雨の日はサティ
雨の日に太陽を望んだところで、どうにもならないことくらいわからない彼女ではない。彼女の心の中は、もうずっと雨が降り続き、うんざりすることにも慣れてしまっていた。
やわらかな光の中での眠りがどんなに心地よかったのか、照りつける太陽の中で小躍りしていた頃のことを、彼女はすっかり忘れてしまった。周囲に溢れている言葉は正しくて、健康的で、輝いて、それが彼女には眩しすぎて目がくらんでしまうのだ。
大好きだった音楽も、思い出してはいけないことを思い出しそうになり、聴けなくなっていた。
今、彼女の置かれている状況が誰のせいであったかなど、もうどうでもよかった。納得できない出来事の後で、心が元気でなければ人を恨むこともできないということを、彼女は知った。
雨の日には、雨の日のよさがある。それは多分、本当なのだろう。だけど、その頃の彼女ときたら、そう言い切れる強さも自信も、持ってはいなかった。
もともと雨が嫌いな彼女ではあった。足が濡れるとか、傘が邪魔だとか、そういうことではなく、彼女のうねった前髪は湿気を含むと、まるで意思を持っているかのように自己主張をし始めるのだ。それがたまらなく嫌で、雨が降るといつも憂鬱な気分になった。
先週、彼女が暮らす地域も梅雨入りをしたと、テレビで言っていた。
雨降りの月曜日、彼女は会社に向かう道すがら、ビルのガラス扉に自分の言うことをきかなくなった前髪を映していた。うねりを気にしながら歩くうち、前から歩いて来る人とぶつかりそうな距離まで近付いていた。
サッとかわしたが既に遅く、傘同士がぶつかってしまった。
「すみません」
彼女が慌ててそう言うと、相手の男性は少し笑みを浮かべ、会釈をして行ってしまった。
特徴のある歩き方だった。生まれつきなのか、後からそうなったのかわからないが、片方の足を引きずるように歩いていた。
そのリズムは三拍子だった。
右足は一拍、黒い音符。左足が前に出る時は、ゆっくり二拍、白い音符。そのリズムはエリック・サティの『ジムノペディ』みたいだった。すれ違った男性の歩き方は音楽のようで、彼女はとても美しいと感じた。
家に帰ったら、久しぶりに音楽でも聴いてみようかという気分にさせてくれた。
水曜日の朝は雨だった。三拍子で歩く男性が、彼女の前から歩いて来た。昨日はすれ違わなかった。それ以来、雨の日には必ずその男性とすれ違うようになった。彼女はその男性のことを、心の中で『サティ』と呼んでいた。
彼女は天気予報に詳しくなった。出勤の時間帯と一部の地域の天気は特に。彼女は毎晩、翌朝の天気を念入りに調べるようになった。雨の記号が出ていると安心して眠りにつくことができた。
雨の日にサティとすれ違う時間は大体決まっている。少し離れた場所から歩いて来る姿を確認する。ジムノペディのリズムとともに彼女に近付き、すれ違い、そして遠ざかる。
ただ、それだけだった。
その日は明け方から雨が降り始め、風も吹いていた。出勤する時間には、傘をしっかり持っていないと、風で飛ばされそうだった。
両手で握った傘の内側では、もうサティの姿を見つけていた。サティの左側にそびえるビルとビルの間から、抜け道を見つけた風が勢いよく吹いた。
右側に飛ばされそうになったサティの傘が、すれ違おうとしていた彼女の傘にぶつかった。
「すみません。大丈夫でしたか」
それが初めて聞くサティの声だった。
「あ、大丈夫です」
彼女はこたえた。
その日彼女は、請求書の計算を終えた後、電話を受けて伝言メモを書いた後、トイレに行くため席を立った時、午前の仕事に時間がかかり一人で昼食をとった時、「すみません。大丈夫でしたか」という声を、頭の中で何度も再生した。
その声は、いつの間にか靴の中に入り込んだ小石のように、彼女の心を刺激した。気にしなければきにならないような、けれども無視できないような、小さな小さな小石だ。
彼女はそれを取り除くことなく、小石の感触を楽しんでいた。
星占いでもチェックするかのように天気予報を見ていたが、それは突然終わった。
梅雨が明けたのだ。
いつまでも続かないことは始めからわかっていたので、大きく動揺するようなこともなかったが、遊びの途中で寝室に放り込まれた子供みたいに、少しだけ残念な気持ちになった。
それから数日たったある日、彼女は会社を出て真っ直ぐに帰らず、途中の駅で降りた。帰りを待つ人も今の彼女にはいなかった。急いで帰って食事の準備をする必要もないのだ。
本屋へ行こうと思った。雑踏の中で、突然三拍子のジムノペディが聞こえてきた。人混みの中でも、彼女はサティを見つけることができた。
しかし、そのリズムとメロディは、彼女がいつも聴いていたものとは少し違っていた。いつもと違う場所で聴いたからではなく、その隣で四拍子が聴こえたからだった。
サティの隣にいた女性は、一、二、三の伴奏に乗せて、四拍子で歌うように歩いていた。その二人はただ歩いているだけなのに、彼女には、美しく調和した完璧な音楽に聴こえた。
彼女はその瞬間、昔友人が彼女に話して聞かせてくれたことを思い出した。ずいぶん昔のことだったと思う。まだ働き始める前だったかもしれない。
「男の子達はみんな、あたしを同じリズムで踊らせようとするんだよね。あたしは音楽を作りたいだけなんだけどな。違うリズムでも調和って生まれるのにさ。ね、わかる?それとも、そういう比喩ってめんどくさい?」
「うん。めんどくさいね。その比喩も、そういうことを聞いてくるのも」
彼女はその友人と、昔はよく一緒に過ごしたのだが、いつの頃からかそれが煩わしいと感じるようになった。友人の何かが欠落しているような言動が、時々彼女を傷付けたし、理想ばかりで現実を見ることができないところに苛立つくせに、放ってはおけないのがますます腹立たしかった。
人のことを心配したり、その度にあれこれ意見することに彼女は疲れ、友人の誘いもやんわりと断るようになって、やがて会うこともなくなった。
こうして友人が昔、話していた理想が、今こうして彼女の目の前を、ゆっくりと通り過ぎていくのを見ているうちに、友人の声を久し振りに聞きたいと思った。
友人と最後に会ったのはいつだっただろう。最後に電話をくれたのはいつだっただろう。もう十年くらいまともに話をしていないのではないか。
彼女はサティと女性が歩き去るのを見送った後、携帯電話を取り出した。暗くなった画面に彼女の前髪が映った。雨の季節に湿気を含み、一層うねりを増す彼女の前髪は、ストレートパーマで不自然なほど真っ直ぐに伸びていた。
彼女はアドレス帳から友人の名前を探し、発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る間、彼女は指先で自分の前髪を撫でてみた。
「恋だったのかな」
そう彼女はひとりごちた。