片腕で描いた絵
パリの卒業旅行。その旅行で彼は利き腕である右手をなくした。
ふとした事が原因だった。パリの地下鉄で腕を挟まれたのだ。
病室の彼は何でもないような事を言う。
「右手なくしちゃった」
戸惑いをふざける事で彼はごまかしているかのようだった。
「まだ左手があるからね。絵を諦めないで済むよ」
そうは言うものの、彼の寂しそうな笑顔が私の瞳に映る。
日本に戻って来ると、彼は4月からの大学院生活を左手の練習に費やした。左手で描いても彼の絵は私には上手に思えた。が、彼は納得しなかった。彼はキャンバスを何枚も破り、出来上がった絵をかたっぱしから、火にくべた。
燃え盛る火を見つめながら、彼は項垂れていた。
私はそれを止めもせずに眺めている事しかできなかった。
彼は呟く。
「絵…」
「ん?」
「絵、諦めようかな」
弱音を吐いたのはそれが最初だった。
「俊、諦めちゃダメだよ。上手く描けるよ。また」
「またって、いつだよ?3ヶ月もやってんだぞ。それなのに、小学生並みの絵しか描けない」
「3ヶ月しかだわ」
「もう3ヶ月だ!」
「今年諦めても来年あるじゃない」
「どれだけやればいいんだよ! 小学生から描いてきた方法で描いてきた! 馬鹿馬鹿しくても基本からやり直したんだ! それでもこの程度なんだよ! 笑っちゃうよな、何が大画家だよ」
「俊…」
どう言って彼を慰めれば良いか分からなかった。彼は自分がかつて学内で一番数多の賞をそうなめにしてきた自分を忘れていた。いや、忘れられないからこそ、今ある彼を傷つけているのだろう。
「俊、筆をとって。俊ならまた描けるようになれる」
私は彼を追い詰めてはいないだろうか? 私のしている事は正しいのだろうか?
彼は大学にも行かず、絵も描かない日が続いた。左手の訓練もやめてしまった。
彼は1日の大半を部屋に籠り、何もせずに窓の外を見る日が続いた。ただ流れる雲、照らす太陽、風が揺らす木々を見ていた。
9月、彼が絵を描かなくなってから、3ヶ月経った。描こうというそぶりも見せない。彼はパチンコに興じ、人生を投げているかのようだった。
私は仕事帰り、パチンコ屋に立ち寄った。
俊がいる。つまらなさそうにパチンコの台を見ながら。
「俊!」
パチンコ屋のパチンコを弾く音と大音量の音楽が流れていた。が、彼は私の声が聞こえたはずなのに無視した。
「俊たら!」
「うるせえな」
私は音が邪魔なので、店のカウンターの音楽を強制的に止めた。
そして、俊のいる場所に戻ると、平手打ちした。
「何すんだよ!」
彼はこちらを向く。店員も客も私達2人を見る。
「こんなに弱い俊は俊じゃない!」
「俺はクズだ…クズはクズらしくしているんだ…」
彼はか細い声で言う。
「クズじゃない!」
「いいんだ、ほっといてくれよ!」
「ねぇ、よく聞いて俊」
「…」
「昔事故で体のほとんどが使えなくなった人がいたわ。でも口が動いた。彼は口で描く事にした。それは下手かもしれないけど、誰もがその人の絵に共感したわ。みんなその人の苦悩と喜びを見たからだわ。ただ上手い絵なら誰でも描ける、私はそう思うわ。絵は俊にとって人生そのものよ。あなたの絵を描いて」
彼は私から目を背けている。
「俊が絵を描くまで私会わない。俊の絵を見るまで会わない。俊ならまた描ける。私はそう信じるわ」
言い終わると、店からまた陽気な音楽が流れた。私はその場を後にした。
暫くして彼は美大に行った。それは道であった彼の母親から聞いた。
「学校を辞める手続きしに行ったの」
彼の母親は悲しそうに言う。
「もう2度と絵は描かない。真奈美ちゃんとも会わないって」
それが彼の出した答えなら、私はそれを呑むしかなかった。