ACT5 カメラは真実を語る
ACT5 カメラは真実を語る
1
翌日、僕はさっそく行動を開始する。
一時間目終わりの休み時間、例の《スバルちゃんファンクラブ(梶浦のせいで最近元気なし)》会長のムラセを捕まえ、「ちょっと話があんだけど」と西校舎へと呼び出した。
「何か用かよ?」
用心深く周囲を見渡し他に生徒がいないことを確認してから、僕は切り出した。
「お前さ、スバルの秘密のプライベートショットとかあるっつったら、欲しくない?」
「何だとッ!」不審げだったムラセの顔が、歓喜へと変わった。「マ、マジか?」
「これでも幼なじみだよ、僕チン。あーんな写真とかこーんな写真とか、そりゃお宝モンがいくつもあるよん。ほら、例えばここに」
「おおっ!」
僕が胸ポケットからちょっとだけよーんと写真の端を見せてやると、ムラセは餌を前にした獣のように目に見えて興奮した。
「くれ! それくれ! 早くくれ!」
「そう慌てんなつっーの。やるから」
「マジでか?!」ボルテージをあげて「マジ」を連発するムラセ。「でもなんで?」
「オマエの情熱がオレの心に届いたんだよ」
「ありがとう! 心の友よ!」
……お前はジャ●アンか。僕の手を思い切り握り締め上下にぶんぶんと振るムラセの姿に僕は脱力。でも、脱力してばかりはいられない。本題はこの先だ。
「その代わり、条件があんだけど」
ピタリ、とムラセは動きを止めた。
「…………あんだよ?」
「そんなにビビんなくてもダイジョーブ。たいしたこっちゃないって。……お前さ、たしかカメラいつも学校に持ってきてたよな?」
僕はそのことを知っていた。ムラセはスバルの素晴らしい写真を手に入れるべく、日夜カメラを持ってスバルの後をつけ回しているのである。平たく言えば盗撮だ。
「あれさ、一週間ばっかし貸してよ」
「……何すんだよ?」
「内緒。そこまでは関係ねーじゃんさ」
「……じゃあダメ」意外なことに、ムラセはそう言った。「オマエあのカメラ、めちゃめちゃたけぇんだぞ?」
知ってるよ、そんなこと。高価でそして高性能。ズーム機能も最高クラス。スバルのためだけにン十万も使うとは恐ろしいまでの情熱だ。そして、それだけの代物だからこそ僕は必要としているのだ。
「そんなこと言っていいのん?」僕は胸ポケットから写真をつまみあげ、裏返しにしてヒラヒラ振った。「それじゃあこの、秘蔵お宝セクシーショットはお預けよーん」
唸るムラセ。「うーん、うーん」
「水着写真とか、下着写真とか、それから……」僕はくいくいと中指と人差し指でムラセを引き寄せ耳打ちした。「ヌード写真も、あるのになあ」
2
かくて交渉は成立し、放課後僕とムラセは写真とカメラを交換した。ククク、おばかなムラセ。僕は心でほくそえむ。僕が交換すると言った写真には、スバルの水着も下着もヌードも写っていたけれど、そこに写っているスバルは幼稚園の頃のスバルなのである。ちなみにそれらの写真には、ばっちり同じく四歳児の僕も写っていたりする。僕は嘘をついたわけじゃない。スバルの写真、とは言ったけど、〈いつのスバル〉か明言したわけじゃないのだ。裁判になっても僕が勝つのは五億パーセント間違いない。
しかしムラセ、腹立てるんだろうなあ、殴られそうになったらソッコーで逃げなきゃなあ、なんて思いながらカメラと写真を交換した僕に、たっぷり数秒間写真を眺めてムラセはこう言った。「おお!」
恐るべしは愛のパワー。好きな女が相手なら、ガキの裸でも嬉しいってわけですか。僕にはまったく理解の出来ないムラセの心情ではあったけれど、とにかく僕は予想されていたトラブルに巻き込まれることもなく目的をカメラを手に入れることはできた。よかった。ムラセがモノホンの大バカで。
それでは戦闘開始である。僕はカメラをどう使うのか?
戦争の基本は味方の戦力を増やし敵の戦力を減らすこと。どこかの漫画にそう書いてあった。このケースでは味方が僕自身で敵が梶浦となるだろう。味方の戦力を増やすとは、すなわち僕がスバルに振り向いてもらえるぐらい魅力的になることで、さて、そんなことが可能だろうか? むろんムリ。ありえません。それができるなら初めから苦労しないし、そもそも十年以上も異性として意識されないなんてあるはずない。
てなわけで僕に残された道は敵の戦力を減らすこと、つまりは梶浦の評判を下げてスバルを失望させることだった。うん、理論的に間違ってない。できないことを努力するなんて無駄なことなのだから、できることに全力を傾けるのが正しいやり方である。
梶浦の評判を下げると言っても、学校にいる時の梶浦は僕から見ても完璧でしかも優雅で、どこにも隙なんて見出せない。しかし完璧な人間がこの世にいるだろうか? いるわけない。学校内で完璧なら、外の生活で必ずそのしわ寄せが来ているはずだろう。僕が目を付けたのはそこだった。謎に包まれた梶浦桐人のプライベートを暴き、それをカメラに収めて世間に公表してやるのだ。どうだこんちくしょう参ったか。
僕は首からカメラをぶら下げて、剣道場の下にある更衣室の中に侵入した。もちろん女子ではなく男子更衣室だ。僕はのぞき魔じゃないからね。で、僕は、誰もいないことを確認してから、入り口から一番遠い左端のロッカーの中に潜り込んで、息を潜めた。ここで梶浦が部活を終えるのを待つのだ。ロッカーは狭い。しかも暑い。ほのかに汗臭い。それでも梶浦が部活を終えるのを待つのだ。これは僕の戦いだ。戦いに苦痛はつきものだ。
時間が経過。携帯で確認したところ、隠れてから二時間ばかりがすぎた。暑すぎる。頭がクラクラする。酸欠か? でも僕はくじけない。とにかくここで梶浦を待つ。
時間が経過。さらにあれから一時間。ううん、暑い。もうイヤだ。吐き気がする。僕はなんでこんな暗いところで身をちぢこませてじっと息を潜めているのだ。そもそもここに入る必要があったのか? 梶浦を待つ場所なら他にもたくさんあったのではないか? オレはバカか? そうだオレはバカだ。あー。
一人で自分を罵っていると、がやがやと話し声が近づいてくる。きた、来ました。剣道部ご一行の皆さんです。僕の努力は無駄じゃなかった。さっそくカギ穴からのぞくと、うーん、ムンムンと男の熱気で溢れ返っていやがる。あ、また吐き気がぶり返してきた。
しかしそれでも僕は吐かないし様子をうかがうのもやめたりしない。梶浦は――あ、いた、いたよ。僕の真正面の壁際で、上半身裸になって涼んでる。優雅だ。彫刻みたいに美しくて男の僕でも見とれてしまう。神々しいオーラみたいなものが梶浦の身体からは溢れているかのようだ。すごいね、ちくしょう。
けれどそれだけ神々しいオーラを発散しているのにも関わらず、梶浦に話しかけようとする剣道部員は誰一人としていなかった。別に梶浦のオーラに恐れをなしているわけじゃない。みんな、モテモテ男の梶浦に嫉妬して避けているのだ。梶浦の方も良くしたもんで、まるで周りに誰も存在しないかのように一人で優雅に涼んでいる。
こうして見ると女にキャーキャー言われて顧問からヒーロー扱いされている梶浦だけど、実は孤独で意外と辛い毎日を送っているのかも。ヒーローはヒーローでそれなりに苦労があるものなのだなあ、なんて同情しかけて僕は慌てて首を勢いよく振った。敵に同情してどうするんだ。それに男子から恨まれてもいいから僕は女子からキャーキャー言われたい。首を横に振ったから、また一気に汗が噴出してきた。あー、暑い。
暑さと吐き気と狭さと汗臭さに耐えじっと更衣室の様子をうかがっていると、一人、また一人と剣道部員たちは着替えを終えて更衣室から出て行った。最後まで残ったのは梶浦だった。理想的な展開だ。これで梶浦が最初の方に更衣室から出て行ってしまっていたら、僕はそれを追って慌ててロッカーから飛び出して、他の剣道部員たちに発見されていたところだった。梶浦は、誰もいなくなってからゆっくりTシャツに袖を通し、はかまを脱いでズボンをはき、それから学校指定の白Yシャツを着た。側に置いてあったカバンを肩からかけて、更衣室から出て行った。
僕はロッカーから出た。やっと新鮮な空気が吸えると思っておもいっきり息を吸い込んだら、辺りは汗臭いむさい空気で充満していたので、僕はおもいっきりむせてしまった。うう、ますます苦しい。けれど苦しんでばかりもいられない。僕は呼吸を整えて、梶浦を追って更衣室を出た。
梶浦は廊下を優雅に、ゆっくりと、げた箱に向かって歩いていた。後ろ姿まで優雅とは本当にしゃくに障る。僕は内心で唸りながら、柱の影に隠れつつ梶浦を追跡した。
げた箱で上履きから革靴に履き替えると、まっすぐ梶浦は校門の方へと歩き出した。などと思ったのも束の間、桐人の前方に彼に向かって手を振る少女が現れた。僕は慌てて半分グラウンドに出ていた身体を昇降口に引っ込める。ス、スバルだぁっ! スバルのやつ、梶浦のことをけなげに待っていたのだ。
昇降口からちょこんと頭だけを出して見ていると、梶浦は驚きもせずスバルに近づいてそのまま二人で並んでまた歩き出す。僕は制服の袖を噛んだ。く、悔しい。
僕は二人と充分距離を保ち、建物の陰やら街道の茂みやら電信柱の陰やらに身を隠しながら、梶浦とスバルをさらに尾行した。僕が取っている手法はとても古典的なものだけど、古典を侮ってはいけない。高校の授業でも、国語は現国だけじゃなくて古文もあるし、歴史でも近代史だけでなく古代史も習う。古典というのは大事なものなのだ。古典はすなわち基本。基本なくして応用なし。どうでもいいですかそうですか。
スバルと梶浦は楽しそうにべちゃくちゃ喋りながら駅までの道を歩く。二人は傍から見るとちょっとしたデート中のようだった。昨日のアレで、スバルと梶浦の距離はまた少し近づいてしまったのだろうか。昨日のアレ。昨日のキス! スバルの唇が梶浦のほっぺにぶっちゅーとなったのを思い出し、僕はまたまためげてしまう。いや、めげるなオレよ。負けるな貢。梶浦の天下も今日限りだ。だから顔をあげて二人の追跡を続けるんだ。
駅のホームで、スバルと梶浦はやっと別れた。先に電車が来たのは朧町方面で、『後ろ髪ひかれてます』と言わんばかりに何度も梶浦を振り返りながら、スバルは電車に乗りこみ去って、階段の陰からそれを見ていた僕は何だかちょっと嬉しくなった。
一人になった梶浦はホーム際に立ち、僕は階段の壁に身を屈めて隠しながら、電車が来るのを待った。待っている間、僕の後ろを通り過ぎていく人たちが僕を見つめているのが僕にも気配でわかった。何人かは、わざわざ立ち止まって僕のことをじろじろ眺めていた。失礼な連中だ。恥ずかしいじゃないか。それにも僕は耐えた。僕はスバルのキスシーンを見せられ、スバルと梶浦が並んで楽しそうに帰るのも見せられたのだ。この程度の恥ずかしさなんて、苦痛のうちに入らない。それに繰り返すが戦いに苦痛はつきものなのだ。えいえいおー。
――まもなく、二番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください。
場内アナウンスが響いて、すぐにぶぉーと音をたてて電車が入ってきた。梶浦は電車に乗り込み、僕も遅れて梶浦の隣の車両に乗り込んだ。車両と車両を繋ぐドアのガラスのところから、梶浦の動向をうかがった。梶浦の野郎、席に座るでもなく優雅に吊り革を持って立っていやがる。さあ、どこの駅で降りるのか。梶浦のプライベートはいったいどうなっているのだろうか。
3
梶浦のプライベート。それはまさに謎に包まれていた。ヒーローというものは古来よりプライベートを謎に隠すもの。スーパーマンは普段の生活はクラーク・ケントという冴えない新聞記者として送っている。ウルトラマンも仮面ライダーも普段の姿は誰も知らない。学園のヒーローたる梶浦桐人のプライベートを誰も知らないのはある意味では当たり前のことなのかもしれない。
だがスーパーマンにしろウルトラマンにしろ仮面ライダーにしろ、あるいはバットマンにせよスパイダーマンにせよ月光仮面にせよ黄金バットにせよ、って黄金バットなんて名前しか知らないし普段どんな格好をしているのかもまったく知らないけど、とにかく、そうしたヒーローをテレビの向こうに見るたびに、子供の頃の僕は思っていた。あいつらは何だかんだ理屈をこねているけれど、本当は、コスチュームがあまりに恥ずかしいから普段正体を隠しているに違いないのだと。
僕のその考えは今でも変わらない。とするならば、普段別段恥ずかしいコスチュームに身を包んでいるわけではない梶浦桐人が、僕らにプライベートを明らかにしない理由がどこにある? それとも梶浦にとって我が浮動高校の制服は恥ずかしいものなのか? そんなわけがない。そうだとしたら僕ら浮動高校の人間はみんな恥ずかしい連中ということになってしまうしそれは僕としても困る。となると導かれる結論は一つ、梶浦がプライベートを隠すのはあいつのプライベートがとてつもなく恥ずかしいものだからに決っている。
三つほど駅を行ったところで、梶浦は電車を降りた。「おお、ここが梶浦の住んでいる所か」と僕は思ったけれど、梶浦はすんなりと改札には行かず、意外な行動に出た。反対方面行きのホームに立ったのだ。ワァット? 僕はホームの自動販売機の陰に急いで身を隠しながら、疑問を抱かずにはいられない。戻ってどうする? 僕の存在に気づいて僕をまこうとしているのか? そりゃあマズい。
とりあえず僕はメモ帳に『梶浦、今来た方向に戻る。うさんくさい』と書き記す。それから一枚パチリ。こうして奴の評判を落とす道具を集めていくのだ。とは言え、これで梶浦の評判を落とせるとも思えないけど、しかし皆に『あいつうさんくせー』という気持ちを植え付けることはできるかも。僕だってそう思ったぐらいなのだから。
しかし、その後僕が目撃したのは、さらに驚くべき梶浦の行動だった。梶浦は高校のある駅も乗り越して、朧町まで電車に乗っていってしまったのだ。その上朧町で降りてしまったのだ。オラが町であるところの朧町に、梶浦桐人がいったい何の用なのだ?
僕の不信感は募るばかり。梶浦は駅の側のコンビニで、スポーツドリンクとカレーパンを購入。僕はメモる。『梶浦、買い食いする』。ついでにその瞬間も首のカメラでパシャッ。決定的買い食いの瞬間。でもすぐ気づく。小学生じゃないんだから、買い食いぐらいで評判が下がるわけがない。オレってバカ?
そう僕はバカです。でもバカはバカなりに頭を働かせる。梶浦の後をつけながら考える。こいつはここに何しに来たのか? 例えば――最悪な考えが僕の頭をよぎった。例えば、桐人はヘンタイ・ストーカー野郎だったというのはどうだろう? スバルが住んでいるところを密かに下見に来たのだ。うう、気色が悪い。しかしありえないことではない。
たしかに梶浦はスバルを半分以上手に入れてしまっていて、あえてストーキングをする必要はないように普通に考えれば思えるけれど、だけどアブノーマル心理などというものはデンジャラスで常識ではとても計り知ることができない。そのいい一例が今日のムラセだ。どこのいい年をした高校生が幼稚園児の水着や下着やヌードを見て喜ぶと言うのだ? しかしムラセは喜んだ。ムラセがロリコンだったからではなく、ムラセがヘンタイソウルの持ち主で、写っていた幼稚園児がスバルだったからなのだ。
それに僕はテレビで見たことがある。イエー、僕はテレビっ子。普通に付き合っているカップルでも、密かに彼氏が彼女を盗聴していたりするケースが世の中に存在する。僕にはまったく理解できない状況だけど、とにかく事実としてそういうことはある。そして梶浦が、恋人を監視する彼氏と同じメンタリティの持ち主じゃないなんて、いったい誰に言えるだろうか?
監視を続けているうちに、僕の不信感はますます強まっていくことになる。スポーツドリンクごくごくカレーパンむしゃむしゃで歩く梶浦の足取りは、確実に僕やスバルの家の方向へと向かっていた。
これはまさかひょっとして、と思ったら、やっぱり梶浦はスバルの家の前で足を止めた。しかもご丁寧に表札まで確認してやがる。くそ、このストーカー野郎め。壁にへばりつき電信柱に身を隠しつつ、しかし僕はこれでスバルが梶浦を嫌いになるいい理由ができたよと少し喜んだ。しかしなあ、まさかヒーロー・キリーがストーカーだったなんてなあ。人は見かけによらないもんだ。やっぱり人間は顔じゃないよ心だよ心。うん。とにかくこれを写真に収めなくちゃ。
カメラを構えて柱から身を乗り出した僕は、だが、ここでまたもや梶浦の予想外の行動を目の当たりにする。梶浦は携帯電話を耳に当てて話していた。何だよあいつ、携帯なんか持ってたのか? そんな素振り見せたこともないくせに。ますます怪しい男である。
僕は電信柱に隠れたまま、できるだけ会話を拾おうと耳をそばだてた。
「……ええ、そうです、そう……鈴木、そうです、ええ……そうです……ええ、そう、ハイ。確認しました」
何だ、どういうことだ? 聞こえてくる会話の断片は、まるでここがスバルの家であることを誰かに確認しているかのようだった。誰かに指示をされてこの場所にやってきたかのようだった。こいつは、ただのストーカーじゃないのか?
「ハハ、失敗なんかしませんよ。ええ、ええ。大丈夫です。では明日、手はず通りに。ご安心ください。このキリー・ザ・ブレイブハートにぬかりなどありません。必ず成功させてみせますよ、ハイ。……あ、そうですか、ハイ、わかりました。では」
梶浦は電話を切った。キリー・ザ・ブレイブハート? 何のこっちゃ? キリーってのは梶浦の愛称だろうけど、ブレイブーハート? それになんだ必ず成功させてみせるってのは? 明日、こいつはスバルの家に何かをしやがるつもりなのか?
梶浦はすでに歩き出していた。僕は梶浦をふたたび追い始めた。梶浦は例のあの公園――鬼島さんが涙を流し、僕が欽ちゃんのマネをした公園――に足を踏み入れ、公衆便所に入った。バタン。個室のドアを閉める。
公衆便所で大なんかすんなよ、とか思いつつも、僕は草むらから様子をうかがう。うかがう。うかがう。……うかがう。…………出てこない。長げーよ、バカ!
かと思ったら、サラリーマン風の見知らぬオッサンが便所に入った。で、ドアを開けて中に入ってドアを閉めた。一つしかない個室の。……え? ええっ?!
梶浦はどこに行ったんだ? 僕はオッサンが便所から出てくるのを待ってから――オッサンの場合は三分で済んだ――公衆便所に駆け込んだ。いない! たしかに便所に入り、一度も出来ていないはずなのに、どこにも梶浦桐人の姿がない!
なんだこれは。どうなっているんだ。瞬間移動? そんなバカな。でも、僕はずっと見張っていたのだ。僕が気づかないうちに便所から出るなんて、そんなバカなことがありえるわけがない。それなのに、現実にそれは起こったのだ。
僕がわけがわからなくなって公園を駆けずり回りゴミ箱の中やテーブルの下や草むらに梶浦の姿を捜していると、公園の外から、
「……アンタ、何やってるの?」
と声が浴びせられた。買い物から帰ってきたらしいスバルだった。
「へ、いや、ははは」
「ついに頭がおかしくなったか。哀れー」
罵声に耐え、僕は混乱したままスゴスゴとスバルと一緒に帰った。
4
混乱しすぎたせいで昨晩は寝不足になってしまった。しかも自転車を学校に置きっぱなしにしていたのでスバルから罵られる羽目にもなってしまった。人の気をまったく知らないスバル。事態は僕に向かって「使えねー」とかそんなことを言っている場合じゃない。
ひとしきり罵られ、バスと電車を使って学校に行った後も、僕の思考は昨日目撃し耳にしたことで一杯だった。学校に行ってからも僕はそのことばかりを考えそれから桐人の動向を気にした。わからん。いくら考えてもまったくわからん。僕はできたら相談し一緒に考えてくれる仲間が欲しかったけれど、どうして梶浦のあとをつけていたのか問いつめられると非常にまずいことになるのでスバルに打ち明けるわけにもいかず、僕はやはり一人で悶々と悩み続けた。それでは答えが出るはずなんかなかった。
答えが出ないのなら無理やりにでも求めるしかない。僕は、放課後、HRが終わるとすぐに梶浦を屋上に呼び出した。屋上には、僕と梶浦以外には誰もいない。
「なんだい天堂くん、こんなところに呼び出して。今日は忙しいんだけどね」
「スバルの家に行くからか?」
「……へえ」梶浦は、表情を改めた。「なるほど。昨日、僕のあとをつけていた不埒者はきみだったわけだ」
「なっ、き、気づいていたのか?」
「誰かが僕の監視していることにはね」
風が、僕たちの顔を吹き付ける。余裕たっぷりに、憎らしいほど優雅に、梶浦は微笑を浮かべ言った。
「あれでうまく隠れていたつもりだったのかい? 姿は隠していても気配の方はまるで隠せてなかったじゃないか」
「気配だって? そ、そんなモンがわかるわけないじゃないか?」
「わかるんだよ、僕には。きみにはわからないかも知れないけどね。まあ、僕としては誰につけられようと大して困りはしないから、あえて不埒者の正体が誰かなんて確かめようとは思わなかったけど……そうか天堂くん、あのおマヌケな追跡者の正体はきみだったんだね。ふーん。で、それできみは僕からいったい何を聞きたいんだい?」
急に僕は、この目の前に立つ恋敵・兼・クラスメートが恐ろしく見えた。気配を感じ取れる? それに昨日の便所の件もある。こいつはそもそも何者なんだ?
「お、お前の――」
「狙いは何なんだ、か」
僕は言葉を詰まらせる。梶浦桐人の顔を見る。梶浦は優雅に、こともなげに言った。
「そんなものはきみの表情を見ればわかるよ。何を言おうとしているのかなんてね。昨日の僕の電話を盗み聞きしたんだろう天堂くん。わからないかな、僕の目的が。どうして僕が、鈴木家の前まで行ったのか。どうして、僕が、この高校に転校してきたのか。昨日聞いていたなら知ってるかな? 梶浦桐人、こんなものは僕の本名じゃないんだよ。僕の本当の名前はキリー・ザ・ブレイブハート。梶浦桐人というのは怪しまれないための偽りの名さ。そして僕の目的は――」
僕は圧倒されていた。語り続ける梶浦の言葉の意味の半分も、僕には理解することができなかった。僕は圧倒されたまま、ただ、そこに立って梶浦の言葉を耳に入れていた。
そして梶浦は告げた。
「魔王ベルウッド」
……一さん?
「我がコンババオンセンに元凶をもたらす邪悪なる存在を打ち倒すことこそ、我々の目的なのさ。そして、僕はその尖兵として、この世界へと送り込まれてきた」
「お前は、お前は――」どうしてこいつはベルウッドの名を知っているんだ? どうしてこいつはコンババオンセンのことを知っているんだ?「お前は、何者なんだ」
「僕は勇者キリー。正義と平和を愛する者さ」
僕は、後ずさった。
「ゆう、しゃ? 一さんを倒す?」
「その通り」
「は、はは」僕は笑った。「ふ、ふざけるなよ。何だよそりゃ。お前、オレをバカにしてるのか? コンババオンセンに勇者がいるなんて話、聞いたことねーぞ」
「だが、現実に僕はここにいる」
「わけのわかんねーこと言うな! いーよわかったよ! テメーが勇者だとする。でも一さんを倒すってのは何なんだ?!」
「やれやれだね、きみは。勇者が魔王を倒すのは当たり前じゃないか。きみの方こそ自分が言っていることがわかっているのか? きみたちの世界の、あの、なんて言ったかな、ああそうそうテレビゲーム、あれの中でだってそういう風になっているんだろう? 違うかい天堂くん?」
「あれはゲームだ! ゲームと現実は違うんだよ! 一さんは魔王だけど、いい魔王じゃないか! そうだろ?!」
「いい魔王?」梶浦は、優雅にため息をついた。「そんなものがいるものか。魔王とは、邪悪なものと昔から決まっている」
「だってそうなんだよ! だいたい魔王になってくれって頼んだのは、テメーらの世界の大神官とか言うおエライさんじゃねーか!」
梶浦は「く、く、く」と腹を抱えて優雅に笑った。
「きみは騙されているんだな。かわいそうに。……あるいはただ知らないだけか。きみは何しろコンババオンセンの人間ではないのだもんな。ふふ。だが、現実にはコンババオンセンの人々は魔王ベルウッドによって苦しめられている。下は生まれたばかりの乳児から上は先行き短い老人まで、我が世界に魔王ベルウッドを憎まぬ者など一人もいない。大神官さまとて、きっと,魔王に操られているのに決まっている」
僕の脳はふたたびパニックを起こした。
どういうことなんだこれは。僕が聞いている話とまるで違う。僕が騙されているのか? 梶浦の言う通り、僕がコンババオンセンの人間ではないから、現実が見えていないだけなのか?
……いいや、そんなわけはない。僕はコンババオンセンに何度か行ったことがある。コンババオンセンで活躍する魔王ベルウッドだって見た。ベルウッドって、アレだぞ? フランケンのマスクをかぶってアルセーヌ・リュパンのコスプレをしているおっさんだぞ? あんなまぬけな姿をしている人が、笑われることはあっても憎まれたりするもんか。
「梶浦、お、お前こそ――」
「僕の名はキリー・ザ・ブレイブハートだ。梶浦などではない。せっかく本名を明かしたんだから、正しく呼んで欲しいな」
「……キリー、お前は誤解してるんだよ。な、もしくは誰かと一さんを勘違いしてるんだよ。もう一回よく確かめてくれよ。一さんはさあ、ホントにいい人なんだよ。なあ?」
「残念だが、そんな時間はないよ天堂くん」
「……どういうことだ」
「機は熟したということさ。この計画は僕一人のものでもないしね。僕はこれから、魔王ベルウッドの自宅へと向かう。そしてそこで、奴と奴の仲間たちを討つ」
「なん、だって」
僕は愕然とした。そして、気づいた。
「仲間? スバル! お前、まさか、スバルにも何かするつもりなのか?!」
「彼女も討つ。もちろん」
「な――」
「それしかない。彼女はベルウッドの娘だ。放置していたら、コンババオンセンにどんな禍根を残すかわからないからね」
なんでそうなるんだ! スバルはそんなに悪い奴じゃない! そりゃわがままだし女のくせに喧嘩も強いし常識も知らないししかも僕の気持ちにもまったく気がつかないふざけた奴だけど、でもそんなに悪い奴なんかじゃないんだ。こいつは誤解しているだけなんだ。誤解なんかで、スバルを危険な目にあわせるわけにはいかないんだ。
「待てよ! 待ってくれ!」
「時間がないと言っているじゃないか」
「人の命がかかっているんだ! な、もっと慎重になってくれよ! 頼むよ!」
「魔王やその娘の命など、僕は熟慮する必要を認めない」
「――ふざけるなぁっ!」
僕は右拳を振り上げ梶浦の顔面に叩き込んだ。生まれて初めて、自分から暴力をふるおうとした。しかし、スカっ! 手ごたえゼロ。梶浦はわずかに身体をそらすだけで僕の拳をかわした。踏み込んだ僕の足に自分の足をひっかけた。よろよろと情けなくバランスを崩して僕は地面にすっ転び、足元に敷き詰められた小石に思いっきり膝を打ちつけてしまった。確認しないとわからないけど、ズボンの膝に穴が開いてしまったかもしれない。
「残念だな、天堂くん」僕が慌てて立ち上がり距離を取ると、梶浦はため息交じりに言った。「きみとは友達になれたと思ったのにな」
「そ、それは、お前が――」
「まあいいさ。僕には使命がある。悲しいが、時には友情を犠牲にすることも必要だ」
突然、梶浦は奇妙な動作をした。右手を大きく前に突き出し、何もない空間に何かを掴むかのように手のひらを開き、閉じた。僕は目を大きく開き、それを見た。何もなかったはずの梶浦の手の中に、光り輝く長い棒状のものが握られていた。それは剣だった。この世のものとは思えない神々しい光を放つ、一振りの剣。まるでスターウォーズのライトセーバーのような。
「これが僕の剣だ。聖なる剣。僕が勇者であるという証であり、そして悪を絶つための道具さ。僕は、これで、魔王を討つ」
まさか、その前に、事情を知った僕の口封じをするつもりなのか?
「はは。そんなに怯えて後ずさらなくても大丈夫。言ったじゃないか、僕たちは友達だって。殺しはしないよ」
梶浦はとびっきりの笑顔を見せた。でもそれは殺人鬼の笑顔だった。逃げ出したい。なのにふるえて足に力が入らない。くそ、なんでこんな時に僕の足はこんなに役立たずなんだ。なんのための陸上部経験なんだ。ちくしょう! チクショー!
「ただ、全てが終わるまで眠っていてもらうよ。きみのためにここまで周到に準備した計画を破壊されてはたまらないからね」
一条の光が僕の胸を切り裂いた。焼けるような痛みを感じ、続いて全身を電流を受けたような痺れが駆け抜け、僕は膝から崩れ落ちた。頭上から梶浦の声が聞こえてくる。「大丈夫、僕の聖剣は僕の魔力で威力を調節することができるんだ。便利だろ?」くく、という笑い声。「きみは死にはしない。気絶するだけさ。目が覚めたら、全てがもう終わっている。さあ、だから今は安心して眠るといい」
遠ざかっていく梶浦の足音。ふぁいおー。ふぁいおー。遠くに聞こえるグランドで部活に励んでいる生徒たちの掛け声。それもやっぱりどんどん遠ざかる。スバルを助けなくては。スバルがいない世界なんて耐えられない。耐えられるわけがない。スバルを助けなくちゃ。こんなところで寝てる場合じゃないんだ。オレはこんなところで寝てる場合じゃないんだ。誰でもいい、誰か、スバルを助けてくれ!
――でも、全てはブラックアウトした。
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目覚めると、日が暮れかけていた。僕は身体を起こした。夕日が目に痛い。変な体勢で倒れていたから身体も痛い。おいっちにー、おいっちにー、身体を伸ばし、それから周りを見回した。えーと、ここ、どこ? するとゆっくりと記憶が戻ってくる。そうだ、スバル! スバルはどうなったんだっ?!
僕は慌てて屋上から飛び出した。グラウンドには練習中の野球部員どもが残っていて、いきなり飛び込んできた僕の形相に驚きの顔を浮かべた。僕は球拾いをしているクラスメートの襟首をひっ捕まえる。「おいっ!」
「な、何だよバカ。今練習中なんだよ。怒られるんだよ、あっちに――」
「知るかボケ! そんなことより梶浦! 梶浦を見なかったか?!」
「オラー、そこの一年、練習中だ出てけ!」
外野守備についている二年だか三年だかの先輩が僕を怒鳴りつける。僕は叫ぶ。
「だまってろクソ!」そしてもう一度クラスメートを問いつめる。「おい、梶浦を知ってんのか知らねーのかっ!」
「……し、しらねーけど、あ、あいつなら、部活に出てんじゃねーのかよ……」
弱々しくクラスメートは答えた。そうか剣道部! 僕は剣道場に向かって走り出した。僕をさっき怒鳴りつけた野球部二年が僕に向かってまた怒鳴ったけれど、悪いがそんなことにかまっている暇はない。きっと僕の代わりにクラスメートがあの先輩に殴られるのだろう。スマン。でも今はそれどころではないのだから仕方がない。
僕は剣道部に急いで走りながら、ポケットから携帯を出して時間を確認した。午後四時。むう。三十分近くも寝ていたのか。剣道部は部活はやっているか? 頼むから梶浦、剣道場にいてくれよ!
でもやっぱり剣道場はすっからかんでした。誰もいない。練習なんかやってない。くそくそくそ! 今日は部活は休みだったのだ。チクショウ! ところが前を通りかかったら、更衣室から話し声が聞こえる。僕は更衣室に駆け込んだ。昨日は人目を忍ぶように潜り込んだロッカールーム。でも今日は堂々と。
「梶浦! 梶浦いるかっ!」
バーンッ! ドアが開いて中にいる連中の視線が集まる。何だよ、はは、いるじゃん剣道部。これから練習するところなんじゃん! ったく、ビビらせやがって。しかし誰かが僕におずおずと言った感じで声をかけてきた。
「梶浦なら今日は早退するつってたぞ」
「なんだと?!」
僕は声の主を捜した。びくん、と震えたのはかつての《転校生を歓迎する会》メンバー、すなわち僕のクラスメートで梶浦に二度ものされたバカだった。
「いや、だから、あいつにしては、珍しく、さっき早退するって顔だして……」
「くそったれ!」
絶叫して僕はまた更衣室を飛び出した。くそったれくそったれくそったれ。やっぱり梶浦が部活に出てるかもなんて考えは甘すぎたのか? 桐人はいまどこにいるんだ。……そうだ! 急に打開策が閃いた。そうだそうだ。僕は文明人。文明の利器、携帯電話を使えばいいじゃん!
もちろん僕は梶浦の番号なんて知らない。携帯どころか家の番号も知らない。でもスバルだ。まずはスバルの安全を確保できればそれでいい。スバルに連絡してこの際だから全てを話してしまうのだ。
メモリー呼び出し。《鈴木昴》。通話ボタンをポチっとな。トゥルルルルル、トゥルルルルル……カチャリ。「あ、スバル?」
――ただいま、電波が届かないか、電源が入ってないため、電話に……
ファッキン! 聞こえてきた機械的な女の声に僕の血管がぶちギレる。電源ぐらい入れとけよバカ! なんてバカなんだスバルお前はよー! 僕はポケットに携帯電話に放り込み、一回二回と深呼吸。落ち着け。落ち着くんだ貢。ここでぶちギレてても事態は何もよくならない。そうだ、まずは考えろ。えーと、そうだそうだよ。スバルが電源を切ってるなんて限らない。電波が届かない場所にいることだってありえるじゃないか。そうだそっちの方が可能性は高いじゃないか。
電波の届かない場所。僕の大して優秀でもない灰色の脳細胞が叫んだ。電車の中だ! 電車なら電波が届かなかったり電源を切ってることだってありえるじゃないか。そうだ、きっとそうに違いない。するとスバルは今家に向かってゴーってとこか。
じゃあ僕はどうする?
クソ勇者キリーはきっと鈴木邸に行ってから魔王とその一味を一網打尽にしてしまうつもりなんだ。魔王の一味って、スバルと一さんと蛇子さんと牛頭さんと鬼島さんだ。クソ、誰一人やらせねー。僕はどうするべきなんだ。
鈴木邸に行こう! 先回りして牛頭さんたちに奴らを迎え撃ってもらうんだ。あの人たちは使用人だけどそれ以前にモンスター。牛頭さんは銃弾だってはね返した。そうだそうだそれが最善だ。とすると僕はチャリンコを駆って電車とバスよりも早く走ればいいんだな。オッケー、やってやるぜコンチクショウ!
でもそこで、急に僕の心の中に風が吹いた。臆病という名前の風が。このまま鈴木邸に僕が走る。牛頭さんたちに助けを求める。それはいい。でももしも、牛頭さんたちがサイテー勇者キリーにかなわなかったなら? 梶浦の刃はスバルに向くだろう。一さんに向くだろう。けれどそれは初めから梶浦の予定に入っていることだ。そうではなくて、奴は僕をどう思うだろうか? ノコノコ鈴木邸までやってきたこの僕を。
バサリと斬られた僕の胸が急に痛んだ。あの時梶浦は手加減した。僕が無関係な人間だったからだ。鈴木邸に出向くということは、僕が傍観者から魔王の協力者になるということだ。少なくとも梶浦はそう思うんじゃないか? 一度までならまだしも、二度までも歯向かおうとする僕を、梶浦は許してくれるだろうか。魔王を倒しその娘を倒しその一味を倒そうという勇者が、高校生一人斬ることを躊躇したりするだろうか?
がくがくと僕の膝が勝手に震えて震えは僕の全身まで伝染して僕の身体はブルブルブルッチ。身体が梶浦の剣を覚えている。鈴木邸にある死の雲を遠く離れたこの場所からでも僕の瞳はばっちり写していた。勇者キリーは異世界の勇者で僕らの倫理観なんてぜんぜん通用しないから人を殺すことなんかなんとも思っていないのだ。喧嘩なんかでたまに起こる偶発的な死なんかとはぜんぜん違う。奴は、明確な意思を持って死というものをもたらすことのできるホンモノの殺人鬼なのだ。
イヤだ! 全身が僕に訴えかける。殺人鬼のいる場所になんか行きたくない。誰かが僕の耳元で囁いた。大丈夫。相手が勇者だからってあのスバルだよ? あいつならお前なんかが何かしなくても簡単にピンチを乗り切るさ。牛頭さんたちだっているんだぞ。お前が出る幕なんかないんだから、ことが終わるまで安全なところに隠れてようぜ……。
そりゃーそうだ、ってんなわけあるかこのオレのくそったれ野郎! 僕は両手で自分の頬を張った。バチンっ! 痛い! けど痛みで震えが少し収まった。誰かって誰だよこの根性なし! 僕の弱い心はこんな時にでも逃げることを要求する。僕の人生が逃げてばっかりだったから、僕はいつでも逃げることばかりを考える。でも江里は僕に何と言ったのだ。僕は何を決意した?
逃げない。戦うのだ。それなのになんなんだよ隠れてようって。今はそんな場合じゃないんだ。『ふられるのが怖いから告白しなーい』とか『巻き込まれるのがイヤだしイジメも見て見ぬふり』とかそんなのとは次元が違うんだ。ここで選択を間違えたら、二度と取り返しのつかないことになってしまうんだ。
いいや、それも違う。今までのことだって本当は取り返しのつかないことになりえたのだ。だけど僕はそれに気づいていたのに気づかないふりで、別に僕が何かしなくても後で何とかなるとか自分をごまかして、逃げて逃げて逃げ続けてきたんじゃないのか。
そうだよそうなんだ。昨日、桐人をつけ回したのだって結局あれは逃げだったんだ。スバルにぶつかるのが怖かっただけなんだ。
僕の人生はそれの繰り返しだ。ごまかすこと。逃げること。そして後悔すること。それだけが僕の人生だなんてそんなの恥ずかしすぎるしアホすぎる。
身体の震えは完全には止まらない。恐怖だって拭いきれない。だけど僕はもう違う。もう逃げない。逃げるわけにはいかない。
僕は走って昇降口から一番近い便所に駆け込み掃除用具入れからデッキブラシをつかんでかついで自転車置き場にまた走った。僕に思いつく武器はこれぐらいしかない。
僕は喧嘩もしたことがないし正直なところ多分弱い。卑怯だしすぐビビる。逃げ足が速い以外にこれといっていいところだって見当たらない。だけど古代ブリテンの偉大なる王アーサーだって聖剣エクスカリバーを手にするまではどこにでもいる薄汚くて愚鈍なただの騎士の従者に過ぎなかったのだ。そりゃあ僕にはエクスカリバーなんてないし僕にあるのはただのデッキブラシだし敵こそがむしろ聖剣を持っている。でも、僕は逃げるわけにはいかない。僕はスバルを失うわけにはいかないのだから。僕にはまだスバルが必要なのだから。僕は自分の気持ちをスバルにぶつけなくてはいけないのだから。
デッキブラシをYシャツに忍者みたいにつっこんで、僕は自転車にまたがった。