行った。その間、「ぼく」に向けて何か言いたげな視線を向けた、ような気がした。

 「ぼく」はそこからまたぼーっとして、そして次の駅で降りた。


――


 その日から「ぼく」は電車で寝過ごしたときには必ずその女の人を見かけるようになった。逆に言えば、その女の人以外の乗客を見ることは一度もなかったのだが。

 「ぼく」はその女の人に対してとても興味を持った。静かな世界に自分と二人だけの人物に対して運命すら感じていた。流れるような黒髪も、ほんのりと赤らんで血色の良さを感じさせる頬も、装いが変わってもわかるすらっと伸びた脚も、全てが「ぼく」の興味を引いた。

やがて「ぼく」にはどうしても女の人に話しかけたいという気持ちが沸き上がっていた。何度も何度も出会っているが、その実「ぼく」と彼女は話したことすらない。彼女の名前すら知らないのだ。


(次……次会ったら話しかけよう)


 そしてその機会はやってきた。


『○○駅―、○○駅―』


 彼女がいつも降りる駅についても、彼女は目をつぶったまま動かなかった。「ぼく」と同じ、寝過ごしたのだ。たったそれだけのことで、「ぼく」は心が躍りだしそうな気分になる。こんな気持ちになったのは「ぼく」にとって久しぶりのことだった。

 彼女は初めて会ったときと同じ、「ぼく」から対角の向かい合わせの座席の左端に座っている。チャンスだ、と感じた。

 「ぼく」は初めにまず彼女の顔が見えるように、彼女の正面の席に移動した。どこか不思議なにおいを感じる。彼女はこの時もいつもと同じように綺麗な顔だった。「ぼく」はその顔をじっくりと鑑賞した後、ついに決心を固める。


「あのー」


 彼女はどんな反応をするだろうか、それだけで「ぼく」の心は一杯だった。実際は彼女とあわよくば、という気持ちもあるにはあったが、ともかくその瞬間の彼女の反応に集中していたことは間違いない。

 声をかけて肩を叩く。実際には一瞬のことだろうが、その後の時間が「ぼく」にとっては永遠にも感じられた。


 しかし、待ちわびた彼女の反応は「ぼく」の思い描いたものとはかけ離れたものだった。


 彼女は、目をゆっくり開けると、ぼんやりしたまま案内表示を確認する。そして顔色を一瞬にして蒼白に変化させた。

 それから彼女は目の前の「ぼく」には目もくれず、焦り、不安、混乱、恐怖など様々なものが混じりに混じった様子のまま自分の携帯を一目散に取り出し、何かを一心不乱に打ち込みはじめた。まるで目の前の現実を否定してくれるものを必死に探すかのように。そして彼女の様子を見るにそれは徒労に終わったらしい。


「あのー」


 「ぼく」がもう一度声をかけてようやく目の前の存在に気付いたようだった。こちらに向いた顔からは完全に血の気が引いて、強張ってしまっている。まるで化け物を見るかのような目だ。


「もしよかったら」


 そこまで言ったところで、「ぼく」の体はドン、っと突き飛ばされた。「ぼく」は咄嗟のことで何もできず、先ほどまでいた座席に勢いよく座り込んだ。一瞬何が起きたのかわからなかったが、どうやら彼女が「ぼく」を突き飛ばしたらしい。

 彼女は「ぼく」を突き飛ばした後、運転手がいるだろう先頭車両のほうへと血相を変えて走って行った。

 「ぼく」は自分がされたことに驚いて、座ったまま少しも動けなかった。


(ひどいなあ……)


 ただ、一瞬見えた彼女の携帯に映し出された『終点:○○駅』の文字に、彼女の変容に合点がいった。

 「ぼく」は緩慢な動作でぬらり、と立ち上がる。どうせ彼女はもうどこにも行けやしないのだから。

 もう一度静寂を取り戻したはずの車内に、どこからか女性の悲鳴のようなものが響いて聞こえてくる。


 さあ、彼女を迎えに行こうか。


『…………マッ……ナク…………ェキ……キィ……』


――


(……あれ……寝過ごしたかしら)


 ふ、と「わたし」はいつもの帰りの電車の中で目を覚ました。

 覚醒していないながらも、どこか習性のように駅の電光の案内表示を見つめる。よかった。まだ先だ。

 意識がぼんやりしている。寝ぼけているからなのか、思い出せないがナニカ重要なことを忘れている気がする。暑いぐらいに効きすぎた座席のヒーターと相まって「わたし」をいらいらさせ、自慢でもある黒髪をがしがしと掻く。

 

 音を立てながら走る車内には、「わたし」の他に寝ているように目を瞑る女の乗客が一人。見覚えはない。


 ……なぜか、目が外せない。

 


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