ACT4 牛・GO警察 オレ・再会・キス!
ACT4 牛・GO警察 オレ・再会・キス!
1
ひどいひどいひどいひどいひどすぎる。僕の運命はひどすぎる。あーもうダメだ。ダ~メダメダメ、ダメにんげ~ん♪(←by筋肉少女帯)。僕の心は今やとってもネガティブで、全くもって光明を見出すことができません。
もちろん僕をここまで絶望的な気持ちへと追い込んだのはあの恐ろしいスバルの仕業である。そして付け加えるなら忌々しい転校生梶浦桐人の仕業である。
〈速攻果断〉〈有言実行〉をリアルに体現したような女・鈴木スバルは、公園の夜の翌日に、僕の自転車の後ろに乗って僕に言った。
「ねーねーミツグ(ハートマーク)」
「んー、なんだべー?」
「昨日、電話しちった(うふっ)」
「――!」
キキキキー。僕は驚きのあまり急ブレーキ。
「ちょっと! 危ないっしょ! いきなり止まんなっ!」
「マ、マジでか? マジで電話したんか?!」
「まっじだよーん(うふふ)」
「ちょ、なんでオマエ、梶浦の番号なんか知ってんだよぉっ?」
「自宅にかけちゃいました。連絡名簿に載ってたんだよーん。(えへ)わたしって、てんさーい。もー、ちょーキンチョーしたよ。ま、ご両親とかじゃなくて、カジウラくんが直接出てくれたんでよかったけどね(えへへ)」
「そ、それで? それで?!」
「あっははーん」スバルは高らかに僕に絶望的な台詞を告げた。「次の日曜日、一緒に出かけることになっちゃいました~!」
僕はもうそれを聞いてがっび~んでイライラのムカムカでしかもオロオロ。僕の気持ちも知らず、スバルは学校に行くまで僕の後ろで「で~と! で~と!」などと弾む声で口ずさんでいた。
「で~と! で~と!」はアレ以来、授業中も登校中も家に帰ってベッドで寝そべっている時でさえ、僕の頭にこびりついて離れない。僕は苦しみ、苦しみは新たな苦しみを呼んで、僕は苦しみの無限連鎖の中に落ち込んでしまう。ぐうううう。思い余った僕は、一人の人物を駅前のスター●ックスに呼び出した。
「……どうしたんだい、天堂くん? こんなところに連れてきて。私もまだいろいろと仕事があるんだけどなあ」
と言いながらも僕にキャラメルフラチペートを素直におごられテーブルに座ったのは誰であろう、スバルのことを実の娘のように可愛がっているミノタウロスの牛頭さんだった。
店内はギャルっ娘ばっかりでさすがにミノタウロスと一緒に座るのは目立ってしまうしかなり恥ずかしかったけど、そんなことを気にしている場合でもない。僕はカフェモカ片手に牛頭さんと同じテーブルに座った。
まずは当り障りのない話題をと思い、一さんと蛇子さんのその後の様子について訊ねた。
牛頭さんの話では、蛇子さんと一さんはまだ婚姻届を提出していないらしかった。僕はこの際だからと思い、以前から抱いていた疑問を牛頭さんにぶつけてみた。「婚姻届って、役所が受け付けてくれるんスかね?」
で、意外な事実を知ることになる。一さんと蛇子さんが婚姻届を提出するのは、こちらではなくあちらの世界、コンババオンセンの役所だというのだ。おお、これは目から鱗、コロンブスの卵。僕はぽんっ、と膝を打った。一さんも大人である、ちゃんと色々考えているんだね。
結婚はしていないものの、一さんと蛇子さんはとりあえず同じ寝室で暮らし始めている、とも牛頭さんは教えてくれた。へえー。と僕はただ感心。ところであの二人はどうやってベッドインするんだ、というもう一つの疑問も僕の胸には去来したけど、さすがにそれを牛頭さんにぶつけるのは慎んだ。世の中には神秘のベールに包まれたままの方がいいものだってきっとある。牛頭さんが、一さんたちのベッドインの仕方を知っているとしたら、それはそれで問題があるし。
スバルは、あの夜以来とりあえず一さんと蛇子さんの仲にあからさまには反対していないようである。あんまり二人がいちゃついているとさすがに腹を立てるらしいけど、まあ、それぐらいは当然のことだ。それよりも蛇子さんと一さんが同じ部屋で寝るのを容認しているなんて、あのスバルにも成長が見られて僕は嬉しい。
それらのことを牛頭さんが話し終えた頃には、僕らのコーヒーはすっかり空になっていた。僕は一つ咳払いして、言った。
「で、そろそろ本題に入りたいスけど、いいッスか?」
「良いも何も、私には何の用かわからないからなあ。天堂くん、いったいどうしたんだい」
「実はですね――」僕は心もち声をひそめた。「スバルが今度、デートするらしいんスよ」
「なんだってっっ!」牛頭さんの反応は苛烈だった。だんっ! 両の手のひらを思いっきりテーブルに叩きつける。空のコーヒーカップが数十センチ宙に浮く。店内の視線が僕らに集中する。すぐ後ろの席の女子高生二人組の声が聞こえてくる。「あの牛の人、カワイくねー?」。店員が僕らのところに飛んでくる。「あのお客様、他のお客様の迷惑にもなりますのでお静かに」
「すんません」「申し訳ないです」
二人揃って謝ってから、牛頭さんがさっきよりは小声で僕に質問した。
「ど、どういうことなんだ天堂くん? お嬢さまがデート? いったい誰と?」
僕の予想通り、いや、予想以上の牛頭さんの反応だった。OK。この牛頭さんのスバルへの愛を利用して、話の流れを僕の望む方に持っていってやる。
僕はスバルの恋の顛末をダイジェスト版で説明した。全てを聞き終えた後、牛頭さんは僕に言った。
「その梶浦とかいう男、信用に値するんだろうね?」
「どーすっかねー」が僕の答え。「男なんてモンはしょせん、ね?」
「ウモー」ではなく「うぐぐぐぐ」と牛頭さんは唸り声を上げた。ガタガタ・ガタガタ。拳を置いたテーブルが小刻みに震えている。
「どうッスか、牛頭さん」僕は言った。「オレにちょー名案があるんスけど?」
「名案?」
「スバルの安全を守るためにも、それから梶浦がどんな男か見極めるためにも、オレと牛頭さんで奴らのデートを尾行――もとい追跡――いやいや、見守ってやるんですよ」
「グッドアイディアだ天堂くん!」
牛頭さんが僕の手を固く握り締めた。
よしよしこれでよし。僕と牛頭さんの同盟が成立した。もしも、スバルと梶浦がイイ感じになりでもしやがったら、僕は牛頭さんを使って必ず妨害してやる。
2
僕と牛頭さんは、その次の日曜日に朧町の駅前に正午に待ち合わせをした。スバルと梶浦が午後一時にここから二つほど行った霞台という駅の改札で待ち合わせをしているらしいので、先回りするはらづもりだった。
僕らもバカではない。万が一スバルにバレでもしたらヒドイ目に合わされる。牛頭さんはともかく、僕は絶対に見つかるわけにはいかない。僕たちは変装してくるという約束も交わしていた。
そんなわけで、前夜、僕は押し入れだの洋服ダンスだのをひっくり返し、正体を隠すのにふさわしい衣装を捜しまくった。僕がチョイスしたのは中二の時に買ったNBAのレイカースのキャップ、黒いサングラス(フレームに〈レイベン〉と意味不明の文字が入っている)、それからグレーのパーカー、ハーフパンツ。キャップを目深にかぶってサングラスで目を隠せば顔は隠れるし、この服装ならどこからどう見てもエセ・ヒップホッパー。よもや僕だとはわかるまい。
僕は駅の伝言版の前で約束どおり牛頭さんを待った。携帯電話で時間を確かめるとちょうど正午をまわったところだった。えーと牛頭さんは――と、周囲を見ると、いた。いました。牛頭さんはきょろきょろと誰かを捜している。誰を? 僕である。僕の変装は大成功なのだ。僕は僕を見つけられない牛頭さんに近づき声をかけた。「牛頭さん!」
「お? ああ、天堂くん! ……んー、素晴らしい変装だね、ぜんぜん気づかなかった」
僕は嬉しそうな声を出す牛頭さんの顔を見た。牛頭さんの上から下までねめ回した。
「牛頭さん。そりゃー何のつもりです?」
「え? 変装だけど。私も完璧だろ」
たしかに牛頭さんはいつもと違う格好をしていた。だいたいいつもの牛頭さんというのは夏でも冬でもTシャツにGパンだ。今日は違う。なんと、いったいどこから持ってきたのだろう、牛頭さんはタキシードに蝶ネクタイという出で立ちで現れたのだ。変装はしているのかもしれない。でも目立つ。街中でタキシードなんか着ていたら、目立たないわけない。変装だよ? 尾行だよ? いったい目立ってどうするつもりだよ。
けどいいや。百歩譲ってそれは見逃してあげることにしよう。問題はまだ他にもある。僕がキャップとサングラスで顔を隠しているように、牛頭さんも小道具を使って顔を隠していた。頭にはタキシードとコーディネートされた黒のシルクハット、そして目には怪傑ゾロがしているような赤いアイマスク。
努力は認める。牛頭さんは顔を隠そうとしていた。僕がエセ・ヒップホッパーを目指したように、ジェントルマンになるというコンセプトは見える。実際、例えばこの僕が今牛頭さんがしているような格好をした場合、僕を知る誰もそれが僕だなんて気がつかないだろう。目立つ目立たないは別にして。
だけど、牛頭さんは牛なんだ。牛がどれだけ顔を隠そうと、どれだけ普段と違う服装をしようと、牛は牛である。絶対バレる。間違いなくスバルにバレる。やはり牛頭さんなんかとじゃなく一人で尾行をしたほうがよかったのだろうか。でも、一人だと責任も一人でかぶらなければならない。スバルに万が一尾行のことがバレた場合、責任を分かち合う仲間が、それもできるだけ多くの責任を押し付けることができる仲間が僕は欲しかった。
「……そんなに、私の変装はダメかな?」
牛頭さんは不満げだった。しかし牛頭さんは、結局は僕の言葉に頷かざるをえなくなる。牛頭さんには僕が見つけられなかったのに僕にはすぐに牛頭さんがわかった、それ自体が全てを物語っていたからだ。
僕らは霞台に行く前に、牛頭さんの正体を隠す手を講じる必要に迫られた。時間はもうあまりない。お金もない。僕は霞台から往復して少しあまるぐらいの持ち合わせしか持っていないし、それは牛頭さんもおんなじだ。とてもじゃないけど新しい変装グッズをショッピングする余裕なんかない。
この際、もはや目立つことには目をつぶることにしよう。何しろシルクハットにタキシードなんだもん。どうせ、多少小細工をしたって牛頭さんの服装じゃ目立ってしまうのに決っている。それに、仮に服装を普通なものにしたって二メートルを超える牛頭さんは、どちらにせよ人の目に付く。
だから僕は、顔さえ隠れて牛頭さんかどうかわからなくさえなればいいと思った。だから僕は、駅前のコンビニでジュースを買い、嫌な顔をされるのにもめげずに一番大きな紙袋をムリヤリもらい、目の部分に穴を開けてそれを牛頭さんの顔にかぶせた。
「さあ、これでオッケー。んじゃ遅れるとあれだし、行きましょうか牛頭さん」
「……ああ」
なにやら牛頭さんは不満げなご様子だったけど(とは言っても僕には牛の表情はわからないし仮にわかったとしても袋をかぶっていたらどっちにしろ表情なんて読めっこない。ところで、牛頭さんも牛の頭をしている以上狂牛病にかかったりはするのだろうかどうだろう)、僕は気にせずに切符を買うために販売機へと足を向けた。それで、百八十円の切符を買って二人で改札をくぐった。
霞台という駅は朧町から二駅しか離れていないくせに、朧町とは比べるべくもなく栄えている。行き交う人の数がまるで違う。大半はオシャレに決めた若人たち。朧町にはデパートなんて一つもないし百貨店もない。霞台にはある。駅前に有名デパートが二つ。百貨店が一つ。他にも映画館もCDショップもブティックもボーリング場も何でもある。ここは僕らの住んでいる辺りでは中心地的なところで、何かが欲しい時には僕もここに来る。ここに来れば大概のものは手に入る。
僕と牛頭さんは、霞台の西口の改札をくぐるとすぐにそこから五十メートルほど歩き、タクシー乗り場横のガードレールに並んで腰を下ろした。この場所からなら改札口をうかがうことができる。立っているよりは座っている方がずっと楽だ。
ところで、やはり僕らはよく目立った。原因はもちろん僕ではなく牛頭さんだ。なので、電車の中でもじろじろと眺められたしかなり恥ずかしかったのだけれど、ガードレールに座っているとそんなのとは比べものにならないぐらいの視線が僕らに集まっていた。
それでも僕らはその場所でスバルと梶浦が現れるのを待った。時間は午後十二時四五分。「あ」「どうした天堂くん」「あいつッスよ牛頭さん」僕が指差した先には、梶浦桐人が立っていた。
梶浦は、本日は黒シャツにコーデュロイのパンツとシンプルなファッションに決めていた。実によく似合っている。僕が同じ服を着ると単に洋服に気を使っていない男になってしまうが、梶浦が着るとそれは飾り気がないながらにも上品さが漂っているように見えた。そう言えば、僕が梶浦の私服を見たのはこれが初めてだった。と言うよりか、転校してきて一ヶ月も過ぎようかというのに、僕は梶浦の私生活について全く何も知らないことに、たった今気がついた。
謎に包まれた男・梶浦桐人を初めて目の当たりにした牛頭さんは、唸り声を上げた。
「うううむ。うううううむ」
「……なんスか?」
「何という美男子なんだ。あれが、お嬢さまのお相手の梶浦くんだというのかい? さすがお嬢さま、人を見る目がある!」
「……まだそう言い切るのは早いんじゃないスか? 人間、顔だけじゃないと――」
「何を言ってるんだい天堂くん。顔だけじゃないよ、もちろん。でもね、実際に目で確かめることができるのは見た目だけだ。心は見ることができないからね。人間の判断基準として、顔は大事な要素の一つだよ」
ええ、ええ、そうでしょうとも。結局人間は顔ですよ。牛の牛頭さんに言われなくてもそんなことはわかってますよ、はん。だから梶浦は素晴らしい人間で、僕は三流ダメ人間、スバルには相手にされませんってわけですね、はん。自分だって牛面のくせに、はん。
「あれ、ひょっとして傷ついてるの?」
「いーえ、別に」
「大丈夫だって天堂くん。きみだって――そう、なかなか感じのいい顔をしているよ」
「……それはどーも」
……感じのいい顔、ね。はん。
などといじけている間に時間は過ぎる。僕と牛頭さんが会話を交わしながら見守っていると、改札口のところに今度はスバルが現れた。皮膚にぴったりとフィットしたタイトな黒いノースリーブのシャツに下も黒のミニスカートをはいたスバルはまるで小さな魔女のようだった。別人みたいに大人っぽい。梶浦も黒、スバルも黒、同じカラーのファッションに身を包んだ二人が並んで立つと、周囲と比べてあまりにも異質に見えた。二人は、僕らとは違った意味でよく目立っていた。
スバルと梶浦は二、三言葉を交わした後、手をつないで歩きだした。僕と牛頭さんは頷きあい――改めて紙袋をかぶった牛頭さんの顔を見つめるとやはり異様だったけど、僕は笑いをこらえた――スバルたちを追って歩き始めた。
二人と一定の距離を保ちながら歩いていると、牛頭さんがこんなことを言い出した。
「あまり会話が弾んでないみたいだね、あの二人。お嬢さまにしては珍しいな」
それはスバルが照れているからに違いなかった。僕はそれを牛頭さんに教えたりしなかった。わざわざ不愉快になる会話をする必要はどこにもない。
スバルと梶浦は、とある一つの建物の前で足を止めた。映画館だ。中に入るらしい。案の定、二人は建物の中に姿を消した。
僕たちは駆け足でスバルたちがさっきまで立ち止まっていた場所へ近寄った。
「どうする? 私たちも中に入るかい?」
「うーん」
僕は上映されている映画を確認した。かかっている映画は全部で四つ。二つはSF超大作で、どちらもシリーズ物の第二作目だ。二つとも僕でも名前を知っているぐらいのメジャーな作品である。残る二つは反対にマイナーな作品のようだった。共に外国映画なのに日本語のタイトルがつけられている。一つは恋愛についての、もう一つは人生についての映画らしかったけど、今ひとつ僕には興味が湧きかねた。何だか退屈そうだ。
映画館の中まで追跡するべきか。それとも、ここで二人が出てくるのを待つべきか。
僕は自分の財布をのぞいてみた。ここで映画を見たりすると、残高がかなり厳しくなる。朧町に帰ることはできるけど、ただそれだけしかできない。あるいは、牛頭さんを『ペットの牛です』って嘘をついて、一人分の料金で二人で映画館に入るのはどうだろう? まあ無理か。牛を入れてくれる映画館なんかあるはずないや。
かと言って、ここでつっ立ってスバルらが出てくるのを待つのもどうだろう。何しろ僕の隣には紙袋をかぶった巨人が立っている。周囲のチラチラという視線がかなり恥ずかしい。こんな恥ずかしい視線にあと二時間は耐えなくてはならなくなる。
「スバルたちどの映画に入ったんスかね」
「そりゃあ男女で入るんだから恋愛映画なのじゃないかな」
「でもスバルッスよ? SFの方なんじゃないッスかね。あいつ、恋愛モンなんか茶化す以外の見方できないし」
「そう言われてみればそうかもなあ」
「……うーん、どれッスかねー?」
で結局、それが僕たちが外で待っていることにする決定的な理由となった。どの映画に入ったのかわからないのに映画館まで追っていくことなどできないのだ。
これはこの時点では正しい選択のように思えた。外で待つという選択は、恥ずかしさに耐える覚悟さえできれば、他に一切の問題をはらんでいないはずだった。
だけど〈はず〉はどこまでも〈はず〉でしかない。映画館の前でぼーっとつっ立ちスバルたちを待ち始めてからわずか十分後、さっそく問題は僕たちの身にふりかかってくる。
僕らのすぐ目の前を通過しようとした自転車が急に停止した。運転していた男は僕と牛頭さんの、主に牛頭さんの顔をじろじろと眺めた後、自転車から降りてそれを押しながら僕らの前へとやってきた。
自転車のカラーはホワイト。その男が着ているのは僕もよく見慣れている制服だった。日本人なら子供でも知っている制服だ。警官の制服だ。その男は、見紛うことなきポリスマンだった。
「あの、もしもし」ポリスは、牛頭さんを凝視しながら訊ねてきた。「あなたは、いったいなんでそんな格好をしているんですか?」
丁寧な口調だったけど不信感がにじみ出ていた。牛頭さんが答えた。
「あ、いや、えーと、その……」
「怪しいな」
目を細めて断言する警官。そりゃそうだよね。でもこれってちょっとマズい。
「ちょっとそれ、外してもらえませんか?」
牛頭さんはおずおずと、紙袋に手をかけた。僕は慌てて牛頭さんの腕をつかんで制止し、代わりに警官に言った。
「すみません、彼、ちょっと顔を出すわけにはいかないんですよ」
「……はあ?」
「いえ、実は日光を浴びると皮膚に発疹が出来ちゃう病気なんですよ、この人。えーと、なんだっけな、そう! 紫外線がいけないらしんです、それで紙袋で防いでるんスよ。ほら、服装だって暑苦しいでしょ」
警官は、ますます胡散臭そうに牛頭さんを眺めた。牛頭さんは牛頭さんで、おいおい何を言い出すんだとばかりにチラリと僕の顔を見た。警官は言った。
「なるほど、それは大変ですな」
よし大丈夫みたいだな。と僕がほっと息をついたのも束の間だった。だいたい僕の経験的に、安心した時というのが一番危ない。『家に帰るまでが遠足です』とは誰でも知っている歴史に残る名言だが、名言が名言たるゆえんはまさにそれが真実だからなのである。
警官は、振り返り僕らの前方を指差した。
「あの映画館の中でなら大丈夫でしょう。一応念のため、お手数ですがあそこでその袋を脱いでもらえますか」
牛頭さんが指名手配犯じゃないかと疑っているのかもしれない。とにかく職務熱心なポリスマンだ。これなら日本の未来は安心だが、ちっとも僕の未来は安心じゃない。
でもこれ以上抵抗することなんて出来なかった。僕たちは映画館の入り口まで連れて行かれ、チケット売りのお姉ちゃんも見つめる中、紙袋を脱ぐよう促された。
牛頭さんは紙袋を脱いだ。チケット売りのお姉ちゃんや通行人から笑いが漏れた。
ポリスマンが言った。
「……きみは、本官をバカにしているのか」
そして牛頭さんの口をつかんで持ち上げようとした。牛頭さんの頭からシルクハットがぱさりと床に落ちた。
「早く、この牛のマスクも脱ぎなさい! そんな大きな図体をしてこんな格好をして恥ずかしいとは思わないのか!」
「痛い! 痛いです!」
「いいから脱げ!」
「ち、違う! それは、それは――」牛頭さんは、あえぎながら言った。「それは、私の顔です! マスクなんかじゃないんですよ!」
「くだらんことを言っているんじゃない!」
警官は尚も口を持ち上げた。「痛い!」という牛頭さんの声にもお構いなしだ。でもそのうちに口を引っ張ってたんじゃらちがあかないと考えたらしく、右手で口を持ち上げようとしながら、左手を牛頭さんの首筋に這わせ始めた。マスクと首とのつなぎ目を探しているらしかった。この段階ではまだギャラリーたちからは笑いがこぼれていた。僕は床のシルクハットを拾いあげた。
「……うん?」。ポリスマンが、今までとは全く違う、ボタンをかけ違えたシャツみたいにマヌケな声を出した。「なんだ、これは?」
「その人が言っていることは本当っす」
ポリスマンは弾かれたように振り向き、怯えと驚きの混じった目で僕を見た。
「それ、素顔っスよ」
またもや笑いが、それも失笑が周囲のギャラリーからこぼれた。ポリスマンは笑わなかった。僕の顔をたっぷり一秒は見つめ、その間も左手は首筋を這わせ、そして、ゆっくりと牛頭さんの顔を見上げた。
牛頭さんは、口を動かして、困ったように言った。「だから、さっきからこれが顔だって言っているじゃないですか」
その声を、何と形容すればいいのだろう。ポリスは「ひょぇっ」と言い、羽でも生えているかのように軽やかに飛んで牛頭さんから離れた。自分の腰に手を伸ばす。拳銃を引き抜こうとしているらしいのだけど、手が震えていてなかなか上手く抜くことができない。
「ホンモノ?」「ホンモノだって?」「うっそぉー」「まっさかぁー」という声が、ものすごいスピードでギャラリーの間を伝わっていった。僕はどうしたらよいのかわからずにシルクハットを持ってつっ立っていた。事態がどんどん悪い方向に加速していることだけはわかっていたのだけれど。
「こ、この、化け物!」
周囲から、今度は悲鳴が上がった。ポリスがついに銃口を牛頭さんに向けたのだ。ポリスは完全に腰が引けていて、拳銃を持つ手だってぷるぷる震えていて、とても不恰好だったけど、しかし誰も笑わない。
牛頭さんは肩をすくめて僕を見た。
「困ったことになったなあ、天堂くん」それから、一歩、ポリスの方に踏み出した。「とにかく、まず、落ち着いてください刑事さん」
パン、パンパン。乾いたアスファルトの上で花火が破裂したような音が辺りに響いた。ポリスマンが持ったぷるぷると震える拳銃の銃身の先から、白い煙が立ち昇り、誰かが息を飲む音がやけにはっきりと聞こえた。ポリスマンは放心したような表情を浮かべていた。牛頭さんは、ぴくりとも動かずその場に立ち尽くしていた。
最悪なことが起きてしまった。僕たちはただスバルを監視にきただけなのに、なぜこんな目に合わなくてはならないのか。僕も、ポリスも、ギャラリーも、牛頭さんを固唾を飲んで見守っていた。
「痛いじゃないですか」
「――――ッッ?!」
「いきなり発砲するなんて何を考えているんですか。まったく」
ぷんすかと怒り心頭な牛頭さんは右手で身体を払った。ぱらぱらと地面に何かが地面に落ちた。よく見れば拳銃の弾だった。
「ご、牛頭さん、大丈夫なんスか?」
「んー? 大丈夫じゃないよ。痛い。すごく。日本もずいぶん危なくなったね。警官がこんなに簡単に銃を撃つなんてなあ。こんなことで本当に市民の安全が――」
誰も、牛頭さんの愚痴に耳を傾けてなんかいなかった。銃弾を食らったのに平然としている怪物を前に、まず、警官が「うわぁー」と声を上げ、もろてをあげて逃げ出した。雲の子を散らすように、ギャラリーたちが後に続く。怒号と悲鳴が飛び交い、車道に飛び出す人、慌てるあまり転んでしまう人、前の人を押しのけようとする人、逃げまどう人、人、人。車道で様子をうかがっていた車までもが、みんな一気に走り去る。
わずか十数秒後には、受け付けのお姉ちゃんたちも含めてその場に残っているのは僕と牛頭さんだけになっていた。
「みんな、なんで逃げちゃったんだろう?」
「銃で撃たれても平然としてるんだもん。普通はびっくりしますって」
そもそも牛頭さんってミノタウロスだし。
「ま、いいか。それより、あとどれぐらいでお嬢さまたちは出てくるんだろうなあ。ずっとここで待っているのも退屈だよね?」
「んーとですね……牛頭さん、あんまり、ここにいるのはよくないんじゃないかと」
「え? なぜ? ここで待つことにしようってさっき決めたのはきみだよ?」
「まあ、そうなんすけど、でも――」
僕がここから移動した方がいいと考える理由を説明しようとしたその時、遠くから、幾つものサイレンが聞こえてきた。サイレンは、どんどんどんどん大きくなる。僕は、結局移動するのが間に合わなかったことを知った。
「つまり、こうなると思ったからなんスよ」
キュキュキュキー! アスファルトにタイヤをこすりつけ、四台ものパトカーがものすごいスピードで僕たちの横に突っ込み急ブレーキで停車した。バタン! バタン! 次から次へとドアが開き、おなじみの制服に身を包んだポリスメンが姿を現す。総勢二十人。これだけのポリスの軍団を見ることはちょっとないだろう。僕がぼんやりと場違いなことを思っていると、一番後列の後部座席から出てきたポリスが、牛頭さんを指差し叫んだ。
「あいつです! あの化け物です!」
それはさっき僕らの前からトンズラしたポリスと同じポリスだった。そのポリスの声に他のポリスたちが一斉に銃を構えた。
「そこの、そこの――」先頭に立っていた警官が、牛頭さんに呼びかけようとして、しかし言葉に詰まった。そこの〈何〉と言えばよいのか迷っているらしい。数秒間のタイムラグを経てポリスは叫んだ。「そこの怪しい奴、手をあげて止まりなさい!」
牛頭さんは始めから動いてなどいなかった。一応手を上げる素振りを見せながら、助けを求めるように僕の顔を見た。
でもそれが、さらによくない事態を招くことになる。警官の一人が、その牛頭さんの動きを誤解して大声を出したのだ。
「怪物め! 少年を襲うつもりだぞ!」
「危ない、離れるんだ少年!」
「この化け物め!」
いつから僕は、古き良き怪獣映画の世界に紛れ込んでしまったのだろう? それとも冒険小説の世界と言うべきか? たしかなことは、ポリスメンらは牛頭さんを凶悪な怪物と思い込み――〈凶悪な〉の部分をのぞけばそれは事実である――、僕を、人質に囚われている少年だと勘違いしているらしいということだった。ポリスメンたちの指先は哀れなほど震え、何かきっかけさえあれば、もしくはきっかけなんかなくても、いつでも引き金を引いてしまいそうに見えた。
「ちょ、ちょっと待ってください、皆さん」 僕は両手をあげて牛頭さんと同じような格好になりながら、ポリスメンに訴えかけた。「こ、この人は、って人じゃないんだけども、えーと、もう何でもいいや、えーと、とにかく、何にもしてないッスよ、いやマジで。そ、そう、見かけで人を判断しちゃ、って人じゃないけど、とにかく、えーと」
「少年は恐怖で錯乱しているようだぞ!」
「安心しなさい、今助けてあげるから!」
「いやだから違うって」
「動くな! 動くなよ、化け物!」
ダメだこの人たち。興奮して僕の話を聞いちゃいない。そうこうしているうちにポリスメン包囲網は狭まっていく。牛頭さんはもう銃で撃たれるのが嫌なのか、「いやー、困ったなあ」なんて言いながらポリスメンの言葉に従いじっとしていた。
そしてついに、牛頭さんの手首に手錠がかけられる時がきた。と言っても、それは僕と牛頭さんが無抵抗の意思を示してから、たっぷり十分もたってからだった。ポリスメンが牛頭さんの至近距離にやってきたときに、その牛面にビビリまくり、なかなか最後の距離を詰めようとしなかったことが原因だった。馬鹿馬鹿しい。それでも、一番年若いポリスが「んあぁ」と泣き声なのか気合の声なのかわからない声を出しながら牛頭さんの腕に飛びつき、それで何とか手錠は牛頭さんの手首にかかってポリスたちは落ち着きを取り戻し、騒動はひとまずおさまった。僕や牛頭さん以外の人たちにとっては。
牛頭さんは、逮捕されてしまったのである。
容疑はいったい何なんだ? 〈牛罪〉か? 牛罪だけに重罪。――ややウケ。
3
僕の悲劇は終わらない。事件に巻き込まれたのは牛頭さんで、逮捕をされたのも牛頭さんで、それならパトカーに乗せられ連行されるのも牛頭さんのはずだけど、事情を聞かなくてはならないとかで僕も無理やりパトカーに押し込められることになってしまった。僕の立場は一応被害者。警官たちも僕には優しい。優しいけど、パトカーの中での僕の訴えには耳を傾けない。
「いや、だから、あの人、って言うか、牛って言うか、その――」
「大丈夫、大丈夫。もう安全だから落ち着いて。あの怪物は何もできないから」
「だから、その怪物ってのは、僕の知り合いなんですよ、マジで」
「記憶が混乱してるんだな、かわいそうに」
「こんな少年に恐ろしい記憶を植え付けるなんて、本当に許せんな、あの怪物」
「まったくです。しかし何者なんでしょうね。あんな怪物がいるなんて信じられませんよ」
「どこかの研究所から逃げ出したのかもしれんな、しかし、いつからこの世の中はSFの世界みたいになっちまったのかね」
「科学とやらがいけないんですよ。わけのわからないことばっかしやがって」
とここで頷き合う二人の警官。うーん、僕の言葉に耳を傾けないどころか存在そのものを完全に忘れていやがる。そうこうしているうちにパトカーは霞台警察署の前にご到着し、僕は刑事課で二人の警官に取り囲まれて事情聴取。牛頭さんはと言えば、五人がかりで引きずられて取調室の中へ。
で、いよいよ事情聴取なわけだけど、僕は牛頭さんの容疑を晴らすのに全力投球することにした。そもそも何の事件だって起こしていないのだ。顔見知りの責任として、誤解をといてあげなければならないだろう。
だがこれがかなりの苦労だった。何しろ皆、牛頭さんを悪の化身だと思い込んでるし、僕も恐怖で頭をやられてしまったのだと思われている。うむむ。忌々しき先入観。何を言っても「もっとよーく考えてごらん」だの「落ち着けば本当のことを思い出すんじゃないかな」などとなめきった返事がかえってくる。
この状況を打破するのにもっとも有効な方方は、僕以外の誰かに証言をしてもらうことだった。そしてそのチャンスは十分もしないでやってきた。警官の一人が「とりあえず家の人に連絡することにしよう」と言い出したのだ。OHイエスイエスイエース! これで事態は正しい方向へと流れ出す!
と僕がデスクの下で握り拳を作ったのも一瞬で、すぐに戸惑い顔で刑事が僕のところに戻ってきた。「家の人、誰も出ないんだけど」。おお、なんてこった! お袋め、またその辺で井戸端会議でもしているのか? こんな時に何をしてやがる、くそったれ!
くそったれなんて汚い言葉は使ってはいけません。すぐさま僕は反省し、次の手を考えることにした。すぐにスバルの家に連絡したらどうだろう、というグッドなアイディアが閃く。あそこなら確実に蛇子さんと鬼島さんは家にいるはずである。鬼島さんは「ウガー」しか喋るわけにはいかないので電話には出れないけど、蛇子さんならきっと牛頭さんの身分を保証してくれるはずじゃないか。
でもそれはただのバッドアイディアだった。蛇子さんに電話をする、これはいい。蛇子さんが僕や牛頭さんの身分を証明してくれる、これもいい。しかしそうすると必ず、蛇子さんが署まで僕たちを引き取りにくることになるのではなかろうか?
僕の頭の中に阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。ミノタウロスに続いてナーガの登場! 署内はパニックになること必至である。恐慌に駆られたポリスの誰かがむやみに銃を撃ってしまうかもしれない。『うわぁぁー』バンバン! そして恐怖は必ず伝染するものだから、他の誰かも銃を抜く。『来るなぁー』バンバンバン! さてそうするとどうなるか。僕に流れ弾が当たるに決っているのである。何しろ僕はデートを尾行しただけでこんなところに連れ込まれるほど不幸な男なのだから、流れ弾が僕をよけてくれるはずがない。バン! 『ぐふっ』とうめいて、口から鮮血を溢れさせながら崩れ落ちる僕。目から流れ落ちるひとすじの涙。臨終の言葉は『あー、もっと色んなぱんちぃーを見たかった……』。哀れなり天堂貢くん。あまりに報われることのない人生だった……。それから時は流れてスバルと梶浦桐人はウエディングベル。最初の子供が男の子だと知ったスバルは梶浦に提案する。『ね、この子の名前は貢にしましょう』『良いアイディアだね、きみ。それなら天堂くんもヘヴンで喜んでくれているはずだよね』。僕は草葉の陰でうわぁぁーんぐわぁぁーん。
ふ・ざ・け・る・な! そんなのイヤじゃァァァー! 僕は鈴木家に電話をかける案をすぐさま却下。けれど素晴らしい代案を持ち合わせているわけでもなかったので、その後も事情聴取から解放されず、十分あまりがすぎた。「ちわーす」と言って刑事課におかもちが入ってきた。おおこれは! と僕は思った。差し入れか? 刑事ドラマでおなじみの、伝説の、カツ丼なのか? と。
カツ丼だった。でも僕にではなかった。カツ丼はおかもちから刑事の一人の手に渡され、その刑事はそれぞれの手にカツ丼を一つずつ持ち、取調室の中へ消えてしまった。カツ丼も取調室の中へ消えた。
これ以上の悲劇があるだろうか。僕は容疑者ではないから、カツ丼は僕の手には渡らないのだ。同じように拘束されているのに、牛頭さんはカツ丼を食べられるのだ。牛のくせに豚を食べるなんてなんのつもりなのだ。
絶望にうちひしがれる僕の耳に、「これは精神科の先生を呼んだほうがいいかなあ」などと話す刑事たちの声が聞こえてきた。そんなバカな。僕は焦った。この上医者まで舞台にあがってきたら、ますます事態は複雑になる。勘弁して。早く家に帰らせてよ。この際だから、僕だけでもかまわないから。
人間追い詰められると真の実力を発揮するものだ。その時不意に、またも僕の頭にグッドアイディアが。今度こそホンモノだった。身元がたしかで、僕や牛頭さんの身分を証明してくれて、警察の人々をパニックに陥らせない人間に助けを求めればよかったのだ。そうだそうだよバカ野郎。ハムラビ法典だって言ってるじゃないか。目には目を、歯には歯を。警察には警察を。朧町警察署の刑事に連絡を取ればよかったんだ。ふんふーん、オレっててんさーい♪ つーか、もっと早くに気づいとけよな、オレ。
かくして僕は霞台警察署から解放されることとなった。朧町からわざわざ顔見知りの老警官が駆けつけ、色々と事情を説明してくれたのである。僕のことを生まれたときから知っているジイさんだ。
ただし、解放されたのは僕だけだった。いかに警官の話だとはいえ、牛頭さんが実は〈気の良いアニキ〉だなどという話を、霞台警察の人々は容易に信じることができなかったのだ。何だか霞台と朧町の両警察署の間で、複雑な電話のやり取りが何度も何度も交わされているようだった。今しばらく牛頭さんの身元確認には時間がかかるらしい。まあ、そりゃそーだろうね。
警官たちの引きつった笑顔の見送りを受けながら霞台警察署を一人出た僕は、その足で警察で教えられたとおりに駅までの道を歩いた。どうせ、とっくの昔にスバルたちは映画館を出て、どこに行ったのかわからなくなってしまっている。今日はとても不幸な日なのだから、こういう日はとっととおうちに帰ってしまうのが一番いい。
それが僕がまっすぐに駅を目指していた理由で、だから僕は駅までの道を歩いていた。
けれど僕は知ることになる。今日が、あらゆることが裏目に出る日だということを。そして僕は見ることになる。この世でもっとも見たくはなかった光景を。
通りかかった公園のベンチだった。若い、黒い服に身を包んだ男女が腰をかけていた。僕と同い歳くらいの男女だった。女性――というよりも少女――のはいているミニスカートはあまりにミニで、屈めばパンティが見えてしまいそうなほどのミニだった。
歩道を歩く僕と小さいとはいえ公園のベンチとは五十メートルぐらいの距離があった。ベンチに腰かける少女と少年は、僕に全く気がついていなかった。僕は気がついた。ベンチに座っているのは紛れもなく鈴木昴と梶浦桐人だった。
一度立ち止まり、視線をベンチに固定させてしまい、少し逡巡し、でも結局僕は、牛頭さんがいなければ責任をかぶることになるしそんな危険は冒せないと、その公園の前を黙って通りすぎることにした。
しかし、ここに来た時点で僕の運命は決定されていたのだ。公園を通り過ぎるまで後ほんの少し、スバルたちが視界から消え去る本当に直前だった。僕は視界の端に、見えてはいけないものを捉えてしまった。ベンチに座ったスバルが、そっと梶浦の顔に顔を寄せ、素早く離れたのだ。スバルは、恥ずかしそうに視線を梶浦からそらした。梶浦は、驚いた顔でスバルを見つめた。僕は――僕は――
KISS! キス・キス・キス! キスキスキスキスキスだよありゃ! 僕の位置からはスバルの後頭部しか見えなかったけどでもありゃーキスだよキスをしやがった!
ああああ。これ以上、その場にとどまることなんかできるはずがない。「うわぁぁぁぁーん!」ひと目も気にせず自然とわめき散らしながら僕は走り出していた。
気がつくと、僕は朧町行きの電車に乗ってシートに座って窓をじっと見つめていた。ただ見つめていた。頭の中は真っ白だった。
4
スバルのキスシーンはショックだった。好きな女のキス! 好きな女のブラジャーやらパンティやらあるいはもっと過激に裸やら、そんなものに男は大興奮。興奮しない奴なんて男じゃないと僕は思う。僕的にはやはり思い出もあることだしパンチラが一番大好きだ。
それとは別に、好きな女じゃなくても男は女性のエッチな姿が大好きだ。だからエッチなビデオが巷に出回り、トゥ●イト2みたいな番組だって人気が出る(もう終わっちゃったけど。がんばれ山●晋也監督!)。男は基本的にいやらしいものが大好きないやらしい生き物なのである。
ところが、それは間違いなのないことなのだけれど、好きなアイドルがヌード写真集を出すと切なくなることからわかるように、なぜか好きな女のエッチなシーンとなるとこれは男の興奮を誘わなくなってしまう。いや、誘うことは誘うのだけれど、それよりも悲しみの方が大きくなってしまうのだ。悲しみは感じず興奮だけする男もいるにはいるけど、そういう連中はアブノーマルなヘンタイくんだと僕は確信する。今のところ僕はそういった連中の仲間入りは果たしていない。
キスが〈エッチ〉かどうかはともかく、そういうわけだから僕のスバルのキスシーンを目撃してしまった悲しみは、太平洋よりも広く禅問答よりも深かった(『両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?』とか言われても、深すぎて僕にはさっぱりである)。悲しみに暮れた僕は、ふらふらと朧町の駅に降り立った。本当は降りずに終点までひたすら乗り続けてやろうかとも思ったけれど、しかし、そんな形でいじけても誰も僕の悲しみに気づいてはくれないしだから慰めてもくれない。
代わりに、改札を出た僕はその足で駅前のさびれたゲームセンターに直行し、対戦格闘ゲームにこの悲しみをぶつけることにした。パンチパンチ! それキック! サマーソルト! 行くぞトドメの空気投げ! っと叫びながらレバーをがちゃがちゃボタンをバシバシやったはいいが、あっという間にKO負けをきっし僕のストレスと悲しみは倍率ドン、さらに倍! は●たいらさんに三千点。
もはや財布の中身は底をつき、ゲーセンの店員にも「やかましいから出て行け!」とつまみ出され、僕の絶望は大絶望へとエボリューション。もう家に帰ろう。家に帰り、ベッドの上で膝を抱えてうずくまり、得意の自分の世界に閉じこもろう。僕は後ろ向きに決意し、家に向かってまたふらふらと歩き出した。
でもその矢先、ドンっ、という衝撃が僕を襲い、僕はよろめき地面に片腕と片膝をついて倒れてしまう。誰かと思いっきり正面衝突してしまったのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
心配そうな声がして手が僕の目の前に差し伸ばされ、刺し伸ばされたのはかわいらしい声と小さな手だった。男にはない声と手だ。
僕は腕と膝のスプリングで勢いよく立ち上がった。激突してしまった女性に笑いかける。
「いやー気にしないでいいっすよ。オレがぼーっとしてたのが百パー悪いんだから――って、あれ? ……あれあれ?」
「……こんにちは、天堂くん」
目の前に立っていた女性の顔を確認して、僕はただただビックリ。なんとなんと、そこに立っていたのは、ほんの少しだけ大人っぽくなった赤城江里さんだったのだ。そう、僕の昔の彼女の、あの赤城江里ちゃんだ。
「な、なんで、こんなとこに?」
「なんでって、家、この近くだし」
「……あっ」
まぬけな質問に気づいて僕は赤面。その反応を楽しむように江里はくすくすと笑った。その笑いがさらに僕を赤面させ、恥ずかしさのあまり僕の顔は真夏の太陽のように熱くなる。にっこり微笑み江里は僕に言った。
「ね、天堂くん、いま時間ある? 久しぶりにあったんだし、お茶でもしていこーよ」
数分後、僕は江里と駅前のファーストフードに向かい合って座っていた。テーブルのトレイにはコーラとアイスミルクティーとチーズバーガー。コーラが僕ので残りが江里のだ。全部、江里の財布から捻出された。持ち合わせのない僕をあわれみ彼女がおごってくれたのだ。古き良き友情に乾杯、と言いたいけれど、それより何よりちょっとばかし情けなさ過ぎると自分でも思う。ふーむ。
「どうしたの、浮かない顔して?」
コーラをつかんでもじもじしている僕に江里が訊いた。
「そう言えばぶつかった時も何か暗い顔してたけど、悩み?」
「いや、べつに、うはは」困った時は意味もなく笑うのが一番だ。僕は「うはは」を連呼し、コーラをごくりとやって、それから話題を変えるために江里に質問した。
「そういやさー、赤城さん、今も続いてんでしょ? どう、幸せ? すごいよなー、オレと別れてからすぐだから、かれこれ――」
「あのね天堂くん」
「は?」
「わたし、この間、別れちゃったんだ」
「え、うそ?」
「ホント。だから今フリーだったりして」
マジでっ? と、てっきり僕は江里が幸せラブラブ生活を送っているものだと思っていたからまたまたビックリ仰天し、コーラを飲む手も休めて、ゴシップ好きなうちのお袋が乗り移ったように別れた原因について次々と質問を浴びせた。
「うーん、やっぱり長く付き合ってると良いところも悪いところも見えてくるしね」「それにねー、うーん、良い人だったんだけど、でもそれだけじゃあね」「結局、わたしと彼とじゃ合わなかったってことなんだよきっと」
僕のぶしつけな質問にも、江里は嫌な顔ひとつせず答えてくれた。なんて良い子なんだ江里ちゃん。でも江里ちゃんの言っていることを総合すると、要するに飽きちゃったってことなんだろうなと僕は結論した。
飽きちゃった、か。飽きるほど長く付き合った僕には決して理解できない感情だ。僕はスバルと長く付き合っているけれど――もちろん友達としてだ――僕はスバルにぜんぜん飽きたりしない。これから先も飽きる気なんてぜんぜんしないんだけど。……ああ、そうか。でももうスバルは桐人のものになってしまいそうなんだ、ということを思い出して僕はまたまた落胆。もしかしたら僕はスバルに飽きていなかったけど、スバルの方は僕にすっかり飽きてしまったのかもしれない。だからスバルは僕ではなく桐人に走ってしまったのかも。……というのは多分自分の買いかぶりすぎだろうね。スバルは僕のことなんか異性としても友達としても飽きるほど眼中に入れてやしないもんな。ふー。
「あー、またため息ついたでしょ」
江里の声で僕は我に返った。いかんいかん。今は江里との食事中なんだ。他の女の、しかも僕以外の男にうつつを抜かしているスバルのことなんか考えてちゃいかん。
「ねーねー、なにそんなに悩んでんの、天堂くん? わたしでよかったら話聞くけど?」
「うーん? いやー別にぃ」
「そう?」
と小首を傾げた江里の仕草が女の子らしくて実に可愛らしかった。キュートで魅力的だった。そういやあコイツ変わったよなあ。僕は唐突に思った。そう思ってしげしげと江里を眺めると、その思いは確信になった。
江里は変わった。間違いなく。僕と付き合っていた頃はもっとおとなしくて、何と言うか、そう、面白みに欠ける少女だったはず。それは僕がスバルをずっと見てきたから余計にそう感じたのかもしれないけど、少なくとも、自分が恋人と別れた話を、再会したばかりの同級生にほいほい話すような女の子じゃなかったし、再会したばかりの昔の恋人を、気軽にお茶に誘うような女の子じゃなかった。
時が人を変えるのか、と僕は感じてなぜだか少し感動した。感動すると、余計に江里のことが魅力的に見えてきた。
「そうか、赤城さん、今フリーなんだよね」
「うん、そうだよ」
「……もしよかったら……もう一度オレとやり直してみるっての、どう?」
うぉッ? オレは何を言いだしているんだ? 僕の口から飛び出した思わぬ言葉に僕はまたまたビックリ仰天。短時間に何回ビックリしたら気がすむんだ僕は。赤城江里だって唐突な僕の申し出に戸惑っているだろう。僕はおそるおそる江里の顔を見た。別に江里は戸惑ってはいなかった。彼女は言った。
「わたしが、天堂くんと?」
え、その口調だともしかして乗り気?
だけど江里は数秒間考え込んだ後、首を横に振った。「うーん、やめとくよ」
……そりゃそうだよね。再会したばっかの相手と付き合うわけないよね、やっぱし。
「なんか、天堂くんと付き合っても、また前の繰り返しになっちゃうような気がする」
「え?」それってどういうことですか?
「ひょっとしてなんだけどさ、鈴木さんとなんかあったでしょ? 喧嘩した?」
ドキン! ドキンズキン!
「あ、やっぱりぃ。目が大きくなってるよ。わかりやすいねぇ天堂くん」
「い、いや、喧嘩なんかはしてない……」
「けど何かあったんでしょ? ……ダメだよー天堂くん。どうせまだ鈴木さんに告白してもいないんでしょ?」
「……告白とか、そんな、オレとスバルはそんなんじゃ……」
僕はお口をもぐもぐ。
江里はふっと軽く息をついて、僕に言った。
「逃げちゃダメだよ、天堂くん」と。
「告白するのは勇気がいるかもしれないけど、怖いかも知れないけど、でも逃げちゃダメ」
「いや、だからオレはそういうんじゃ……」
「ふられるのが怖いからって、他の女の子に目をそらすことで自分をごまかしちゃダメだよ。二年前、わたしと付き合ってくれたのだってそうだったよね? あれさ、付き合ってるほうだってけっこう辛いんだよ? ああ、わたし、付き合ってもらってるんだなあ、とか思っちゃうのってさ。また、あんなことを繰り返すつもりなの?」
僕は何も言えなくなってしまった。まったく江里の言う通りだ。僕に言えたのは「ごめん」の一言だけだった。
「鈴木さんのこと、まだ好きなんでしょ?」
江里の言葉に、僕は頷いた。
江里は笑顔をまた僕に見せてくれた。
僕は何だか恥ずかしくなって、顔を伏せて無言でストローをヅヅヅっとすすった。
江里が、もう一度僕に言った。
「逃げてばっかじゃ、いつまでも望みなんて叶わないから、戦わなくっちゃ」
これでこの話題は終わりだった。
それから少しの間共通の友人の近況なんかを話題にした後、僕と江里は席を立ちファーストフードの前でそのまま別れた。
大きく手を振り、その後は振り返ることもなく小さくなっていく赤城江里の後ろ姿を見送りながら、僕はさっきよりもさらに確信を深めていた。時の流れはやはり人間を大きく成長させるのだ。江里はもう僕の知っている江里ではなかった。立派な考えを持つ大きな人間になっていた。
僕は江里が成長したのと同じくらいは同じ時間で成長したのだろうか? 答えはノー。僕は成長していない。江里と付き合っていた時と同じように、スバルへの愛から逃げ出してばかりいる。その挙げ句に二年前とまた同じことをして、また同じように江里を傷つけてしまうところだった。
それじゃあダメなのだ。江里と同じ位、とまでは思わない。でも僕は一歩だって前に進んでいない。せめて一歩目を踏み出したい。少しずつでも成長していかなければならない。
逃げちゃダメだ。戦わなくちゃダメだ。江里はそう言っていた。その通りだ。僕は戦わなければならない。スバルの気持ちが梶浦に向いているのなら、戦ってそれを奪い返さなければならないのだ。
決意を固めて、あとはまっすぐ僕は帰宅した。でも戦いに挑むのは明日学校に行ってからなので、その日は夕飯を食って夜更けまでテレビゲームをやりこんだ。