ACT3 片思いって、辛いッス
ACT3 片思いって、辛いッス
1
梶浦桐人が僕らのクラスに転校してきてから、二週間がすぎました。あの日の僕の胸騒ぎは見事に的中したみたいで、この間僕は直接スバルから言われてしまいました。
「ね、ミツグ」とスバルは僕に言うのです。「カジウラくん……、ううん、キリーってさ、すごーくすごーくカッコよくない?」と四六時中僕にそう言うのです。
はあー。僕は毎晩思い悩む。どうしてこんなことになったのだろう。それはもちろん僕が逃げ続けてきた報いだけど、でも、まさかスバルが恋をするなんて。梶浦にはムラセから救い出してもらった恩義はあるし、僕だって転校初日は友達になれるかも、とか思ったけれど、今ではそんな気持ちは微塵もない。僕にあるのは嫉妬だけ。これがまた皮肉なもので、梶浦は僕のことを気に入ったらしくけっこう親しげに話してくる。僕はスバルの目がある手前、無下に対応するわけにもいかず、そうして毎日僕のフラストレーションはたまるばかり。はあー。
さらに僕が複雑な思いになってしまうのは、恋するスバルがしかし積極的に梶浦にアタックしないということだった。なんと、あのスバルが梶浦の前だと照れているのだ! これには僕もまったく仰天し、ついで落胆した。恥らうスバル! スバルにも乙女心というものがあったのだ。僕としては当然スバルと梶浦の距離があまり近づかないのは嬉しいことだが、僕以外の誰かに恋して恥らうスバルを見るのも、これはこれで辛い。辛すぎる。
梶浦に恋しているのはスバルだけではなかった。クラスの大半の女子がそうだった。スバルのように遠くから眺めてうっとり、なんて女の子もけっこういたけど、中にはもっと大胆不敵積極果断な行動に出る女子もいた。僕が目撃しただけでもA美やB子やC枝がそうだ。A美は梶浦の前に出るときわざとシャツの前ボタンを外してブラジャーチラリで誘惑して、B子はただでさえ短いミニスカートをきみはキャバ嬢かってぐらいにさらに短くしてパンチラ・アタック、C枝にいたってはわざと梶浦にぶつかって胸を押し付けうっふーん、てなもんだ。うーん、過激。A美なんてスバルほどじゃないにせよクラスでもかなりの人気がある女なのに。A美は顔はフツーだけど十五歳にしては万国ビックリショーってな感じのナイスバディ。そのぶん性格は幼子でも心臓発作を起こしかねないほどに悪いけど。性格の悪い女ばっかりか。
僕的にはとにかくA美やB子やC枝のパンチラやブラチラが見れてラッキーだった。特にA美のブラチラには僕だけじゃなくクラスの男子どもほぼ全員が口笛ふいてわーわーギャーギャーてんやわんやの大興奮。わかりやすくズボンの中心を抑えている奴だって何人かいた。男ってホント、エロエロだね。
当の本人である梶浦だけは、女どものそういった誘惑にも一切興味を示さなかった。そのストイックさが女子たちの恋心をまた燃え上がらせ、その炎がスバルにも飛火して、僕はスバルから「いやーん、キリーってばちょーカッコイイんだけど!」とか言われてガックリする羽目になる。
このままじゃマズい。いやマジで。放っておくとホントに手遅れになってしまう。とにかく、何か手を打たなくては。
そうは言ってもいったい何をどうすればいいのだろう。とりあえず僕はある日の放課後に、朧町から二駅乗り継いだところにある霞台の百貨店でワラ人形(¥980)を購入し、学校で採取した梶浦の髪の中に結び付けて五寸釘を毎晩毎晩打ち付ける。ガッコーン! ガッコーン! でも期待に胸を膨らませて毎日学校に出てみても、梶浦はつやつやつるつるの顔をしていて全く効果は見られない。
スバルの瞳の中のハートマークは日に日にジャンボになっていく。僕はハンマーの振り過ぎで腕が筋肉痛。ズキンズキン痛むし湿布臭い。どうすればいいのだ僕は。誰か、プリーズ・テルミー!
ちりーんちりーん、走ってゆ~く、ちりーんちりーん、どこま~でも~♪ と、いうことで、僕は自転車に乗って今日も自宅の前まで帰ってきた。一人で。後ろに誰も乗せずに。
スバルはいない。奴は僕ではなく梶浦を選んだ。と言うよりも、電車賃をちょろまかすために僕と一緒に帰ることよりも、梶浦の部活を見学することを選んだのだ。今ごろスバルは、剣道場で『キリー親衛隊』の連中と一緒にうっとりとなっているはずだ。
「あら、天堂さん」
ちょうど買い物から帰ってきたらしい、ネギのささったビニル袋を腕からぶら下げたナーガの蛇子さんと出くわした。ずる、ずる、と蛇の胴を引きずって、蛇子さんが僕に寄ってくる。
「お嬢さまとは一緒じゃないんですか?」
屈託のない蛇子さんの笑顔に、僕の自尊心が砕け散った。「聞いてくださいよ蛇子さ~ん!」僕は蛇子さんに抱きついた。
「ちょ、天堂さん? どうしたんですか?」
むにゅ。ボリュームあるバストの感触が頬に心地よい。いや、違った。そうじゃない。
「あのヤロー、ひどいんですよっ! オレの気持ちを踏みにじりやがってさーっ!」
で、まあ、「そんなに悩んでるなら話聞きますよ? とりあえずわたしの部屋にどうぞ」という蛇子さんのお言葉に甘えて、僕は鈴木邸に上がり込み、蛇子さんの部屋に通してもらってお茶菓子などをつまみコーラをごきゅごきゅやりながら、ここ数日にあった僕の悲劇について愚痴りまくった。
鈴木家の使用人の中で僕と一番付き合いが長いのがミノタウロスの牛頭さんで(鈴木一家が朧町に越してきた時からいた)、一番短いのが蛇子さんだ。蛇子さんは僕とスバルが高校に入学する直前に使用人として鈴木家で住み込みで働き始めた。なので、付き合いは浅いのだけど、僕にとっては鈴木家の使用人の人たちの中で一番話しやすい相手なのだ。なにせ牛頭さんは牛の顔しててじっくり見るとかなり怖いし、鬼島さんは上半身裸で「ウガー」しか言わない。蛇子さんも下半身は蛇だけを、僕のアイ・カメラを上半分だけに固定させておけば素晴らしくセクシーなお姉さまだ。あ、性格だけでなく、おしとやかでとっても優しい女性ってこともあるしね。
「……そうなんですか」僕の話を聞いて、蛇子さんは深い深いため息をついた。「天堂さんも、大変なんですね」
「ま、惚れて男の弱みって奴っすよ、ははン」
「ムリしてません? 天堂さん」
「……してるっす」
僕はがっくり肩を落とし、ついで「蛇子さーん」とまたまた蛇子さんのふくよかな胸に飛び込む。「よしよし」僕の背中を撫でてくれる蛇子さん。むにゅ。ムフフ。
「でも恋をするって辛いですよね」
「あ、わかりますか、蛇子さん?」
「ええ、もちろん」蛇子さんはとぐろを巻いた下半身をクネクネうねらせた。「わたしも女ですから」
「はー、あー」僕は大きくため息をついた。「蛇子さんが女性だってことはもちろんわかってるッスけど、しかし、まさかスバルが恋をするなんてなー。あー」
「お嬢さまだって女の子ですもん。恋をしたって当然ですよ」
「そりゃそうなんスけど、はあーあー」
「私としては、天堂さんの気持ちもわかるし、でも、せっかくお嬢さまが人を好きになったんですし、応援したいって気持ちもちょっとありますし」
「そ、そんな、蛇子さ~ん」
「だって、きっとお嬢さまだって、天堂さんと同じくらい辛い気持ちだと思うし。うーん、片思いって辛いですよね。はあ」
「なんで蛇子さんがため息をつくんスか?」
「いや、人間関係ってホントに複雑だなあと思って……」
「……ホント、そうっスよねー」
で、僕と蛇子さんは同時にため息をついた。
するとその直後、一階から「ただいまー」という声が聞こえてきた。
「あ、ベルウッドさまだわ」蛇子さんは立ち上がった。「わたし、お出迎えしなくちゃ」
「あ、じゃあオレも帰りますよ」
僕と蛇子さんは蛇子さんの部屋を出て、一緒に廊下を歩いて階段を下りた。
「でも、オレなんかの話を聞いてくれてありがとうございました。少し楽になったっス」
「あんまり、思いつめないでくださいね」
蛇子さんに励まされ、それから玄関で一さんと出くわし、「あ、貢くん来てたのかい? どう、うちで夕食たべていく?」と言われたけどスバルも帰ってきてないし、僕は家帰って五寸釘をガッコーンとやらなければいけないので丁重にお断りして、蛇子さん一さんと別れて鈴木家の玄関をくぐった。くぐると自然とため息がまた出る。はあー。
その時だった。スドン! 背後から聞こえた妙ちくりんな物音に、すでに自宅への道を五歩ほど歩き出していた僕は、歩みを止め、振り返った。
僕は我が目を疑った。さっきまで僕もいなかったはずの僕の背後に人がいた。そこにいたのはまさか忍者?! なんてわけがない。現代日本に忍者なんているはずもなく――って魔王がいるんだから忍者ぐらいいてもおかしくはないけど、それはともかくそこにいたのは僕も旧知の人物だった。
「待ってくれ、天堂くん」
二メートルを越える巨大な身体に太い腕、上半身は裸で胸毛ボーボー、下半身にはハーフパンツといういつも通りの出で立ちで、オーガの鬼島さんは僕に近づいてきた。
「な、ど、い、いったいどこから?」
「すまないが、話を聞かせてもらったよ」
鬼島さんは抑制の効いた口調で答えた。
「へ、え?」
「蛇子ときみの話だよ」
「え? え?」僕は事情が把握できない。「オレたちの話を? どうやって?」
「悪いとは思ったんだがね、蛇子の部屋のベランダに隠れさせてもらっていたんだ」
「はああああっっ?」僕は絶叫した。「ベランダに隠れてた? あんたいったい何を――」
と、鬼島さんのジャイ●ント馬場もビックリの分厚い手が僕の口をふさぎ、僕の絶叫は遮られ「モゴモゴぅ」に。鬼島さんはもう片方の手の人差し指を立て「しぃー」と言った。
「落ち着いてくれ。私にも、色々事情があるんだよ」
「……どんな事情ッスか?」
「ああ、それを説明したいし、実は私からきみに話があるんだ。時間は大丈夫だろうか? よかったら、喫茶店にでも行かないか?」
「……はあ」驚きから回復し得ないまま、とりあえず僕は答えた。「まあいいっスけど」
「ありがとう。それじゃ、みなに見つかると色々厄介なので、ともかく移動しようか」
無骨な笑みを浮かべ、鬼島さんは門に向かって歩き出した。僕も未だに頭の中が混乱したまま、鬼島さんの背筋が異常に発達した大きくたくましい背中について行く。
……あれ? なんか変じゃねー?
「どうした、天堂くん?」
急に足を止めた僕を不審がり、鬼島さんが振り向き体格にふさわしい野太い声で、けれど理性的な口調で訊ねてきた。
「あ、いや、なんでも――」
ないっス、と答えようとして、僕は絶句。抑制の利いた? 理性的な? なんじゃそりゃ! 《ウガガガ語》はどうした? なんだって鬼島さんが、普通の声で、普通の日本語を喋っちゃったりしているんだよー?!
僕は鬼島さんを指差し「なんでぇぇー?」とデカイ声で叫ぼうとした。が、実際に僕の口から出た言葉はまたもや「モゴモゴゥ」。鬼島さんがアンドレ・●・ジャイアントもビックリの大きな手のひらでふたたび僕の口をふさいだのだ。
それでもまだ「モゴォ」と言い続ける僕に、鬼島さんはこれまでの長い付き合いで一度も聞いたことがないような声で耳うちした。
「あとで全ての事情を話す。とにかく今は黙って私についてきてくれ。好きなものを何でもおごるから」
2
断じて「おごるから」という言葉につられたわけではなく、純粋な好奇心と真相追求の使命感に駆られて僕は鬼島さんについて鈴木家の敷地から脱出し、鬼島さんが案内するままに怪しげな路地を通って、うらびれたビルの地下にある喫茶店へと二人で足を踏み入れた。そこは僕の家からもそれほど離れてはいなかったが、僕はそんなところに喫茶店があるなんてことを全く知らず、鬼島さんに行きつけのお店があったこととも併せて大いに驚きまくったけど、喫茶店のドアをくぐった僕は、さらに驚かされることになる。
ここはいったいいつの時代の喫茶店なんだよ、一歩足を踏み入れ最初に僕が思ったのはそういうことだった。マスターらしき人がいるカウンター脇のラジオからはアダルトな魅力満載のジャズィーな音楽が流れ出し、店内のテーブルも椅子もそれから壁も、全てがダークブラウンで統一されていた。それらはオシャレーというよりはレトロという単語の方がずっとずっとふさわしかった。店内に二人だけいたお客は片方は銀座のクラブのママみたいな人でもう一人は初老の貴婦人といった感じの人で、それぞれ互いに離れて座り、誰と話すでも何をするでもなく、ジャズィーな音楽に耳を傾けレトロなお店な雰囲気を存分に味わっているようだった。
僕が鬼島さんに促され、入り口からもカウンターからも一番離れた席に腰を下ろすと、すぐにカウンターにいた口ひげオールバックのマスターが僕たちに注文を取りに来た。ウェイトレスなんてものはいないのだ、この店には。鬼島さんは口ひげマスターに「いつもの」と言った。さすが常連。僕は変な風に感心。本やドラマでは見ても実際に「いつもの」なんて注文する人はそうはいない。人じゃないけど。僕も注文を求められたので、「チョコパフェありますか?」と訊ねた。
けれどマスターは僕の声が聞こえなかったみたいに僕の顔をじっと見てもう一度「ご注文は?」と僕に聞いた。マスターの目は「そんなもんねえよ」と雄弁に語っていた。そうか、たしかにチョコパフェなんてファンシーでお子様な食べ物はこの店には馴染まない。仕方がないのでアイスコーヒーを注文した。
雰囲気に流されたこともあって、僕と鬼島さんは黙って注文が運ばれてくるのを待った。すぐに口ひげマスターは僕らの注文を銀のトレイに乗せて運んできた。僕が疑問に思っていた鬼島さんの「いつもの」というのはアイスのブラックコーヒーのことらしかった。渋い。渋いぞ鬼島さん。僕の目の前にはアイスコーヒーが置かれた。マスターは「ごゆっくり」とだけ言い残して足音も立てず僕らの席から離れていった。
僕はしばらくの間運ばれてきたアイスコーヒーを凝視して動けなかった。僕のコーヒーも鬼島さんのコーヒーも、コップにもグラスにも入ってなかった。銅の容器に入っていたのだ。銅の入れ物! すげーカッコいいー。僕はもう、大型チェーン店では決して味わえない、今までに嗅いだことのないレトロな雰囲気にクラクラのメロメロ。「どうした? 飲まないのか?」鬼島さんがそう言うので、僕もコーヒーに手を伸ばし一口ゴクリ。……苦ぇー! これが大人の味ってやつなのね。
「良い店だろう?」
ええとっても、と答えようとして、でも僕は急に我に帰って自分たちの姿を客観的に眺めてしまった。レトロな喫茶店。アダルトなジャズミュージック。銀座のママに上品な貴婦人。寡黙なマスター。そこに高校生を連れて客としてやってきた鬼。目を閉じて音楽に耳を傾けコーヒーを飲む鬼。上半身裸で胸毛ボーボーで角まで生えている巨大な鬼。ダンディな鬼。変だ。変すぎるよそれ。
笑いの波動が僕の全身に伝わり、僕は顔面の筋肉を抑えつけるのに苦労を強いられた。この戦いは死闘だった。それでも僕はストローに口をつけ、苦い苦いアイスコーヒーを一気に飲み干すことで勝利した。やった! 一息ついてから鬼島さんに訊ねた。
「で、何がどうなってるんっスか」
鬼島さんも銅の容器をテーブルに置いた。
「……何から説明しようか?」
そんなのは決まりきっていた。まずは、鬼島さん自身についての説明が先決だった。
「もうだいたいのところわかっているとは思うが――」
「いや、さっぱりわかんないっス」
「そうか? ごらんの通り、私は喋れる。今まで黙っていて申し訳ないが」
「じゃ、じゃあ、なんで――」
「イメージ戦略だよ」こともなげに答えて、鬼島さんはまたストローに一口つけた。「天堂くん、私はオーガ族だぞ? 漢字で書くと食人鬼、つまりは鬼だ。鬼のイメージとはなんだね? 粗野、野蛮、単純、単細胞、そんなところだろう。ましてオーガというのはモンスターの中でも人一倍――まあモンスター一倍の方が正しいか――低級な存在だと思われている。そのオーガがだ、スーツを好み、眼鏡をかけ、理知的に喋って新聞を読み、喫茶店に出入りしてブラックコーヒーを嗜んでいるなどと知ったら世間の人はどう思う?」
「ス、スーツが好き、なんですか?」
「ああ。あれはいいな。気分が引き締まる」
「メガネも、かけたいんですか?」
「視力はそれほど悪くないんだが乱視でね」
ア然ボー然を通り越して僕は愕然。なんじゃーそりゃー。僕の知ってる粗野で少し頭が足りないけど気の良い《ウガガガ語》を喋る鬼島さんはいったいいずこ?
「まあというわけだ。私は世間のオーガ族へのイメージを守るために、あえてああいう振る舞いをしているんだ。自分を隠して生きて行くのはなかなか大変な苦労がいるものだが、一族の名誉を守るためだから仕方がない。……だからこのことは私ときみだけの秘密だ。ベルウッドさまもお嬢さまもこのことは知らない。決して口外しないで欲しい」
うーん、やべえよ。そんなこと言われたって僕はこのことを内緒のままにしておけるのだろうか。少なくとも、これから先は鬼島さんを見る目が変わってしまうのは確実だ。『鬼島~、お菓子買ってきてー『ウガァー』。これまでに何度も目撃したスバルと鬼島さんの会話一つにしたって、これからは、ああ、鬼島さんホントは『わかりましたお嬢さま』って言いたいのをこらえて『ウガァー』って言ってんだな、大変だなー、なんていう風に思ってしまうようになってしまう。
でもやっぱくだらねー。なんだよイメージ戦略って。昭和のアイドルかっつーの。
「……それで鬼島さん。鬼島さんが蛇子さんの部屋のベランダにいたわけは?」
「決まっているだろう。きみと蛇子が蛇子の部屋に入っていくのを見かけてね。きみが蛇子に何かしやしないか心配だったんだよ。何せ、きみもまだ若いとは言え男だからな」
「……ああ、そうっスか」
僕は呆れて物も言えません。そんな理由で他人のベランダに侵入する人の方がよっぽど危ないのではなかろうか。僕が何かするような男に見えるのか。そりゃ胸に抱きつきはしたけれど。
「まあそれはいいッスわ。……ところで鬼島さん、なーんで、一さんたちにも内緒のウガー以外に喋れるってことを、オレなんかに教えてくれたんスか?」
「きみはオーガ公用語が理解できないだろ」
「オーガ公用語?」
「ウガガガー。……意味わかるか?」
「…………ああ、なるほど」
「オーガ公用語がわかってもらえないのなら、日本語を普通に喋るしかないからな。相談にのってもらうには」
「……んで、その相談っての?」
「時に天堂くん。話を聞いていると、きみはスバルお嬢さまに恋をしているようだな」
僕は赤面した。そうだ、話を聞かれたということはそれを知られたということなんだ。
「それなら、片思いの辛さはわかるよな」
「は?」あれ、僕のことをからかうわけじゃないの?「え、ええ、まあ」
「なら、協力してくれるよな」
「え? 鬼島さんも、まさか片思いを?!」
びっくりして、僕は聞き返した。
「いや、私じゃない」鬼島さんが答える。「蛇子だよ。蛇子はな、ベルウッドさまを愛しているんだ」
「へえー」勢いで何となく答えてから、僕は鬼島さんの言葉の意味に気づいてびっくり。「うえええぇっ?!」
何だかよくわからないけど背中がゾゾゾゾとなってついでに鳥肌までもがゾゾゾゾゾ。うそ~ん、マジで? と驚きおののく僕に、鬼島さんは真剣な顔で頷いてみせた。
「もともと蛇子は、ベルウッドさまに憧れて鈴木家の使用人募集の広告に応募してきたんだ。昔、もう何年も前、蛇子がまだ今のきみたちよりももっと若く、幼い少女だった頃、あいつの住んでいた村にベルウッドさまがやってきたんだ。その時、ひと目見た瞬間からずっと、ベルウッドさまは蛇子の憧れの人だったんだ」
まず僕がびっくりしたのは異世界コンババオンセンにも募集広告なんてものがあって、鈴木家の使用人がそこで募集されていたという驚くべき事実にだったけど、今はそんなことにツッコんでいる場合ではなかった。そんなくだらないことを口に出来る鬼島さんの雰囲気ではない。
それでも僕の習性的に、他にも色々とツッコミたくなってしまう。だってそれぐらいツッコミどころ満載だ。例えばそう、おいおーい蛇子さん、あなたはいったいどんな趣味をしてるんですかとか。だってどうやったらアルセーヌリュパンもどきフランケンシュタイン風味なんてコスプレをしているおっさんに恋心を抱いたりするのだろう。うーん、人の趣味はそれぞれだけど、あまりにも趣味が悪すぎる。でもまあもしかしたら、モンスターの好みというのは人間とは多少違ったりするのかも。
「……何か言いたそうだな、天堂くん」
「え? いや、別に、はははは」
笑ってごまかしてから僕は思い出した。そうか。だから蛇子さんは僕やスバルの片思いに理解と共感を示したのか。片思いは辛い。それは蛇子さん自身の気持ちだったのだ。
「蛇子さんが一さんを好きなのはわかったっすけど、でも、協力ってのはいったいどういうことなんスか?」
「だから、二人がうまく行くように――」
「でも鬼島さん、そういうのは個人の問題じゃないッスか? あんまり、第三者が世話を焼くのはどうかと思うんですけど」
「……私だって、蛇子がコンババオンセンの者を好きになったのなら、こんなことを他人に頼んだりはしない」鬼島さんは深刻な顔でコーヒーを一口すすり、言った。「蛇子はな、悩んでいるんだよ」
自分の趣味の悪さにですか? てな言葉が反射的に浮かんできた僕だったけど、どうやらそうではなかった。僕の心の声に鬼島さんが答えた。
「ベルウッドさまとの身分や種族の違いに」
「……はあ」
「何しろ、蛇子はそこら辺にどこにでもいるナーガの田舎娘で、家だってごくごく庶民の出だ。一方のベルウッドさまはコンババオンセン中から畏怖を集めている世界にただ一人の魔王。あまりにも、身分が違いすぎる」
……いやー、僕的にはナーガはどこにでもはいないんですが。
「それに、ベルウッドさま――いや、鈴木一氏は、異世界に住む人間だ。蛇子はナーガ、住む世界が違えば人間ですらない。……たしかに、蛇子が叶わぬ恋だと思って諦めても不思議ではない」
これまであまりの馬鹿馬鹿しい話に数え切れないほどツッコんできた僕だったが、鬼島さんのこの意見にだけは素直に納得できた。
いくら一さんが奥さんに死なれてからずいぶん経っていて、蛇子さんが若くて綺麗で気立てが良かったとしても、やっぱり人間とモンスターが結ばれるのは難しいと思う。やっぱり、下半身が蛇というのはちょっと厳しい。どうやってベッドインするんだろうなんて、下品な想像だってかき立てられてしまう。それに、蛇子さんは多分だけど戸籍がないと思うから、色々な問題をクリアーしたって、役所が結婚届を受け入れてはくれないんじゃないだろうか。
「だが、天堂くん」とつぜん、鬼島さんが身を乗り出した。「身分や人種の違いにこだわるなんて、今の世の中ナンセンスだ。そうは思わないか? テレビを見たまえ。こちらの世界でだって今や国際結婚なんて当たり前だ。国籍だけじゃない。種族を超え、白人と黒人、黒人と黄色人種、黄色人種と白人のカップルなんて世界中にゴマンといる。身分の違いなんてものを持ち出すのはさらに時代錯誤もはなはだしい」
鬼島さんの言葉はとても正しい。でも、国際結婚はいくらでも例があってもナーガと結婚した人なんてのはちょっと聞いたことがないよなあとも思ってしまう。
鬼島さんは続ける。
「恋愛は、互いを求める気持ちそれだけで行われるべきだ。互いに求め合っているのなら、他のいかなる要素も気にするべきではない」
「……一さんの方はどうなんですかね?」
「ベルウッドさまだって、きっと、蛇子のことを憎からず思っているはずなんだ」
「……はあ」だけど下半身、蛇だよ?
「私だって常に二人の側にいる身だ。それなりに経験を摘んできたし人を見る目だって持っている。それぐらい、二人を見ていればすぐにわかるさ。……それに、きみにも覚えがあるだろう? 男なら、献身的に自分につくしてくれる女性に惚れないはずはない」
「……はあ」
さっきから同じような合いの手しか入れられない僕。まるで「はあ」製造マシーンだ。だけど仕方がないのだ。僕には女性につくしてもらった経験なんてないし、僕の好きな女は僕にとてつもなく厳しい女なのだから。
「ただ、ベルウッドさまはきっと亡くなられた奥様に遠慮なされているのだと思う。それから、お嬢さまにも。だからご自分で、ご自分の気持ちに気づくことができない」
「なるほど」あ、やっと「はあ」以外の言葉が言えたよ。あんま変わらないけど。
「天堂くん、私は、だから蛇子に目を覚ましてもらいたいと思っているんだ。迷いを捨て、自分の気持ちに正直になってもらおうと」
「はあ。……で、それとオレが?」
「私が蛇子を説得する。今日中にでも。きみには、蛇子に告白するチャンスを作ってやる手伝いをして欲しい」
「……だからどういうことなんです?」
僕の質問に答えて、鬼島さんは僕に具体的な説明をした。単純明快、小学生でもわかるような内容だった。要するに、蛇子さんに告白させるから、その間スバルを家に帰ってこないようにして欲しい、できるだけ遅くに帰宅させるようにして欲しい、というものだった。スバルが戻ってきては蛇子さんも一さんもラブラブ・ランデブーなんて状態には突入できないだろうし、スバルも告白をジャマしかねない、というのがその理由だった。
「ふーんむ」
僕は腕を組んで考えこんだ。協力するべきか否か。鬼島さんが言った。
「きみは、自分が片思いで苦しんでいるのに、蛇子の恋に協力しないと言うのか?」
「いや、だけど、うーん、こんなことがバレたらスバルに何されるか……」
「もし協力できないというのなら」鬼島さんは、ゆっくりと、微笑を浮かべた。「ここの払いを私がするというのはなしにするよ」
うわっ、セコ! ……僕の心の天秤は〈協力しない〉の方に大きく傾いた。ここのコーヒーがどんだけのもんだか知らないけど、千円以上はしないだろう。いくら僕が貧乏でも、その程度の額で脅迫されるほど落ちぶれてない。と、思ったのも一瞬だった。すぐに僕は気づいてしまった。あ、そうだ。オレ今日財布にあと百円しかなかったんじゃん!
「ここのマスターはね」僕の顔色が変わるのを見透かしたように、鬼島さんが続ける。「ああ見えて空手五段、柔道二段なんだ。それにここだけの話、昔はこれモンだったのだよ」
最後は声をひそめて、鬼島さんは人差し指で自分の頬を斜めになでた。これモン! ブルブルブル。僕は鬼島さんの手を強く握った。
「わかりました鬼島さん! オレ、蛇子さんのために力になります!」
「本当か?」
「もちろんです! 蛇子さんにはお世話になってますし、気持ちもオレわかりますから!」
ま、そういうことになった。
3
『王さまだ~れだっ?!』
「ハーイ、ハイハイハーイ!」
全員一斉の質問に、僕は大きく手を上げ自己アピール。続いて「王さまが三番と間接キッス!」
「いやーん!」「エロー!」狭い室内の中に笑いを含んだ悲鳴が飛び交う。
「三番、だれ?」女の子が聞いた。「……はい」。手を上げたのは僕のクラスメートの男子だった。『うひゃひゃひゃひゃ』一同からこぼれる嘲笑。「うげぇー」ってな感じで、僕はまわってきたコーラを三番の男子が口をつけたところから一気に飲み干した。パチパチパチと一斉に拍手が巻き起こる。
鬼島さんが僕に頼みごとをしてから一日が経ち、僕は今カラオケボックスにいる。なぜいるのか? それは僕が今学校の連中と合コンをしているからだ。合コン。なんて魅惑的な響きだろう。テレビとかで見るたびに一度やってみたかったんだよねー。
って別に僕は自分の欲望を満たすために合コンを開いたわけではない。神に誓ってそうではなくて、これこそが鬼島さんから依頼され僕が考えた、スバルを家に帰らせない作戦なのだった。こうしている間にも、蛇子さんは一さんに愛を告白しているはずだ。
今朝、僕はスバルを迎えに行くなり門の脇で鬼島さんに捕縛された。
鬼島さんは僕の耳元で「ウガー」ではなく普通の日本語でささやいた。
「昨日、蛇子の説得はうまくいったよ。あいつは今日告白するつもりだ。そういうわけなので天堂くん、よろしく頼んだ」
で、頼まれた僕は一生懸命頭を働かせ、スバルをくぎ付けにする方法として合コンを選んだのである。言うまでもなくスバルは合コンになんか興味はない。浮動高に入学した当時は何度かクラスで飲み会をやったけど、そのどれもをスバルは「興味なーい」と言って欠席するか、出てもむしゃむしゃごくごく食事を貪るだけで、一向に楽しそうな顔を見せたことはなかった。そう、今までは。
でも今ではスバルを引き寄せる最高のエサが僕にはある。梶浦桐人、愛称キリーの存在だ。「おい、スバル、梶浦も来るからお前もこいよ」と誘ったら帰ってきた答えは「もちオッケー」。現金だなスバル。はー。
では僕はどうやって梶浦を担ぎ出したのだろう? 単純な話である。僕はストレートに梶浦を説得にかかったのだ。
「な、梶浦。今日合コンやるけど、お前も来てくんねー?」
「合コン。なんだい、それは?」
「え? お前、合コン知んねーの?」
こいつ、いったい何人だ。僕は驚いたけど、竹刀すら知らなかった梶浦だ、合コンだって知らなくても不思議じゃない、と思い直した。しかしいったい、こいつは前はどこに住んでいたのだろうか。いくら質問しても、梶浦は自分の過去に関することは何も答えてはくれないのである。
僕は合コンについて簡単に説明した。
「合コンってのは合同コンパの略。男と女が一つ場所に集まって、飲み食いしておしゃべりして親睦を深めるんだ」
「……あまり楽しそうではないな。そんなことをして、いったい何の意味があるんだい?」
「楽しいんだって! マジで! な、来いよ来てくれよ梶浦。オレたち友達じゃん」
「興味がわかないのだが……まあ、いいさ。それがこちらの習慣なら、慣れておくのも悪くない」
こうしたやり取りが昼休みにあって、それから僕は男子には「スバル来るから」女子には「キリーが来るよん」と言って、男女それぞれ五人ずつメンバーを集めたわけだった。(スバルと桐人と僕だけで遊びに行かなかったのは、それだけだとスバルと桐人が親しくなってしまう危険性があったからだ。こうしてたくさん呼んでおけば、その可能性はだいぶ防げる。僕だってその程度の頭は回るのだ。ふふん、僕って策士~♪)
それなりに盛り上がりはしたけどあまりおいしい思いができなかった王様ゲームが終わって、一転合コンはカラオケ大会に突入した。熱唱する奴、プロ顔負けのめちゃめちゃ歌がウマイ奴、ウケ狙いで女性アイドルの曲を歌う男子(僕です)、やりすぎて一同からブーイングを受ける男子(これまた僕です)、色々な奴がいるけど場は大いに盛り上がった。ただ、梶浦はあまり楽しそうではなく、むしろ不思議そうに歌う僕を見ていたり、女子たちに群がられて迷惑そうな顔をしたりしていた。スバルの方はカラオケ大会に入ってからは、僕に負けず劣らず熱唱していた。(そして僕に負けず劣らず歌が下手だった)。
まあ、そんなこんなで時間は過ぎ、あっという間に十一時になって解散となった。最後まで梶浦は楽しそうな顔をしてなくて、僕は申し訳ない気になったけど、ま、そんなことは問題ではなく、大切なのはこの瞬間に蛇子さんと一さんとがどうなっているかということだった。僕がここまでやったのだ。どうか、うまくいっていて欲しい。
帰りに自転車で二人きりになってから、スバルが僕に言った。
「ね、ミツグ?」
「なに?」
「今日はサンキュ。おかげでカジウラくんと少しだけど仲良くなれちった」
「……え?」
「えへへ。携帯の番号渡しちったよ。ね、カジウラくんから電話かかってくっかな?」
……マジで? 嘘だろオイ! いったいいつの間にそんなマネをしでかしたんだ? ……なんてこった。はあー。僕ってやっぱ不幸だね。これで蛇子さんがちゃんと告白してなかったら、僕はなんのためにここまでやったんだってことになるよなー。
僕はスバルを門の前まで送り届けた。本当は、蛇子さんの結果を鬼島さんに聞きたかったのだけど、今日はやめておく。スバルがいる前では話ができない――そもそも鬼島さんが日本語を喋れない。明日にでも、こっそり鬼島さんから事の顛末を聞くとしよう。僕はそのまままっすぐ家に帰る。
はずだったのだけど、やっぱりやめた。カラオケBOXではジュースばかりをガブガブやっていたので小腹がすいていた。コンビニによって買い物をすることにした。
僕やスバルの家と一番近い数字の7でおなじみのコンビニとは、同じ通りにある。そしてそこへ行く途中、必ず公園の前を通ることになる。その公園にはジャングルジムやシーソーやブランコがあって、そこには幼い頃の僕やスバルの思い出が一杯詰まっていた。
僕はこの公園の前を通った。そして、足を止めた。とんでもないものが公園にあった。
でかい図体が、ベンチに座り込んでうなだれていた。周りには誰もいない。そのでかい人物は、何をするでもなくそこにいた。電灯の明かりだけでは暗く、しっかりと確認することはできない。でも、それはどう考えてもオーガの鬼島さんだった。そしてどう考えても、明るい雰囲気ではなかった。
わけもわからず、コンビニでショッピングへGO! も中止して、僕は鬼島さんに歩み寄った。鬼島さんは僕の足音に気づいたらしく、顔を上げた。やはり冴えない表情に見えた。心なしか頭の角もしおれている。
「よお天堂くん、帰ってきたのか、ご苦労様」
「……どうしたんスか? ……あ、まさか! 蛇子さん、告白できなかったんッスか?」
「いや、そんなことはない。きみのおかげで、蛇子は無事告白できた」
「……それじゃあ何で、こんなところで……ああ! 蛇子さん、フラレちったんスか?」
「うまくいったさ、もちろん」
鬼島さんはニヒルに微笑み、言った。
「うまく、いった?」
「ああ。蛇子が、正直に自分の気持ちをぶつけたのがよかったんだな。ご主人さまも、始めは驚いておられたが、蛇子の気持ちを受け止めてくれたよ。……うん、あれは実にいいシーンだった。きみのおかげだ天堂くん。できたらきみにも、見せてあげたかったな」
「そうっすか! それはよかった!」
この嬉しい報せを僕は心の底から祝福した。他人事ながら片思いが成就するなんてめでたいことじゃないか。僕の心ではファンファーレまでもが鳴り響く。タラララッタタターン! コングラッチュレーション一さん、コングラッチュレーション蛇子さん!
「あれ?」僕ははたと気がついた。「ならなんで鬼島さん、そんなに暗い顔してるんスか?」
「……暗い顔なんかしてないさ」
「いやでも、さっきうなだれてたっすよね?」
「……うなだれてなんか、いないよ」
「だけど――」
「私は、本当に嬉しいんだ。本当だぞ。蛇子が、幼い頃から思いつづけてきた相手と結ばれたんだ。こんなに、めでたいことはない。こんなに、うれしい、う、ことは、うう」
「……な、なら、なんで泣いてんスか?」
「な、泣いてなんか、うう」と、それが鬼島さんの限界だった。それまでぽとりぽとりだった鬼島さんの瞳から零れ落ちている涙は滝に代わり、鬼島さんの言葉はこう変化した。「う、ウォーん、うわぁーん」
すすり泣くとかむせび泣くとかそんな生やさしいものじゃなくて大号泣。拭っても拭っても鬼島さんの目からは涙が溢れ出し、「ぐわぁーん」という声は止まらない。
どうしたんだ鬼島さん? 鬼島さんの泣き方はまったく歓喜の涙には見えない。鬼島さんの表情にも声にも、悲しみが目を覆わんばかりに漂っている。本当に、いったいどうしてしまったんだ鬼島さん?
僕は泣きじゃくる鬼島さんにどうしてよいのかわからずあたふたするばかり。とにかく背中をなでて僕が蛇子さんにやってもらったみたいに「よしよし」と声をかける。ハンカチでも持っていればすぐにでも差し出したい。もちろん僕はハンカチを持ち歩くようなエチケット少年ではない。なだめすかせて何とか鬼島さんを落ち着かせようと試みる僕は、まるで、ゴリラの調教師にでもなった気分だ。
それでも、しばらくそうしているうちに鬼島さんはまだ「ひっく、ひっく」としゃくりあげてはいながらも、何とか涙を止めることができた。僕はさらに鬼島さんが落ち着くのを待ってから、質問した。
「いったい、どうしたっていうんスか?」
「……ひくっ、なんでもない、ひくっ、ひくっ、なんでもないんだよ、ひくっ……」
僕の質問に直接には答えずに、鬼島さんは顔を上げてそう言った。まだ涙に濡れたその顔を見て、僕の頭にピカピカピカリーンという効果音が鳴って直感が閃いた。
僕はおそるおそる訊ねた。
「まさか、蛇子さんを好きだったんじゃ……」
怒鳴り返されると僕は思った。ブン殴られるんじゃないのかなとも思った。あんなぶっとい腕でブン殴られたらただじゃ済まないぞ、もしかしたら脳しょうぶちまけて即死かも、なんて考えて一瞬後悔したりもした。
だが鬼島さんは何もしなかった。ただ僕を見つめて、力なく微笑んだだけだった。
少しの間、僕と鬼島さんの間には沈黙が続いた。僕は鬼島さんになんと声をかけてよいかわからなかったし、鬼島さんはうつむき加減で力ない微笑を浮かべるだけだった。
けれどやがて、鬼島さんは顔を上げて僕にある物語を語り出す。一人のオーガの片思いの物語を。
※
彼はそのナーガ族の少女を赤ん坊の頃から知っていた。生まれた時のことは知らない。彼女は、彼の住む村の入り口に生まれてすぐの状態で布に包まれかごに入れられ捨てられていたからだ。幸いなことに村には孤児たちの施設があったので、赤ん坊はその施設に引き取られることになったのだった。
赤ん坊の世話の多くは彼がやった。彼もまた孤児であり、その施設で暮らしていたのだ。彼も少女と同じく親の顔を知らなかった。世界には、そうして親の顔を知らない子供たちが、彼以外にもたくさんいる。
村には人間も住み魔物も住んでいたが、親のいる子供たちは人間も魔物も関係なく孤児たちのことを不当に差別した。彼もまだ子供だったがオーガなのですでに身体は大きく、力も大人の人間などでは歯がたたないほどだったので、孤児院の先頭に立ち少女を始めとする孤児仲間たちを守ってきた。多くの場合多勢に無勢であり、村の大人たちも決して孤児たちの味方はしてくれなかったが、それでも彼は差別や偏見と戦いつづけた。
彼にとって、少女はずっと、ただの仲間であり妹だった。だが同時に、ただそれだけの存在でしかなかった。少女の方が十も下だったこともあり、彼は少女を異性として意識したことなどはなかった。
そのうちに、彼のもとに名誉な話が舞い込んだ。数年前より彼の世界で活躍するようになった魔王の元に使用人としていくように、世界を司る大神官から直々に命が下されたのだ。孤児院を守る彼の名声は、遠く離れた大神殿にまで響いていたのだった。
彼は、孤児院を不当な差別から守ること、資金的な援助をすることに、その条件を呑んだ。こうして彼は、偉大なる魔王ベルウッドに使える身分になった。
しばらくは忙しくも穏やかな日々が続いた。大神官との条件でオーガ公用語以外の言葉の使用を禁じられてはいたが、それでも向こうの人々ともうまく仲良くなることができた。ベルウッドやその娘は、彼の「ウガー」という言葉も理解してくれた。彼にとって、それは始めて訪れた平穏な日々だった。
ベルウッドは年に一度か二度は休暇をくれ、故郷の村に帰ることを許してくれた。そういう時、彼は主人の言葉に素直に甘えた。そうして見る度に立派になっていく孤児院を見ては満足し、会う度に成長していく孤児院の仲間たちに顔をほころばせた。
そうして数年が過ぎた。その年も夏が来て、彼は故郷に戻った。予感は何一つなかった。孤児院の人々との再会。偏見のなくなった村への喜び。安らぐ心。それらは例年と何も変わらなかった。それでも、それは起こった。
彼には、はじめ、自分に何が起こったのかがわからなかった。ナーガの少女との再会、それももちろん予定通りのことだった。しかし、一年ぶりに少女を目にした時、彼の中に電流のようなものが走ったのだ。なぜか心臓が激しく動悸をうった。いつもと同じように接しようとしているのに、それがうまくできなかった。少女はそんな彼の姿を見て笑った。それが彼をさらに激しく動揺させた。
この日、初めて彼は知ったのだ。そのままの姿であり続けるものなど何もないということを。少女はいつまでも幼い少女のままではないということを。それから、自分が彼女に対してどんな気持ちを抱いていたのかということも。
美しく成長し、さらに成長しつつある少女。彼は自分でも知らぬうちに彼女を愛してしまっていた。仲間としてではなく。妹としてでもなく。一人の女性として。
しかし初めて彼女への気持ちに気づいた時から、神は彼に残酷なる運命を与える。彼の愛する彼女の心には、すでに別の男性の姿があったのだ。魔王ベルウッド。彼の主人。少女は数年前、まだ少女がずっと幼かった頃、そしてまだ彼がベルウッドに仕えてはいなかったその頃に、村に興行にやってきたベルウッドに憧憬と思慕の念を覚えていたのだ。異世界の人間ながら、この世界のために働いてくれるベルウッドの姿に。
その日から、喜びであった彼の帰郷は、同時に彼に苦痛をもたらすことになる。少女はいつでも、戻ってきた彼にベルウッドのことを聞いた。普段はどんな人なのか。どんなところに住んでいるのか。家族はどんな人なのか。趣味は何か。好きな女性のタイプは。
彼は自らの苦痛の存在を自覚しながらも、その質問に答えざるをえなかった。見るたびに美しくなっていく少女にますますひかれていきながら、自らの気持ちを押し殺して。彼が主人のことを話すたびに、少女は憧憬の表情を浮かべた。少女はますます魔王への憧れを募らせていくようだった。けれど、彼には何もできなかった。彼はただ、少女のことを見守ることしかできなかった。
そうして今年の春が来た。彼にとってもっとも恐れていたことが起きた。使用人が一人やめ、そのために張り出された広告を見て成長した彼女が応募してきたのである。彼女は、彼の同僚となった。
もはや彼には、時の流れを押し止めることはできなかった。でも仕方がないのだ、と彼は思った。彼はこの段階に至るまで、失うことを恐れて何もしてはこなかったのだから。例えそれがどれほどの苦痛を伴うことだとしても、彼にはそれを悲しがる資格は何もないのだから。
※
「……どうしてですか? どうして、自分も好きなら、蛇子さんと一さんをくっつけるようなことをしたんですか?」
話を聞き終えた僕は、鬼島さんに問いかけずにはいられなかった。だってそうだろう? 鬼島さんの行動はわけがわからない。自分から自分の失恋をすすめるなんてマネ、どう考えても馬鹿げてる。馬鹿げまくってる。
僕とスバルの関係は、鬼島さんと蛇子さんの関係にきわめて類似していた。少なくとも、僕にはそう思えた。僕にとって、鬼島さんの話は大げさではなく他人事じゃなかった。他人事じゃないだけに、鬼島さんの行動が納得できなかったし、納得したくはなかった。
鬼島さんは、すっかり涙の引いた瞳で僕を見つめ、言った。
「天堂くん、自分の幸せよりも愛する女性の幸せを願うことこそ、真の男として取るべき態度なのではないだろうか」
「……でも、だけど!」
「蛇子は、私と一緒になるよりもベルウッドさまと一緒になった方が幸せになれるんだ。……蛇子さえ幸せになってくれれば、私は幸せだ。本当にそうなんだ」
僕は納得したくなかった。納得するわけにはいかなかった。鬼島さんは負け犬なのだ。自分で告白する勇気が持てないから、そんな風にして自分に言いわけをしているにすぎないのだ。僕は自分にそう言い聞かせた。
鬼島さんは一人で納得していればいい。僕から鬼島さんにかける言葉は何もない。鬼島さんはそれでいいと思っているようだし、それにもう、サイは投げられてしまった。
でも僕は違う。僕と鬼島さんは似ているけどでも違う。僕はまだ何も諦めていない。スバルと桐人の間にだってまだ何もない。僕はまだ間に合う。間に合う、はずだ。
鬼島さんと別れ家に帰り部屋で一人になった後も、僕は自分に言い聞かせ続けたけど、それでも僕の心に鬼島さんの言葉は重くのしかかっていた。
『――愛する女性の幸せを願うことこそ、男として真に取るべき態度なんじゃないかな』
そうなのだろうか。本当に? 本当に、そうなのだろうか。
さて話は変わってこの翌日、協力してくれたお礼にと一さんは僕をコンババオンセン一有名な温泉村へと僕を招待してくれた。僕らの世界と違ってコンババオンセンでは魔法の力で様々な場所へと瞬間移動できる。僕はスバルの目を盗んでで鈴木家の物置に潜り込み、一度祭壇を通って一人その何とかという温泉村へとひとっ飛び。
すでに話がいっていたらしく、僕は現地の人々の熱烈な歓迎を受けて、そして僕らの世界では絶対にお目にかかれない巨大な巨大な大温泉へ。まるでそこはプール。いいやまるでそこはちょっとした湖。目にした僕の心はウキウキわくわく、僕は「ひゃっほーっ!」と叫んで温泉にダイブしてザッブーンブクブクブク! たっのしー!
だけど水中から顔を浮上させて周囲を見回した僕は顔を引きつらせる羽目になる。何と僕の他に温泉につかっているのはオバハンやお婆さんばかりだったのである。オバハンお婆さん連中は若い男性である僕に興味津々の視線を注ぎ、集団で獲物を狩る獣のように、ゆっくりと包囲網を狭めていった。
「ねえねえお兄さん、どこから来たのぉ」
「若い人はいいのう。お肌がすべすべじゃあ」
「あらー、緊張してぇ、可愛いわねー」
お願いだから僕の身体に触らないでくれ。僕のほっぺたをつっつかないで。これじゃ疲れなんか取れるわけがない。オバハンばっかの混浴で、これでホントに混婆温泉ってか? うわ、さっぶー。
ところで、当然のことではあるけど、一さんと蛇子さんを巡る物語がこれで本当の大団円を迎えたというわけではなかった。
4
「わたしたち、結婚します」
その言葉が鈴木家のリビングで発せられた瞬間、大げさではなく時間が止まった。「わたしたち普通の女の子に戻ります」と言ったのはランちゃんスーちゃんミキちゃんのキャンディーズ。(って僕はいったい何歳なんだ)。リビングに緊張とやがて深刻な対立をもたらせたこの発言の主は使用人にして今では一さんの恋人となった蛇田川蛇子さんだった。
蛇子さん決死の告白デーからは三日がすぎていた。
いつものようにスバルを家まで送り届けた僕は、すでに帰宅していた一さんに誘われ鈴木家の夕食に同席していた。
僕が鈴木家の夕食にお邪魔することは小学生の頃から意外によくあることで、うちの両親も食費が一人分浮くからと僕が鈴木家で夕食を取ることを歓迎していた。なんという親だ。我が親ながらセコすぎる。僕の周りには大人も子供もろくな人間がいない。人間じゃないのだっている。なんて不満を言いつつ、一さんは魔王でけっこう稼いでいるだけあって鈴木家の食卓は僕の家よりもやたら豪勢なので、僕だってスバルのところで夕食をとれるのはこれはけっこう嬉しいものなのだけど。
この日の鈴木家のメインデッシュはサーロインステーキ。一さんもスバルも牛頭さん・鬼島さん・蛇子さんの使用人トリオも、おいしそうにステーキにむしゃぶりついていた。僕だって「牛頭さん、うまそうにステーキ食ってるよ、自分だって牛のくせに。げらげら」と思いながらもステーキ自体はおいしくいただいた。ごちそうさま、と皆で手を合わせて合唱した時には誰も彼も幸福そうな表情を浮かべていた。一さんが「みんなちょっと聞いてくれないか、大事な話があるんだけど」と言い出すまでは。
その瞬間、まずリビングに緊張が走った。ビビーン。僕の背中にも冷や汗がダラダラと流れ出す。ただ一人事情を知らないスバルが、気楽な口調で訊いた。
「あらたまって、なに?」
「うん、実は……」と、ここで冒頭の台詞に結びつく、わけではない。何しろ冒頭の台詞を発したのは一さんではなく蛇子さんで、一さんはスバルの質問に答えようとはしたけれども、急に娘の怒りが怖くなったのか、「実は……実は……」とうつむいたり視線をそらしたりトーンを変えたりしながら何度も言いかけては沈黙するというありさまだった。
スバルをはじめとするクラスの女子どもを見ていつも思うのだけど、いざという時頼れるのは男性よりも女性である。見かねた蛇子さんは一さんから言葉を引き取り、そしてついに冒頭の台詞へと移るわけである。
「わたしたち、結婚します」
「え? 誰と?」
きょとーんってな感じのスバル。なんというマヌケな質問だ。それに対して蛇子さんは直接は答えなかった。ちらりと一さんの顔に視線をやり、恥ずかしげにうつむいた。一さんは一さんで少し顔を赤らめて「ま、そういうことなんだ」なんて口にしたりした。
「え? え? え? え?」スバルは正確に四回クエスチョンマークを繰り返し、それから立ち上がって絶叫した。「えーっっっ!」
スバルは立ち上がったまま一さんを見て蛇子さんを見て「マジで? マジで?」と繰り返す。その驚きは理解できるぞスバルくん。驚いていたのはスバルだけじゃなくて、予想以上の展開の早さに僕も牛頭さんも鬼島さんも驚愕していたのである。だって一さんたちが付き合いはじめたのは三日前だよ? なんちゅースピード入籍やねん。
僕は三日前に抱いた疑問を思い出す。結婚するって言ってもナーガと人間じゃあ婚姻届を受理してはくれないのじゃないかしら。どうなんだろうその辺のことは? それから下世話な話だけど夜の性生活は? 二人はひょっとして完全なるプラトニックラブってやつなのかね。
僕が疑問符を浮かべている間も、事態はこくこくと進行していく。蛇子さんの宣言が悪質なジョークなどではないと理解したスバルは、予想通り、烈火のごとく激怒した。
ドッカーン!「ふざけないでよ!」スバルちゃん噴火が大爆発。「蛇子さんと父さんが結婚っ?」僕の心で避難警報が鳴り響く。「蛇子さん、人間じゃないのよ?!」モクモクモク。スバルのてっぺんから煙が立ち昇る。「こんなの死んだお母さんが聞いたら卒倒するよ! ふざけてる! ありえない! 牛頭、鬼島、あんたたちも何か言ってよ!」
当然のごとく、牛頭さんも鬼島さんもスバルと目を合わせようとはしなかった。
「ミツグ! あんただってこんなの性質のわるいジョークだって思うよね?!」
よね? とスバルに訊かれれば僕には「イエス」と答えて首を縦に振るしかない。いつもなら。今回だって僕は首を下にやった。うなずいたのではなくうつむいたのだけど。
「……あんたたち……」ショックを受けた顔で、スバルは後ろによろめいた。「まさか……グル……なの……?」
イエース、なんてまさか言えるわけがない。
スバルは、裏切られた者の悲しみを漂わせて叫んだ。
「ヒドイ!」さらに叫んだ。「みんな、ヒドすぎるよ!」
それはある意味で新鮮でさえあった。ひどいと僕が思ったり言ったりしたことは数えきれないほどあったけど、スバルから僕がひどいなんて言葉を浴びせられたことは始めてだった。マヌケだのアホだのボケだのといった言葉なら聞きなれてるが、とにかくひどいと言われたのは始めてだった。かつてスバルが小学校でイジメにあい、僕が見て見ぬふりをした時でさえ、スバルは僕にひどいなんて言葉をかけたりはしなかった。それほどショックを受けているのだスバルは。
「……ごめんなさいスバルさん」
それまで黙ってスバルの暴言に耐えていた蛇子さんが顔をあげた。
「でも、信じて。わたし、本気なんです。ずっと、あなたのお父さまのことを――」
「そんなの訊きたくないよ!」
まるでどこにでもいる思春期の傷つきやすい乙女のような態度で蛇子さんの台詞を遮って、スバルはとつぜんリビングを飛び出していってしまった。呼び止める暇なんてどこにもなかった。これで『もう誰も信じない!』みたいな捨て台詞も残していけば完璧だったが、さすがにそこまではやらなかった。
「ああ、スバルぅっっ!」
僕は慌てて立ち上がった。僕は一さんを見た。牛頭さんを見た。鬼島さんを見た。
「すまない、貢くん」
「お嬢さまをよろしく頼んだよ」
「ウガー」
三人はそれぞれの言葉で僕に言った。
最後に僕は蛇子さんに声をかけた。
「大丈夫。スバルだってきっとわかってくれますから」
蛇子さんは、力なく微笑んで――それはいつもよりもずっとセクシーな表情だった。どこがどうとは説明できないけど僕はそう感じた――少し厚めの唇を動かして言った。
「お願いします、天堂さん」
こうして僕は、スバルを追って走り出した。
僕の足もそりゃもう並みの人間なんか目じゃないぜOhイエーてなぐらいに早いけど、スバルの足も早い。かなりのものだ。ほんの数十秒のタイムラグで僕は鈴木家の玄関を出たはずなのに、もうスバルの姿はどこにも見えなかった。
「おーいスバル!」叫びながら僕は街の中を駆け抜ける。門を出て左に進みタバコ屋の角を右にまがり信号を二つ越えて左にまがり三百メートルほど直進して顔見知りのオバさんと挨拶して、とにかく色々な道を巡り巡ってスバルを探す。やがて僕は色々な道を巡り巡り巡り巡って一つの公園にたどり着く。そこは三日前、僕が鬼島さんを発見した公園だった。僕はぐるっと町内を一周したわけだ。そしてその場所のジャングルジムの上に、僕はスバルの姿を発見! おお、灯台下暗し。まさかこんな近場にいたなんて。と言うかなんて時間と体力の無駄遣いをしてしまったんだやっぱり僕はおまぬけだ。
スバルはジャングルジムの上で足をブラブラさせている。空を見上げるスバルの表情は、月明かりで影になっているせいで僕に窺い知ることはできない。代わりにスバルのパンティは僕に丸見え。今日のスバルのパンティはオーソドックスな白。うーんセクシー。顔ははっきり見えないのにパンティだけが見えるのって何だかとってもエロチック。……何を考えているんだ僕は。今はそんな場合じゃないだろ。
僕は雑念を振り払い、慎重にジャングルジムに足を近づける。「おーい、スバルぅ」
「……何か用?」
「はは、今日は月が綺麗でございますねー」
スバルの冷たい視線に耐えつつ、僕はスバルに笑いかけた。スバルは「くだらん」ってなもんで軽く息を吐き、僕から月へとまた視線を移してしまった。
冷たくされても僕はめげない。一さんと蛇子さんの交際が発覚したときにこうなるのは、僕にとっては予測済みのことだった。僕はこの事態に備えて、ちゃんと心構えを作戦とを暖めておいたのである。
「ス~バル~、んなところにいるとパンツ丸見えだぞ~、サービスか~?」
ビュン。空から靴がふってきた。僕は華麗なるバックステップで空からの襲撃者を華麗に回避。
「へへーん、んなの当たるか――ぶッ!」
痛い! 時間差をつけてもう片方の靴が飛んできて僕の頭に直撃したのである。
「イテぇなこのヤロー!」
「……だっさ」
「ダサいとはなんだダサいとはよぉ!」
スバルはつまらなさそうに顔を背けた。
実は僕はまだこの場にとどまりスバルのパンティを眺めていたい。すごーく眺めていたい。でも僕の目的はパンティ観賞ではない。残念だけどそれは次の機会にこうご期待。僕はジャングルジムに登り、頂上までたどり着きスバルの横に腰を下ろす。
「……なあなあスバル」
「さわんなボケ」
「あ、うぉ! バカ! 押すなや! 落ちたらどーすんだ!」
わざとバタバタ手をまわし大騒ぎするというマンガビックリのオーバーアクションをしてやっているにも関わらず、スバルは僕のことを一瞥しただけでまた空を見上げた。スバルにはそれほどまでに父親の再婚がショックだということだ。決してぼくのリアクションがつまらないわけではない。
僕は軽くため息をついて表情を引き締めた。
「……そんなに一さんと蛇子さんのことが気に入らねーの?」
「関係ないでしょ。ほっといてよ」
「関係ないことはねー。考えてみろよ、お前がここでグレてるだろ。そんで家帰っても一さんと口を利かなかったりするだろ? そしたらなあ、一さんはオレに泣きついてきたりするんだぞ。それでもまだオレが関係者じゃねーって言えんのか?」
「……父さんとグルだったくせに」
「ええ、ええ。グルですよ。この間から一さんと蛇子さんのことは知ってましたよ。なんか文句がござるんですか? ……ああ、バカっ、ぶたないで! 話は最後まで訊きなさいスバルさん!」
ふん! 鼻息も荒いスバルさん。
「だいたいスバル、お前はいったい何が気に入らないのよ,なあ?」
「……ぜーんぶ気に入らねー」
「だから何が?」
これこそ僕の作戦その一、題して『オペレーション・サンドバック』。何をするのかと言うと、まあ要するにサンドバック代わりの僕へスバルの不満を全部ぶつけさせることで彼女はスッキリ不満解消という、シンプルかつ美しき犠牲愛に満ちた作戦なのである。吐き出してしまえば不満や怒りなんか消え去るのは早いもんなのだ。しかも普段からスバルに八つ当たりされるのは慣れているので僕としてもそれほど苦痛ではなく、これぞ一石二鳥、というほどのモンでもないか。ちなみに作戦その二はまだ未定。
スバルは僕の狙いどおり、身の毛もよだつような目つきで僕を睨み口を開いた。
「……そもそも、再婚しようなんて根性が許せないじゃん」
「なーんで」
「だって!」スバルは声を荒げた。「母さんの立場はいったいどうなんのよ!」
オーケー、その不満に対する対処方はとっくに暖めてあるんです。
「スバル、スバルよお」
「犬みたいに繰り返して呼ぶな」
「そりゃお前の気持ちもわかるけどさー、死んだ人間には立場もへったくれもないんじゃねーの? お前はお母さんがかわいそうとか言うかもしらんけど、常識で考えようよ、死んだ人間は何も思ったりはしないって。それともまさか、子供みたいに天国の存在を信じたりしてるわけじゃないよな?」
僕の計算ではこの僕の素晴らしい意見で「ああ、なるほど」とスバルの怒りは少し収まるはずだった。だがしかしどういうわけだがスバルの眉はますます逆三角形に跳ね上がり、口から出た言葉は「あん?」。あれ、ひょっとしてますます怒ってる?
「いやほらそれにさ」僕は慌てて言葉を継いだ。「お母さんだけじゃなくて一さんの立場も考えてみよーぜ。一さんも三七歳。三七歳は男盛り真っ盛り! イエー! それなのに一人身ってやっぱ辛いって。うーん、夜は人恋しいって感じ? それに一さんってもう十五年間も一人なんだぜ。な。わかるべ?」
スバルは軽蔑しきった目で僕を見た。
「それってつまり、結局は性欲の問題って言いたいわけ?」
いやいやいや、それを言っちゃあ身も蓋もないじゃーん。言葉をなくす僕に、スバルは冷え切った口調で言った。
「だいたいさー、あんたの言ってること説得力がないし。わたしだって十五年間ずっと一人だけど、人恋しくなんかならないもん」
「……い、いや、オレだってそりゃ別に人恋しくなったことなんかねーけどさ……」
「ほら。適当なこと言わないでよボケ」
「だ、だけど、ほら、一さんは成人男性なわけだし、スバルやらオレやらはまだまだ幼い少年少女ちゃんなわけだし、それはほらやっぱなんつーか、寂しさレベルみたいのだってオレらのと一さんのじゃぜんぜん違うんじゃないの? わかんないけどさ」
「わたしと違うんじゃわたしに父さんの気持ちがわかるわけないじゃん」
うむむ、うまいことを言うねー。作戦ミスに僕は意気消沈。僕の予定ではスバルはもっと怒り大爆発みたいな感じで僕に罵声を浴びせてきて、それで僕がそれに耐えているうちにスバルの怒りはスッキリ解消するはずだったのに、これでは単に僕がスバルに諭されているだけである。スバルの怒りがこれで解けるはずないし僕だって何だかカッコ悪い。
僕の考えた『父さんが人に取られるのなんてイヤなのっ! 父さんはわたしだけの父さんでいて欲しいの!! 新しいお母さんが出来るなんてわたし耐えられない!』『大人になろうぜ、スバル。一さんはお前のお父さんかも知れないけど、その前に一人の男なんだ。心で泣いて顔で笑って祝福するのが娘としての優しさなんじゃないのかな』『……だけど』『寂しいのはわかるぜスバル。泣きたきゃオレの胸で泣くがいいさ』『ミ、ミツグ、うぇぇぇぇーん』『泣け泣けスバル』『ひぃぃぃーん……ありがとうミツグ、わたしもう気にしない』というプランはいったいどこに消えたのだ。これはどうしたもんでしょう。
「ス、スバルさん、一さんの結婚が気に食わないわけはそれだけでしょうか?」
とにかく話題を変えるべく、僕はスバルに水を向けた。
「んなわけねーじゃん」と答えるスバル。「ミツグさー、わかってて訊いてない? たとえ、たとえだよ、百歩譲って父さんの再婚を認めたとしても……」スバルは一度言葉をきり、深く深く深呼吸してから断言した。「蛇子さんだけは絶対、絶対イヤだ!」
「な、なんでさ」
「んなのイヤに決ってんでしょっ!」
まあそりゃあそうです。僕だって仮に自分の母親が下半身蛇の人だったりしたら、かなり、いや絶対イヤだ。でもそんなことを言っていたら話にならないわけで、それに下半身蛇なことをのぞけば蛇子さんはとても良い人なわけで、それに一さんと蛇子さんのカップリングの裏には一人涙を流した鬼島さんの想いだって込められているわけで、それらを考えると僕はここでくじけてしまうわけにはいかない。
「ったく父親が魔王なんてわけのわからん職業なだけでこっちは人並み外れた苦労をしてんのに、そのうえ母親が蛇? 冗談じゃないわよ。ふざけんなっつーの。だいたいさあ、あんたは何様のつもりでわたしに説教してんの? あんたなんて普通の家に生まれた幸せな奴のくせにさ。父さんの気持ちわかれわかれって、あんたこそわたしの気持ちがわかんのかよ? ほれ何とか言ってみなさいよ」
打開策を練っている間にいつのまにやらスバルの矛先は僕の方へ。大ピーンチ。僕は慌てて反論する。
「そんな言い方はねーじゃん。オレが選んで普通の家に生まれたわけじゃねーし」
「わたしだって好きこのんで魔王の親父を持ったわけじゃない」
「そりゃそーだけど、でもなあ、どこの家庭にだってそれなりの苦労はあるもんなんだぜスバルちゃん」みたいな誰でも言いそうな台詞で荒ぶるスバルの魂を沈められるわけがない。「じゃあうちと変わってみろよ」なんて余計に怒りに火をつけるのがオチである。
もっと考えろ、考えるんだ貢。デマカセでかまわないからスバルが感心したり自分が間違ってたって思うような説得を編み出すんだ。僕はスバルに一番近い男。スバルをもっとも理解する男。ついでにデマカセとはったりが得意な男。考えろ考えろ考えろ。いいからとにかく考えろ。
「梶浦桐人」
「……は?」
「お前よー、梶浦のことどう思ってるよ」
「……それ、今なんか関係あんの?」
「いいから。梶浦のことどう思ってる?」
「……好きだよ」いやーん、怒ったように、しかしはっきりと、少し顔を赤らめスバルは答えた。「前から好きだっつってんじゃん」
「じゃあさ、その梶浦、お前の愛しのキリーがさ――なんか愛しのエリーみたいだな」
「……本気でここから叩き落すよ?」
「あ、ちょっと待て! だから最後まで話を聞けって! その愛しのキリーがだな、お前の家庭の事情を知ったとする」
見る見る表情を曇らせスバルは言った。
「だから! それもあるから蛇子さんなんてイヤだって言ってんの!」
ああ、なるほど。感心すると同時にスバルの乙女心満載な台詞に僕の乙女心がキリキリキリ。でも僕は口を止めない。おそらく、この方向できっとスバルを説得できるはずだから。すごーく不本意だけど。
「いいから。梶浦がお前の父親が魔王だって知ったとする。さて、どうなる?」
「……嫌われるに決ってんじゃん」
「なんだ弱気だなースバル。まあいいけど、なら、そんな理由で嫌われるのってどうよ?」
「…………」
「イヤだろ? イヤだよなあ?」
「………当たり前じゃん」
「だろー? なあなあスバル、お前自分がイヤだっつってることを、蛇子さんにしようとしてるんだぞ。それってどーなん?」
決まった! これこそ華麗なる論理の着地である。スバルは沈黙した。ついにスバルが僕の言葉に一理あることを認めたのだ。ここだ。ここが勝負である。太平洋戦争で言えばミッドウェー会戦だ。いざ総攻撃!
僕は笑みを作り月を見上げながら言った。
「……なあスバル、オレは思うんだけどさ、人間はさあ、どこで生まれたとか肌や髪や目の色がどうだとか、あるいは金持ちの出身だとか貧乏人の出身だとか、そんなことで判断されるべきじゃないんだよ。まあ蛇子さんは正確には人じゃねーけどさ。でもそうだろ? 人種差別ってとっても恥ずかしいことなんだぜ。お前はさ、そんな恥ずかしい奴らの仲間じゃないよな?」
それは三日前に鬼島さんが僕にした演説の完全なる盗作だったけど、もちろんそんなことはスバルにはわからない。スバルはまだうつむき押し黙ったままだった。僕はここぞとばかりに駄目押しする。
「だからさあスバル、蛇子さんと一さんのことを認めてやれよ。そりゃ不満はあるだろうけど、でもナーガだからなんて理由で反対するのだけはやめてくれよ。な? な?」
スバルは、顔を上げた。
「カジウラくんも」
「は?」
先ほどとは逆に僕が口をあんぐりさせる番だった。え? キリー? 梶浦?
「カジウラくんも、ミツグとおんなじ考えなのかな?」
「あの、ねえ、一さんと蛇子さんの件は?」
「それはもういいや」
「……いいの?」
「うん。わたしが間違ってたってわかった」
……な、なんとあっさりな……。
「それよりカジウラくん。カジウラくんは人種差別しないよね? きっとそうだよね?」
「い、いや、まあ、たぶん」
「ね? カジウラくんが人種差別するような恥ずかしい人間のわけがないよね?」
おかしな雲行きである。しかも話の雲行きとは反対にスバルの表情は晴れ晴れとしている。〈迷いをふっきった〉という表現の、まさにリアルな見本がそこにはいた。
「よっしゃー!」スバルは両手をあげて叫んだ。「ありがとーミツグ! うん、あんたのおかげですげー勇気が湧いてきた! そうだよね、人種差別するのなんて恥ずかしい奴だもん。そーだよそう。今までさあ、もしバレたらどうしよーとかびびってたんだけど、よーし、明日からは積極的にアタックする! 待ったりしてないでこっちから電話かけてみる! もー決めた! おうっ!」
わっけがわかりませーん。スバルはテンション高く叫んだかと思うと、陽気にハミングしつつジャングルジムを駆け下り、スキップしながら家の方へと去ってしまった。
残された僕は呆然と固まっていた。ばかばかばか、オレのばか。ってオレは古いマンガの主人公か? でもやっぱりオレの馬鹿! なんということでしょう。僕は蛇子さんの恋をアシストするつもりで、スバルの恋を後押ししてしまったのか?
夜のジャングルジムのてっぺんで、僕は一人寂しく欽ちゃんよろしく叫んでみた。
「なんで、こーっなるのっ?」
もちろん、僕の質問に誰も答えてはくれませんでした。