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くだらなさを詰め込みました。

拙僧(せっそう)は節操がない。

 このギャグを言って笑った奴はいない。それは周りの人間の知的程度が低いからか、俺のシャレが本当につまんないからなのか。

 昼休みの屋上でふと考えて、隣にいる中学時代からの友人であるショージにそれはどちらなのか聞いてみる。本名は別府(べっぷ)祥司(しょうじ)という。障子を貼っている最中に生まれたからそう名づけられたのだと俺は思っていたが、ある日違うと断言された。言われて見ればあいつの家には障子はない。いや、リフォームしたのかもしれないから真相はまだわからない。メガネを掛けている以外は何の面白みもない顔のくせに何故か人望がある。勉強は俺の理解者の端くれだけの事はあって学年トップクラス。しかし昨今において勉強ができるくらいなんだというのだ。男に一番必要なのはユーモアセンスよ。社会を和ませ、笑いのうちに何もかも煙に巻く高等テクニックよ。

 さて、冒頭の高尚なギャグに対して、メガネブームの時くらいしか取り得のないショージ様の意見はこうだ。

「知らん」

 その後たっぷり二秒くらいかけて次の言葉を紡いだ。

「今時拙僧なんて坊さんでも言っているどうか。それに意味が分かったところで面白くもなんともない」

「まてよ」俺が間髪いれず反問する。「聞いているのはそういう事じゃない。つまり、周りの奴らのオツムが足りないのが先か、俺のシャレがつまんないのが先か」

「意味が分かったところで面白くもなんともないと言っているだろうが。それよりお前この間のテストで数学と物理で赤点だったろうが。オツムが足りない上にシャレもつまらんのじゃ、どうしょうもないだろう」

「おいまてよ。俺はこの天才的言語感覚を生かして国語と英語はカンペキなんだ。古典なんてお前よりできるんだぞ。いづれの御時にか、天才・秀才あまた候ひける中に、いとやんごとなき頭脳にはあらぬが、優れてときめきたもふあり、だ」

「はいはい」

「考えてもみろよ、一番節度を必要とされる聖職者がだぞ、自ら節操がないなんてカミングアウトをするんだ。聖職者っつうか、生殖者っつうか」

「は?」

「それでだな、例の彼女の問題だ」

 俺は唐突に話題を切り替える。今日は節操のない坊さんの話をしに来たのではない。

例の彼女とは、俺と同じクラスの(ゆき)(むら)()()。学年一美人と評判の女子だ。まあ、それだけならどこぞの学校にもいるだろうが、この彼女の凄い事と言ったら、頭脳も学年トップ、運動神経も抜群、さらに美術や音楽にも長けていて、家庭科だってこなす、つまりスーパーウーマン、非の打ち所のない高嶺の花だ。ボディもよく発達している。東大生のミスキャンパスなんてのもスーパーウーマンだろうが、彼女の場合美貌と知性だけではない、芸術的センスにも長けているのだ。ピアノはショクパンだったかリストラだったか、そういうのが弾けるらしいし、絵画だって描けば展覧会に出品される。

だが、たった一つだけ致命的な欠陥があるのだ。その欠陥のせいで彼女は恵まれた容姿と人並みならぬ才能を持ち合わせながら、決して男を寄せ付けなかった。俺が彼女なら十七歳までの間にきっと老若合わせて六十人くらいと付き合っていたかも知れない。ウハウハだ。考えただけでよだれが出る。しかし実際問題彼女はその欠陥に気づいているのかいないのか、全く治す素振りがない。それどころかどんどんエスカレートしている。しまいには女の子の友達も失った。言ってみれば孤立無援状態。彼女はそんな学園生活でこのまま果たしていいのだろうか。宝の持ち腐れだ、大いなるミューズとエロス神への冒涜だ。

「まだ余計なこと考えてんのかよ」

 ショージはよく晴れた空を見上げながらぼそりと言った。低い音を立てながら飛行機が一筋横切っていく。

「考えてるさ。いいか、これは俺のアイデンティティを証明する重要な問題なんだ。彼女の決定的な欠陥を修復するまでは、数学だ物理だなんてのはこの世の中で起きる些細な事象に過ぎない」

 ショージは特に話すことも無いのかぼんやり空を見ながら黙っている。

「おい、ショージは気になんねぇのか? 大体オマエ将来FBI捜査官になりたいんだろ? 人の心を掌握できなくてどうするんだ?」

「そんなの言った事ないだろうが。なんだよ、FBIって」

 ショージの野郎は俺の目を見る。

「フビライ・ハンの頭二文字だ」

「だれがジンギスカンになるって。フビライの綴りならQUBIだろ。やっぱりお前のオツムは足りん」

「とにかく連邦捜査官、俺はやるぜ。彼女の前途多幸であるはずの人生を無下にさせやしない」

「どうするんだよ」

 ショージ連邦捜査官殿は仕方なく相手にしている風を装う。しかし長年悪友をやっている俺にはわかる。コイツは俺のやることが知りたくて楽しみで仕方が無いはずだ。そのポーカーフェイスの眼鏡の下でゲラゲラ笑っているに違いない。それで俺は意気揚々と説明する。

「まずだな、二年に上がった時に雪村はクラス替えで、それまで唯一仲が良かった根暗の伊豆(いず)()ちゃんと別のクラスになったんだ。伊豆知ちゃんは新しいクラスで他に気の会うネクラ友がいたからいいものの、雪村は完璧に一人だ。今は俺の席の後ろの後ろの後ろの斜め前の隣の水平対角線上の席にいる」

「どの席だよ」

「だいたい斜め後ろだ。それでだな、もちろんクラスでは浮きまくりだ。休み時間も昼休みも自習も体育の着替えも一人ぼっちだ」

「体育の着替えはお前が見てたらおかしいだろ」

「俺もオマエとクラスが離れ離れになったから分かる。一人ぼっちは辛いぞ」

「なんだ、まだ友達できないのか? いっそのこと彼女とお前が友達になれば?」

「それじゃぁ意味がないだろう。前途多幸な彼女は『高校時代に素晴しいご級友の皆様に囲まれて、人としての思いやりを学びました』ってのが就職面接でのキラーセンテンスになるんだ。男一人では相手が不足すぎて仕方がない。パティシェになる時だって、女子好みのケーキが作れないだろう」

「彼女はパティシェになりたいのか?」

「知らん聞いた事ない。女といえばケーキ屋だろう」

 ショージ捜査官は微妙な顔をしてまたぼんやり空なんて見上げやがる。何を気取っているのだ。黄昏れるなんて七曲署の署員に任せて俺達はハイティーンらしく生きてりゃぁいいんだ。

「それでな、ショージフビライハン、まずは根暗の伊豆知ちゃんに聞いてみようと思うんだ。何で雪村があんなになってしまったかをさ」

「雪村も伊豆知以上に極めて最強の根暗なだけなんじゃないのか?」

「俺の笑いのセンスで明るい未来を切り開く」

「先に伊豆知をそうしてやれよ」

「来年同じクラスになったらな。まずは雪村が先決だ」

「まあ、頑張れば。お前がクラスで自分の友達作るほうもだいぶ先決だと思うぞ」

「うるさい。俺は繊細なんだ」

「はいはい。千年も生きてりゃ大変だわな」

「千歳じゃない。わかってる、このプロジェクトには多くの協力が必要なんだ。人手は一本でも多いほうがいい。一本でも人間柱、二人でも惨劇」

「よくわからん」

「そのうちお前もこのプロジェクトに参加したくて参加したくてたまらなくなる。一人の心を閉ざした少女が変わり行く様をその目にまざまざと焼き付けて、歴史の生き証人になるがいい。そしてFBI捜査官の就職面接試験でこうだ。『人の心が変わる瞬間に立ち会えた事が俺の人生を変えた』ってな」

「受けないって」

「まあ見てな。これから始まる全てに学園中が沸き立つだろう。でもな、それは彼女のためだけに行われる、彼女の心を変える、そのためだけに」

 黄昏の七曲署の捜査官は興味なさそうな振りをしているが、これはいつものことだ。何のかんの言っていつも俺のやることに首を突っ込むんだ。心底興味深々なのだ。それでこそ俺の親友、悪友、早見優。

 さて、季節はまだまだ四月。桜も綺麗に散り揃ってクラスに馴染む前にゴールデンウィークが到来だ。何がゴールデンなものか。宿題は出るし、腹は減るし、家に母親は居ずっぱりだし。しかし今年はそんな事にかまけている暇はない。過酷なミッションが待っているからだ。

 俺は今年中に学園一の美女、雪村華乃を腹の底から笑わせてやる、それがこのプロジェクトの最大のミッションだ。そう、彼女の最大にして最強の欠陥は〈笑わない〉。笑った顔を見た奴はいないのだ。


: )


 ちょいとばかり自己紹介が遅れたな。俺の名前は春日井(かすがい)(はん)(せい)。半世紀も生きりゃあ十分だって言うんでつけられたらしい。冗談じゃない。五十年じゃ年金も頂けない。親は何を考えてつけたんだ。それこそこれまでの人生はたかだか十七年目ですが、来し方行く末、人を笑わせるために半生以上もの間情熱を傾けてきた。だからと言ってお笑い芸人になりたい訳じゃないんだ。ショージはじめ、回りはみんなそう思っているようだが、万人受けするお笑いは難しいと五歳の時に既に悟ったのだ。俺はマニアックに相手のツボを狙ってその人の最高の笑いを引き出すタイプだ。そう考えて早十七年。笑いツボって買わなきゃいけないのかと思う程誰も持っていない。いや、むしろ俺のツボが高価過ぎて、他人のツボとマッチしないのだろうか。さしずめ俺のツボはガレ並みだ。そこいくとショージなんかはせいぜい前衛作家が夜市で売っている程度だ。そんなツボに合わせて笑いを作れるものか。けれど才色全兼備の雪村ならガレ並みの芸術も理解できるはずだ。

 さて、そんなくだらない自己愛は置いておいて。俺は二年に上がって雪村華乃と同じクラスになった。一年の時は一組と七組、端と端のクラスで殆ど接点は無かった。しかし学年一の美才女の噂は風に乗って天城の山も越えた。俺は学校行事の度に彼女の顔を参拝し、周りの様子を観察していた。しかしどうだろう。誰がどんなに頑張っても彼女の表情筋はピクリとも動かない。そもそも表情筋が無いんじゃないだろうか。学年を飛び越え学校一番の美女と噂されるようになってから、同級生に限らず先輩も入り乱れての争奪戦。誰が彼女を笑顔にするか俺は伺っていたんだ。あの鉄面皮を剥がせる人間がいたら対局を申し込むか、弟子入りするかどちらかに決めなければならないと考えていたからだ。

しかし果たしてどうした。俺は弟子入りの準備も始めていたというのに、一向に彼女を笑わせる人間は現れない。それどころか全て返り討ちに遭ったらしい。返り討ちとはこっぴどく振られるとかそんな生半可な話ではなくて、本当に返り討ちなのだ。その時彼女の頬は血を浴びたとか浴びないとか。どうやら親が武術道場の師範代らしく、警察庁にも護衛術を教えに行く程の腕らしい。もちろんその娘もかなりの腕前。やわな人間など一たまりもない。仕返しでもすれば親はもちろん、警察庁のお偉方ともお知り会いになれるという素晴しい特典付きとの噂。

 そんな数々の逸話を一年で築き上げた彼女だが、さすがに一人教室の隅でお弁当を食べる様子には心が痛んだ。だが善意の塊のような女子が一緒に食べようと誘っても、下心むき出しの男子(俺では無い)が二人っきりで食べようと誘っても、雪村は地獄の堕天使もこれ程かという冷たい視線でそれらを追い返す。全く末恐ろしい女だ。心を痛めた俺が間違っていたかと思った。だからやがてクラスの誰も彼女と関わらなくなる。会話は必要最低限、連絡網で彼女の前に名前が書かれた人物だけがきっと彼女に電話をするのだろう。だから皆はきっと彼女が好んで一人でいると感じているだろう。もちろんそうであるに違いない。俺だってそう思う。けどな、彼女はもっともっと輝ける逸材だ。他校の生徒をも圧倒して広く活躍できるポテンシャルの持ち主だ。それがどうして暗い高校時代を送らなきゃいけないんだ。あんな美人が仏頂面で一人黙々と弁当なんか食ってみろ。気になって気になって仕方が無い。一度でもいい、笑えば変わるかも知れない世界を目の前にして、何故あのスタンスなのだ。

 という訳で、俺は彼女を笑わせてみせることにした。俺の持っているエミール・ガレ作の壺並みに、美しく価値の高い笑いツボだからこそ、その辺の輩とは一味も二味も違う可笑しさが生まれるんだ。俺が笑わせてみせる。伝説を作ってやる。俺の経歴のトップに書き込む項目だ。しかもお誂えに同じクラスときた。運命は俺を選び出したり。

 もう既に何度か試みてはいたのだ。前へ出て数学の問題を解く時には、答えが分からなかったので「紀元前」とか書いてみたり(実際の答えは三だった)、わざとプリントを落として斜め後ろの席の彼女に拾ってもらうように仕向け、そこに『アルプスの少女は意地』という物語を書いて見せたりした。結果としては斜め後ろから舌打ちが聞えてきたくらいだ。なぜ舌打ちだったのだろう。

 そんなこんなで、俺は考えた。お互いガレの花瓶だったとしてもだ、彼女と俺のでは形が違うし、水が入る量も違う。もしかしたら彼女はランプシェードかもしれない。そうなるとまずツボの形態を見極める必要が生じる。なるべく多く彼女に関する情報を集めるのだ。となると俺が近づけて話を出来る相手といえば一人しかいない。


 放課後伊豆知ちゃんが友人と別れて一人家路につくのをストーキングした。我ながら他の人には見られたくはない。ここはドラマかアニメのように偶然を装うのが自然だが、俺は敢えてインパクトを決め込むことにした。先ほど八百屋で購入したバナナの中身を豪快に平らげると、残った皮を持って走りだす。伊豆知ちゃんの近くにきたらそれを空高く放り投げる。彼女の頭上を越えて行ったところに、俺、急いで走って滑り込む。さあ、お決まりのバナナで転倒シチュエーション!

 ・・・と思いきや、皮は十センチ程ヌルリとしただけで俺は敢え無くバランスを崩す事も無くその場を通り過ぎた。いかん。これでは転んだところで上手いこと声を掛けてもらう作戦が台無しだ。出直さなければ!

 諦めた瞬間、後ろから声がした。

「ねえ、春日井君でしょ。何してるの? ゴミ持って帰んなよ」

 俺は振り向いて特上の笑顔を向ける。根暗な子にはこれが一番だ。

「何してるのよ。私、原由子のモノマネなんてしないわよ」

 警戒するように彼女は言う。伊豆知ちゃんとは中学から一緒で、よくモノマネをせがんだものだ。

「いや、それなら矢野顕子でもいいんだ。君のアニメソング・・・少女声は最高だ」

「しないって。それよりバナナの皮拾いなよ」

 流石、中学三年間も一緒だと俺に慣れきってしまっている。やはりこの子は侮れない。俺は言われた通りにバナナの皮を拾った。

「伊豆知ちゃん、今日は君に聞きたいことがあってね。時間いいかな」

「それなら始めからそう言えばいいじゃない。なんなの」

「雪村華乃さんのことなんだけど」

 すると彼女はにやりと表情を変えた。伊豆知ちゃんは見た目根暗で性格もパッとしないが、無表情な子ではない。

「春日井君、同じクラスになって気になったの? でも彼女は無理よ」

 俺は手を伸ばし彼女の顔の前にパーを出してセリフを止める。

「おっと、そんなありきたりの話じゃないんだ。無理なのはどっこい承知の上。聞きたいのは何故無理なのか、って事さ。君は去年クラスが一緒で仲が良かっただろう? 何か聞いてないか。あんな風に人を寄せ付けなくなった理由とかさ」

 伊豆知ちゃんはもったいぶったように視線を投げかける。そんな事されても俺には一昨年ディズニーランドで見たクマのプーさんの仲間にしか見えない。あの馬のやつ。

「そんなの知らないわ。私達はお互い共通項があったから一緒にいたのよ。彼女と私は同じなの。他の人には理解されないわ」

 美女と馬だから乗る人と乗られる人でそれこそウマがあったのか、と言うのは置いておいて俺は聞く。

「その共通項ってのを教えてくれないか? どんなものなのか」

「さあね。言葉にして説明がつくものならば私も華乃もきっともっと明るく世の中を生きていたでしょうね」

 俺だって暗い馬より明るい馬がいい。バナナの皮でも喜ぶようなやつ。

「もっと詳しく話を聞きたいんだが」

「言ったでしょ、言葉にできないからこそ私達は解りあったのよ」

 馬の耳に念仏の気分になってきた。いや、この場合馬の面が念仏唱えてるようなもんか。仕方が無い。今日の所は諦めよう。大体この伊豆知ちゃんと言う奴は根暗なくせに自己主張が強いんだ。扱いづらいったらありゃしない。それでも雪村華乃よりは笑うからまだマシか。まあ、このタイプはちょっと自尊心を刺激してやればすぐにペラペラ喋るだろう。

「そうか。俺なんかが理解できる精神性じゃぁないんだな。伊豆知ちゃんは感性のレベルが高いんだろうな」

 すると案の定彼女は勝ち誇ったように笑う。だがその笑いの中には俺を認めるサインがあるのを逃さなかった。

「そんな風に思われていたなんて。別に特別な事なんてなんにも無いのに」

「いやいや、君達二人は見ていていつもミステリアスだった。アカデミックでそれでいてどこかアンニュイな雰囲気には、世の中に対する深い洞察力と鋭い観察眼が備わっていると感じていたんだ。頭の良い証拠だよ」

 根暗の証拠だよ、と言いそうになって危うく言葉を言い換えた。

「私だってあなたは他の人と少し違うと感じていたわ。人を笑わせようとするのは寂しいからでしょう? それで人を明るくさせる事でそれを満たそうとしているんだわ」

「そう、君にはわかるんだね」

 殆ど笑いそうになってしまって、悩んだ振りをしながら口に手を当てて笑い声を飲み込んだ。何を言っているんだ、この馬は。仮にそういう人間がいたとしてもだ、俺とは全く相容れないだろう。そもそも俺は人を明るくさせようとか、それで人気を得て寂しさ紛らわそうとか、そんな陳腐な考えはない。俺にとって笑いはそこにあるものだ。アルピニストが「そこに山があるから」と答えたのと一緒だ。そこに笑う人間がいるからだ。言って見れば雪村華乃は世界最高峰だ。エベレストを制覇するのはアルピニストの夢だ、希望だ、生きる喜びだ。

「わかるわよそれくらい。でもいつか気がつくわ、本当の友達はそんな風にあなたが頑張らなくても側にいてくれる筈よ。そんな人に出会えればきっとあなたも無理して人を笑わせようとおかしな事をする必要もなくなるわ」

 こみ上げた笑いを咳払いでごまかす。ここで雰囲気を壊したら折角のアプローチが無駄になる。

「そんな風に理解してくれたのは君が初めてかもね。いや俺はさ、クラスで一人ぼっちの雪村さんを見るに忍びなくなってね。でも俺は君のように精神性も深くなければ思慮にも欠ける。ちっとも相手にされないんだ。でも伊豆知ちゃんは仲良くなれた。その違いは何なのかってね」

「ねえ、華乃の事好きなの?」

「そうかも知れないな」

 がっつり思い詰めた表情を作って言ってやった。あんまりやりすぎて芝居がばれるのではないかと心配になったが、お馬さんは哀れそうな表情を作って俺を見てやがる。

「そうなのね・・・。でも華乃は無理だと思うわ」

「それはどうして?」

「深いのよ、考えることが一つ一つ。時折私でも彼女の本心が分からなくなる。本音で会話してるようで、その実は私に大事なこと伝えてないんじゃないかって、よく思ったわ。私なら理解してあげられると言っているのに、あの子ちっともちゃんと話してくれないの。私でさえそうなんだから、男の子なんかに華乃の事きちんと理解できるとは思えない」

 つまり要約するとだな、『あいつ何言ってんのかわかんねぇ』って事だ。それを訳がわからん表現にわざわざ置き換えた挙句、自分の理解力が無いと言う可能性に全く行き着かないとは。本当の友人だったらそこは『自分が役者不足で申し訳なかった』ぐらい言ってみろ。降板寸前だ。そんでもって他の人間にはわからないだと? そういう偏った見方が相手を駄目にするんだ、という説教は言わずに俺は役者を続ける。

「なるほどな。それは手ごわい。伊豆知ちゃんでも難しかった事が俺に簡単にできるとは思えんな」

 憂鬱そうな表情はショージを見て研究した。あいつは自分のツラに似合わないくせによく鬱陶しい顔をしてるんだ。あの眼鏡下薄笑いゲンゴロウ。

「でも、華乃を嫌わないでね」

 大丈夫、断然君の方が嫌いだ。

「あたしがまた同じクラスになれればよかったのだけれど」

 そう言って斜め下に視線を落としながらため息をつく彼女に俺は言った。

「前から思っていたけどさ、伊豆知ちゃんは本当に優しいんだね。君のそんなところ少しでも見習うよ。それで少しでも雪村さんの力になれればと思う」

 言って俺はくるりと踵を返すと全速力で一目散に駆け出した。なるべく早く、なるべく遠く伊豆知ちゃんから離れたかった。理由は言うまでもなく零コンマ一秒でも早く大声出してゲラゲラ笑いたかったからだ。


    : )


「という事で、雪村華乃は単純に付き合いづらいだけだという回答しか得られなかった。全く役にたたん」

「何が役にたたんだよ。後つけられていきなり目の前でバナナの皮放り投げられる方の気持ちにもなってみろよ」

 昼休みの屋上で俺とショージはフェンス際のコンクリートに座って、目の前に繰り広げられるスカートの丈短い選手権の審査をしていた。

「やっぱ三年のゴボウ先輩かな」

「何の話だ」

「スカートの丈短い選手権だ。お前も審査員だろうが」

「は?」

ゴボウ先輩は三年生の中でも屈指のひょろひょろ体型だ。俺には脚がゴボウにしか見えない。でも細くてモデル体型だと周りが囃し立てるもんだからどんどんスカートが短くなっていく。

「俺はあんなゴボウ体型よりマリリンの方がいい。あんなガリガリの脚見てても何も楽しくもない。マリリンはいないのか、マリリンは」

「マンソンか?」

「モンローだよ。なあ、全人類を半分に分けてだぞ、よく笑う人間とそんなに笑わない人間に大別した場合、ショージも間違いなく笑わない部類じゃないか。そういう人間は何を考えて生きているんだ?」

「お前はいつも何が可笑しいんだろうと思いながら生きてる」

「なんだよ、そんなことなら教えてやるよ。例えば化学の下柳、あいつの白髪頭が俺は石綿金網に見えて仕方がないんだ。そう考えたら可笑しくて可笑しくて。実験で本人が石綿金網取り出したときなんて頭と石綿金網が並んじゃって、『先生、アンタの髪から作ったんですか?』ってよっぽど聞きたかったぜ。その時の俺の顔っていったら笑いをこらえるもんだから変に赤くなって具合悪いのか聞かれて、余計・・・」

「わかった、わかった。俺が悪かった。お前が可笑しい理由なんてやっぱ興味なかった」

 ショージは話を遮りながら言った。

「なんだよ。自分から振っておいて。でもま、これで雪村華乃が笑わない理由の一端が浮かび上がった。唯一の友人にさえも心を開いていない。開いていないどころか多分あの様子だと本気で伊豆知ちゃんの事相手にしてなかっただろうな。とするとだ、単純にただの人間嫌いという説だ。『人間嫌い』のモリエールは森に入った」

「モリエールは森へ入ってない。名前に森を掛けたんだろうがつまらんぞ。隠遁したならサリンジャーの間違いだろ」

「では何故、伊豆知ちゃんなんかと仲良くなったのか。そもそも人間嫌いならば学校にさえ来なければいい。それでこの人間嫌い説は説得力を欠くんだ」

「根暗者同士仲良くなれたから学校も来てたんだろう」

「ノンノン、ショージ君。雪村華乃、あれは根暗じゃないぞ。伊豆知ちゃんの根暗オーラはオーロラとして観測が可能の域だ。しかし雪村は美しい。マイナスのオーラが感じられない。これがどういう事かわかるか?」

「知るか。考えた事もない」

「あーあー、エビフライ捜査官、そんなんじゃプロファイリングもできないよ、就職試験落っこちちゃうよ。犯人が演技してたら絶対見抜けないぜ」

「だからやらないって」

「いいか、人間の顔はな、常日頃の表情で明るくなるか暗くなるか決まるんだ。どんなに心の奥底にドロドロした暗い塊を抱え込んでいても、普段笑顔でいられる奴は印象がそんなに暗くない。逆に笑わない人間はどんなに顔の造りが良くたってそれなりなんだ。輝くような印象も人を惹き付ける魅力も無い。しかし雪村はどうだ。あんなに愛想も素っ気もない割にはいつだって目立っている。何故か彼女の存在感は気になる。それは皆の中心で明るく振舞っている人間が持っている華だ。全く俺のようにな」

 ショージはため息をついたと思ったが気のせいだろう。

「だから昔は違ったんじゃないだろうか。そこで今度は彼女と中学が一緒だった本多ちゃんに話を聞いてみようと思うんだ。俺、去年までは本多ちゃんと一緒のクラスだったけど、今年から隣同士の離れ離れだ。寂しいもんだ」

「お前、割と仲良かったもんな」

「そうなんだよ。雪村華乃を笑わせるためには俺はもっと本多ちゃんと仲良くならなきゃ」

「ふうん」

 ぶっちゃけ俺は本多ちゃんこと、本多奈々江が好きだ。それは青春の甘酸っぱいミルク、いや、ただの甘酸っぱいミルクだとそれは腐った味になるから、そう、イチゴミルクのような、そんな感じ。ただ一緒にいるとほっとするというか、安心するというか。彼女は俺が笑わせるつもりがなく普通に喋っていても、なぜかコロコロとよく笑ってくれるのだ。そんな子は初めてだった。笑わせようとして笑ってくれる奴は沢山いた。けれど、普段の何気ない会話を心から楽しんでくれるのは彼女だけなのだ。そんな俺の気持ちをショージは知ってか知らずか相変わらず興味なさそうにしている。

「俺の知る限りでは今の所雪村と同じ中学だったのは本多ちゃんしかいない。本多ちゃんだったら俺に何でも素直に話してくれるに違いない。そうと決まれば善は急げだ」

 俺は立ち上がると尻についた埃を払った。正直、本多ちゃんとの接点が出来たのが嬉しくなって心がウキウキする。ウッキッキー。

「もう行くのか?」

 ショージが顔を上げて聞いてくる。

「おうよ。二年三組に御機嫌伺いだ」

 言うとショージものさくさと立ち上がる。ミニスカート選手権の審査員は降りて、屋上も降りる。扉を開けて階段に差し掛かる。目下に伸びる廊下では下級生が更なるミニスカート選手権を開催している。マンソンはいないのか、マンソン。いや、モンロー。

「今日の放課後は図書館か?」

 俺は秀才ショージ様に聞く。

「いや、今日は生徒会執行部のミーティングがあるから」

「けっ。お前が生徒会役員に選ばれるなんて似非(えせ)民主主義の縮図もいいとこだ。こんなところから既に間違った政権選択習慣がついちまうんだよ。大体書記ってなんだよ、書記って。昔の共産主義圏だったらお前がナンバーワンだぞ」

「今でも書記長いる国あるけど。別に何も特別なことはしないよ。ミーティングの議事録作成したり、書類やプリント作ったり整理したり」

「俺でもできそうだな」

「お前の授業のノート、先生のへたくそな似顔絵と四コマ漫画しか書いてないだろうが」

「それ以上に大事なことがあれば書き留めてあるさ」

「はいはい」

 廊下の分岐点まで来ると俺は三組の教室へ向かった。ショージはそのまま自分のクラスである七組に戻って行った。

 三組の前まで来て、俺は開けっ放しの扉から中を伺った。本多ちゃんは教室の片隅で友人の女の子二人とおしゃべりをしている。仏頂面の雪村や伊豆知ちゃんばかりを気にしていた俺にしてみれば、本多ちゃんの素直な笑顔は天使のようだ。特別美人というわけではないが、垂れ目で笑うと八重歯が口元から覗くなんて鼻血ものだ。コアラとかレッサーパンダとかそういう動物を髣髴とさせる可愛らしさ。今本多ちゃんの隣りにいる子は知っている。一人は去年同じクラスだった子で、通称野口。言うまでも無く顔が英世に似ているから。もう一人は接点は無いが愛読書が武者小路実篤という女子だ。数ある作家の中で、うら若い乙女がわざわざそんな名前の長い作家を選ばなくても良さそうなのに。渋すぎる。その武者小路実篤が俺に気づいた。視線を追うように二人も俺を見る。本多ちゃんがニコリと笑う。つられて俺も笑う。きっと最高にさわやかでカッコいい笑顔を見せたに違いない。本多ちゃんのほうから俺に話しかけてくれた。

「春日井君、そんなところで何してるの? 誰か探しているの?」

 クラス替え以来できなかった彼女との会話を俺は感動を持って噛みしめる。明るく可憐な声は俺にやる気を与えてくれる。

「うん、もう見つかった」

「え、そうなの? 誰?」

「本多ちゃん」

「え? あたし?」

 本多ちゃんは少し戸惑ったように自分の顔を指差しながら言った。心なしか頬を赤らめた気がするのは俺の希望的観測だろうか。

「ちょっといいかな?」

 俺は彼女に手招きをする。本多ちゃんは立ち上がって二人の女子に許しをもらっている風だった。彼女らはこちらに歩いてくる本多ちゃんの背中に向かってヒューヒューと声をだしていたが、二人とも喘息でも持っているのか。

「どうしたの、急に」

「出逢いとはいつも急なもんだ」

 すると彼女はクスリと笑う。微かに上がる口角がまたたまらない。

「相変わらずね、春日井君」

「君も変わってなくてよかったよ。クラスが離れてから性格が激変してたらどうしようかと気が気じゃなくて夜も眠れなかったよ。毎日たっぷり三分程」

 今度はニコリとチャームポイントの八重歯を見せて笑ってくれた。俺は当初の目的を忘れてもうこれで十分だと錯覚した。いけないいけない、俺には雪村チョモランマ華乃を攻略するミッションがあるんだ。こんなところで現を抜かしていては遅れを取る。

「あの、折り入って聞きたい事があるんだけど、今日の放課後とか時間ある?」

「今日? そんなに時間かからなければ大丈夫だと思うわ」

「あー、ほんの十分程度でいいんだ。どうしても協力をお願いしたい事象があってね。話だけでも聞いて欲しい」

「いいわよ」

 本多ちゃんは快諾してくれた。この辺りの俺達のテンポの良さは相性というものなのだろう。今俺はモーレツに感激している。これもチョモランマ華乃様のお陰だ。どんなに手ごわくても、本多ちゃんというご褒美があれば俺は世界一の海賊王にもなれる。とは言ってもソマリア海域辺りにリアルに出没するわけではない。あくまで例えだ。

「よし、じゃあ学校終わったら駅前のマクドナルドで」

「わかったわ」

 彼女が野口と実篤の元へ戻ってゆく後姿を見送りながら、俺は満足した気持ちになる。本当に自分にとって素晴しき善き人とは、やる気と元気をくれる人間に違いない。少なくとも俺はそんな人とお付き合いをしたい。

 さて、そうなると断然午後の授業がかったるい。しかし雪村華乃の様子もここで観察せねば、せっかくの本多ちゃんの好意も無駄にしかねない。ここは雪村の態度や言動をチェックしておく必要があるだろう。

 俺は五時間目の古典にとりあえずは出席することにした。その後も俺の得意とする語学系、現代文のお出ましだ。嫌いな授業でなかったのは救いだ。これで何とか放課後まで我慢できるであろう。斜め後ろに座る雪村は、相変わらず凍てついた鉄面皮を冷たい宇宙空間に三億年もの間さらして出来上がったような顔で机に座っている。そんなに学校が気に入らないならフリースクールでも通えばと思うし、これだけ美人でスタイル抜群なら芸能人にでもなって、授業免除の学校でも通えばいいのにとも思う。頭いいんだし、中退して大卒検定受けてエリート大学でも奨学金で行けばいいだろう。全く理解不能だ。

 教室に入ってきたのは古典の先生、通称エロ坊主。家がお寺で坊さんの資格も持っている先生だ。彼はやたらと昔の情事を嬉々として説明してくださるお方である。光源氏物語などの色っぽい場面は教科書に載っていない箇所をむしろ重点的に教えてくれる。お陰様で日本が誇る大長編古典はすっかりポルノと化してしまった。一説ではそもそもポルノだったと言われているけれど、高校生には高校生なりの教わられ方がある。そんなエロ坊主だが彼はひょうきんで結構生徒には好かれている。俺にとってはライバルのような存在だ。雪村華乃はというと、エロ坊主相手でもこれまた一向に笑う気配はない。だがエロ坊主はそんなのお構い無しにお得意の古典情事を語りだす。もちろんそこは教育者であるから直接的な表現もなく、当時の風俗や生活はどうだったから、結婚生活はこうという程度のものだが、坊主頭でニヤニヤしながら語られると男として賛同しない訳にはいかない。すると教室の端の方で、学年一卑猥だと専らの評判の()(わい)()君(俺が付けたあだ名)が手を挙げて発言する。

「先生、当時は電気が無かったので夜は蝋燭で生活していたと思いますが、やっぱり勿体無いから行為の最中も消すのでしょうか。それとも昔の人も明るい方が好きな人もいたのでしょうか」

 何を聞くんだ、何を。男子生徒の中には卑歪田君の発言を心待ちにしている者もいるので、教室は笑いに包まれる。女子も下を向きながらクスクスと笑っている。しかし俺の斜め後ろからはクスクスどころか凍て付いた刺すような空気がひんやりと流れてくる。氷系の最強魔法を喰らった気分だ。雪村という苗字は伊達じゃない。

「うーん、そうだなぁ。蝋燭は当時貴重な品だったから無駄遣いはしなかったんじゃないだろうか。だが今だってエネルギーや資源は無尽蔵にあるわけじゃないからな。夜は電気を消して正解だ」

 エロ坊主、真面目に答える上に答えになってない。ニヤっと笑った顔が坊主頭にエロさ加減を助長する。俺達の学年は実力テストで古典の成績が芳しくない。だが特定の範囲が出題されると一気に巻き返す。もちろんエロ坊主がそのお話について丁寧に人物設定や昼ドラ並みの人間模様を細やかに教えてくださったお陰だ。俺は古文はさほど頑張らなくても点数が取れるからいいものの、大学入試はどの学校でも全て光源氏が藤壺と絡むシーンを出題してくれればと思う。そうすれば俺達の学校の生徒はダントツで高得点をたたき出してエロ坊主も面目躍如。

 そんな事を考えながらも、斜め後ろからチョモランマ山頂の氷点下を喰らわせられる俺。放課後のお楽しみがなければ心が折れそうだ。何ゆえにクラス全員が笑っているなかで一人むっつりを決め込まねばならないのだ、雪村もただのむっつりスケベだったらいいのに。

 次の現代文の授業は真面目なメガネの公務員万歳みたいな先生だから、不用意に笑いを取ったりはしない。俺も安心して受けられる。しかし今時アームカバーをファッショナブルに着こなして黒縁眼鏡に七三分けとは。高度成長期の代名詞みたいだ。職員室の机も一人だけガタガタいうらしいのはそれが関係しているんだろう。しかしたまにこの公務員万歳はどうでもいいドジをやらかす。今日も終わり際に何を言うかと思えばだ。ご自慢のアームカバーをじっと見つめて一言。

「これ畑用だなぁ」

 どっちでもいい。俺は思わず天井を仰いだ。今言わなくていい。しかしそこへ、突っ込みが大好きなクラスメイト、()古箕田(こみだ)君(俺が勝手に呼んでいるだけ)は手を挙げて生き生きと先生に向かって言う。

「畑で何を栽培しているんですか」

「今の季節は夏野菜を育てている最中だな。ナス、トマト、ピーマン」

 公務員万歳は世田谷区に畑を持っている相当な土地所有者である。昔から先祖は地主だったようで、畑は先々代から伝わる優雅な趣味だそうな。クラスからはそんなやりとりを聞いてクスクス笑いが漏れる。それに混じって斜め後ろからは鞄にペンケースやらなんやらを仕舞い込む音が聞える。雪女さんは授業終わりのチャイムと共に学校を出るつもりのようだ。

 案の定キンコンカンコンの音に混じって椅子を引いて立ち上がる音が聞えた。横目で教室をスタスタ歩く雪村華乃の姿を確認する。こうしてみているだけならば本当に美人なんだ、本当に。勿体無い。

 お待ちかねの放課後。俺は全力でマクドナルドへ向かった。紳士たるもの一秒でもマドモアゼルを待たせてはいけない。少し遅れて店にやってきた彼女が、座ると同時に店員がコーヒーを持ってくるくらいのお膳立てをしなければ。しかしそこはアメリカナイズドマクドナルド。店員が持ってくるのは作り置きがなかったポテトかハンバーガーくらいだ。しょうがなくレジに並んでいると、本多ちゃんがやってきて俺に声を掛ける。

「春日井君、時間丁度良かったね」

 俺様としたことが、マドモアゼルをレジに並ばせるという愚を冒してしまった。本当は入り口が見えるエリアを陣取って彼女が入ってきたらすっとお出迎えに上がるものを。その後、コーヒーでいい? なんて聞きながらさり気なく肩なんてふれちゃったりして。ま、所詮マックの百円コーヒーだけどね。いつか君には、えーと、なんだっけ、あの高級コーヒー豆の名前。ドアラと紅茶・・・だっけ? そんな名前のコーヒーを飲ませてあげよう。考えてふと向かいの高そうな喫茶店を見る。入り口の看板に〈最高級 トアラコ・トラジャ〉と書いてあった。そう、今俺が言いたかったのは多分それ。ドアラではないようだ。確かにドラゴンズファンでなければドアラと紅茶を飲んでも楽しくはないだろう。いや、ドアラが好きならいいのか? 

「本多ちゃんドアラは好き?」

「は?」

 言うに事欠いて正面に座って一番最初に出てきたセリフがそれだ。そもそもトアラコ・トラジャであってドアラは別にもうどうでもいい。さらに言えば彼女が注文したのはオレンジジュースで、会計は俺が払おうとしたらあっさり断られる始末。だがな、俺は彼女と時間を取って話すのは久しぶり、しかも正面対談とくれば軽く緊張して当然だ。そのくらい舌がトチってもきっと心の広いドアラは許してくれる。

「ドアラ? うん、あれ可愛いよね」

 にっこり微笑んで予想外の答え。君の笑顔はドアラ以上だ。

「それがどうしたの?」

「あ、いや、その、ドアラのストラップが余っていて、いるかなと思って」

「ほんと? くれるの」

「もちろんだとも!」

 盛大に嘘をついた俺はこの後おそらく東京ドーム辺りまで青春をかけて走り抜くだろう。そして中日ドラゴンズのマスコットキャラクターをこれからは十二球団中ダントツで拝みます。

「改まってお話って、それ?」

 不思議そうに俺の顔を覗きこむ本多ちゃん。ドアラ様より国宝並みに可愛い。十二球団のキャラクターが束になっても適わない。

「いいや。そうじゃないんだ。実は雪村華乃の事なんだけど、俺今年から一緒のクラスになったじゃんか。本多ちゃんは雪村と同じ中学出身だろう? 彼女はどうしてあんなに仏頂面なんだと思ってさ。何か知らない?」

「春日井君、雪村さんの事気になるの?」

 ビクター犬の顔の角度で聞かれてしまっては、俺のハートは鷲掴みどころか猛禽類が一個大体で心臓に襲いかかってくる。救心、救心! ロープ、ロープ!

「いや、俺って昔からクラスで一人だけ浮いている人が気になってしょうがない性質なんだ。普段は笑わせてやろうと試みているうちに馴染んでくれるんだけど、今回ばかりは一筋縄ではいかないんだ。同じ中学だった本多ちゃんが何か解決の糸口を知らないかと思ってね」

 おれは猛禽類に食い散らかされたハートで力なく言った。本当は雪村氷女・ザ・エベレストなんかより、本多ちゃんが大好きだと言ってしまいたい。

「そうなんだね。春日井君、去年も私のことそうやって励ましてくれたもんね」

「え。俺が?」

 女神の意外な言葉に鳩が豆鉄砲食らう。間抜け面選手権予選通過確実な顔をしていたと思う。

「そう。私中学から一緒の子って雪村さんしかいなかったから、正直高校で友達作れるか不安だったの。そんな時にモジモジしていた私を笑わせてくれたのが春日井君だった。授業中に変な事言ったり、意味不明の回覧廻したり」

俺にとっては意味不明では無くきちんと意味のある笑いの回覧だったのだが、本多ちゃんが言うからにはそうなのだろう。

「いつも春日井君の周りは笑いが絶えなくて、私も気がついたら自然とそこに馴染ませてもらっていた。春日井君の近くで笑っていると、集まってくる女の子達と自然に打ち解けていたの。だから本当に感謝しているの」

地球は青かったと仰ったガガーリン少佐、青春も青かったよ。俺はもうそのセリフだけでマッターホルンの雪も溶かしてみせるよ。宇宙からその山は見えますか?

「だから今回も協力できるなら、それはしたいと思う。でも・・・」

 急に本多ちゃんの声のトーンが下がる。ふにゃっという感じでそれも可愛いのだけれど。

「でもね、雪村さんはそういうタイプじゃないの。何ていうか、皆の輪の中で笑うタイプじゃないわ」

「本多ちゃんは中学校一緒だったんでしょ? どこかで笑った顔見たこと無いの?」

「うん、学校では」

「学校では?」

「そうなの。彼女何があったのかわからないけれど、どうやら小学校高学年から滅多に笑わなくなって、中学入る頃には鉄仮面舞踏会と呼ばれていたわ」

「鉄仮面舞踏会!」

 そのあだ名の発想はなかった。俺は一年間知らなかった事を後悔した。

「ただ、ひとつ可能性としてあるのは、彼女のおうち、両親が仲悪かったみたいで中学入る前には一度離婚騒動まで発展したみたいなの。お母様も体が弱いみたいで看病も大変だったみたい。そのせいでだんだん暗くなっていったんじゃないかって。本人に確認したわけじゃないんだけど、みんなそう言っていたわ」

「なるほどね。それはすごい有益な情報だよ、本多ちゃん」

 俺は雪村の内面を垣間見た気がした。そんな境遇の人間は世の中には沢山いる。けれども雪村の心情は雪村にしかわからない。彼女の家でどんな事があって、どんな傷を負ってどのようにして明るさを失っていったのか。

「でもね、私は彼女が中学に入ってから笑っている顔を見たことがあるのよ」

「え?」

 それはちょっと意外な話だ。

「本多ちゃん、それはいつ、どこで?」

 彼女は俺の目の前で可愛くストローでオレンジジュースを飲む。

「私の通学路の帰り道が丁度、雪村さんの暮らす団地の横を通っていたの。私は自転車で毎日通っていたんだけど、時折彼女が母親と一緒に買い物から帰ってきた場面に遭遇したのよ。向こうは私に気付かなかったみたいだけど、私は何度か見たのよ。彼女、母親の前では満面の笑顔で笑ってた。無表情でも相当な美人だけど、笑うと本当に華が周りを埋め尽くすみたいに綺麗なの。私自分が女であることも忘れて彼女が建物の中に入るまで見とれてしまった」

「へぇー・・・」

 なるほど、少なくとも家庭では笑ったことがあるようだ。学校ではパッとしないけれど、家庭では明るく振舞うタイプなのだろうか。まあ、それ位なら可愛いもんだが、中にはしょうもない内弁慶になるやつもいる。外では大人しくて家庭で爆発するタイプ。

「じゃあさ、本多ちゃん、今でも雪村の家の場所わかるよね?」

「ええ。引越ししてなければ。まさか春日井君、彼女の家まで行くつもり?」

「そのまさかだよ。あ、安心してよ。本多ちゃんから聞いたって絶対言わないし、こっそり見張ってその現場を一度でも見れたらもう二度と雪村の家には行かない。約束する」

 このご時勢で呼ばれてもいない相手の家まで行くのは危ないヤツと思われるだろうが、これはストーキングなどではない。立派なディテクティブ・アクションだ、探偵行為だ。崩れない牙城を崩すためには緻密な計算に基づく作戦が必要だ。もし母親の前で笑うのであれば、このプロジェクトは成功へさほど時間を要さないだろう。物理的に笑い顔が可能であるならば、俺の類稀なる笑いのセンスをひたすら爆発させれば良いのだだから。懸念していたのは笑うための表情筋が衰えていたらどうしようと言う事だった。表情筋を鍛えるところから始めねばならないので、ビリーズ・ブートキャンプ顔の筋肉編あるかわからないが必要になる。ビリー隊長の出番が無くなっただけでも安堵だ。俺がそんな事をぼんやり考えていると、本多ちゃんから思いもかけない提案を受ける。

「ねえ、それ私も一緒に行っていい?」

「は?」

 俺は手元が狂ってポテトを一個床に落としてしまった。

「だって私が一緒の方が怪しまれないと思うの。もしもの時だって言い訳ができるわ」

「どんな?」

「新居を探してるとか」

「しんきょ? 誰の? 本多ちゃんの?」

 そんなシチュエーションなら、間違いなく俺達二人の新居になってしまう。それでいいのか、青春から墓場までを俺に預けてくれるのか。

「例えばの話よ。一人でうろつくよりリスクは少ないわ」

「そうかなあ・・・」

 俺にとっては願っても無い話だ。なんつったって雪村鉄仮面舞踏会が笑うまでは何かと理由をつけて本多ちゃんと一緒にいられるのだ。いっそのこと頑張る振りをして雪村笑かすのやめようか。

「本当はね、私も気になっていたの。私達の彼女へ対する接し方が悪かったのかな、って。ほら、そんなつもり無くてもやっぱり女の子って、綺麗な子に嫉妬しちゃうじゃない。だから知らないうちに傷つけちゃった事、あったかもしれない」

「ええ、本多ちゃんに限ってそんなのないでしょう」

 おれは本心からそう言った。彼女の場合素直すぎて嫉妬したところで余計可愛くなるだけだ。これは俺のただの欲目か。

「ううん、そんなの分からないわ。私、もっと見てみたい、雪村さんの笑顔。忘れられないんだ、彼女の笑顔」

「そっか」

「ねえ、私は春日井君がいてくれて救われたと思っているの。でも雪村さんは中学の頃からずっとあのままで・・・」

「イジメはあったの?」

「それなりに。ほら、彼女格闘技やっていて強いから、直接どうのする人はいなかったけど、犯人が誰か分からない嫌がらせは沢山受けてた。鞄に虫やネズミの死骸が入っていたり、水泳の時間中に体操着も制服もボロボロにされて、彼女学校に置いてあった予備の体操着で帰ってた。おうちが裕福じゃなかったから、その後しばらくその体操着のまま登校してたわ。それから椅子の脚を折れやすくして・・・」

「わかったよ、もういい」

 俺は手をひらひらさせて話を遮った。そんなドリフみたいなシチュエーションでは笑うどころか暗くなっていって当然だ。俺のように明るく人を笑わそうとしている人間からしてみれば反吐がでそうなしみったれの所業だ。そればかりはチョモランマ万年雪女鉄仮面舞踏会雪村様に同情する。

「でも、まあ家まで尾行するしないは置いておいても、君が協力してくれるなら俺は大歓迎だ。今の話を聞いてもやっぱり俺は雪村に笑顔を取り戻してやりたいと思う。この学園で、最高のシチュエーションでな」

 すると本多ちゃんの顔がぱあーっと明るくなる。俺からしてみれば雪村よりもこっちの方が断然好きだ。いつまでも見ていたい。ニヤニヤ。

「やっぱり春日井君はそうでなくちゃ。私応援するから!」

 言われて俺は人生最高の気分を味わっていた。その後ドアラのストラップの件を思い出さなければ。


    : )


「だからなんで先に他のクラスで友達作ってんだよ。お前まだ自分のクラスで友達できてないだろ」

 昼休みに呼び出したショージ様は、またもや不機嫌そのもの。なんでもクラスの友達に休み時間サッカーに誘われたが、俺のほうが先約だったからそっちを断ったらしい。そんなの当たり前だろう。それでなんでふてくされてんだ。

「本多ちゃんは友達なんて括りじゃないもんね」

「だいたいそんなくだらない用事で呼ぶなよ。お前の報告聞いたところで俺は何のメリットもないぞ」

「まあ、そう言うなよ。これから生徒会に所属しておられるショージ様のお力添えが益々ふんだんに必要なのだ」

「俺は知らんぞ」

「ショージだって見てみたくないのか? 学校一番の美女のとびきりの笑顔だぞ。どんなもんか拝みたくないのか?」

「笑い顔見たところでテストの点とれるわけじゃないだろう。もし笑い顔見たくらいで最難関の大学受かるなら笑顔でも江川でもみてやるよ」

「お前のギャグセンス相変わらずだな。江川は卓か? ドラフト会議にかけてやろうか」

「うるさい。お前のセンスなんか会議にもかからんくせに」

「言ったな。ようし、これから俺が雪村華乃を笑わせたら、ショジー・ベップ君は」

「ジョニー・デップみたいに言うなよ」

「そんないいもんじゃない。ショジー・ベップ君は俺の笑いのセンスを認め、後世に語り継ぐ事。そうだな、フィッツジェラルドの〝ザ・グレート・ギャッツビー″の形式を取って、お前が語り手になるんだ。『僕がまだ笑いのなんたるかも知らず、自分勝手に独りよがりな心の傷を負いやすかった頃、友人がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。誰かのことを笑わせたくなった時にはこう考えるようにするんだ、と彼は言った。世間のすべての人が、君のように恵まれない笑いのセンスを与えられているわけじゃないんだ、だからお前は別に無理して笑いを取りにいかなくてもいい』」

「ひとつもわからん」

 本当にコイツのユーモアセンスは皆無だ。笑顔で江川なんて言って最難関の大学受かろうものなら俺は日本の教育に見切りをつけねばならん。それか文部省に乗り込んで、必須科目に〈笑い〉を取り入れる。

ショジー・ベップとの会話のかみ合わなさに嫌気がさして、俺はぼんやりと辺りを見渡した。どうやら本日はスカート選手権は無いようだ。マリリン・モンローどころか、いるのはジュラ紀の生き残りばかり。

「ショジー・ベップ、俺は長期戦で行こうと思う。始めは短期決戦で行く予定だったが、雪村の心の中は思った以上に深そうだ。そういう人間をインスタントでどうこうしようとするのは間違いだ。長く時間をかけてじっくり心のもつれを解いていかないと、どんどん閉ざしてしまう。天邪鬼な人間ほど、何をしろ、あれをしろと言われると、それとは違う方向に行ってしまうものさ。知らずのうちに相手の退路を断って、道をいくつか示しその中から正しいものを自分の意志で決めさせるのが一番なんだ。しかし重要なのは、道はもともと一つしか選べないような内容にしておく必要がある。しかも相手にそれとはわからないように。これが一番難しい。綿密な計画のもと、慎重に行わねばそれまでやってきた事が無駄になってしまう。だから・・・」

「わーかった。もういいから。どうせ本多と一緒に行動する期間を長くしたいだけだろう」

 ショジー・ベップ、図星すぎる。いや、違う。もっと俺は崇高な理由で動いているはず。

「そんな不純な動機あるか! 俺は雪村華乃を笑わせるよりも、協力してくれると言ってくれた本多ちゃんの為に万全を期すんだ。彼女の寂しい顔を見るのは、雪村を笑わせられないよりも辛い」

「やっぱり本多目当てじゃないか」

「いや、だからな」

「そういや、ちょっとした噂を耳にしたんだが」

「なんだよ」

 ショジー・ベップは珍しく神妙な顔になる。いつもの頓珍漢な憂い顔とは一味も二味も違う。

「その渦中の雪村なんだが、どうやら最近家に帰ってないらしいんだ」

「え、帰ってない?」

「ただの噂だ。でもここ最近家と反対方向へ自転車で向かっていく姿が目撃されている。それだけで家に帰っていないとは言いすぎだと俺は思うけど、噂ってどんどん尾ひれがつくからな」

「へーえ・・・。それでどこへ行っているかは誰も知らないんだ」

「まあ、雪村って、授業終わると真っ先に誰よりも早く帰るだろう。反対方向へ向かうというところまでしか目撃されていないようだ。今の所な」

「その程度で家に帰ってないなんて変な話もいい所だよな。それが飛躍したら行き着く先は『モンゴルでジンギス・カンになった』だぞ!」

「どんな行き着き方だよ。日本史上そんな噂立ったの義経ぐらいだろうが。まあ、雪村はバイトでもしているのかもな」

「モンゴルでか?」

「アホ。でもまあ、確かにお前の懸念も一理ある。雪村に嫉妬してる人間や、フラれてむしゃくしゃしている野郎なんかはおかしな噂流すだろうな。男と暮らしているとか、夜のバイトをしているとか、借金のかたに売られたとか」

「やっぱりお前の笑いのセンスはイマイチだ。この時代に身売りなんて誰も信じないだろう」

「笑いを取りにいったつもりは無い」

「ではではこの謎、ミッション攻略の第一歩として私が華麗に解いてみせましょう。少年探偵団、ここに設立!」

「広義で言えば確かにお前も少年だ。というより謎も何も、どうせお前尾行するだけしか考えてないだろう。それもやめとけって」

「なんだ、貴様俺の胸の内をどうやって見抜いた! さてはショジー・ベップ、やはり貴様はFBI捜査官の座を狙っているな?」

「本当にお前はアホだな」

「それも誘導尋問のうちだろう。そうはイカのエビフライ。今まで誰も尾行に成功してないんだろう?」

「してない、というかやってない」

「だからだ。俺は雪村の潔白を証明するぜ。それで少しでも俺を信頼してもらうように仕向けるんだ。少しは俺を認めて心を開くだろう」

「やめとけよ。少し間違えばお前が怪しいヤツになるぞ。仮にそれで潔白を証明したところで尾行しましたってバラすようなもんだろう。この間の伊豆知ちゃんみたいにうやむやにはならんと思うぞ」

 確かに雪村華乃の太陽の光さえ凍らすような視線をこれから一年間同じクラスで浴びるのは非常に避けたい。誰に言いふらされる訳でもないが、とにかく凍て付く視線は氷の刃だ。

「でもな、ショージ。ここまで来て何もしませんでしたでは俺の名が廃る。これから数々の伝説を築く俺がここで踏みとどまっていては宝の持ち腐れだ。なあに、もしもの時は雪村に全てを話して理解してもらうさ。そもそも俺の意図を知っていた方が何かと便利になるだろう。俺の一挙手一投足に注目するだろうからな。むしろやりやすいってもんだ」

「なるべく係わり合いにならないように無視するようになると思うぞ」

「ふん、ショージはそこで指くわえて見てればいいだろう。そのうち俺のやることに加担したくて加担したくてたまらなくなるだろうからさ」

「お前と一緒にいてそう思った事は全くないぜ」

「そうなった時はいつでも参謀として受け付けるぜ」

「聞いてないな」

「それも俺の長所。善は急げ。さっそくお前、俺にチャリンコ貸したくなってきただろう」

「ならん」

「〝串軒揚工(くしけんようこう)〟のばら肉揚げ一本でどうだ?」

「ロースカツ揚げ二本」

「背に腹は変えられんわけか。まあいいだろう」

 俺は午後の起動力となるショジー・ベップのチャリンコを手に入れた。


    : )


 さて、午後の授業を終えて早速雪村様尾行大作戦の開始だ。家の前で見張っているのとは違って尾行は単独が最も動きやすい。もしもの時を考えてバナナも近くのスーパーで買っておいた。今度こそ見事に皮で滑って転んでみせる。

 チャイムの「キンコンカンコン」の「キ」が鳴り出したゼロコンマ一秒後に雪村が席を立つ。俺は焦りながら焦っている風を装わず、若干今日は急いでいるのよ~、的な雰囲気をかもし出しながらゆっくり急いで席を立つ。おっと忘れてはならない。我輩はバナナである、中身はもうない。そう、バナナの皮。

 廊下に出ると雪村の黙っているだけならコインに刻んでも良いヴィクトリアンな横顔が階段を降りようとしていた。俺は彼女が見えなくなるのを待って小走りで駆け出す。荷物は少ない方がいいだろうと財布と携帯とバナナの皮以外はロッカーに置いてきた。雪村の姿が目に入っては待ち、消えては追いかけを繰り返す。昇降口でじっと外に出るのを待つ。自転車置き場に向かってゆくのを見届けて俺も靴を履く。彼女の電光石火の帰宅のお陰で今の所他の生徒に遭わずにすんでいる。彼女は自転車にまたがり裏門から出てゆく。幸いさほどスピードは速くなさそうだ。ツール・ド・フランス並みに時速六十キロで走られたらどうしようかと思っていた。バナナの皮を投げつけても到底追いつかない。その後俺は急いでショージの自転車を出動させる。前もって駐輪場の一番校舎に近い場所に置いておいた。ここから門までひとっ飛びだぜ。さあて華麗にライド・オン! 

「うぅっ!」

 しこたま股をサドルに打ち付けた。乗りなれないものに乗りなれない乗り方をするもんじゃない。ショージのヤツ、ケツがデカイからって、こんなデカイサドル使いやがって、ちくしょう。しかし痛みの余韻に浸るにはまだまだだ。俺は世界中に広がっていきそうな痛みをこらえながら内股気味でペダルをこぐ。後ろを振り返り誰もいない事を確認する。目撃情報があっては後々やっかいだ。尾行のではなく、内股ペダルこぎの。

 幸い雪村の姿はまだ見えるところにあった。やがてその姿は左へ曲がって消える。本多ちゃんから聞いていた雪村の家がある方角とは別だ。やはり真っ直ぐ家に帰る訳ではなさそうだ。俺は急いで雪村が曲がった角まで来る。左方向を見るとその姿は意外とまだ遠くへ行っていない。もし振り返られても顔の判別がつかないところまで離れる。しかしこうして自転車をこいでいる後姿を見ていると、つくづく抜群のプロポーションだとよくわかる。サラサラの長い髪の毛、細いウエスト、程よく肉がついた尻周り、引き締まった足首。俺なら間違いなく金儲けに使わせてもらう。雪村華乃個人事務所設立だ。いやいや、まずはあの女から笑いを取る事が先決だ。俺が超えるべきエベレスト、チベット語でチョモランマ、ネパールの名称でサガルマータ。

 微妙な距離を保ちつつ、尾行すること十分。雪村はついにとあるビルの前で自転車を降りる。茶色いレンガ造りの七階建てのビル。そこから最寄のK駅まで徒歩で五分足らずの位置だ。自転車を建物の専用駐輪所らしきところに停めるとそのまま彼女はビルの入り口に消えてしまった。俺は急いで建物に自転車で近づく。ここで姿を見られては台無し。しかし建物のどのフロアに用事があるのかは重要だ。近くに自転車を停めると、俺はそっとビルの入り口の中を伺った。既に雪村の姿はなかったが、幸いエレベーターが目の前にしつらえてある。その表示はどんどん順調に上がってゆくと、六階で停まった。そこから動く気配はない。念のため俺はエレベーターを呼び、そそくさと入り口に戻って外から様子を眺めた。一階に着いて開いた扉の向こうには誰も乗っていなかった。間違いない、雪村はこのビルの六階に用事があるのだ。

 ふと脇にあるフロア案内が目に入る。一階は何とか事務所、二階は歯科、三階は消費者金融、四階はふにゃらら株式会社、五階は学習塾のよう、そして六階は・・・。

「陽明院」

 は? 陽明院? それだけ? 

 俺は口に出して読んでしまったその名称にポカンとする。一体ここは何をする所ぞ。名称からして整体か何かだろうか、それとも医者なのか。はたまた怪しい宗教か、とても人様に言えないような何かなのだろうか。

 ここまできたからには突き詰めなければ。こういう小さな雑居ビルでは、エレベーターが開いたらすぐ目の前が受付というのはありがちなのだ。そこで鉢合わせたら元も子もない。俺は階段がないか探る。するとエレベータの横に鉄の扉を見つける。おっと、これはビンゴ。めでたく非常階段に出ることができた。そのまま六階までの道のりをひたすら昇る。「F6」と書かれた扉の前に来る。位置関係からするとエレベーターの横に出るわけだが、下手をすると階によってはエレベーターホールも営業スペースとして使用している場合もある。俺は何とか外側から得られる情報はないかと探る。扉に耳をつけて中の音を聴こうとしたとき、明らかにこちらに近づいてくる足音と声が聞こえる。まずい! 俺は咄嗟に下に降りればよかったものを、どういうわけか上に昇ってしまった。上には七階しかない。退路を自ら断ってどうするのだ、俺は。

 七階の扉の前でしゃがみこんで息を潜めていると、階下でドアが開く音がする。続いて二人の男性の話声が聞こえてきた。

「何もこんな場所まで来おってからに。話は前回で終わりのはずだ」

「いえしかしですね、先生。我々としては御宅の道場存続の為に、お互いにとって有益な情報を提示しているのですよ。何故こんないい話を断るのでしょうか」

 先に話を切り出した男の声はおよそ五十代と見た。貫禄のあるしゃがれ声。もう一人は若僧だな。若僧と言っても俺より若くないだろうが。さらに言えば若僧といっても節操がない若い僧のことではない。ただの若いヤツ。二十代後半。

「我が道場には我が道場の流儀がある。それをへんちくりんなプラナリア柔術なんぞと一緒くたにするな」

「ブラジリアン柔術です。誰が扁形(へんけい)動物門ウズムシ綱ウズムシ目ウズムシ亜目に属する動物ですか」

 俺は思わず噴出しそうになって口を押さえた。なんだ、その無駄な知識は。多分これまでもプラナリアと言いまちがえられた事があるに違いない。もしくは生物学部。でなければウズムシなんて知らない、知らない。

「先生の所には我々が多くの出資をしております。ここでこじんまりと経営をなさるより、警察庁に出向きその技を教えになった先生の肩書きがございましたら、我々も新しい中国武術の分野に安心して進出できますし、先生も経営に苦しまずとも済む訳です。どうかここは意地を張らずに」

「黙れ。貴様らは何も分かっておらんのだ。意地など張らん。貴様こそその軟弱な体に銀紙でも貼っておけ!」

 何ゆえに銀紙なのだ。しかしこれで分かった。雪村の父親は中国武術の師範代だったはず。さしずめここは雪村父の道場なのだろう。しかしなんだか揉めているようだ。

「しかし返して頂くものも頂けないようでしたらこの先どうしようもありません」

「だから毎月返済はしているだろうが」

「いいえ、利息がどんどん膨らんでおります。このままではどんどん金額が増えるだけです」

「馬鹿を言うな! それは前も話しただろうが。最初の契約書の通りの金額を払っておるのだ。返済は滞りなどない」

「だからですねぇ、こちらも言っているじゃないですか。最初にお渡しした契約書に不備があったんですよ。そちらは私どもの印鑑を押しておりませんし、回収させて頂きました。その後新しいものをお送りしてあるはずです」

「あんなもの無効だ。一番初めの話と違うだろうが。私は初めの契約書の内容だったから資金を借りたんだ。あんなの認めるか。第一俺は後の契約書には判を押しておらん」

 吐き捨てるように、しかし低く雪村父はドスの効いた声で語りかける。流石師範代。

「ですがね、債権は我々です。我々も最初の契約書に判は押しておりませんし、既にこちらでは廃棄しております。先生はコピーも取っていらっしゃらないのでしょう? あなたと我々の間には契約書は一枚しか存在していないのです」

「ハナからそれが狙いだったんだろ。見下げ果てた奴らだ。私も愚かだったがな。しかしその契約書に私の判はないんだ。それも無効だ。借りた金は返す。法律上決まった利子を揃えてな」

「そうですか。では今日もご理解頂けなかったという事で」

 話は終わりそうだった。二人が非常階段から消えてくれれば俺の寿命は尽きずに済む。

「ふん。もう二度とくるんじゃない」

 その時だった。俺の運命を大きく左右する出来事が起きてしまった。なんと俺がいる七階の非常階段の白塗りにされた冷たい鋼鉄の扉が開きだした。それはあたかも地獄最期の門がゆっくりと開くようにスローモーションで展開される。その向こうには地獄の門番もこれ程かと思うような巨躯のオバサンが仁王立ちしていた。短い頭はパンチパーマ、ド派手な化粧に箒と塵取りを持って俺を見おろす。多分先に悲鳴を上げたのは向こうだ、うん俺じゃない、きっと俺じゃない。

「ぎゃぁーーーーーーーー!」

「あああああーーーーーー!」

 きっと二十一世紀になって初めての阿鼻叫喚図だったろう。間違いなく下の二人は驚いて上がってくるに違いない。俺は急いで地獄の門の先に滑り込んだ。咄嗟に制服の上着を脱ぐ。雪村父に、娘と同じ学校に通っている男が忍び込んだとはばれてはならない。幸いこの辺りではありがちな紺色。くそ真面目色。それよりも何よりも騒ぎを聞きつけて雪村本人がやってくるのは勘弁だ。簡単な便と書いて簡便、乾いた便と書いて乾便、ああもう、こんな状況だと口で言っても伝わらないくだらない下ネタしか思いつかない! 師も寝た! どうでもいい!

 地獄の門の先はエレベーターホールになっている。急いで下るボタンを押す。ちらりと見えた地獄の七階は何かの事務所のようだ。しかしこのビルは人の出入りが少ないのか、エレベーターの箱は来た時俺が一階に呼んでそのままのようだ。七階分上がってくるまで閻魔に捕まってしまいそうだ。早く来いとボタンを連打する。無駄と分かっていても、もがかずにはいられない。それが人間だ。

 しかしその後意外な展開が訪れる。門番は駆け上がってきた閻魔大王にこう告げたのだ。

「あらぁ、ごめんなさい。発声練習してたんだよ。今夜歌声喫茶に行くもんでね」

 俺は高橋名人ばりに連射をしていた指を止めた。

「はいはい、すみませんね、じゃあさいなら」

 ドアが閉まる音がする。門番がつっかけ履いた足でパタパタとやってくる。俺の目の前に現れると同時にエレベーターがチンといって開く。すみません、このエレベーターは地獄行きですか?

「あんた、なにしてんの」

 手に持った箒と塵取りは一見普通のようだが、騙されるな、これは嘘つきの舌を抜く道具だ。だがしかし俺は嘘をつく。

「いえ、あ、あの、実は失恋して泣く場所を求めてフラフラしていたらここに辿り着きまして」

「ふーん」

 門番は特に興味も無さそうに答える。

「もう泣き飽きたので帰ろうと思っていたところ、急に扉が開いて驚いたのです」

「泣き飽きたにしちゃ、顔色いいんじゃない?」

「昨日から泣き飽きてまして」

「へえ。まあいいわ。さっさと帰んなさい。邪魔邪魔」

「はい、すみません・・・」

 エレベーターに乗り込んで、落ち着いてよくよく周りを見回すと、そこは何かの事務所のようだ。地獄の門番、もとい、俺を見逃してくれた大天使様はその事務所の扉を開けて中へ入って行った。俺もゆっくりと一階まで降りた。

 外へ出ると変わらず雪村の自転車はそこにあった。俺の、厳密にはショージの自転車もある。大きく深呼吸をすると本日の収穫にある程度満足した。そして俺の中で雪村華乃に対する調査報告第一部が出来上がる。


    : )


 雪村華乃 十六歳。東京都S区出身。父母との三人家族。容姿端麗にして文武両道に長けた才色兼備の申し子、天は二物も三物も与えた典型。しかし感情表現に乏しく、人間性に大いに問題あり。友人皆無、恋人不要。父は借金を抱えた中国武術の師範代。小さな道場経営。悪い金貸しに当たり道場の存続危機に面している。道場上の階にある某事務所のおばちゃんは一見鬼畜の門番だが、迷える子羊を華麗に救う様は大天使ミカエルの所業にも似た尊ぶべき行為である。


「なんだよこれ。後の文面とかいらんだろう」

 またしてもショージは俺のやることなすことにいちゃもんをつける。

「しかもお前が乗った俺の自転車、なんだか座り心地悪いぞ。サドル変えたか?」

「小さめのに変えた」

「なんでだよ」

 理由は言うまい。今日はショージが生徒会の用件で、居残りで会議の議事録を作成していたから、生徒会室にお邪魔している。俺の作ってきた報告書の文面を一読、と言うかあれは一瞥に等しい。ちゃんと読めって。ショージはやっと少し素直になってきたのか、俺のやる事にいちゃもんをつけながらも、興味を示してきたようだ。

「まあしかし、雪村の性格には家庭の事情が絡んでいるかもな。その親父ってのは厳格そうだったのか?」

「さあな、どうだろう。顔までは見てないからな。ただ声の貫禄はアームストロング並みだ」

「地球は青かった?」

「それはガガーリン少佐。ニール・オールデン・アームストロング船長じゃない。ルイ・アームストロング、この素晴しき世界」

「渋い親父さんだな」

「なんてったって中国武術師範代だもんな。中国本土のお墨付きなんだろうか」

 俺は校舎の二階にある生徒会室の窓から青く晴れた空を見上げる。ショージの打つパソコンのキーボードの音が五月晴れの空に響いている。俺の勇敢な尾行のお陰で雪村低俗説は消えた。代わりに新たな疑問が生じる。

「なあ、ショージ。高校二年生と言えば青春も盛りもまっさかりだ。しかも美女ときたらそりゃあもう右に左に男でも抱えてまっとうな青春を送ればいい」

「右左に男抱えるのがまっとうかよ。部活や学問に専念して一途に人を思う方が絵になると思うが」

「まあ、物の例えだ。その気になればそれこそ部活に勉強に恋に一人勝ちしそうな女が、父親の道場とは言え入り浸る必要はないだろう。学校終わって直行だぞ。もっと有意義な生き方があるだろう」

「雪村にとってはそれが有意義なんだろう。おおかた大会でも控えているんじゃないのか? 全日本中国武術競技大会とか」

「うーん、地味だなあ」

「地味だと思うのはお前の主観だろう。雪村にとっては部活や学問や男よりもよっぽど意味のあることかもしれないだろう。もしくは借金抱えた家計を助けるために、道場の手伝いとか。俺達が思っているより健気なやつかもしれん」

「お、ショージ様、女に興味を持ち始めたか?」

 その台詞には何も答えず、ショージは俺を睨みつける。全く何が気に入らんのだか。大体コイツは女からちょっかい出されるくせに誰も相手にしようとしない。ホモか? それなら俺を狙っているのか? 前にも言及したけどちょっと目立つのはメガネだけで、他に何の取り柄もない男だ。よくぞ生徒会に選ばれた。

「そしていよいよ今日は本多ちゃんとデー・・・共同追跡開始だ」

「まだそんなことやるのかよ。もういいだろ。適当に理由つけて素直にただのデートにしたらいいだろう」

「それもいいんだが、いや、よくない。こらショージ、俺の崇高な目的を忘れるな。お前だって少しは気になるだろう? 何で雪村が笑わなくなったか」

「面白い理由があればな」

「ふん。お前こそ素直じゃないな。いいだろう。俺はその理由をつき止め雪村の笑顔を取り戻す。あいつの来年はきっとバラ色だぞ」

 その前に俺が本多ちゃんとバラ色になるけどな。今日もショージの言うとおり、適当に追跡は終わらせて後は楽しくお散歩なんかしちゃったりして。そんで思わず手なんて繋いじゃったりして。

「あわよくば本多の手握るとか、どうせそんな考えしかないんだろう?」

「握るなんて考えてない」

 なぜなら繋ぐことしか考えてないから。握るのは猥褻行為だが、繋ぐのは美しいぞ。うん、俺は不純な事は考えていない。

「そう言えばうちの会長が話していたんだが」

 ショージがカタカタキーボードを打ちながら言う。会長とは学校一の秀才にして最高権力学生の、生徒会長だ。

「雪村、三年の蓮野先輩に目をつけられたらしいぞ」

「ほう、蓮野氏と言えば確か柔道部部長だったな。気に入られたのか?」

「いや、それがどうやら恋愛感情のようなもので無く、だな」

「ふんふん」

「手合わせを願いたいと。もちろん雪村はそっけなく断ったらしい。もし蓮野先輩が雪村の親父さんの道場を見つけたら果し合いでも申し込みに行くかもな」

「なんだよそれ。変な話だな。いくら雪村が強いという噂があっても、男が女に勝ったって嬉しくないだろう。それに蓮野先輩はインターハイに出場する腕前だぜ。女相手にして何が楽しいんだ。そんなの手合わせを装った男女の絡み合いが目的に決まっているだろうが」

「それがそうでもないらしいんだ」

 ショージが手を休めて真面目そうな顔で俺を見た。適当な事を言っているのではなさそうだ。

「うちの学校の柔道部は代々強いから、その部長になる人物たるや心身共に鍛え抜かれたつわものだ。強いだけでなく成績も良く、根が真面目な人間が選ばれる。蓮野先輩だってその部類だ。ただ雪村の体触りたいが為に手合わせなんて考えないだろう」

「いやぁ、わからんぞ。真面目を絵に描いたようなヤツに限って変態街道五十三次するんだ」

「そうは言っても、うちの会長も蓮野先輩の人柄よく知っているらしくてな。不純な動機にしては目が戦う男のそれだったらしい。俺も何度か話したことあるけど、まあ見ての通り精悍で逞しい顔つきだ。雪村に色恋沙汰で近づくなら、そんな遠まわしな言い方なんてぜずに、もっと堂々と当たるだろう」

「ふーん。まあショージ捜査官が言うならそうなんだろうな。そうなると変態的理由よりこれは何かがあるぞ。新しい謎が浮上した」

 考え出したら好奇心の炎がメラメラと燃え上がった。インターハイ出場、猛々しい体育会系柔道部部長が、何を持って雪村に興味を抱くのか。俺が(しょう)(どう)で雪村に興味をもつとしたら、柔道で興味とはこれいかに。ますます面白くなってきた。そろそろやってくる中間テストでは、先生をクスクス笑わせながら零点をつけさせるのが俺の目標だったけど、そんなものより断線面白い。

 静かな午後の生徒会室に五月の青空が眩しい。遠くで飛行機の音が流れてゆく。牧歌的。

「春日井君」

 ふと見ると小さくドアを開けたその隙間から本多ちゃんが覗いている。そんな仕草がたまらなく可愛いと思う。俺の方が蓮野先輩より何倍も変態街道五十三次だったらどうしよう。俺は座っていた椅子をガタガタと片付ける。

「あ、もう行ける? じゃあな、ショージ捜査官。陰気にそうやっていつまでもゲジ録書いてればいいさ」

「昆虫図鑑じゃねえし」

 俺は本多ちゃんの元へ駆け寄る。

「別府君、バイバイ」

 彼女がにこやかに手を振るので俺は言ってやった。

「本多ちゃん、あんなヤツと関わると囮捜査に使われるから気をつけな」

「なあに、それ」

「あいつは将来FBIの試験を受け・・・」

 そこまで言うと後ろから分厚い辞典が飛んできて俺の背中を直撃した。

「イテテ、乱暴なヤツだろ? 君も気をつけるんだよ。じゃーなー、ゲジ録捜査官」

 扉を閉めるとそこへもう一発辞典が飛んで当たった。短気な野郎だ。その様子を見ながら本多ちゃんが笑いながら言う。

「二人は本当に仲が良いのね。クラス変わっても一緒にいるんだもん」

「変なもの同士だからね。気は会わないけど。去年だって俺がやることなすことに口出ししやがって。学園祭のクラスの出し物だって俺は寄席をやりたかったんだ。それをつまらんメイドカフェになんてしやがって」

 しかも本多ちゃんのメイド服姿が見られるかと思い、それだけを心の拠り所にしてたのに、彼女は恥ずかしがってドリンク作るだけの役にまわっちゃって。

「別府君はメイドカフェも反対してたじゃない」

 本多ちゃんはくすくすと笑う。こんな何気ない会話で屈託なく笑ってくれるのは君だけだ。俺の憩いの人。いつか俺だけの為にメイド服を。

 さて、五月晴れの気持ちのいい午後。気持ちがいいのは君が隣にいるから尚更だよ、なんて台詞はまだとっておこう。このプロジェクトが完遂した暁には、笑い転げるギャグ百連発の後に劇的な告白をするのだ。そして俺は真の喜劇王になる。目論見としては笑い転げる本多ちゃんがドサクサに紛れて、うっかり「はい」と言ってくれるのではないかという淡い期待。

「ここから歩いて行けるの?」

 俺は本多ちゃんに聞く。

「雪村さんが自転車で通っている距離だから少しかかるけど。でも歩けなくはないよ。いいよね?」

 いいです、いいです、君と一緒ならむしろ沢山時間を掛けてブラジルあたりまで行ってしまいたい。

「本多ちゃんこそ大丈夫? 帰り遅くなったらもちろん送っていくけどさ」

「うん、少しくらい平気。春日井君が送ってくれるなら尚更だよ」

 雪村の家、ブラジルにあればいいのに。

 さて、たわいもない話をしながら沢山笑ってくれる本多ちゃんとのひと時は早いものだ。俺が意識してゆっくり歩くものだから軽く一時間は経ったと思われる頃、本多ちゃんが指差して言った。

「ほら、ここ」

 それはありがちな白い建物の団地だった。おそらく所謂一つの公営住宅。そこまで古い造りでは無さそうだが、それでも築三十年くらいは軽く経っていそうだ。両親と雪村の三人家族なら何とか住める広さではあるようだ。植え込みを挟んで団地沿いの道路に俺達は立ち尽くす。道沿いに木が植えてあるのでちょうど木陰に入れる。

「生まれた時からここに住んでいるのかな」

 俺は本多ちゃんに聞く。

「うーん、どうだったかな。とりあえず中学時代はここに住んでたよ。部屋まではわからないけど。あの駐輪場に自転車を置いていたから、この棟だとは思う」

「なるほどね。今日はどうしよう。考えてみればここで張っていてもいつ帰ってくるかわからないもんな。雪村どうやら学校終わってからは親父さんの道場へ通っているみたいなんだ。今日もそうならしばらく帰ってこないだろうな」

「あ、そうなんだ。彼女お父さんの道場にまだ通っているんだ」

「まだ、って事は中学時代から通っているってこと?」

「うん。その辺の男子より昔から数倍も強かったの。カンフー大会でよく優勝してたわ。でも三年になった頃はそういう大会にも出てなかったみたいで。彼女学校の部活自体は園芸部だったのよ。ほとんど活動ないからすぐ帰れる部活。それでお父さんの道場通っていたのね。三年になって辞めたと思っていたのだけど、違ったのね」

 ほうほう、それは真に興味深い事実だ。借金悶着の他に雪村道場が抱える問題が何か浮上してきそうだ。今度は家族間問題、とかな。予想ではルイ・アームストロング親父は厳格に違いない。雪村に厳しく躾けるあまり娘は反抗。こういうシチュエーションの場合、母親に対しても親父は暴力を振るうとかな。それで雪村娘は、父親より強くなって家内権力を奪おうと考えるが、そこは男と女、父と娘の差。大きな溝の前に絶望した彼女は希望を失ってめったに笑わなくなった。だが優しい母親だけには以前と変わらぬ笑顔で接する。うーん、いささか古い一昔前のホームドラマだ。まさか俺のこんな筋書き通りではないだろうが。

「じゃあ帰りはもう少し遅くなるのね。一時間くらいお茶でもしようか」

 お茶する→食事する→ホテルのバーで一杯→この後上に部屋を取ってあるんだ。

「するする!」

 俺の短絡的な思考回路は、本多ちゃんからのお茶を断ることは一生涯ないだろう。お酒が飲めるようになるまで頼むから誘い続けてくれ。

 T駅までの十分ほどの道のりを二人で歩く。女の子の歩調に合わせて歩くのは悪くない。本多ちゃんはちょっとトロイところがあるから尚更相手の歩調に合わせる。この子は去年から何も無いところでつまずいては恥ずかしそうな照れ笑いを浮かべていた。今俺の前でそうなったら間違いなく抱かかえるだろう。やましい気持ちだったとしてもそれが愛から芽生えたものならば何がいけないと言うのだ。

「そろそろ中間テストだね」

 何気なく本多ちゃんが言う。

「そうだね」

「春日井君は別府君に勉強教えてもらえるんでしょ? いいなあ。秀才の友達がいて」

「俺はあいつなんて当てにしてないね。昔から勉強も笑いも自分一人でやってきたんだ。あんな眼鏡に頼んなくても問題ない」

 本多ちゃんがくすりと笑う。

「春日井君は本当に学校での勉強とか部活や運動なんかに興味無いのね」

「へっ?」

 そんな風に言われたのは意外だった。別に悪い気がするわけではないが、俺はそもそもそんな事を考えた事がない。

「いやぁ、興味無い訳じゃないと思うよ。だってさすがに落第とか嫌だもんね。でも笑いの大学があって、そこが勉強できないと受かんないような所で、さらにケンブリッジやハーバードやNASAや亀千人の弟子入りよりも難しかったなら、俺は死ぬ気で勉強でもカメハメ派でもすると思うよ。何ていうのかな、興味が無いんじゃなくて、興味がある事に対して意味のある行為なら何でもするよ。笑いのセンスが磨かれるんならね」

「そうなんだぁ」

本多ちゃんはいつもの笑顔ではなく、真剣な眼差しで俺を見る。

「いなぁ。そんな風に熱心になれるものがあって」

 俯いて語る本多ちゃんはちょっぴり切なそうな表情だった。お陰さまでその俯き加減の顔は俺の胸といい腹といい股間といい、全てをぶち抜いた。アニメなんかで体からでかいハートマークが飛び出している絵柄あるけど、まさにアレ。アニメと違うのは俺は生身のオスだってことだ。歩きにくくてしょうがない。しかし、いつも明るく元気に笑っている女の子のこんな表情にはとんと弱い。しかも大好きな女の子となればますますだ。殊更彼女の歩幅に合わせる振りをしてゆっくり歩く。

「熱心だなんて、俺はそんな風に考えた事もないよ。ただ何て言うかな、人を笑わせると自分が満足するんだ。楽しい気分になるし、それだけでハッピーになれるヤツだっているだろうしさ。みんながみんなそうじゃないけど、ショージだって俺のギャグに笑わないし、雪村に至っては全戦全敗、万年最下位だ。それでも俺は知りたいんだ。人が持つ笑いの効能を。ほら、笑うと病気が癒えるとか言うだろう? 現代のストレス社会なんてのも、本来は笑って済ませられるような事も真剣に捉えてちゃって、やがて陰険になる、みたいなところがあると思うんだ。本当は誰だってもっと幸せになれるんだと俺は思う。笑い一つでね。でも少しずつみんな忘れている。口元の皺が深くなったって嘆くくらいなら笑って過ごせばいい。笑っている限りそこの皺なんて永遠に目立たないんだからさ」

 こんな風に自分の気持ちを淡々と話したのはショージ様相手以来だ。あいつと俺は本来そんなに気が合うほうじゃない。そもそも初めて会った頃、アイツは完璧に俺が嫌いだった。事あるごとに、人を笑かそうとする俺をたしなめたり先生に告げ口したり。でも俺は自分の世界をコンプリートさせる為にはショージみたいなヤツの理解が必要だと思ったんだ。だからある日今みたいな事を言ってやった。そしたらショージのヤツはそれっきり黙っちまって。以来俺の話を聞いてくれるようになったな。それどころか変な突っ込みを入れてきたり、自分もつまらないシャレを飛ばしてみたりもするようになった。何よりもたまにアイツが俺のギャグで不覚にも笑う瞬間があって、その顔が俺は何よりも好きなんだ。あ、いや、好きというと語弊があるな。本多ちゃんへのそれとは決定的に違う。でもなんだかもう一度その顔にしてやろうと躍起になる。今でも不意に緩むアイツの顔は見ていてこっちも楽しくなる。今思い返せばショージも雪村と似ていたかもしれない。雪村ほど酷くはなかったし孤立もしていなかったけれど、滅多に笑わないという点では雪村と近い存在だったのかもしれない。

「そっか。春日井君って偉いんだね。だから私も元気づけられたんだね」

 そう言った彼女の口角はあがり、いつものような優しい笑顔が戻っていた。さっきの切ない表情もよかったけどね。未だにオスとしての肉体感覚が収まらない俺はなんとか頑張って雪村様の凍て付く瞳と根暗な舌打ちを思い出す。氷の無表情は俺の熱を冷ますのには丁度いい。

「いいや、俺のお陰なんかじゃないよ。本多ちゃんはもともと明るくて元気だっただけ。それをちょっと俺が笑わせただけで、波平の髪の毛ほどのきっかけでしかないんだよ。後は全部本多ちゃん自身の頑張りだよ」

「でも春日井君がいなかったらって考えると、ちょっぴり不安になるよ。今みたいに友達がいたかどうか分からない」

「お~っと、ノンノン、俺は友達作る手伝いなんかした覚え無いぜ。友達を作ったのは本多ちゃん本人。その性格の良さが友達を作ったのです」

「そうかな」

「そうそう」

 話しているうちにT駅前に着く。俺達は喫茶店に入る。今度はカッコよくジュースくらい奢れそうだ。と思っていたら今回もナイス・アメリカン方式。最近の何とかコーヒーとかカフェとか気取った名前の店は、気取っているくせにコーヒーの一杯も客席に持ってこないのか。おかげでさっさと注文してしまった本多ちゃんの支払いをカッコよく受け持つことができませんでした。彼女がお化粧直しに席を立った瞬間に支払い、なぜそれが出来ない国だよ、日本国。

 仕方なくアイスコーヒーを持って空いている席に座る。店の造りや構えは不満だが、こうして向かい合って座っていると恋人同士みたいだ。

「ねえ、これから雪村さんをどうやって笑わせるつもりなの?」

 本多ちゃんがアイスティーを飲みながら聞く。

「まだ具体的には決めてないよ。とりあえず日々の細々した笑いは取り続けるけどさ」

「例えば?」

「パンツ型のパンを作ってきて、『俺、ぱんつくったことある!』って言うんだ。それでみんなが『パンを作ったことがあるんだろう』って聞くだろうから、俺はすかさずそのお手製のパンツ型のパンをみんなの前で食すという技さ。パンを作ったことがあるし、パンツ食ったこともあるという二重の掛け技で・・・」

 目の前の彼女は一番最初のパンツ型のパンだけで大層笑い転げてしまっていた。

「大丈夫? 本多ちゃん。人間笑うのはいいけど、笑いすぎると五分過ぎたあたりから、血圧と心拍数上がって死に向かうから気をつけて」

 忠告したのに一向に笑いを収める様子が無い。いかんいかん、このままでは本多ちゃんが笑い死にしてしまう。それで俺は冷めるような発言をした。

「待って、冷静に考えてみて。俺がたかだかその一瞬の為に材料買って家でレシピ片手にパン作ってるんだぜ、しかもパンツ型の。想像しただけで寒くない?」

「ひゃぁぁーーー、やめてぇ、笑わせないでぇーー」

 本多ちゃんがヒーヒー言っている。しまった、狙ってなくても彼女からは笑いを取れるんだった。どう収集したものか。仕方が無いので笑いが収まるまで黙っていた。ひとしきり笑い終わるとやっと軽くため息をついて、アイスティーで喉を潤してくれた。本当はその後、「パン粉型のパン」とか「パンがパンつくっている型のパン」とか考えていたんだけど、今は言うのはやめにした。愛しの本多ちゃんが死んでしまう。

「雪村さんはどうしてそれで笑わないのかしら」

「いや、まだ試してないけど」

「あ、そうか。でも私は毎日の春日井君のネタで十分面白いけどな。正直今のクラス、友達いて楽しいけど、ちょっぴり笑いが足りなくて寂しいの」

 そう言って微笑みながら本多ちゃんは目を落とした。

「友達いて楽しいならそれで十分じゃないか」

「うん、でも去年のクラスが楽しすぎたのかも。毎日が新しい自分の発見だったような気がする」

 なんなら今すぐ俺が隣のクラスに入りたい。なんとかシャレで先生誤魔化してドサクサに紛れてなんとなく隣のクラスの一員になれないだろうか。そこまで考えて俺は不意に脳裏に雪村氷の無笑を思い出す。いつもつまらなそうにしている顔。どうしてか放っておく気になれなくてそんな思考が消えてゆく。やはりこれは天命なのだろうか。

「本多ちゃん、きっと今度は君がみんなを楽しませる番だよ。寂しいからって寂しいまま過ごしたって別にいいけどさ。誰かが楽しませてくれるのを待つのも自由だし。でも誰も楽しませてくれないからって不満を持っちゃいけないよ。そんな風に思うくらいなら、楽しませてくれる誰かを探しに行くか、自分が楽しませる側にまわんなきゃね」

「そっかぁ。私春日井君には教えられっぱなしだな。確かにそうだよね。自分から何もしないくせに待っているだけで、誰もいないと不満だなんて、わがままもいいところね」

 照れたようにはにかむ彼女。本当は俺がいつでも側にいて笑わせてあげたいよ。でも俺だっていついなくなるか分からないし、何かの拍子に雪村みたいに心閉ざすかもしれない。そうなった時本多ちゃんが、自分で笑いを取りに行けなければ結果不幸だよな。神様が約束してくれたらいいんだ。俺は生涯このままの性格で本多ちゃんより先に死なないってさ。そうすればずっとずっと側にいて笑わせるよ。けれど神様はそんなの教えちゃくれない。だからこんな言い方しかできない。

「そんな風に思わなくていいよ。本多ちゃんわがままなんかじゃないよ。いつでも普通にその笑顔でいたらいいよ。そうすればいつだって君の周りは楽しい友達で一杯になる」

 そう言って俺は満面の笑みを作ってやった。それを見て彼女は噴出す。どんだけ面白い笑顔作ったんだ、俺は。

 陽が傾きかけて来たので俺達は店を出た。来た道を戻り、雪村の住む団地に到着する。近くの花壇の端に腰掛けて雪村華乃とその家族らしき人の影を待った。しかし行き交うのは見ず知らずの人々ばかり。雪村本人はもちろん、本多ちゃんが顔を知っているはずの母親も、ルイ・アームストロングの親父(顔は知らないけど)も一向に現れなかった。

 いよいよ陽も沈みきってしまいそうなので、俺は彼女を家まで送ることにして、今日の所は終えようとした。

「ごめんね、今日は収穫無しだね。家まで送っていくよ」

 そう言った瞬間、本多ちゃんの目が一点を見つめる。その視線の先を追うと一人の婦人が駐輪所に自転車を停めているところだった。俺達がいる地点から生垣を挟んでざっと六、七メートル先だろうか。雑多に置かれた自転車の間にいる、長い髪を一つに束ねた細身の女性。年の頃は四十代半ばと思われる。顔はどことなく雪村華乃と面影が重なった。小さな声で本多ちゃんが言う。

「雪村さんのお母さん」

やっぱりそうだった。婦人は買い物袋を下げて自転車に鍵を掛ける。あの人も若い頃はとびきり美人だったに違いないだろう。雪村娘より目尻が垂れ気味で愛嬌がある顔立ちだ。だが表情は疲れているようにも見える。細いというよりやつれているようだ。買い物袋を重そうに手に持って団地の階段へとその人は消えていった。

姿が見えなくなると俺は本多ちゃんに話しかけた。

「間違いない?」

「ええ。私が見たのは数年前だけど、間違いないわ。雪村さんに似ているでしょう?」

「そうだね」

 雪村華乃は今でもあの母親と談笑するのだろうか。俺達には見せない笑顔を、あのやつれた母親には向けるのだろうか。それならまだいいんだ。でももし、既に家でも笑顔を失っていたとしたら、あの婦人も同じように笑顔を失っているだろう。

 そんな風に考えたら俺はやるせなくなってきた。笑うだけで変わる社会がある、家庭がある、世界がある。そんな事知らずに生活しているなんて、やっぱり俺には放っておけない。傲慢かもしれないけれどそんな気になってしまう。

「よし、今日は母親の顔を見れたから十分だ。帰ろう。ねぇ、家はどっち?」

 勢い良く俺は立ち上がった。そしてこれから本多ちゃんを送ってゆくという事は、彼女の家が分かるという事だ。断然こっちも尾行がしやすくなる。おっと、現状では尾行する必要はないんだ。雪村がらみの相談でいつでも呼び出せる。

「ごめんね、遅くなっちゃうけど、大丈夫?」

「まかせて。あ、あとこれ」

 俺はおもむろにドアラの携帯ストラップを差し出す。

「ごめんね、いつも持って来ようと思って忘れちゃうんだ。今日やっと持ってこれた」

 というのは嘘で、あれから東京ドームに行ったんだけどストラップが売り切れていて、ネットで取り寄せたのだ。せめて東京の人間らしくジャビットかツバクロだったら良かったのに、どうしてドアラになってしまったのか、俺は既に経緯を憶えていない。

「わぁ、かわいい。ありがとう。嬉しい、大事にするね」

 今日一番の笑顔がこぼれる。そのまま俺も持って帰って大事にして! という叫びが脳髄の奥から聞えてくる。実はそのストラップの紐の先は俺に繋がっているんだよーん、とか言ってみてーー。くそっ、今俺は猛烈にドアラになりたい。いっそのこと着ぐるみバイトに応募してしまおうか。そして着ぐるみの先にストラップつけて改めてプレゼントだ。

「いいよ、どうせ家に余っていたものだし」

 どうして男はこんな余裕をかましたくなるのか。必死こいて探したというのに。

「でもありがとう」

 感謝されるのは照れくさいがいつだって悪くない。でも俺は感謝されたいわけじゃなくて、ただ笑顔を見たいだけなんだ。これは本当だぜ。

 そんな幸せに浸っていたから俺はうっかりしていたんだ。雪村母の姿を見られて満足したのもある。だから目的を遂行したら、細心の注意を払ってさっさとそこを立ち去るのを忘れていた。不覚にも、俺達の姿は自転車で帰ってきた雪村華乃本人に、その日目撃されてしまっていたのだ。


    : )


 翌日から俺の背中に不可解な視線が突き刺さる。それが雪村からの信号と気付くのに時間は要さなかった。背中がこの上なく冷たくなるからだ。だがそれが何故なのかは分かりかねていた。どうして急に俺に視線のちょっかいを出すようになったのだろう。そんな俺の疑問をよそに、卑猥田君は今日も元気に古文のエロ坊主とカンバーセーションを楽しんでいる。

「先生、源氏物語は昔のポルノ小説だって本当ですか?」

 そんな事大声で意気揚々と聞くなよ。

「なんだ、お前はポルノ小説に興味があるのか?」

 答えになっていない上に生徒になんて事を聞くんだ。

「はい、あります!」

 普通に答えるなよ! 教室には笑い声が響く。俺の「拙僧は節操がない」の駄洒落はこのエロ坊主に捧げることにするよ。

 アームカバーの公務員と相性のいい津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)もいつも通りだ。

いつもの日常の中、適当に中間テストも終わり、そろそろ本多ちゃんを何かの口実に誘おうかと思案していたある日の夕方、俺は不意に帰り道の途中何かを感じた。誰かが俺の後をつけている。しかもその感覚はおおよそ誰のものか検討がついた。どういう事だ。何故後をつけてくる。俺は尾行に気付かぬ振りをして、家とは反対方向へ歩いて行った。この道をずっと行くとショージの家へ辿り着く。ショージの家を俺の家と勘違いするがいい。

しかしこれはまたとないチャンスかもしれない。カモが向こうから葱背負ってやってくる。いいや、この場合氷を背負ってだな。俺は角を曲がると塀に身をぴったりと寄せて息を潜めた。足音が近づいてくる。華奢なヒールの音までもが冷たく響くようだ。相手が角を曲がって姿を現した瞬間、俺は逃げられないようにその手首を掴んだ。掴んでから思い出した。そうだ、コイツの武術の腕は師範代クラスだったんだっけ。

俺はまんまと掴んだ腕を捻りあげられるとそのまま足を払われ、アスファルトに体を打ち付けられた。

「イテテテテ・・・」

 特に腰の辺りを強く打ったらしい。このまま腰を痛めていざ使い物にならなくなったらどうしてくれるつもりなんだ、この女は。

「素人になにすんだよ」 

 俺は腰をさすりながら目の前に仁王立ちで凍て付く視線を投げかけている麗しの雪村を見上げた。逆光に照らされた髪の毛の輪郭がオレンジ色に浮き上がる。その下で美しい顔は冷ややかに俺を見つめる。

「なにするんだはこちらのセリフよ」

 本多ちゃんの小鳥がさえずるようなソプラノとは違う、ドスの効いたアルト。それが初めて雪村が俺に向かって発した言葉だった。

「私に用事があるのならはっきり言いなさいよ。面と向かって」

 面と向かって何を言えというのだ。笑ってくれと言ったところでアンタは笑うのかよ、と言いたかったが、それを言ったところで雪村は何も答えず黙って行ってしまうだろう。

「言った所で君は行ってしまうだろうから、言っても仕方がない」

「私が何を言ってしまうのよ」

「だから言えって言ったのは君だろう?」

「そうよ、言ったらいいじゃない」

「だから言ったら行ってしまう」

「言ってないって」

 ああ、こんがらがってきた。なんだ、この応酬は。しかし雪村の貫禄といったら、これはもう高校生のものでは無い。「姉さん、半か丁かお願いします」の世界だ。一介の高校二年の、ハイティーンの女が腕組んで脚を肩幅に開いて、完璧なプロポーションと男でも羨む美貌が俺を見下ろしているのだ。異空間。

 俺は立ち上がって制服についた埃を払う。こうして立つと背は俺のほうが高いから、それでなんとか貫禄負けしなようにするのが精一杯だ。だが見下ろせど見下ろせど威圧感は凍て付く空気で俺を刺しぬく。本当になんなんだ、この女は。

「私に何の用事があるのよ。ここ最近私の周りを嗅ぎ回っているんでしょう?」

 風が吹いて雪村の髪がなびく。ふわりとシャンプーの香りが鼻をかすめる。ウチで使っているヴィダル・サスーンと同じ匂いだ。と言う事は雪村とうちの母ちゃんは同じ香りがするわけだ。そう考えると少し凹む。

「なんの事かな」

「とぼけないでよ」

 我ながらなんのヒネリもウィットも無いとぼけ方だ。それで済むとは思ってはいないが、雪村の答えも答えだ。ストレート過ぎる。これではつまらない。

「仕方が無い、真実を話そう。良かったら座れる場所かどこかで」

「そこに座れば?」

 雪村様、さっき俺が転がっていたアスファルト指差す。

「いや、そういう意味じゃ無くて、ここ車通るし。君も座った方がいいだろうから」

「腰据えて話すことなんか私には無い」

「えと、じゃあ、車通らない場所で」

「車が通る前に話終えればいいじゃない。こうしている間に」

「でも少し時間がかかるかも知れないんだ」

「手短に用件だけ話せば。論理的思考くらい持ち合わせているでしょう?」

「いや、君が理解してくれるまで」

「私が理解できないならそれまで。それ以上聞かない」

「取り付く島―――――!」

 俺は思わずそう叫んだ。雪村がギョッとする。取り付く島も無いとはまさにコイツの事だ。

「いいか、例えば、例えばだぞ。俺が中国拳法に興味を持ったんで道場見学に行こうとして怖気づいたのが其の一、其の二は今流行の団地デートだ! 納得したか?」

 自分で言うのもなんだが、俺は珍しく感情を顕にして早口でまくしたてた。流石の雪村様も少しタジタジだ。

「何よそれ、納得するわけないじゃない。そもそも例え話なんでしょう」

「アンタが理解できるように話してやってるんだ。そんな理由なら納得だろう?」

「嘘の話じゃ信用できないじゃない」

「本当の事言っても理解できないならそれまでなんだろうが。嘘言ったって同じだろう」

「最低の理屈。何よそれ」

「相手に説明する隙を与えなかったのはアンタの方だろ」

 まさに言った言わないレベルの、揚げ足取り合戦。なんだ、この展開は。

 雪村様の顔は険しくなってゆく。しかしながらその険しい顔もまた美しい。それだけは賞賛に値する。

「俺をつけて来た用件はそれだけか? ちなみにこっちは俺の家がある方向じゃない。一緒に別府ショージの家にでも行くか?」

 俺は意地悪な気持ちで言ってやった。彼女は賢いので、俺がわざと家と反対方向に向かっていたと気がついたようだ。顔がさらに険しくなる。そして何も言わずに踵を返した。俺はその綺麗なプロポーションの背中に話しかける。

「次回はばれないようにするんだな」

 雪村はそのまま去って行った。おそらく顔は般若の形相で俺に対する怒りを沸々と湧き起こしているのだろう。形は良くないが、とりあえず雪村に俺と言う存在を強烈に印象付けたのは間違い無さそうだ。

しかし、相手にばれないようにしろと言いながら、俺の尾行もどうやらばれていたようだ。見られていたとは一生の不覚。これでは笑道を極める道のりはどうやら長そうだ。やれやれ。

それからというもの、俺の背中に刺さる視線はいよいよ冷たさを増す。エベレストはかってない寒気を纏い、猛吹雪による悪天候で登山が不可能状態に陥っている。俺に対する雪村の警戒心は半端じゃない。こんな状況で笑わせようとするほうが不毛だ。一旦吹雪が止むのを待つのだ。それから積もった雪を徐々に溶かしてゆかねば。

そんな折、俺は中間テストの結果が問題で、担任に呼び出された。生徒進路指導室と銘打ったその部屋は、さながらドッキリテレビの騙される人がいる楽屋並み。白い壁に一枚の窓、簡素な長机とパイプ椅子だけ。こんな状況で明るい未来を描いて嬉々として進路を語る高校生がいたら教えて欲しい。例えば、僕は将来医者になって無償でたくさんの人の命を救います、とかさ。そいつの足元でキブリーさんこと、ゴキブリが一匹干からびているんだ。こんな部屋で進路指導もへったくれもない。まずはキブリーさんを処理するのが先決だと思う。干からびているゴキブリが気にならない医者は全国にどれくらいいるものか。

さて、担任は顔が異様に黒い。夏は海焼け、冬は雪焼け、春と秋は酒やけ、しかも輪郭は完璧に米粒。故に俺はコイツを古代米と呼んでいる。形といい、色艶といい、そっくりだ。そんな古代米は神妙な面持ちで俺に語りかける。

「春日井、俺はなぁ、お前の去年の成績見て安心していたんだよ。飛びぬけて成績がいいわけじゃなくても、なんというか堅実にきちんと勉強している節があってな。基礎が大事な部分はきちんと点数をとれていたから、コイツはやりようによっては何の心配もないと俺は思っていたんだ」

 古代米はゴールデンウィークに手伝った田舎の田植え作業のせいでさらに顔が黒光りしていた。

「だけど、なんだこのテストの答えは。なあ、お前何か学校に不満があるのか?今のうちならまだやり直せる。先生に悩みがあれば打ち明けてくれ」

 古代米に打ち明ける悩みがあるとすれば、この部屋にたまにキブリーさんが干からびているくらいだ。だいたい考えてみろよ。地球上でもっとも生命力溢れるテラテラ輝く奴等がこの部屋ではカピカピに干からびるんだぞ? どういうことか説明して欲しい。学校の七不思議どころか世界不思議発見レベルだ。そんな学校でどんな未来を描けと。なんだかもう古代米の顔の黒光りがキブリーさんたちの羽色と重なってきた。黒光り、テラテラ。

「まずはこの世界史の答えだ。問い『中国にある、万里の長城を築いた人物は誰か』。お前の答え『大工さん』、なんだ、これは」

「カーペンターです」

「誰が語句を置き換えろと言った。そういう問いではないだろう」

「それよりもそんな設問は小学校レベルです。何で高校二年生の問題で出したんですか?」

「そんなのは世界史の先生に聞きなさい。学年が変わったばかり、お前たちの基礎レベルを確認したのだろう」

「じゃあ、次の設問はなんですか。『陝西省にある秦の始皇帝の陵墓の周辺に埋納されたものを何と言うか』って、万里の長城築いた人の名前そこに載ってるんですよ? これは何か引っ掛け問題かと思うじゃないですか」

「だがその設問に対するお前の答え、『カニ』。なんだ、これは?」

「兵馬俑って書いたほうが良かったですか?」

「当たり前だ」

「当たり前すぎてつまんないじゃないですか。そもそも歴史とは不確かな過去に向かってどうあがいてもこの目で確認しようのない時代への空想でしかないんです。もしかしたら古代中国では兵馬俑を『カニ』と呼んでいたかもしれないじゃないですか。秦の始皇帝だって『ダイクサン』と呼ばれていたかもしれないんですよ?」

「お前はまったく」

 古代米は呆れて物も言えないような複雑な表情をしている。しかし俺は知っている。古代米は無類のお笑い好きなのだ。テレビのお笑い番組は逐一チェックしている。その複雑な表情の裏で笑いを必死にこらえているはずだ。

「それからこの生物のテスト。『ミトコンドリアについて知っている事を記述しなさい』となっているのに、なんでお前は延々とウズムシについて言及しているんだ?」

「ウズムシに対して無性に好奇心が湧いたからです」

 雪村父と金の争いをしていたプラナリアン柔術の借金取りのせいで、無駄な知識が増えた。

「好奇心が湧くのは非常に良い事だ。だがここではミトコンドリアについて聞いているのだ。ウズムシは関係ないだろう。お前、このままじゃ進路を決める際に必要な学力が正確に測れないだろうが。二年の段階で三年の進学クラスに入れるか決まるんだぞ? 俺はお前の学力は平均以上だと見ているんだ。なのになぜこんな不可解な回答をするんだ。おかげで全科目追試だ。今週の土日は学校に来るように」

 二年の段階で三年のクラスを決める前に、この進路指導室の行く末を決めた方が良い。先ほどから部屋の端を見ていると黒い陰が数匹横切ってゆく。歴史散策よりミトコンドリア追求より、キブリー退治の方が何ぼも先決だと思う。キブリーさん達と未来の進路を語ったところで行き着く先はバルサンに焚かれるか、体中ネバネバになって息絶えるだけだ。

 一通り説教が終わってキブリー部屋を出る。さすがに国語の答案に『この時の作者の気持ちを書きなさい』という問いに『そういえば金田一君まとまった収入があるって言ってたな』はまずかったようだ。働けど働けど暮らしが良くならなくてじっと手を見てたらそんなことも考えるだろうよ。これは本気で答えたつもりだったんだが。

 さあて、気を取り直して中間テストは小手調べだ。幕下から横綱まで一気に駆け上がる、お笑い出世街道。しかしとりあえず雪村にはしばらく触らないようにしておこう。余計な事をして激昂させては鉄仮面舞踏会が激昂仮面舞踏会になってしまう。辺りは血みどろだ。

 とえあえず事の次第をショージと本多ちゃんに説明しなければ。

 俺は帰り際に隣のクラスによって本多ちゃんに声を掛ける。そのまま生徒会室を覗く。案の定今日も居残りショージがパソコン相手にカタカタ議事録とやらを書いている。一人で陰気臭い。どうせならここを進路指導室に解放して、生徒会室をキブリー部屋にあてがえばいい。その方が全校生徒の為になる。輝く未来をここで語らしてやればいい。

「おっす。邪魔すんぞ」

 俺は本多ちゃんを中に入れる。

「入って大丈夫なの?」

 おずおずと彼女は尋ねる。

「平気さ。どうせ手際の悪い非効率的な男が一人残っているだけだから」

「うるさい。邪魔するなら帰れ」

 ショージが冷たく言い放つ。女の子にくらい優しくしろよ。

「何をそんなに作るの手間取っているんだ?」

 俺は奴が打っているパソコンの画面を覗き込む。ワードのタイトルは『(はく)(らん)(さい)企画書』となっている。白蘭祭とは我が校の文化祭の名称である。校章が白い蘭をモチーフにした形だからだそうな。

「そうか、企画はもう出さなきゃいけない時期なんだな。開催は十月末だよな」

「だいたい大まかな案は決まってきたから、あとは文書にして職員会議に回すんだ。今年も自由出演枠あるぜ」

 自由出演枠とは、クラスや部活などの枠を超えて、個人もしくは団体で出演できるステージ枠だ。バンド演奏、演劇、マジックショー、パントマイム、サーカス、お笑いマンガ道場、生命保険の勧誘、なんでもござれだ。但し三日間の中でステージがあてがわれる時間に限りがあるため、応募多数の場合は抽選になる。俺は去年コントを披露するために応募した。見事当選、三十分間の素敵な素敵な一人笑い芝居。笑いあり、涙あり、感動ありの一大センセーションを巻き起こした。

「去年のお前のステージはみんな失笑してたもんな。まさか今年もやらないだろうな」

「あれは俺の中では成功だったんだ。だから言っているだろう、周りの奴らの笑いのセンスが悪いんだって」

「私は凄く笑ったよ。あの後三日間くらい思い出し笑いが止まらなかったの」

「ほらみろ」

「本多、無理しなくていいぞ。こいつを図に乗せるとろくな事が無い。この間も自転車のサドル変えられたし」

「無理で言ってるんじゃないよ。私は春日井君の言う事が本当に面白くて」

「そらみろ」

 俺は勝ち誇ったように言ってやった。そんな時ドアから一人の男子生徒が入ってくる。男子生徒、というか、生徒会長。この学校随一の秀才にしてイケメン、剣道二段の輸吉先輩。

「別府、なんだ、お客さんか?」

 諭吉会長は爽やかに入ってくる。

「あ、すみません。変な友人一人いますけど気にしないでください。こっちの女子は去年同じクラスだった本多です」

「俺の事もちゃんと説明しろよ」

 ショージに言ったところで諭吉会長は笑いながら言う。

「大丈夫、知ってるよ。去年の白蘭祭のステージで、マニアックな一人コントやって失笑買った春日井君だろ」

 どうやら諭吉会長もショージと同じ種類の人間のようだ。笑いに関しては。

「そうですが、そんなにつまらなかったですか?」

「そうじゃないさ。マニアックだっただけで、俺は結構好きだったぜ。今年もやる予定なのか?」

 もとい、ショージより一那由他倍マシな人間のようだ。特に笑いに関して。

「いえ、まだ決めかねてますけど」

「そうか。ああ、そうだ、別府に用事があって。今作ってる企画書に追加して欲しい事項ができたんだ。このまえ議題にした屋外ステージの企画、あれも会議に取り上げてもらえるようなんだ。だからそれも含めて今週中に出来上がりそうか?」

「なんとかなると思います」

「諭吉会長、コイツは出来が悪いんでいつも居残りなんですか?」

 俺が聞くと会長はきょとんとした表情をする。

「春日井君、なにその諭吉会長って」

「この男は会長の事そう呼んでるんです」

 ショージが口を挟む。

「俺の名前が福澤だからか?」

「はい。学校一の文武両道好色一代男ともなれば値は千金、福澤諭吉くらいの価値です」

「お前はなんて事を」

 ショージがたしなめるのを横目に諭吉会長はケタケタと気持ちよく笑う。

「そうか。それは面白いな。是非今年も白蘭祭のステージ応募してくれよな」

 実は既に俺の中ではプロジェクトの最終段階が白蘭祭と決まっていた。雪村華乃を笑わせろ計画、題して『プロジェクトw』。wはカッコよくダブリューと読んでもいいけど、ネットで使われる笑いの記号、ワラ、と読んでくれても構わない。

「ちなみに別府は優秀だぞ。企画書はかなり綿密に作りこまれていて、一介の高校生が作ったとは思えない出来栄えだ。少しくらい時間が掛かっても許せる範囲だ。俺達が会議で決定した事項を更に説得力のあるものに作り変える、なかなかここまで準備できないもんだぜ。特に予算取りの段階では昨年との比較を用いてより分かりやすくした上で、経費削減の案も盛り込まれている」

 諭吉会長が言った事はつまりこうだ。ショージは細かい事にやおら拘泥して、考える事がおっさんくさい。周りの優しさに付け入って余計な時間を使っては、人が決めた事を誇張し改ざん。金にはうるさく去年の無駄遣いを徹底的に洗いだした、という訳。あまりほめられた性格じゃないと思うが。

「ところで春日井君、君は雪村華乃と同じクラスなんだって?」

 諭吉会長が不意に尋ねてくる。ショージもパソコンを打つ手を止め、本多ちゃんも俺に顔を向ける。会長はどうか知らないけれど、ここにいる三人には少なくとも今最もホットな人物だ。

「はい。二年生から同じクラスです」

「そうか。いやね、この前別府から雪村華乃の話を聞いたら春日井君が同じクラスだって言ってたからさ」

「もしかして蓮野先輩の話ですか?」

「そう。それ。なんだ別府もう話したのか」

 会長がショージに向かって言う。

「ええ。コイツがえらく雪村にご執心なんで教えてやったんです」

 ショージが答える。バカ野郎、そんな言いかたしたら勘違いされるだろう。

「へえ、君はあの愛想の無いようなのが好きなのか。ドエム? それともツンデレが好きなのか? もしツンデレ派だったら彼女の場合デレは期待できそうもないんじゃないか?」

 ほら言わんこっちゃない。秀才文武両道でもさすがに恋の百戦錬磨とまではいかないものだから、ドエムとかツンデレなんてありきたりな冷やかし言葉しか浮かんでこないのだ。それじゃあ映画「ミザリー」に出て来るアニーか、時々妙に優しくなるジャイアンでもいいってことになってしまう。良くないぞ、あんなのは良くないぞ。俺が惚れているのは目の前の本多ちゃんだ。何が悲しゅうて口角を上げたことも無いような鉄面皮を愛しく思えるというのか。お陰で本多ちゃんの俺を見る目が冷たくなっているじゃないか。どうしてくれるんだ。

「違いますよ。僕が彼女を気にする理由はもっと単純です。このままでは纏まるクラスも纏まりません。一人でも輪を乱す者がいればこの先我がクラスは体育祭に文化祭に好成績を残せなくなるでしょう。そうなっては良い思い出もつくれません」

「よく言うよな」

「ショージ、うるさい。まあ、それでですね、蓮野先輩の話なのですが、彼はもしかして強いものを求めて旅をするような、そんな猛者タイプなのでしょうか」

「うーん、あるいはそうなのかもな。アイツは昔から滅法強かったから相手を探すのに事欠いていたらしいんだ。そんなもんだからこの際強いと聞けば女だろうが手合わせを願おうとしているのかもな。若干トチ狂ってるな、それだと・・・」

「実際雪村は強いと思いますよ」

 この前、簡単に道端に投げ飛ばされたのは伏せておくことにした。

「親が中国拳法の師範代なのですが、調べるとよくあるような太極拳や空手道場ではないようです。八極(はっきょく)(けん)とか、蟷螂(とうろう)(けん)とかいう聞いたこともない武術をいくつか教えているらしく、雪村父親に関しては警察庁もお世話になっているとかなのです」

「警察か!」

 閃いたように諭吉会長が言う。

「そうか。蓮野の親は警察官だ。何かそこに理由があるかもしれないな」

 なるほど。そうなると蓮野先輩の親御さんが訓練の一端で習った武術の中に中国武術があったのだろう。そして雪村父に教わった。どんなに訓練しても蓮野父は雪村父に勝てず涙をのんだ。蓮野先輩にしてみれば親の仇討ちのようなものかもしれない。まあ、まさか本当にそんな理由ではないとは思うけれど。ショージが会長の前では猫を被りながら言う。

「会長は蓮野先輩と仲が良いんですか?」

 諭吉会長は首を微妙な角度に捻った。

「うーん、剣道部と柔道部は道場が隣合っているからそれなりに話したりするけどな。何かと頼りにしている存在だが、後輩の女子に手合わせを願うその気持ちはどうも理解しかねるんだよなぁ」

「まあそうですよね。本多ならどう思う」

 ショージは本多ちゃんに聞く。

「怖い」

 まあ、そうだろうな。腕っ節の強い雪村でも何だか得体が知れなくて怖いだろうな。技では勝てても力比べになったら絶対に勝てないだろう。そんなの相手にしたくない。

「でもなんだか雪村さん可愛そう」

本多ちゃんがか細い声で言う。

「お父さんの仕事上手くいってなくて、学校でも友達いなくて、近寄ってくる人は熊さん並みの体躯。私だったらやりきれない」

熊さん並みのって、深刻そうに話しているから他の二人は気がつかなかったかも知れないけど、本多ちゃんもいい加減失礼な事をさらりと言うもんだ。俺は笑いをこらえるためにむせかえる振りをする。

「ところで諭吉会長、聞いていいですか?」

 俺は気を取り直して言う。

「なんだ?」

「その蓮野先輩は今どこにいますかね」

「そうだな。インターハイ近いから部活だろうな。柔道部の稽古場だろう。って、春日井君、まさか」

 俺はニヤリと笑う。

「そのまさかですよ。百聞は一見に如かず。たまに一見は百聞に如かない場合もありますけどね。伊豆知ちゃんのアニメ声とか」

 最後はボソリと言ったつもりだったんだが、そこでショージが珍しく噴出した。

「なんだよ、お前笑うなよ。伊豆知ちゃんに失礼じゃないか」

「バカ、お前が変な事いうからだろう」

 諭吉会長と本多ちゃんがポカンとしている。

「分かりました、会長ありがとうございます。アポ無しで行って投げ飛ばされるかもしれませんが。本多ちゃん行こう。ショージはまたな」

 俺はいそいそとその場を去ろうとした。諭吉会長が言う。

「俺も別府が企画書作り終わったら剣道部に顔だすつもりなんだが、稽古場隣同士だから何かあれば相談してくれよな。蓮野は無防備な後輩に手を出すような人間じゃないと思うけどな」

「よっこいしょういち!」

「は?」

「いえ、合点承知のすけ!」

 どんないい間違いだよ。自分で突っ込みたい。こんな時に津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)がいたらなあ。俺はお礼を言うとそのまま柔道稽古場へ本多ちゃんと二人で向かった。

途中、雪村が俺の尾行に気付いて逆につけられた事を話した。もちろん投げられたのは伏せた。

「ええ、じゃあ私達の行動彼女知ってるんだ」

 可愛い目を丸々とさせながら本多ちゃんは言う。

「うん。俺としては彼女を笑わせたいだけなんだけど、向こうさんは他の理由を勘ぐっているようなんだよな。まあ、笑いを取りたいだけって分かっていたら逆尾行なんてしないか」

「うーん、笑わせるだけにしては行動が不審すぎるものね」

 本多ちゃん、その通り! 俺は間違いなく不審者だ。

「でも私はちょっと楽しんでるんだ。雪村さんには申し訳ないけど探偵役やっているようで、なんだかドラマみたい。不謹慎かもしれないけど」

 そう言って微笑む彼女。雪村笑わなくても本多ちゃん喜んだからなんだかもういいか。『プロジェクトw』やめようかと思う。この歳の青少年の志なんてこんなもんか。

「でもだからこそ雪村さんにも元気になって欲しい。私だけこうして楽しんでも彼女に何もプラスがなかったら、悪い気がして私もきっと笑うの止めてしまうかもしれない」

 すいません、神様、やっぱ続行します。

「春日井君なら、きっと彼女笑顔にできるよね?」

「必ず」

 俺は自信溢れる表情を作ってみせる。人生観ってのは三秒で変わるもんだ。

 さて、俺達は体育館の隣にある「ブドウ缶」へ行く。正確には「武道館」なんだが、甘い方が俺は好きだ。この建物は二階建てで、一階に剣道及び柔道の稽古場がある。二階は空手部と合気道部、薙刀部がある。入り口にはいると靴を脱ぐスペースがある。俺達は靴下になってお邪魔する。内部は意外にオープンな造りになっている。仕切りは柱が立っているだけで、入り口から柔道部も剣道部も見渡せるようになっている。仕切りを閉めるときは壁に仕舞われているパーテーションを天井のレールに沿って出せるようになっている。窓は足元に取り付けられ、ほぼ全部の面が開く仕組みになっている。板張りの床と壁からは木の香りがする。出来てさほど年月が経っていないためにまだ床や壁がピカピカだ。

「あれぇ、春日井君じゃないか」

 名前を呼ばれてふと声の主を探す。視界に入ってきたのは俺が先ほど非常に必要としていた津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)だった。彼は柔道着を着て帯を締めている。そうだ、彼も柔道部だったんだ。すっかり忘れていた。練習の合間なのか、汗で髪の毛が顔に貼り付いている。

「どうしたの。見学? ついに君も部活動やる気になった?」

 俺のどこを見たら柔道したそうに見えるんだ。

「いや、そうじゃないんだけど」

「あ、じゃあこっちの女の子がマネージャーになってくれるとか? 丁度今募集してるところなんだよね」

 頼むからそれだけはやめてくれ。本多ちゃんは渡さん。

「いや、この子は違うんだ、津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)」

「はあ?」

「いや、津田君」

 そう、津古箕田君の本当の苗字は津田君だ。人に突っ込むのが好きな津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)が、津田君。あまり変わらないからいいよな。

「実はある事情があって、お宅の部長に話があるんだが」

「蓮野先輩にか? 今は稽古に集中しているから無理だと思うぞ」

「もちろん終わってからでもいい。何時までやってるんだ」

「今日は六時頃までだろうな」

「六時だと? それじゃ帰ったら“平成古狸合戦ポンポコ” が終わってるじゃないか」

「何それ?」

「国会中継だよ。分かった。じゃあ終わる頃また来る。行こう、本多ちゃん」

「うん」

 俺と彼女は再び靴を履いて出てゆこうとする。その背中に声がかかる。

「春日井君、君って本当変な人だな」

「津古・・・津田君こそ。授業中あまり突っ込んだ発言で笑わせないでくれよ」

「それはこっちのセリフだ。今日だって英語の時間に変な事言ってたよね。何でビートルズの歌の歌詞が『ミッシェル、まあベラ、そんでもって子泣きジジイ』になるんだよ」

 聞かれたので俺は答える。

「ミッシェルと妖怪人間ベラと子泣きジジイが遊びに来たんだろう、ポールかジョンの家に」

「何でベラと子泣きジジイなんだよ。漫画も違うし。イギリスに日本の妖怪いないし」

 うーん、さすが津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)。ショージなんかと違って俺のエスプリの効いた変化球を打ち返してくれる。横で本多ちゃんが苦しそうにヒーヒー言っている。

「どうしたの?」

 俺が聞く。

「だって、だって、『ミッシェル』って曲でしょう? 私のクラスもそれこの間やった。ちょっとだけそんな風に聞こえるかも」

 どうやら笑いが止まらなくなってしまったらしい。俺は嬉しい事この上ないが本多ちゃんを酸欠にするわけにはいかない。ジレンマだ。しかし俺はついつい「そんでもって子泣きジジイ、まあ、ミッシェル♪」なんて歌ってしまうものだから性質が悪い。未来の幸福よりも目先の利益に囚われるタイプだったなんて。便乗して津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)も笑う。

「春日井君は突っ込み甲斐があるよね。一緒のクラスなれて楽しいよ」

 キタキタ、想定外の賛辞。しかも突っ込み役から突っ込み甲斐があると診断されるなんて本望だ。

「じゃあ、ま、六時頃また来て見てよ」

 津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)はカラカラと笑うと稽古に戻っていった。雪村もあんな風に楽に笑わせられればとも思うが、やはり難関だからこそ遣り甲斐がある。簡単に手に入れた百円でガリガリ君を買うのと、苦労して手に入れた百円でガリガリ君を買うのとは訳が違う。勝利の美酒とは言ったものだ。

 さて、遅くなるからと俺は先に本多ちゃんを帰した。彼女は一緒にいると言って聞かなかったが、ビートルズの“ミッシェル”をエンドレスで歌いだしたら諦めて帰ってくれた。俺はショージのいる生徒会室でネタ帳を広げて暇を潰した。六時になる頃、丁度ショージもやっと企画書とやらを終えたらしい。ショージにはいくら“ミッシェル”を聴かせてやっても奴は顔色一つ変えなかった。アイツんち多分童謡くらいしか大衆娯楽は許されていないんだろう。

「さっきから何変な歌うたってるんだよ」

 帰り支度をしながらショージはやっと俺の歌に興味を示す。

「ビートルズ」

「ふーん」

「おい、それで終わりか? 興味があるのかないのか?」

「ない」

「だったら聞くなよ」

「聴いてないって。うるさくて気が散っただけだ」

「今聞いたじゃないか」

「お前の歌なんか聴いてない」

「でも何の歌か聞いたじゃないか」

「聞いたよ。でも聴いてなかった」

「聞いたって」

「聴いてない」

 よく分からなくなってきた。俺もネタ帳をしまってブドウ缶に再び向かう事にした。職員室に行くというショージと別れて俺は一人体育館横にある建物に近づく。缶からは明かりが漏れていて、まだ多くの人の気配がする。

 入り口に来ると丁度〈石綿金網ヘアー〉こと化学の下柳が出てくるところだった。確か剣道部の顧問だったと思い出す。頭は石綿金網でも腕前は六段持っているとか。そんな彼の最大の発明は、剣道の防具の消臭剤を実験で作り出したことらしい。大学の卒業論文もそのテーマに沿って書かれて試作品も作ったとか。しかし某製薬会社からすでにもっと効率的でコストのかからない製品が開発されたため、卒業は出来たがその消臭剤が使われることはこの世では永久にないらしい。そんならあの世で使えばいい。

「えーと、春日井君だったね。どうしたんだい。何か用事かい」

 石綿金網ヘアーのミスター下柳は抑揚の無い調子で喋る。

「ええ、友人に用事がありまして」

「そうかい。気をつけて帰るんだよ。また明日な」

「はい、石綿・・・」

「うん?」

「いい幸せな気分で登校してきます!」

「うむ。よい心がけだ。気持ちが一番だからな」

 石綿金網ヘアー・ミスター下柳はそう言うと行ってしまった。夕闇に消えてゆく後姿は真っ白な頭が浮かんで、さながらでっかいコンニャクのようだ。

「春日井君、本当に来たね」

 振り向くと津古箕田君(俺が勝手に呼んでいるだけ)がそこに立っている。更に汗で濡れた髪の毛が頭といわず額といわずこめかみといわずに引っ付いて、なんだかヌラヌラしている。

「おお、春日井君、本当に来たな」

 続いて諭吉会長にも声を掛けられる。彼は剣道着を着ていて胴を身につけているが、こちらも顔が汗でテカテカしている。できればどちらも今は寄って欲しくないと思うのは俺だけであろうか。そして世の女性は好きな男ならこのどっちの状態とも付き合えるのだろうか。

「あれ、福澤会長も春日井君に用事があるんですか?」

「うん? 津田も用事が?」

 俺は二人に説明する。

「同じ用件ですよ」

 すると二人は顔を合わせて、なるほどというような顔をした。問題の蓮野クマ先輩は、と言うと畳に雑巾がけをしている。

「おい、津古箕・・・津田君。部長が雑巾がけをしているのに、後輩の君がぼんやりしていていいのか?」

「ああ、雑巾がけは一年の仕事なんだ。二年は二年でロッカールームの清掃がある。俺はそれをやってきたんだ。うちの部長はそのどちらも率先して手伝うんだ。三年は掃除しなくていいんだけど。立派な心がけだろう」

 クマ野先輩は聞きしに勝る優等生のようだ。だが雪村に何らかの興味を抱いているのも事実だ。もしおかしな事を考えているようであれば止めさせないと。これ以上雪村が周りに対して警戒心を持つと、俺のミッションコンプリートが難しくなってしまう。俺が既に怪しい行動で彼女の心を閉ざしてしまったので、これ以上は他の人には避けていただかねば。

「部長呼んでくるからここで待っててくれ」

 親切にも津古箕田君(以下省略)はクマ野先輩を連れてきてくれるようだ。

「春日井君、俺も話聞いていていいか?」

 諭吉会長が言う。

「ああ、いいですけど。諭吉会長も興味がおありなんですか」

「まあな。三年間隣の稽古場で顔つき合わせてても人の考えることなんてわからないもんなんだな。純粋に蓮野の考えていることに興味がある」

「大した理由じゃないかもしれませんよ」

「昔フラれた腹いせとか」

「それだと大した理由ですよ。一回投げ飛ばしたくらいじゃ気が収まらないかも知れません」

「そうか?」

 俺は先日雪村に投げられた事を思い出して、またしゃくに障った。あの細腕、細腰でよくも。俺はフラれたわけじゃなくて投げられた訳だが、こうなったら本当に笑わせないと気がすまない。

「例えば、餃子は焼くか水餃子にするかで昔揉めた決着をつけたい、とか」

「どんな揉め方だよ。別府の言うとおり君は変な奴だな」

「そんな褒めないで下さい」

 諭吉会長がケタケタと笑う。この人は口が大きくて笑うと顔半分が口になる。アラニス・モリセットや、エアロ・スミスのスティーブン・タイラーのようだ。しかしあの口のお化けみたいなのから、よくも美しいリブ・タイラーが生まれてきたものだ。混血とは進化にとって必要不可欠なのだろうか。

 ややあって津古箕田君とクマ野部長がやってくる。津古箕田君はどちらかというとヒョロ長い方だ。となりにいるクマ野部長は顔立ちは精悍だがとにかく図体はデカイ。二人並ぶと、「長い方」と「太い方」になる。「太い方」がのっしのっしやって来るので、俺はいささか緊張した。隣に諭吉会長がいるから何とか平静を保っていられるものを。ある日森の中クマさんに出会ったら、クマさんの言う事を聞かなくてもスタコラサッサッサとお逃げになるだろう。そんな心境。

「よお、福澤も一緒か。下級生が俺に用事があるって?」

 クマ野先輩が言う。下級生って今時口にして言うものなのだろうか。

「どうも、下級生の春日井です。津古箕田・・・津田君とは同じクラスの者です」

 俺が答える。

「ふうん。まあ、何の用事だ」

「これまた同じクラスの雪村華乃の事で」

 そこまで喋るとクマ野さんの方眉がピクリと動いた。

「先輩は雪村と手合わせを願い出ているそうですが、どうしてですか」

 津古箕田君が横でキョトンとしている。話が飲み込めないのだろう。突っ込みの無い津古箕田君なんてウドが大木喰らったようなものだ。するとクマ野さんは諭吉会長を見る。

「お前が教えたのか?」

 会長、デカイ口をにまっと広げて言う。

「まあ、そうなるかな」

「何で言うんだよ」

「ここにいる春日井君が、雪村華乃に興味を持つ奴は俺が倒してやるって豪語してたから」

「ちょ、まっ、・・・」

 会長、いきなり何を言い出すのやら。思わず面白くもなんとも無い普通のリアクション取っちゃったじゃないか。

「冗談だよ。俺だって気になったんだよ。お前ほどの腕前の持ち主が、なぜ一介の女子高生を相手にしたがるのか。手合わせ願い出るなら他にごまんといるだろう」

相変わらずウドが大木の津古箕田君はポカンとしている。いつもの突っ込みはどうした。どうして公務員万歳に対してするみたいに切り込みを入れないのだ。

「そんな事、お前にはどうでもいいだろう」

 あ、クマさんが怒った。ちょっと声にドスが効いている。

「まあな。どうでもいいよ。でも相手は年下の女の子だぞ? そんなに好きなのか? 彼女の事」

「好きじゃねぇ。個人的な恨みなんだ。一度投げ飛ばしてみりゃスッキリするだろうと思ってな」

「何か事情があるんだな? 恨みって結構な事件があったようだな」

 諭吉会長が言う。

「事件って程でもないさ」

 クマさんはそう言うとプイっとそっぽを向いてロッカールームの方へ歩いていってしまった。津古箕田君が俺と諭吉会長の顔を交互に見る。

「一体なんなんだよ」

 俺に向かって言うので答える。

「クマ野・・・蓮野先輩が雪村華乃と手合わせを願い出ているようなんだ。あの様子だと今の所断られているんだろうけどな」

「はあ? クマ野・・・蓮野先輩が、雪村に、何で」

 どうやら津古箕田君も陰でクマ呼ばわりをしているらしい。

「それを探りに来たんだけど、駄目だったようだ」

「へぇーー。雪村の豪腕怪傑伝説は本当のようだな」

 本当も何も、俺は実際投げられた。津古箕田君が続ける。

「強い人間を求めて手合わせなら理解できる。でも蓮野先輩が個人的な恨みをはっきりと口にするのも珍しいし、それが理由で果し合いなんて、さらに考えられないなぁ」

「俺もそう思うんだ」

 横から諭吉会長が口を挟む。

「アイツは恨み辛みで人をどうこうするタイプに見えないんだよな。それが女相手なら尚更の事、手合わせなんて考えられない」

 すると津古箕田君が言う。

「体触りたいからじゃないんスか? 柔道の寝技のみの試合方式で申し込んでるとか」

 津古箕田君の思考回路が俺と似ていたので、諭吉会長になんや言われる前に自分から発言した。

「どんな変態だよ。お前さっきと言っている事が違うぞ。雪村だったらそんな奴一発でマットどころか地球に沈めこんでそのままブラジル送りにしているよ」

そうだ、プラナリアはブラジリアン柔術と言ったな。そうだ、思い出した。

「クマ野と雪村華乃の間に何があったかわからないけれど、それなら尚の事恨みで人に敵意を抱くようなら、この先の試合ににも影響がでるだろう。俺からそれとなく話しておくよ。君達からじゃぁ言いにくいだろうから」

「会長、クマ野じゃなくて蓮野先輩です」

 さすが津古箕田君。自分が呼んでいるのは棚に上げて生徒会長に突っ込みを入れた。

「おっと。俺今クマ野と言ったのか? 気がつかなかった。普段そんな風に呼ばないのにな。クマとハスじゃ全くかみ合わないじゃないか。おかしい」

 きっと俺達の毒にこの時間内に侵されたのだろう。

「何か分かったら教えて頂きたいんです。ショージ経由でも構いませんので」

 俺は諭吉会長にそう告げる。

「ま、こういうの、乗りかかった船っていうんだろうね」

 座礁船ですけど。

「俺も気になるから調べつくとこは探しておくよ」

「ありがとうございます」

 俺は頭を下げる。よく分かってないだろうが津古箕田君も頭を下げる。会長も剣道着を脱ぎにロッカールームの方へ消えていった。


    : )


 さて、俺はこの後果敢にも一人クマ野先輩に挑み、お得意の尾行で相手の動向を探り、彼を説得、知られざる胸中を耳にする。というのは特にしたくなかったのでしなかった。相変わらずショージを屋上に呼び出したり、生徒会室に入り浸って諭吉会長と話をしたり、たまに本多ちゃんと一緒に帰ったりしているくらいだ。変わったことといえばアレ以来、津古箕田君と親密になったことかな。俺がうっかり何度も彼の本名ではなく津古箕田君と呼ぶものだからもうどうでも良くなったらしく、すっかり諦めモードだ。そんな呼び方をする理由を聞かれたので、戦国時代豊臣に仕えた武将の部下で柔道が得意な津古箕田という男がいて、その人物は君主がうっかり失敗しても絶妙のサポートで危機を救った、その像と重なるからだと嘘をついてやったのだが、すっかり信じ込んでしまった。俺としてはボケたつもりだったんだ。華麗なる突込みを期待していたと言うのに、心が萎える。

 雪村華乃はどうしているかというとこれまた相変わらず何もかもそのまま。ジメジメした梅雨が巡っても凍て付くブリザード。授業中当てられて答えるものの最近はその声までもが永久凍土、シベリア鉄道、液体窒素、太陽から遠く離れた上に惑星から外された冥王星。ただ気になるのがこれまでにも増して美しさが際立ってきている。何が彼女をそうさせているのか。孤独と引き換えにそうして美しくなってゆくのか。憂いを秘めた表情は日に日に艶を増す。もしこの女が折々に深いため息など吐くような女だったなら、俺はこうも気持ちを向けることなどなかったのだ。なぜなら自ら孤独を選んでいるくせに、意味ありげな深いため息など言語道断。ただの人付き合いが苦手なだけの構ってちゃんだ。ため息でしか自分の存在を示せない人間なんて、俺と相容れない人種の最先端だ。そんなの笑わせようとする気も失せるってもんだ。けれど雪村は違う。あの女は鮮やかで潔すぎる。自分の信念を貫くとはかくもあるべきかと思う程美しく凛と孤独を選んでいるのだ。世の中に女は星の数ほどあれど、これ程まで孤独の中にいて微動だにしない人間はいないだろう。

 だから俺は少し考え直したりするんだ。まあ、真面目な話だぜ。俺は雪村も屈託無く笑うのが幸せなんだって思ってやってきたんだ。普通の女子高生らしく友達や彼氏なんかと笑い合って楽しく過ごすのがアイツにとってもきっと幸せなんだろうって。でもそういうレールに全く乗らない人種だっているかも知れない。俺は笑いが人を救うと思っている。うん、ある程度まではきっと救えるはずだ。冷えきった仲だって、笑い合っていれば意地張っていた事がどうでも良くなったりするし、暗い雰囲気も一気に明るくなるし、嫌なものも吹き飛ばせる。心から腹から笑う事は、古いいらないものを出して新しいものを入れるスペースをちょっとだけ空けてくれる逆掃除機のようなもんだと俺は思っている。戦争だってお互いの国民をどっちがどれだけ多く笑わせたかで争えばいいんだ。そうすれば勝った方も負けた方も笑って済ませられる。でも雪村を見ているとそれが彼女に当てはまるのかどうか疑問に思う時がある。人と付き合い、情を深めること、それは人間の社会的活動にとって必要不可欠だ。人の心を案じ、理解し、痛みや苦しみを慮れるようになってこそ人として成熟してゆく。けれどそれが致命傷になる人間がこの世にいるとすれば、どんな人種なのだろう。孤独であるがゆえに芸術性を高めたアーティストや文豪はこれまで多く存在する。雪村もそんなタイプの人間だったとしたら、俺が干渉するというのは正しいものか、正しくないものか。

 けれどもさ、隠遁してしまう一部の人間はおいといて、孤独であった芸術家達は決して孤独を心から受け入れてはいなかったと思うんだ。むしろ孤独にならないために創造し、愛する人との穏やかな暮らしを夢見て、夢果てた。

雪村は、どうなんだろう。

俺が柄にも無く哲学的な事を考えてしまったからか、帰り支度をする頃には季節はずれの雷を伴う豪雨がばしゃばしゃと降り注いでいた。

「春日井君、蓮野先輩が呼んでるよ~」

 呑気な声が教室のドアのほうから聞こえてくる。どうやら卑猥田君が俺の名を呼んでいるようだが、それにしても蓮野、はて、誰だったかな。

 俺は廊下に出る。そこにいたのはクマ野先輩。しまった、クマクマ言い過ぎて蓮野先輩という本名を忘れてしまっていた。そういえば諭吉会長も諭吉って名前でよかったんだっけ。本来なら呼び出しを喰らったことに驚愕すべきところなのだろうが、俺は名前を忘れた“クマ・ショック”の方が大きかった。

「あのう、なんでしょうか」

 精一杯営業スマイルを作る。ついにクマ野先輩と呼んでいるのがばれたのだろうか。告げ口する輩がいるとすればショージか、諭吉会長か。

「話がある。途中まで一緒に帰るぞ」

 そのセリフの後、俺の頭には“学校のクマさん”という歌が流れた。

 ♪あるぅ日、学校の中、クマさんに、出会った。雷雨のか・え・り・道~、クマさんにでぇあぁった♪ 

嬉しくない、嬉しくないぞ。その後はお決まりで、

♪クマさんの言うことにゃ、お兄さんお逃げなさい♪ 

で、俺逃げる。

♪とぉこぉろぉが~、クマさんは、後からついてくる♪ 

トコトコなんて可愛いもんじゃない鬼の形相。俺が落としたものは白い棺桶の小さなネジの部品。そんなパターンだろうな。嬉しくない、嬉しくないぞ。

「えと、込み入った話でしょうか」

「かなりな」

 ひぃーー。俺は心の中で悲鳴を上げた。次の瞬間、掛けられるかもしれない柔道の技が走馬灯のように巡る。しかし一方で俺の観察眼は目の前のクマさんの視線を捕らえていた。クマ野先輩の目は何かを探すように泳いでいた。それが雪村だと気付いた俺は、クマさんに悟られないようにドアガラスに映った影で、雪村のいる位置を確認する。クマさんの視線の先は明らかに雪村華乃だ。そしてゆっくりと振り向いた雪村はおそらく彼と目が合ったのだろう。ガラス越しにしか見えなかったが、多分、一瞬強張った表情をしたように見えた。しかしすぐに何事もなかったかのように俺達の横を通り過ぎて姿を消してしまった。クマさんの表情は変わらない。もし雪村に対して彼が精神的になんらかの、分かりやすく言えば恋愛感情があったなら、どんなに気丈に振舞ってもがっかりする瞳の仕草が見て取れるはずだ。それを隠し通せるほどクマさんは器用ではなさそうだ。

「僕も話を聞いてみたいことがありますから、時間かかるかもしれませんね」

「構わない」

「あと、できれば人気の多いところで・・・」

「何でだよ。俺が聞かれたくない話をするのに人気の多いところに行けと?」

 やばい、ムツゴロウさんこと畑正憲さん、どうかここへきてクマの相手を!

「ああ、いいえ。僕が隙間恐怖症なので」

「はあ?」

「隙間が多いと怖いんです。あとスキマ男も」

「スキマオトコ? よく分からんが、まあいい。福澤も呼んだところだ。下駄箱で待ってよう」

 俺はほっとした。ムツゴロウさんは来なくとも、どこのどなたか存じませんが福澤さんという方もご一緒なのですね。ああ、でもその福澤さんもクマさんの一派だっだら。寝技と投げ技の併せだったら、身の危険は倍になる。こんなことになるなら、財布の中の一万円ケチってないで今日の昼休みに購買で豪勢に厚切りベーコンマヨネーズパンとハムタマゴパンの食事をするんだった。福澤諭吉さんが惜しいからって・・・。ああ、福澤さんって、諭吉会長のことだ。

 クマ野先輩に連れられ、下駄箱の前で想いは千千に乱れているうちに諭吉会長がやってくる。剣道二段は関係ないけれどイケメンがこの時ばかりは眩しく見えた。

「悪い悪い、ちょっと遅くなった。さあ行こうか」

 どこへいくんですかぁ、どこへぇ。俺は靴を履き変え、二人の猛者の後を着いて行った。一人は爽やかな秀才イケメン、ひとりは精悍なごっついクマメン。だがクマの世界では美貌に違いない。

道路へ出て、道順は学校からの最寄り駅、M駅に向かっている。電車に乗るのだろうか。それとも二駅先にあるI公園でムツゴロウさんがクマと戦った場面を再現するのだろうか。ついつい諭吉会長の手にハンディカムなんて無いか確認してしまう。いっそのことパスモを忘れてしまったことにして財布の中の有り金をパンツの中にでも隠してしまおうか。小銭は靴の中。どうだ、電車には乗れまい。

 そうこうしているうちにやはりM駅に辿り着く。なんともまぁ親切にもクマ野先輩が俺の分も切符を用意してくれるじゃありませんか。

「あのう、どちらへ」

 不安もピークに達し、俺は聞いてみる。

「K駅まで。そこから歩いて五分くらいだ」

 何がですか。動物園ですか、動物王国ですか。どちらもK駅周辺にはございませんことよ。近くて上野、王国行くなら北海道ときたもんだ。電車に乗ると二人の上級生は高校総体の話を始める。今年団体戦はどうのとか、個人は誰が出場するとか。たまにクマ野先輩から投げ技だの締め技だのを聞くと体が震え上がりそうだ。もし何かあった時は俺らしく笑いを取って切り抜けよう。可笑しいと力が入らなくなるもんだ。最高のギャグは最大の防御なり。そうだ、お題回答形式にしよう。お題、「全く人気の無いテーマパーク、一体何のテーマパークでしょうか」。答え、「国内最大級のスネ毛テーマパーク」。駄目か、まだ弱いか。お題、「もう恋なんてしない、一体何があったのか」。答え、「好きになった人がみんなスネ毛」。

ああ、これじゃあ相手の力弱めるなんて無理だろう。

とにかくあとは三十六計逃げるに如かず。そんなことが頭を巡っているうちにK駅に到着する。俺達は電車を降り、改札を抜ける。駅の南口に出ると、目の前の商店街を抜けて歩くこと十分、とあるビルの前に辿り着く。ビルというよりは、よくよく見るとスポーツクラブのような構えの建物だ。一体ここで何を行うというのだろう。

 クマ野先輩が先頭に立って俺達を招きいれる。まさか秘密結社ではなかろうかと辺りをキョロキョロする。目玉のマークみたいなものは見当たらないようだ。自動扉の向こうは果たして広いホールだった。更に言うと美しいネーチャン二人が受付のようなところでお人形さんよろしく佇んでいる。

「いらっしゃいませ」

 軽く頭を下げられてそんな事を言われる。いよいよ秘密クラブに潜入か?

 クマ野先輩が鞄からカードのようなものを取り出し、二人に見せると、彼女達は「あっ」というような顔をしてクマ野先輩を受付の先に通した。俺がぼんやり立っていると先輩は言う。

「こっちへこいよ」

 言われるままに俺達二人は着いてゆく。

「おい、蓮野」

 諭吉会長が口を開く。

「ここ、お前の親類が経営しているっていう道場か?」

 前を行くクマ野先輩はだまって頷いた。中央の階段を上って二階にあがる。自動販売機の設置されたスペースにはソファーが並べられ、ガラス張りの向こうには一階から吹き抜け状になっている道場が見えた。数十人の子供から大人まで稽古をしている最中のようだ。

「まあ、座れよ」

 俺と諭吉会長は言われるままにソファーに適当に座った。向かいのソファーにクマ野先輩が座る。俯き加減に床を眺めながら押し黙っている。俺もその視線の先を追ってみた。すると床にはマジックで一言「スネ毛」と落書きしてあった。俺は思わず口を押さえて咳き込む振りをする。なんだよ、この緊張感ゼロ。

「俺はな」

 クマ野先輩が“スネ毛”の文字を眺めながら口を開く。

「俺は、雪村に申し訳がないんだ」

 一緒に“スネ毛”をぼんやり見つめていた諭吉会長が顔を上げる。もう彼は“スネ毛”に興味はないだろう。

「どういう事だ?」

 会長が聞く。

「ここは俺の叔父が経営する柔術道場だ。ブラジリアン柔術といってな」

 出た、プラナリア。違う、ブラジリアン。それをプラナリアといい間違った雪村父も酷いよな。

 俺も“スネ毛”への興味が薄れ、一旦クマ野先輩の顔を見る。

「まだ俺が小学校の頃、警察庁に勤める俺の親父が、警視庁の警察学校の外部講師として、俺の叔父を推薦した。競技用の柔術しか教えない道場がほとんどだった中で、叔父は護身術の稽古も行うやり手だったからだ。お陰で女性の入門も増えて、叔父のこの道場はどんどんでかくなってきた。ところが、だ」

 クマ野先輩はカッと目を見開いて言う。

「警察学校の専任講師が当時懇意にしていたのが雪村の親父さんだった。みるからに胡散臭そうな、『仙人ですか』と問いたくなるようななおっさんの道場に通ううちに、だいぶ感化されたらしいんだ。やがて専任講師は叔父の教えにいちいち口を出すようになった。中国武術ではこうだああだと、何かにつけて雪村という男の名前を出すものだから、叔父は頭にきてそれ以降外部講師の依頼を断った。そこまではよしとしよう」

 クマ野先輩は再び“スネ毛”辺りに目を落とす。どうやら雪村父は警視庁で講師をしていた訳ではなく、講師をしている人に中国武術を教えていたようだ。

「問題はそこからだ。叔父は何かにつけて中国武術を目の敵にするようになった。正直道場は上手く行っていたのだから金銭的な恨みはない。けれどこれが我が道と信じて突き進んできた物が否定された事に腹をたてたんだろう。果たして叔父は果し合いを、おっと洒落じゃないぞ」

 素人は余計なノリ突っ込みを入れないほうが良い。

「どっちが武術として上か決着をつけようとした。だが自分の優位性を証明するための私欲にまみれた武術が、冷静な判断をもった仙人みたいのに敵うはずもなくコテンパンに打ちのめされた。俺はそれを目の前で見ていたんだ。そしてその時、雪村父と一緒に来たのが、娘雪村だった」

 なんと、クマ野先輩は何年も前から雪村とお知り合いだったのだ。そこまで話すと彼はがっくり肩を落としたようにうなだれた。見ようによっては“スネ毛”の文字をまじまじと観察しているようだ。

「俺はその時悔しい気持ちになって、小学生とは言え恥ずかしい行為に及んだんだ。目の前の小さな女の子に向かって、俺達が戦って決着を着けようと申し出たんだ。叔父はそれを聞いてノリノリになった。何せどんなに頑張っても雪村父に勝てないもんだから、藁にもすがるような気持ちで一泡でもいい、何か噴かせたかったんだろうな」

「だが、お前も負けた」

 間髪いれずに諭吉先輩が突っ込む。

「まあ、そんなところだ。小学生の体格差なんてたかが知れているんだ。しかも雪村親子は何もかもお見通しで冷静沈着、目くじら立てている俺達を倒すのは容易だと悟っていたんだ」

 自業自得でしょう、とは先輩に対して言えず、腕を組んでひたすら話に聞き入る振りをする、俺。

「その後、俺はショックで柔術の道から遠ざかった。柔道を始めてその道を極める事に専念した」

 柔術から遠ざかるのに柔道? バスケとかじゃないんですね。

「だがしかし、叔父はその事をずっと根に持っていた。商才はあったらしく、道場の規模を大きくし経営を軌道に乗せると、雪村父の道場の傍に大きなスポーツクラブ並みの施設を擁した総合格闘技練習道場なるものを建ててしまった。しかも格安の会員料金で。道場維持に困った雪村父は他へ移転。しかし門下生は既に激減していて資金繰りに困っていたようだ。そこへ金を貸しにやって来たのは叔父の回し者。そうとは知らず雪村父は多額の借金を申し込んだ。叔父の思惑通りに事は進み、期限どおりに返済させないように仕立てあげられ、挙句に一度でも滞ったら中国武術道場は柔術道場に変えるという契約内容を無理やり押し付けようとしている」

「ひどいな」

 諭吉先輩がポツリと言う。

「そんなはっきり言わないでくれ」

 では遠まわしに、クマ野先輩の叔父さまは通常の人間の感覚ではあまり考えられないような人を貶める所業を敢えてなさる勇敢な方ですね、とでも言えばよいのだろうか。

「で、それと雪村華乃が今どうして結びつくんだ?」

「だから、俺は申し訳ない気持ちで一杯なんだ。雪村はきっと俺に恨み辛みを抱いているに違いない、むしゃくしゃしてそれであんな捻くれた女になったに違いない。だからあいつがスッキリするなら、俺の事を何度でも投げ飛ばしてくれればいいんだ、そう思って小学生の時のように戦おうと申し出たんだが、なんの反応も示さず今に至るんだ」

 俺は思わず後ろにのけ反って、勢いで床に転がってしまった。

「おい、大丈夫か?」

 諭吉先輩が立ち上がって俺に声をかける。大丈夫も何も、このクマ野さんは純粋に試合をしたいなんて格闘心をメラメラ燃やしていた訳もでも、エロ心下心満載でお嬢さん踊りましょうと誘うのでもなく、ただ懺悔のために女に投げられたいそうな。なんだその理由は! 恨みがあるのは雪村のほうで、投げればスッキリするのも雪村の事だったとは。よしんば百歩譲って責任感の強い男子だとしてもだ。今時の女子高生が男投げ飛ばしてストレス解消すると思うか? どうなんだ? そもそも断られた時点で気付けよ。小学生の頃から因縁感じているのはクマさんだけだって。うぎゃー!

「すまない、椅子が壊れていたか?」

 壊れているのはあなたのほうです! 俺は起き上がり力の抜けた顔でヘラっと笑った。

「いいえ、すみません。ちょっと眩暈が」

「大丈夫か。君は聞けば運動部じゃあないそうだな。普段体を鍛えないといざというとき力がでないからな。良かったら柔道部に入るといい」

「考えておきます」

 答えは三年後に。せめて変な主将がその部をお辞めになってからにしとうございます。考えてもみろよ。雪村が恨みを持っていたとしてもだ、クマ野先輩の為に無口・吊り目・永遠に上がらない口角における鉄面皮の存在意義を証明している訳ではないのだ。雪村はそんなに安くないと俺は思う。

「それでお前はそれが唯一雪村に懺悔する方法だと考えているのか?」

 諭吉会長がクマ野先輩に聞いた。少し踏み出した足が“スネ毛”のスの二画目を隠してしまったものだから“フネ毛”になっている。サザエさんに出てくるフネさんの毛? もしくは船体に毛が生えているとか。フネ毛はワサワサして夏と冬に生え変わるのだ。猫のように。クマ野先輩は黙って考え込む。まあ、直に口頭で謝ればいいよな。もしくは叔父さんにきちんとあなたは間違っていると伝えるとか。それをしないという事はやはり心のどこかで雪村に対する特別な思いがあって、それを満たすために敢えて相手にされないような事を言ってその期限を先延ばしにしているのだろうか。

そんな事を考えていると、思いついたようにクマ野先輩が言う。

「そうか。何も投げ飛ばされるだけが罪滅ぼしじゃないもんな」

 え、今更ですか? 今更気付くのですか?

「なるほど、やっぱり福澤は頭がいいだけのことはあるな。言う意見が一味も二味も違う」

 すみません、ぼくでも宜しければ同じ内容を言って差し上げましたのに。今後諭吉会長があなたの前からいなくなったとしても俺でよさそうです。

「いや、単に当たり前の事を聞いただけなんだが」

 諭吉会長も困惑する。しかしクマ野先輩は憑物でも取れたように晴れやかな表情になる。

「そうかぁ。そうだよな」

「おい、お前はやっぱり恨みある奴は投げ飛ばしたくなるのか?」

 諭吉会長が聞く。

「そらあもう。でも良く考えれば他の人間が皆そうとは限らないもんな。ある程度はそうであっても、女の子は平手打ちくらいで十分かも知れない」

 思考回路の行き先がわかりません。じゃあ平手打ちしてくださいって、今度は頼みに行くのですか? ますます変態です。

「他の方法考えてみる。雪村がスッキリするなら俺はそれでいいんだ」 

 余計な詮索しない方がスッキリされると思いますが。

「なあ、春日井君」

 諭吉会長が俺の方を向きながら“フネ毛”のフの一画目ももう一方の足で踏みしめたものだから、今度は“ノネ毛”になる。もう意味はわからない。

「雪村はそれで蓮野を許してくれると思うか」

 俺はそんな事よりも“ノネ毛”の意味を考えるのに夢中になりたかった。だからついつい適当に答えてしまった。

「そもそも恨み持っているかどうかなんて、本人に聞かなきゃわからないじゃないですか。なんなら僕と一緒に『プロジェクトw』やりませんか?」

 上の空だったのでうっかり言ってしまった。

「プロジェクト、w?」

 諭吉会長が頭にクエスチョンマークを並べる。

「あ、いや、その」

 俺ははっとするが、“ノネ毛”に夢中になりたい衝動は収まらない。

「春日井君、そんなこと話していたっけ?」

「それはそのですね、俺達のクラスで・・・」

「それ、乗った!」

 適当な言い訳を適当に言おうとした瞬間に、クマ野先輩がぶっとい手を挙げて選手宣誓ばりに声を張り上げた。

「ええーーーっ!」

 俺の「えー」は多分「え」に濁点がついていた。サザエさんの旦那のマスオさんばりに。

「じゃあ、俺も」

 今度は諭吉会長が。

「ええーーーーーっ!」

 そりゃないよ、サザエ。

こうして俺の『プロジェクトw』は二人のある意味強力な味方を得てクマを、幕を切ったのである。

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