ACT2 逃げ続ける僕と勇敢なスバルの話
ACT2 逃げ続ける僕と勇敢なスバルの話
1
スバルと僕が出会ったのは今から十年も前で、つまりそれは鈴木家が僕の住む朧町に越してきた時のことで、幼かった僕は僕の家の周りで起きた『魔王反対運動』のことは一切覚えていないくせに、スバルとの初対面はやけにはっきりと覚えている。目を閉じれば、いつでもその光景がまぶたの裏に浮かび上がってくる。
その日、幼稚園から母のお迎えで帰宅した僕は、作った泥ダンゴをコンクリートの地面にある程度の高さから落として強度を確かめるという行為に没頭していた。当時は泥ダンゴの優劣で人間の優劣が決められてしまうような時代だった。僕は、誰よりも強靭なダンゴを作って幼稚園でヒーローの座についてやろうと必死だった。
すると、突然僕の上から雨でも雪でも槍でもなく、靴が降ってきたのだ。見上げると、隣の家の二階のベランダの柵に腰かけ、足をブラブラしている女の子が目に入った。
「きみ、あぶないよ」と僕は声をかけようとした。でも、僕が声を出すよりも早く、少女は残った左足の靴も僕めがけて放り投げた。
パコンっ、と靴は見事に僕の頭に命中した。
少女はさらに激しくバタバタして、およそ女の子らしくなく腹を抱えて大笑い。
「ねーねー、びっくりした? よんでもへんじしないきみがわるいんだよー」
いきなり初対面の人間に靴を投げるなんてありえねー、お前には常識ってもんがないのかよ? 靴を投げつけられたのがもし現在の僕だったらきっとそんな風に考えただろうし、そして現在の僕は彼女に常識というものがないこともちゃんと知っている。でも当時の僕はお子さまちゃんだったので、その瞬間に頭に浮かんだのはただひたすらに「イタいっ!」。
僕は特に腹も立てなかった。僕の意識は怒りとかそんなことにはむけられず、ただ、突然僕の目の前に現れた風変わりな女の子にくぎ付けになっていた。
足をバタバタとさせていた彼女はパンティがはっきりくっきり丸見えだったのである。僕は無意識のうちにその女の子のパンティを凝視していた。
僕はまだ幼かったから、僕のこの記憶が正確なものなのかどうか断言できない。でも、僕の記憶では、間違いなくパンティの柄はクマさんだった。白地にクマさんのプリントでその上に小さな赤いリボンがついたパンティだった。クマさんパンティは鮮烈に僕の脳裏に焼きつき今でも夢の中に出てくるのである。
クマさんパンティにうっとりぼーっとなった僕のところに、彼女はやってきて、僕ににっこりと微笑みかけた。
「こんちわっ!」
これが、僕と鈴木昴との出会いの話だ。
その時は僕自身気づかなかったし、それから何年もの間やっぱり自分でもわかってはいなかったのだけど、僕は多分あの日あの時スバルのパンティにクマさんを目撃したあの瞬間に、彼女に恋をしていたのだと思う。僕はクマさんパンティにやられてしまったのだ。
恋の形は人それぞれだ。
パンティから始まる恋があったってかまわないじゃないか。
2
こうして四歳の時に鈴木スバルに出会い、以来ずっとずっと高校一年生の現在に至るまでスバルに恋心を抱いてきた僕だけど、だからと言って僕が一度も恋人を作ったことがないと決めつけることは決してできない。僕だって一度だけ、女性と付き合ったことはある。
それは僕が中二で、そして夏休み。相手は同い年で別のクラスで僕がいた陸上部の女子マネージャーも務めていた赤城江里ちゃん。いやー江里ちゃんは少しおとなしいところがあったけど、天然ボケが魅力的なとってもカワイイ女の子だった。これは僕が一度付き合った相手だからそう言っているわけではなく、同じ陸上部の連中もそれから友人の何人かも、僕が付き合う以前も付き合った後も、江里ちゃんに想いを寄せている奴は常にいた。
ところで僕が陸上部に入った理由だが、これは答えが簡単で、うちの中学校では生徒は何かしら部活に入らなければいけないというシステムになっていたからだった。健全な部活動は健全な精神を育む、と教師たちは考えでもしたのだろうか? まあ昔から僕は足が速い、と言うよりも逃げ足が速いことにかけては右にも左にも出る者がいなかったので、この陸上部に入ることを速攻で決めた。
ちなみに中学時代のスバルは、女子陸上部と女子バスケ部と女子バレー部とを掛け持ちしていた。そしてそのどの部活でも主力選手として重宝されていた。
スバルほど有能ではない僕だったけど、小さな頃からいつもスバルに追い掛け回されていたことで鍛えぬかれた逃げ足のおかげで、陸上部ではなかなか優秀な成績を収めていた。そこでマネージャーの赤城江里の登場である。
「好きです、わたしと付き合ってください」
僕の必死の形相でトラックを駆け抜ける姿にフォールインラブしてしまった江里ちゃんは、学校が夏休みに入ったその日の部活の終わりに体育館裏に僕を呼び出して、顔を赤らめ僕にそう告白をした。
繰り返すが僕は当時もその前もその後もずっとスバルに恋心を抱いていた。その気持ちは一度足りとも薄れたことはない。
その僕が江里に返した答えは、
「え、オ、オレでいいの? マジで?」
……いやいや、だって、当時の僕は真面目な話、少し焦っていたのだ。僕の周りの友人たちは、みんなぞくぞくと恋人を作ってメイクラブ。「えー、天堂ってまだオンナと付き合ったことねーの?」そんな風に言われることに、すっかり僕は嫌気が差していた。
だいたいそうじゃなくたって、中学生の男児は、人間の価値を付き合った女の数で判断してしまう。〈モテる奴がエライ!〉の精神だ。僕だってみんなから羨望の眼差しで見られたいと思うのは、男としてごくごく一般的な感覚なのではなかろうか。
それに僕だってやっぱり女の子と手を繋いだりして一緒に帰ったり花火大会を見に行ったり映画を見に行ったり、そういうことがしてみたかった。僕だってキスもしたければそれ以上のことだってしてみたい。それは今だってしてみたいけど当時はもっともっとしてみたい。それが中学二年生!
むろん僕の心にはスバルがいた。けど、すでに僕はスバルが僕の方に振り向くことなんかとっくに諦めていた。それどころか、スバルが誰かに恋をするなんて想像もできなかった。手に入らないものをいつまでも追い続けることほど虚しいものはない、手に入らないんだからとっとと諦め他に目を向けた方が得策だ、僕がそう思ったって不思議はないはずだけど、これは言い訳ですか。まあ今の僕が昔の僕に会えるなら『妥協なんかで恋をするな』って説教をするだろうけど、残念ながら未だにタイムマシンは開発されていない。
僕と赤城江里との交際はスタートした。僕は僕の希望通り、江里と手を繋いだり部活が終わると一緒に帰ったり映画を見に行ったり、それから花火大会にも行ったりした。そして、夏の終わりと共に僕らの関係も終わった。
きっかけはその花火大会の夜だった。ばっちり浴衣でめかしこんだ江里と普段着の僕は花火を見た後、一緒の電車に乗って我が朧町まで帰ってきた。ところが僕らは朧町の駅で思いっきりヤンキー二人組みにからまれてしまう。「ヘイヘーイ、ガキのくせにいい女連れてんじゃーん」。そのヤンキー二人組みだってどう見てもまだ高校生のガキだったけど、その瞬間の僕には余裕をかますことなんかできるわけもなく、うつむきひたすら押し黙るばかり。周りを行き交う人々も、変な騒ぎに巻き込まれたくないオーラ全開で、視線をそらして僕らを無視無視。
「ねーきみー、こんなガキンチョほっといてボキらと一緒にあそばなーい」
「放してくださいっ!」
「そんな冷たい態度を取ったらイヤーん」
「た、たすけて、天堂くん」
「あ、あのっ!」
「……アン? 何か文句あんのボクちん?」
救いを求める江里の声に、勇気を振り絞ろうとした僕だったが、ヤンキーの片割れにすごまれ僕の勇気は雲散霧消。僕はまたまたうつむき押し黙った。
「ほら、やっぱりこんな根性なし放っておいて、ボキらと一緒に――」
僕がうつむいている間にも、ヤンキー二人組は江里に絡み続けていた。どうしよう、どうしよう、僕の頭の中ではその単語ばかりがエンドレス。が、この事態をどうかしたのは僕でも江里でもヤンキー二人組でもなかった。
「ぶぎょぇ!」
ガッゴーンコトコト。異様な叫び声とそれに続く何かが地面を転がる音に、僕はびっくり顔を上げた。
ヤンキーの片割れが、ちょうど両膝をついて地面に崩れ落ちるところだった。そのすぐ側には空き缶を入れるゴミ箱が転がっていた。江里も、残ったヤンキーも、目を丸くして一点を見つめていた。
「その娘から手を放せって、アホちん」
ゴミ箱を投げたらしき人物は、僕らの方にゆっくりと歩み寄りながらニヒルに笑った。
「……す、鈴木、さん」
江里が歩み寄る人物に声をかけた。そう、現れた救世主は、僕らの鈴木昴だったのです。
「て、テメ――」
いきり立つヤンキーの片割れは、スバルに向かって飛びかかろうとした。僕は、反射的にそのヤンキーの後頭部に、全身全霊を込めてラリアットをぶちかました。これが思いのほかクリーンヒット、ヤンキー二号は一号に続いて前のめりに倒れてバッタンキュー。
「……スバル、どうして――」
目の前までやってきたスバルに僕は問いかけようとしたが、それより早くバコンっ! とスバルが僕の頭に拳をふらせた。僕は言った。「いったぁぁーい!」
「痛いじゃないっしょ。ったく、黙って見てれば、危うくカノジョ、さらわれちゃうとこだったじゃん、ボケ。ねー、江里ちゃん?」
「え、ハ、ハイ」
「い、いや、それは……」
「根性なしー」
突き刺さるスバルの言葉の槍に、みたびうつむくこの日の僕。
「ホント、偶然あたしが通らなかったらどうなってたかわかってんのミツグ? あれができんなら最初からやんなって」
言うまでもなく僕がヤンキーにラリアット出来たのは、彼がスバルに気を取られ後ろを向いていたからだった。不意打ちぐらいなら僕にもできるし不意打ちしか僕にはできない。
「ところで浴衣かわいいねー江里ちゃん。あー! お二人さん花火大会行って来たの? にくいね、この、ぼけミツグ!」
好きな女にからかわれ、僕は照れてしまって頭をボリボリ。でも江里は何かを言いたげな目で僕をじっと見つめていた。
……そしてその日の夜に僕は江里から別れを告げられてしまう。「サヨナラ天堂くん。あなたがあんな根性なしだなんて思わなかった。わたし、情けない人って大キライ!」それが江里から僕へのお別れの言葉だった。僕が反論もできずに「うぐぅ」「いぐぅ」と受話器を持ってうなっているうちに電話は切れてしまい、かくして僕と江里との関係もそこで切れてしまった。キスもその先もできないうちに。
しかし、僕にはわかっていた。江里が僕との別れを決意した本当の原因が他にあることを。この日のヤンキー騒動は単なるきっかけにすぎなかった。僕は付き合い始めた頃から江里との電話やデートをあまり楽しいとは感じられず、江里は江里でそんな僕の空気を敏感に感じ取っていたはずなのだ。僕が楽しめなかったのはもちろん江里を好きではなかったから。嫌いじゃなかったしもしかしたら好きだったのかも知れないけど、でも、その好きはライクであってラブではなかったから。
誰だって、「こいつ、わたしのこと愛してねーなー」なんて感じる相手には、きっとそのうちに愛想をつかすものだろう。
まあ、だから、花火大会に行く前から僕たちの間には微妙な空気が漂っていたわけで、僕たちの別れだってそれなりに必然的な別れだったわけで、そんなわけで僕は江里にフラれてもそれほど落ち込んだりはしなかった。……三日間ぐらいはイジけて部屋から出なかったのも事実だけど。
さて僕が別れたことを知ったスバルの反応は「まあ当然かもねー」ゲラゲラゲラ。ふん、笑うがいいさスバルさん。などとますますいじける僕に、この時スバルは珍しく缶ジュースを奢ってくれて彼女なりに僕を元気付けてくれたのだった。彼女なりにね。ちなみに僕がスバルにジュースを奢ってもらったのは僕が記憶する限り二回しかなくて、もう一回は僕が不動高校の受験に成功した時だった。僕はこれまでに何十回も何百回も奢らされているので、よくよく考えればまったく公平ではありません。
でもとにかく、この経験のおかげで、愛していない女性と付き合うことの不毛さを知り、これからは本当に好きな相手以外とは恋人になるのはやめようと固く心に誓った僕だった。だから、それから現在に至るまで、僕に恋人が出来ないのは決して、絶対に、百パーセント、僕がモテないからではない。
余談だけど、僕と別れたあと赤城江里は、同じ陸上部の僕の友達と付き合い始め、彼らは現在も幸せな関係を続けているらしいとのことだ。何だか、複雑な気持ちだね。
3
このように僕は赤城江里と別れ、しかし僕は僕のスバルへの気持ちとも真正面からぶつかろうとはしなかった。僕は逃げた。逃げてばかりなのだ僕は。僕が逃げたのはスバルへの気持ちからばかりだけではなく、僕はこれまでの人生で、それも人生のある種重要な局面で、逃げて逃げて逃げ続けてばかりきた。
例えばそれは、小学校三年生の時、スバルがクラス中の生徒からシカトにあった時のことである。
どうしてスバルはイジメにあったのか? それは学校の授業で〈身近な人の職業について調べる〉という課題が出されたからである。僕は友達数人と相談して、すぐに誰の仕事を調べるか決めた。なんといっても僕らの身近には魔王がいた。魔王! 小学校三年の子供にとって、これほど魅惑的な響きを持つ職業があるだろうか? ミステリアスな魔王という仕事。それについて知るのに、こんな好都合なことは他になかった。
僕らはスバルに頼んで、スバルが一さんに交渉して、夏のある日、鈴木家の物置を通って、初めてコンババオンセンの地に足を踏み入れた。そこは石の壁に囲まれた礼拝堂のようなところで、気がつくと僕らはその部屋の祭壇の上に立っていた。鈴木家の物置とその祭壇とが、こちらの世界とコンババオンセンとを繋ぐ入り口になっていたのだ。
僕らは出迎えた大神官と名乗る老人とその仲間の神官たちに案内され、礼拝堂を出て石造りの廊下を通って、〈魔王の執務室〉に通された。礼拝堂を出た時に気づいたのだが、僕らがいたその建物はどうやら大きな城のようだった。そして魔王の執務室にはきちんと魔王の玉座までもが置かれていた。
このときにはすっかりスバルを含めた僕らの誰もがうっとりぼーっとなってしまっていた。僕らは僕らの日常では考えられないこの荘厳な雰囲気にすっかりやられてしまったのだ。しかも執務室から窓をのぞくと、そこは北海道でも見られない広大な緑の絨毯が。
誰かが叫んだ。
「お、お前の父ちゃん、すげーな!」
他の誰かも叫んだ。
「いーな、うちのグータラとーちゃんとおーちがいだよー! かっこいいー!」
スバルは胸を張った。「えへん」
けれど僕たちの興奮も尊敬も、スバルの有頂天も、「準備をしてくる」と部屋を出て行った一さんが戻ってくるまでしか続かなかった。
「やあみんな、待たせたね」
そう言って一さんが部屋に入ってきた瞬間に、その後長く続くことになる悲劇の第一幕が開けたのだ。
僕らは言葉をなくし、スバルは一さんを指で指して叫んだ。「なに、そのかっこうっ!」
「驚いたかい? これがお父さんのユニフォームだよ」
一さんは頭に黒いシルクハットを被っていた。身体には同じく黒のタキシードに赤の蝶ネクタイ。それから赤い裏地の黒マント。図書室で見たアルセーヌ・リュパンの挿絵を思い起こさせる格好だ。派手である。ド派手である。一さんはマントを両手で広げ、ワハハハハハと笑い声を上げた。
僕たちは驚きのけぞった。でも、僕たちが本当に驚いたのは一さんのその顔にだった。シルクハットの下に、いつもの穏やかな笑みを浮かべた一さんの黒ぶちメガネ面はなかった。代わりにあったのはフランケンシュタインそっくりの不細工な顔。いや、むしろそれはフランケンシュタインそのもの。そりゃそうだ。一さんはフランケンシュタインのマスクを被っていたのだ。
ヘンタイだ。ワハハハハ笑う一さんを見て僕は思った。コイツはヘンタイだ。僕たちみんながそう思った。間違いなくヘンタイだ!
「閣下、さっそく依頼がきましたぞ!」
一さんが高笑いをあげ、僕らが呆然と立ち尽くす魔王の執務室に、僕たちを案内してくれた神官の一人が飛び込んできた。
「それじゃみんな、ボクはちょっと行って来るよ。みんなはそこの水晶球でボクの活躍ぶりを見ていてね」
残された僕たちは、誰からともなくスバルに視線を集め、ほぼ同時につぶやいていた。
「……スズキのとーちゃんって……」
『ヘンタイだな』という言葉は飲み込んだのが、せめてもの優しさだったろう。スバルは、視線を反らして黙り込むばかりだった。
しばらくすると、一さんが言った通りに部屋にあった水晶球に映像が映し出されてきた。どこかの村らしき場所で、フランケンのマスクをかぶりマントをひるがえした一さんが、牛頭さんに似たミノタウロスや小さな鬼のような生き物など十数匹のモンスターを引き連れ、村人たちを襲っている映像だ。魔法というのは素晴らしいもので、スピーカーもないのに音声まで流れてきた。
けれど僕たちは、すぐに一さんのやっていることが近所にいるコートを広げて自分の陰部を子供に見せて喜ぶおじさんと変わらないことを悟ってしまった。しかもよくよく見ると一さんやモンスターに追い立てられている子供たちの顔には笑顔までが浮かんでいる。そこには、ぜんぜん、まったく、これっぽちも、魔王としての威厳なんて存在しなかった。
というか、それはただのコスプレショーでしかなかったのだ。
近所にいたコートおじさんだってそれから一年後には警察にどこかへ連れて行かれてしまった。変質者が尊敬を勝ち取れるわけがない。僕たちの心のからは物置をくぐる前のドキドキ感はすっかり消え、代わりにこんなところへ来たことの後悔が募るばかり。
一さんは一日に何件もの村を回るらしく、水晶球には色々な場所で暴れる一さんの姿が映ったけど、もはや興味を示す奴は僕らの中には一人もいなかった。僕らは白けた空気を漂わせながら、ただぼうっと時を過ごした。
僕の腕時計がもうすぐ午後五時を指すという頃、ようやく一さんは執務室に戻ってきた。
「どうだい? ボクの仕事ぶりは勉強になったかな? みんな、楽しめた?」
スーツに黒ぶちメガネに戻った一さんの問いかけに僕らはマッハの速度で頷いたけど、それはみんな僕と同じでこんなくだらない空間から早く帰りたかっただけだろう。
この件で、一さんはスバルの失望を買い、この時からスバルの反抗期は始まった。それは現在も続いていて、同じ家に住み同じ食卓を囲みながら、スバルと一さんとの間にはあまり会話が存在しない。
でも、この社会見学のエピソードは、僕らの失望とため息と失笑を買い、鈴木家の家庭内不和を招いただけではなく、事態は僕なんかが想像もしない展開を見せることになる。
翌日学校で、コンババオンセンに行ったメンバーの一人が「スズキのとーちゃんってヘンタイなんだぜー」と思いっきり公表してしまったのだ。恩を仇で返すとはまさにあのことで、あっという間に学年中に「鈴木昴の親父は変態」という噂は広がった。
そしてスバルに対するシカトとイジメは開始される。スバルと目を合わせずひそひそ話ばかりをする女子たち。直接スバルに「ヘンタイのむすめー」とか言って彼女をからかったり小突いたりする男子たち。
げに残酷なのは子供の心なり。子供社会というのはほんの些細な弱みでも簡単にイジメに発展してしまうもので、どの世代のどの地方のどの小学校でもそうした例は見られるものだし、スバルの時だけ例外になるような理由はどこにもない。
だけどスバルはくじけない。直接「お前の父ちゃんヘンタイなのかー?」とか言ってくる男子には、スバルは見事な鉄拳を食らわし黙らせた。より陰湿的にヒソヒソ話でスバルに精神的なダメージを負わせようとしてくる女子たちには、大声で彼女たちの恥ずかしい話――「※※ちゃんって、一年のときオシッコもらしたよねー」みたいなやつ――をすることで対抗した。
そんなスバルの反抗にも関わらず、でもスバルへのイジメはすぐにやむことはなかった。繰り返すが子供というのは弱者を徹底的に攻撃するようプログラミングされている。
その間、彼女の味方は僕たった一人だけだった――わけではない。僕もスバルの味方とはとても言えなかった。僕はスバルと二人きりの時はそれまで同様親しく接していたけれど、他の友達と一緒の時はそいつらがスバルに攻撃するのをとめようとはせず見て見ぬふりを貫いた。僕はスバルへのイジメに加わることはなかったけど、彼女をかばおうとすることもなかった。僕はその時にはもうスバルに恋心を抱いていたのに。
だって、僕にはわかっていた。スバルをかばったりしたら僕もイジメられっ子の仲間入り。勇気も根性もない情けない僕。だけど、誰が僕を責められる? 僕はスバルじゃないのでとてもじゃないけどイジメに立ち向かう根性なんてなかったし、きっと、スバルみたいな目に合わされたら登校拒否になっていたに決まってるのだ。
けどスバルだって、イジメにあって全く平気のへっちゃら余裕のヨっちゃんでいられたわけじゃない。そんな人間はこの世のどこにもいない。僕は知っている。クラスメートたちの前でも僕の前でも平然とした顔をしていたスバルだけど、時々自分一人の時は部屋で涙を流していたことを。当時、僕はミノタウロスの牛頭さんから相談されたのだ。
「……最近、お嬢さまの部屋からときどき泣き声のようなものが聞こえてくるのだけど……天堂くん、何か知ってる?」
それに対する僕の答え。
「え、うーんと……えーと……あ、きっと、ど、ドーブツのマネとかしてたんじゃないかなー? スバルってみんなを笑かすの好きじゃん。もんだいなんてなにもないよ」
「ああなるほど!」
この時、僕は子供ながらに思った。なんて苦しい僕の嘘。それをあっさり信じちゃうなんて牛頭さん常識てもんはないのかい? けど僕はすぐに思い直す。牛に常識はないよ。
そんな僕の半ば白けた気持ちも、次の牛頭さんの台詞で一気に罪悪感へと急転直下。
「スバルお嬢さまはほらあれだろ、昔から負けず嫌いなところがあるじゃないか。きっと、問題があっても一人で抱え込んでしまうタイプじゃないか。もしもお母さまがいたら何でも相談できただろうけど、ベルウッドさまはお忙しいし、私は人じゃないし。だけどありがとう天堂くん、私の取り越し苦労だったんだね、きみのおかげで安心したよ」
この夜僕はベッドの上で、一人たくさん後悔した。ごめんスバル。力になれずに。ごめん牛頭さん嘘ついて。でも僕にはどうしようも出来ない問題だし、どうしたらいいのかもわからないんだ。
しかし僕と違いその頃から勇気も根性もそれから意地も超一流だったスバルはその後も表面的には平然とした顔でほぼ丸々一学期間一人でイジメと戦い抜き、ついにはイジメからの脱出を果たした。彼女が脱出をし得た理由は単純にして明瞭だった。イジメていた側の連中の方が参ってしまったのである。そもそもスバルは弱者なんかじゃなく、それどころか彼女はクラスの誰よりも強かったのだから、これはむしろ当然の結果だった。
どうしてそうなるのかはわからないけど、このスバルのイジメの件は、ほとんど何のしこりも残さなかった。次の学期から、クラスメートたちはスバルと以前のように接するようになっていたし、スバルもグチグチと恨み言をいったりはしなかった。
一つだけ変化はあった。スバルの振る舞いがよりハードにより傍若無人になったのである。誰も彼女をいさめられなかった。クラスでよってたかってでさえ抑えつけることができなかったのに、誰にスバルを止められる?
このイジメの件で、僕はスバルの役には立たなかった。そんな僕に、スバルが何を感じたのかは僕にはわからない。スバルの僕への態度はイジメの前も最中も後でもまるで変わらず、彼女は僕を手下のように扱っていたから。でも、僕はこの出来事を思い返すと今でも胸にしこりのようなものを感じる。スバルがどう思ったにせよ、僕が彼女の危機から逃げ出したのは間違いない。それは重大な問題に発展する可能性もあったのに、あるいはすでにそうなっていたのかもしれないのに、僕はそこから目をそらし逃げ出した。だから僕はこの件を思い出すと、いつでも胸の奥に消えない深い罪悪感を覚えてしまう。
4
逃げ出すこと。後悔すること。それは僕の人生そのものを象徴している。僕が重大な局面で逃げ出したのはスバルのイジメの件ばかりではない。それから半年後、僕はまたまたスバルを見捨てて逃げ出すことになる。
それはある寒い冬の休みの一日だった。僕はまだ依然として小学三年生で、もちろんスバルも同じだった。
「ねーねー、ミツグ! きのう見た?!」
「……なにがー?」
その日。午前九時。僕は自分の部屋のベッドでグッスリすやすやスースーと深い眠りに落ちていたのだが、突然朝っぱらからやってきたスバルに腹の上にダイブされ、強制的にたたき起こされてしまった。
「きのうの夜! 裏山のほうっ!」
「なんだよー、流れ星かよー」
僕は眠い目をこすりながら答えた。その日の前日、やけに鮮やかな流れ星が落ちていくのを、僕も確かに自分の部屋の窓から目撃していた。だが、僕は、だからどうしたんだと思った。そんなくだらないことで朝っぱらから来るなとも思った。
「ちがう! バカ!」と僕の腹の上でスバルが跳ねたので僕は「イテーよボケ!」と上半身を起こして「ボケとはなんだ!」と逆にスバルに頭をひっぱたかれてしまった。
「どこにめーつけてんだよ、ミツグぅ」とスバルはようやくベッドからどいて、頭を抱える僕に言った。「あれ! ぜったい! 流れ星なんかじゃないよ!」
「じゃあなに?」
「それをたしかめに行くんじゃんかーバカ」
というわけで僕はむりやりパジャマからTシャツ半ズボンに着替えさせられ、家から引っ張り出されてスバルと一緒に裏山に行くことになってしまった。僕はスバルに着替えているところをずっと見られていてとても恥ずかしかった――けどもちろんそんな話はどうでもいい。
僕らが通っていた小学校の裏には、それなりに大きな裏山があった。その裏山で遭難するやつはいない。その裏山を登ったってそれを〈登山〉とは決して言わない。でもその裏山にはウサギやタヌキや小鳥や他にも害のない野生動物がいたし、僕らの格好の遊び場にもなっていた。それからその裏山は、何年かに一度PTAの議題で『危ないから立ち入りを禁止するべきではないか』と提出されていた。そんな、裏山だった。
僕とスバルは山に足を踏み入れ、十分ほど木々をかきわけ奥に進み、僕はスバルに言った。「なー、なんかいるわけねーじゃーん。もーかえろーぜー、スバル~」
「うっさい、ヘボ!」
「だってよー、蚊にさされてかいーよー」
「あたし、虫よけぬってきたもん」
けれどそうして進むことさらに二十分、僕は、僕の予想もしなかった光景に出くわす。裏山の中腹辺り、そこは僕がこれまでかくれんぼや鬼ごっこで何度も訪れているはずの場所だった。周囲の木や花や草々の配置は僕の記憶と寸分変わらない。なのに、なのにだ。その場所に唯一僕の記憶と異なるものがあったのだ。
「……なんだこりゃ」
スバルが呆然とつぶやいた。僕は言葉もなかった。それは穴だった。ほら穴だった。数日前まで何もなかったはずのところに、ぽっかりと大きな穴が口を開けていたのだ。少しのぞいたぐらいでは奥を見ることもできないほど深い横穴が。
「すっげぇー」感嘆の声をあげるスバル。「……おかしいよ、これ」と僕。「うん、おかしいね」とスバル。
「よし、ミツグ隊員!」……隊員? 僕はスバルを見る。スバルはほら穴を見たまま叫んだ。「これより、わが探検隊はこの穴の調査に向かいます!」
「イヤだ!」「イヤじゃない!」「ぜったいイヤだ!」「いいから行くの!」「イヤだぁー!」
……ほら穴は暗く、一寸先は闇だった。壁に手をつけ、もう片方の手で前を探りながらじゃなければ進めないほどに内部は暗黒に包まれていた。足元は不安定で、しかも焦げ臭さに似た、不快な臭いが充満していた。
「なー、もどろーよー、やばいよー、危ないよー、懐中電灯がないとムリだよー」
「もーうっさいな」
「だってよー、こえーよー、こえーって」
スバルは怯えた様子もなくどんどん先に進んだ。僕はスバルのシャツにしがみついていたので、僕も自然とどんどん先に進んだ。時に石につまづき、時にカーブを曲がったりしながら、僕らはそのようにして穴の奥へ奥へと進んだ。
「なー、暗いよー、帰ろー――」
「しっ」
あいかわらず僕がうだうだ言っていると、突然スバルが鋭い声を出した。
「な、なに?」
「アレ見て!」
スバルが前方を指す。僕は言った。
「……なんか、光ってんじゃん……」
僕らは真っ暗闇の中を歩いてきた。時間はまだ早く背後からはわずかに太陽の明かりがほら穴に差し込んでいて、それだけが僕らの道を照らす唯一の光源だった。でも、それもそろそろ届かなくなっていて、僕らは本当に暗闇の中にいた。この先も暗闇だけが続くはずだった。そのはずだったのだ。それなのに、僕らの前方の曲がり角から、半端ではない光が溢れ出していた。
「や、やばいよ、やばいんじゃないの」僕はますますスバルのTシャツをぎゅっと握った。「かえろ? な? もういいじゃん、ね?」
「あそこがゴールだぁー!」
「ああ、スバルぅっ?」
走り出すスバル。こんなところに置いていかれてはたまらないので僕も走る。角の手前まで来た。明るい。これは尋常じゃない。陽の光とか炎の明るさとかそういうレベルの明るさじゃない。僕の足がガクガク言い出す。
「なにがあんだろ? ね、この先になにがあんだろう?」
わくわくドキドキを隠せないスバルは、小声で僕に問いかける。「やばいよ、やばいって」としか僕は答えられない。「1・2・3・せーの! で、のぞいてみよ?」というスバルの言葉にも僕はうんともすんとも言えなかった。
「1・2・3・せーのぉっ!」
人間の反射運動とは恐ろしい。絶対に見るもんか、見たら恐ろしいものがあるに決ってる、そう思っていた僕なのに、僕の身体はすっかりスバルの命令に無条件に従うことに慣れてしまっていて、僕は気がついた時にはスバルと同時に角の向こうを覗き込んでいた。
そしてそこにあったものは――
よく、わからない。いや、本当に。何か光る物体がそこにあったのは確かなのだけど、それが何なのか、何と形容すればよいのかが見当たらない。事実だけを率直に説明するのなら、スバルが発した言葉が一番適当だろう。
スバルはこう言ったのだ。「なに、あのデカクて丸くて光ってるのはっ?」
僕らが呆然とそれを見つめる中、その〈デカクて丸くて光ってる〉物体が小刻みに振動し、ウィィィーンという音が鳴って、僕らはますますポカーンと口を開けて、物体も四角く黒い口を開けて、そこから銀色の細長い板のようなものが降りて来てそれが地面に到達した。そして僕らはまたまた息を呑む。その細長い板の上を通って、全身が銀色に発光している何かが〈デカクて丸くて光ってる〉物体の中から降りてきたのだ。
「なに、あれ?」
そんなこと聞かれても僕にだってわからない。身長約一メートルぐらい、頭部は普通の人間よりも二回りも三回りも大きくてつるつるで、目はさらに大きく猫のように鋭く赤々と輝いている。手も足も短く衣服は身に着けていない。
それはまるで、まるで、――宇宙人?!
と、僕は背中に冷たいものが流れるのを感じた。地面に降り立った謎の生物と、思いっきり目が合ってしまったのである。ヤバイ、見つかった、と僕が思った瞬間、
「※△●Z○あ□☆★」
謎の生物が謎の言葉を吐いた。
「へ?」とスバル。
「A●◎※▽▲Vぶゅ☆あ」
何かを口にしながら、僕らの方に謎の生物が近づいてくる。僕は足がガタガタガタ。スバルのTシャツを引っ張り小声で早口でまくしたてる。「逃げよ逃げよ逃げよ逃げよ逃げよーってマジでマジでヤベーよマジで!」
「◆□◇ZぎB★※※ぎぉ▲」
ああ、ゆっくりと銀色の生物が僕らに近づいてくる。でもスバルは「はあん? うっそー! ホントに?」とかわけのわからないことを言って僕の言葉を無視して一向に逃げ出そうとしない。焦りと共に、ヤバイ! という言葉が僕の頭の中を駆け巡る。絶望的な想像が僕の脳裏を支配する。あいつはやっぱり宇宙人なんだ。あの銀色の球体はUFOなんだ。このままここにとどまっていたら僕らはアイツに捕まってUFOに連れ込まれて宇宙に連れて行かれて変なベッドにくくりつけられて手足をガチンっ! とかいって変な機械で固定されてしまって、それでチューブとかたくさん繋がれてビビビビー! って変な改造とかかされてしまうんだ。豚と合体させられたり、ガラスのケースに閉じ込められて怪しい液体漬けにされちゃったり、脳をいじられてロボットみたいにされちゃったり、そんな風な目に合わされてしまうんだ。
「スバル! スバルぅっ!」僕はスバルの名前をもう小声じゃなくて大声で呼んでTシャツを引っ張るけどスバルは僕の声が聞こえないみたいに銀色の生物を見ているだけ。近づくぺたぺたという足音。銀色の生物。ヤダよオレ! 改造されるのなんて絶対ヤダ!
頭の中のリフレインが〈ヤバイ〉から〈ヤダ〉に変わった時、僕は自然と動いていた。
そう、逃げ出したのだ僕は。スバルを置いてその場から。「ミツグっ?!」背中からスバルの驚く声が聞こえたけど、それさえも無視して自分だけでも助かるために、僕は必死に入り口の方向に走り出したのだ。
はーはー、はーはー。息が切れる。心臓が苦しい。でも僕は走った。助かりたい一心で走った。ところが僕は走りながら気づく。後ろから、僕と併走するように、ぺたぺたぺたぺたという音が迫ってきていた。追いかけられている! そう思った僕は、さらに必死にスピードを上げた。暗闇の中で。足元が不安定で狭いほら穴の中で。
もちろん、それが悪かった。僕は野生動物じゃないしオフロードを走るようにも暗闇を移動するようにもデザインされていない。ゴチン! とすごい音が鳴って激痛が頭に走り僕は地面に倒れた。壁にぶつかったのである。
ぺたぺたぺたぺた。倒れた僕の耳に迫る足音が聞こえてくる。僕は激痛でぼうっとした頭で、それでも、死にたくないと強く思った。改造されたくないとも本気で願った。
死と改造への恐怖でぶるぶるぶるっちの僕の脳裏を、ところでスバルはどうなったんだろうという思いが急にかすめた。それから、犬と合体させられてしまったスバルを想像してしまった。自分はなんてことをしてしまったんだろう、僕はスバルを見捨ててしまったんだ、急に後悔が音もなく僕の胸に押し寄せてきた。後悔する僕は、すぐ側に、ぺたぺたという音を聞いて――そこで僕の意識はシャットダウン。全ては暗闇に飲み込まれる。
目が覚めると、僕は草むらで、辺りはすっかり夕闇にそまっていた。僕の横にはスバルがいて、彼女は僕の顔を見て言った。
「あ、起きた」
――スバルっ? 僕はがばっと起き上がり、スバルの両肩をつかんで揺すって「だ、大丈夫だったのっ?」と叫んで、「痛いよバカ!」とスバルにひっぱたかれた。
「なにあわててんだよー、ミツグぅ。大丈夫にきまってんじゃーん」
「じゃ、じゃーんって……」
僕はあらためて辺りを見回してみた。そこは、あのほら穴があった場所からほんの少し離れた場所だった。一分もあるけどあの場所に戻ることができるだろう。
「……なあ、どうやって助かったの?」
スバルが一人で僕を引っ張り出してくれたのだろうか。そんなバカな。いくらスバルが凶暴でも、そんな力があるわけない。
「えへへ」スバルは答えた。「なーいしょ」
内緒と言われて納得できるわけなかったけど、辺りはもう暗いし木々の奥からは得体のしれない獣の鳴き声が聞こえ始めていた。何よりまたあの銀色の人に会うのが怖くて、スバルの提案に従い僕は山を降りることにした。
それでも、僕は裏山を降りながら何度も同じ質問を繰り返した。「どうやって助かったの? 何があったの?」
「うひひ」何度聞いてもスバルの答えは一緒だった。「だからなーいしょ。あは」
あは、じゃねーよ。
腑に落ちない僕は、家に帰ってベッドに潜り込んでからも、あの謎の出来事について考え、考えているうちに恐怖がまた蘇ってきてぷるぷると布団に包まって子犬のように震えた。震えているうちに、疲れていたんだろうね、ぐっすり眠ってしまった。
翌朝、珍しく午前六時に早起きした僕は、意を決して朝飯も食べず裏山に向かった。ほら穴に入るつもりはなかったけど、一晩寝たら、あれがなんだか現実の出来事ではなかったような気になってしまったのだ。
草むらをかきわけ現場についた僕は、そこでまた混乱する。ほら穴がなくなっていた。草も木も配置がまったく変わっていないのに、そこに深々と開いていた横穴がどこにもない! 僕は場所を間違えたのかと思い、さらに小一時間ばかり辺りを捜してまわったけど、やっぱりどこにも穴なんかない!
僕は慌てて裏山を降り、路地を走り抜け、鈴木邸のインターホンを連打した。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン!
出てきたのは、迷惑そうな顔をしたオーガの鬼島さんだった。鬼島さんは僕の顔を見て迷惑そうな声で言った。
「……ウガァー」
「鬼島さん、スバル! スバルいる?!」
「ウガガガー」
鬼島さんのしゃべる《ウガガガ語》は鈴木家の人々に通じても僕にはさっぱりわかりません。とにかく鬼島さんが「ウガー」と言って僕に背を向けて歩き出したので、僕も続いて鈴木家に入り、リビングでのんきにテレビを見ているスバルと対面した。
僕は小声でスバルに呼びかける。「おい、おい、スバル!」
スバルは「ん、なに?」ポテトチップス、バリバリバリ。「な、なあ、昨日穴があった場所、オレ、見に行ったの!」「へえー」「そしたらさ! マジだよ、マジ! 穴なくなってんだよ! マジで!」「へー」とここでテレビに「うひゃひゃひゃ」「マジなの! オレうそついてないよ!」「ふーん」バリボリバリボリ。
あまりの興味なさげなスバルの態度に、僕はだんだん不安になってきた。僕は恐る恐るスバルに尋ねた。
「……昨日のあれ、ホントにあったよね? 夢なんかじゃなかったよね?」
「さーねー」でまたげらげらと腹を抱えるスバル。終いには、「うっさいなー、もう! あたしテレビ見てんの! 帰れ! 帰れ!」 と僕を邪魔者扱いして追い出してしまった。
僕はとぼとぼと家に帰り、部屋に戻って考えた。もしかしたら、やっぱり、オレ、昨日夢見てたのかな? 宇宙人なんて現実にいるわけないもんなー。と。
だけど、そこで僕ははたと気がついた。あれ、僕、頭のてっぺんが痛い! たんこぶがある! それにひざや肘にだってすりむき痕が残ってるじゃん!
なぜそんなものが僕の身体に残っているのか? それはもちろん僕があのほら穴で壁に激突した際できたたんこぶであり、地面に倒れた時にできたすり傷に決まっていた。それにそうなのだ。魔王やオーガやミノタウロスが存在しているのだから、宇宙人ぐらいたってぜんぜんまったくおかしくない。
僕はまったく混乱した。
どうしてスバルは、僕が気絶したあとのことを話してくれないのだろう?
――結論から言うと、その疑問はその後も僕の胸で渦巻き続け、いまだに解消されてない。僕は今でも時々あの日のことを思い出し、言いようもない不安な気持ちになってしまう。
僕はその次の日もそのまた次の日も、スバルと顔を合わせるたびに、あのほら穴で何があったのか質問した。その後何週間にわたって、思い出すと同じ質問をスバルに浴びせた。スバルの答えは決まって二種類のうちのどちらかだった。「さあねー」「しらなーい」。
そのうちに、僕も質問することをやめてしまった。スバルは過去においても現在においてもそしておそらくは未来でも、強情極まりない一度決めたらテコでも曲げないわがままで意地っ張りな少女なので、シラを切ると決めたスバルに口を割らせるなんてことは不可能だった。でも同時に、スバルは嘘をつくのは下手っぴなので――なにしろ彼女は普段、嘘をつくような必要がないので慣れていない――、質問のたびに目が泳ぐことには僕もすぐに気がついた。
スバルは嘘をついていた。その嘘が何なのか、僕は、死ぬまでにそれを知りたいと思っているけど――やっぱりスバルの性格を考えるとそれは無理なのかなあ。
とにかく、今でも時々僕はそれを思い出す。赤々と目を光らせ、巨大な頭部を持ち、一本の毛さえ生えておらず、身長一メートル未満の、ぺたぺたと歩く銀色の人。消えたほら穴の、僕の十五年の人生の記憶における、もっともシュールレアリスティックな光景を。
5
でも僕がこの『宇宙人(仮)』のエピソードで言いたいこと、後悔として残っていることは、〈あの時何があったのかをどうしても知りたい〉ではなく、〈僕がスバルをまたもや見捨てて逃げ出した〉ということだ。
もしかしたらあの時、宇宙人につかまって改造されたり殺されたりしたかもしれないと言うのに、僕はそれでも自分一人だけで逃げ出したのだ。
その後も僕は人生の様々な局面で、逃げて逃げて逃げ続けてきた。僕は何事にも立ち向かえなかった。こんな僕だから、もっとも僕にとって大事なこと、スバルに思いを伝えるということだって一度足りともできたことはなかった。僕には本当に勇気がない。
今までは、それでよかった。スバルはああいう外見だから中学でも高校でも色んな男が彼女に思いを寄せたけど、スバルはあんな性格だから、そのどれもを木っ端微塵に砕いてきた。何度か僕は彼女が男を振る場面にも遭遇してた。「イヤ!」「わりー興味ない」「却下」
僕はそれらの言葉に一安心。同時にあんな目にあうのはまっぴらゴメンと怯えて、やっぱりこのままでいいやと自分の気持ちをごまかしてきた。
どれだけ色香に迷った男どもがスバルに群がっても、彼女に一番近い男の座はこの僕のものだったし、それはこの先もずっとずっと変わらないのだと信じていたから。
だけど僕はバカだった。誰でも月曜日の後には火曜日が来ることを知っている。でも、昨日と同じ明日がやってくるなんて保証はどこにもなかったのだ。
それに、僕たちの関係はたしかにずっと変わらないのかもしれない、しかしそれがなんなんだ。永遠にずっと変わらないなんて、そんなの燃えないゴミとおんなじじゃないか。