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僕のいる世界

ACT1 僕のいる世界


   1


 僕の家の隣には魔王がいる。

 僕が住んでいる町は朧町といって、人口は二千人ぐらいで、マンションよりは圧倒的に一戸建ての方が目に付くからとても都会とは言えないけど、周囲に畑や田んぼはほとんど見かけないぐらいには田舎でもなくて、それから魔王が住んでいる。

 魔王というのは呼んで字のごとく、魔――人間ならざるもの、それも人間にとっては邪悪なものを統べる王様という意味だ。

 でも僕の家の隣に住んでいる魔王は、恐ろしげな人じゃ全然なくて、むしろ七三分けでひょろながくて青白くて黒ぶち眼鏡をかけていて、名前は鈴木一さん。年齢は今年でたしか三十七歳。いつも紺のスーツと白のYシャツと、それから二、三種類ぐらいのネクタイをとっかえひっかえ着用している。

 近所のマダム連中――恥ずかしながら僕のおふくろがその筆頭である――は口やかましく鈴木さんのネクタイの柄がいつも同じことを嘲笑混じりの哀れみの対象にしているけど、でもこれは仕方がないことなのだ。鈴木さんの奥さんは十五年前に亡くなってしまったのだから。オシャレさんならともかく、普通の男性じゃネクタイの柄にまで気を使うなんてことはできないのじゃないかな。まして鈴木さんは七三分けに黒ぶち眼鏡の三七歳だし。

 そんな風にご近所にほんわかとした話題を提供している鈴木さんだけど、朧町に引っ越してきた当時はそうではなかった。なんといっても職業が魔王! わが朧町は右往左往の大パニック。小さかった頃の出来事なので僕の記憶にはまったく残ってないけど、聞いたところだとそれは大変な騒ぎだったらしい。

 数年前、その当時のことを一さん本人が僕に語って聞かせてくれた。

「いやー、貢ちゃん、ボクが言うのもなんだけど、それはひどい騒ぎだったよ。やれ子供に悪影響を与えたらどうするんだとか、誘拐事件や殺人事件がおきたらどうしようとか、PTAのみなさんが反対運動を起こしてね。中には面と向かってボクに『魔王は出て行け!』なんて叫ぶ人もいたぐらいだしねえ」

 それはひどいですねと僕が合いの手を入れると、一さんは穏やかな笑みを浮かべて小さくかぶりを振ったものだ。

「まあ仕方がないよ。魔王というのはあまりポピュラーな職業ではないからね」

 しかしそれもいずれは収まった。引っ越してきた魔王がどうやら気の良い若者だとわかり、ご近所のみなさんも快く鈴木家の存在を受け入れたのだった。


 鈴木一氏の朝はだいたい午前七時ごろに起床するところから始まる。目覚めると一さんは庭に出て音楽なしでラジオ体操をする。第二まですべて踊り終えたなら、家の中に戻り、一人娘や使用人たちと一緒に朝食を食べる。鈴木家には使用人が数人住み込みで働いていて、食事や掃除やその他の家事はすべて使用人たちが分担で行っている。

 食事をすまし、娘を学校に送り出した後で、一さんもスーツに着替え、そしていよいよ魔王としての仕事を始めるというわけだ。

 鈴木さんの職場は、この世界とは何もかもが違っている異世界である。何がどう違っているのかは一概には説明できない。人々がみんな中世ヨーロッパ風の格好をしていて、機械文明がまったく発達していない代わりに魔法という非科学的なものが普通に用いられていて、見たこともない動物というか魔物がいて、まあわりに違うところはたくさんありすぎる。テレビゲームのRPG的世界、というのがとりあえず一番わかりやすい説明なんじゃないのかな。

 んで、その異世界――名前があるらしいのだけど残念ながら僕には発音できない。無理に発音しようとすると〈コンババオンセン〉になってしまう。混婆温泉って何? ――に一さんは自分の庭の物置を通って向かう。そこが、異世界とこちらの世界を結ぶ門になっている。余談だけど、だからそこに無断で近づくと、「危ないから!」と鈴木家の使用人の人にとても怒られる羽目になる。

 その発音不可能な仮称《混婆温泉》で鈴木一氏は魔王ベルウッドと名前を変え、そして手下のモンスターたちを使って各地の住人たちを襲い怯えさせスリルとサスペンスの極地へと叩き落すのだ。

 それが、魔王という仕事なわけである。

 ただし一さんは好き好んで異世界の人たちを脅かしているわけではない。カラクリを話してしまえば、一さんはその異世界の権力者集団である神官たちから依頼されて、魔王という役目を果たしている。つまり雇われ魔王だ。なんでそんなことを依頼されているのかというと、その仮称《混婆温泉》はあまりに平和すぎて、しかもこちらの世界と違って娯楽らしい娯楽もほとんどなく、とにかく退屈で退屈でしょうがいないらしい。そこで異世界から現れた魔王という名目で、人々にスリルとサスペンスを供給しているというわけだ。ようするに魔王というのは出張お化け屋敷みたいな存在なのだ。

 なんでそんな仕事を一介の日本人がやることになったのかとか、どうして物置が異世界に繋がっているのかとか、そんなことは僕は知らない。僕が知っているのは魔王の仕事は週休二日で、勤務時間が午前九時から午後五時までで、年収が一千万円を越えているということだけだ。四二歳のうちのおやじよりも高給取りなんだから、魔王という仕事もなかなか割がいいみたいだ。

 一さんも、「人々のためにもなるし、やりがいのある良い仕事だよ」と言っている。そういう仕事が見つけられた一さんはとても幸せな人だろう。人のためになる魔王ってのも日本語としてかなり変だとは思うけど。


 僕の住む朧町には特にこれといった遊ぶ所も大きな繁華街もなく、名所と呼べる場所もなく、魔王が住んでいるということが一番大きな特徴だ。僕はこの街で特にこれといったこともなく十五年間育ってきた。

 さて、そんな僕の幼なじみの一人に、スバルという女がいる。年齢は僕と同じ十五歳。フルネームは鈴木昴。

 実を言えば僕にとって鈴木一氏こと魔王ベルウッドのことなんかどうでもよくて、この娘のスバルこそが大きな問題なのである。


   2


 鈴木一氏の朝が七時ごろに始まるのなら、僕の朝は七時二十分から始まる。七時二十分。その時間までに僕は朝飯をすませて制服に着替え、自転車を持って隣の鈴木邸まで全速力で向かわなくてはならない。それが、高校があるときの僕の日課。これをやらないと後でどえらい目にあってしまう。なので、高校で初めて迎える二学期の始業式のその朝も、僕はやっぱり七時二十分には鈴木邸の前に立ちインターホンを鳴らしていた。

 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーンと正確に三回インターホンは鳴り響き、するといつも必ずすぐに鈴木家の使用人の人が木製の門を開けてくれる。この日、僕を出迎え「やあ、天堂くん、ご苦労さま」と言ってくれたのは一番古株の牛頭さんだった。

 鈴木家には、使用人が三人いる。古い順に牛頭さん、蛇田川蛇子さん、鬼島さん。

 それぞれに、個性的な人物で、例えば牛頭さんは身長は約二・五メートル。デカイ、デカすぎる、といつも僕は驚嘆する。常にTシャツにGパンで筋骨隆々、腕は丸太のように太いしついでに体毛が異常に濃い。そしてそれより何より特筆すべきはその顔! 牛頭さんの顔はとてもとても特徴的で、どのくらい特徴的かといえば百人に見せたら百人ともがビックリ仰天するぐらいに特徴的で、何が特徴的かと言えばそうですそうなんです、牛頭さんの顔は名前の通り牛なのです。しかもホルスタインじゃなくてバッファロー。いつ見てもかなり怖い。そう、一さんが魔王であるように、牛頭さんはコンババオンセンから派遣されてきたミノタウロスなのだ。

 僕は牛頭さんに促されて鈴木家の敷地内に足を通された。庭の奥の物置の手前では、上半身裸の鬼島さんが一生懸命庭いじりをやっていたので、僕は鬼島さんにも声をかける。「ういっす、鬼島さん」「ウガァー」それが鬼島さんの返答だ。牛頭さんがミノタウロスであるように鬼島さんはオーガ(まあ下級な鬼の一種だ)で、体格的には牛頭さんにも見劣りしない。頭には立派な角だって生えている。が、鬼島さんには欠点があって、「ウガー」としか喋れないのだ。なので担当は主に肉体労働。鬼島さんはけっこう気の良い人だと思うけど、まあ「ウガー」しか喋れないので僕にも本当のところはわからない。わからなくても問題もないし。

 鬼島さんと別れ玄関を上がり廊下を歩いているとキッチンの前を横切った。中では蛇田川蛇子さんが「ふんふーん♪」なんて鼻歌を歌いながら何やら家事にいそしんでいた。後ろ姿がとってもセクシー、前を向いてもダイナイマイツ!

「あら、こんにちは天堂さん」

 なんて蛇子さんの言葉に僕はもうクラクラで、「あはー、がんばってくださーい」なんて返事をするのがやっとになってしまう。蛇田川蛇子さんは二十代の前半。身体の自己主張の激しい美しいお姉さんだ。これで下半身が蛇じゃなかったら最高なんだけどね。ま、蛇子さんはナーガなんだから下半身が蛇なのは当たり前のことだ。

 かようにいつものごとく使用人の皆さんと挨拶を交わし、僕は鈴木家のリビングに辿り付いた。リビングではパジャマ姿の一さんが新聞を読んでいて、僕の顔を見て「やあ」と片手をあげた。

「一さーん、スバルはー?」

「ごめんよ貢くん。まだ寝てる」

 僕は時計に目をやる。時間は七時二十五分。

「遅刻するっすよ?」

「うーん、新学期始まってばっかりだから、気が抜けてんだろうねー。……牛頭くん、昴を起こしてきてくれないか」

「いやです」即答する牛頭さん。「お嬢さまの寝起きの悪さは尋常ではありません」

「まあ、そりゃそうだね」

 と納得する一さん。オイオイ納得すんな使用人に丸めこまれるな! と言いたいところだけど、確かにスバルを起こすのはまあかなりイヤだろうな。寝起き悪いしスバルって。つーか寝起きとかじゃなくてわがままだし。

「貢くん、毎度のことで悪いんだけど、もう少しだけ待っててよ」

「……ヘーイ」

「あ、ちょっと怒ってるね。まあまあ、ほら、コーラでも飲んで落ち着いて」

 と一さんはちょうどリビングにトレイに乗せて飲み物を運んできた蛇子さんから缶コーラを受け取り、それを僕に手渡した。一口ゴクリ。口の中に広がる爽快感。「まあ、慣れてるし、別に気にしてないッスよ」

 しかしそうは言ってもあんまり遅いのも困りものだ。ここから僕やスバルが通う浮動高校までは四十分強。早くしてもらわないと遅刻してしまう、なんてちょっち焦りながらコーラをごくごくテレビでゲラゲラ待っていたら、七時時四十分になってドタドタバタバタとやかましい音がして、廊下から障子をあけてスバルが部屋に飛び込んできた。

「なんで起こしてくんないのー!」

 叫ぶスバル。ばっちりセーラ服には着替え終わってる。ショートヘアーの髪もばっちりセット完了済みだ。うーん、今日もかわいいねー。一さんがスバルに言った。

「昴、きみももう十五歳なんだから、自分で朝起きるぐらいしないと――」

「蛇子さん! 朝ご飯まだあるっ?」

「おいスバル」「何だ、ミツグ、来てたの?」「来てたの、じゃねー! オマエ飯なんか食ってんと、まにあわねーぞ」「うっそ、マジ?」「大マジ。時計を見よ」

 みたいなやり取りがあって時計を見てスバルは絶叫。「ヤッベー!」

 で辺りを見回してスバルは僕のコーラに目を止める。

「あ、それ、ちょーだい」

「え、あ、おい、それオレの――」

 ゴックンごくごく。僕の手から奪われやがてスバルの胃に消えていく僕の愛する汚泥色の液体。ああ、僕のコーラ……。「ぷはぁー」袖で口を拭ってスバルは僕に言った。

「じゃ、行くべさミツグ」

 と僕の唖然を無視してリビングを出て行くスバル。僕は慌ててスバルを追いつつも、一度足を止めて振り返り、ひたすらスバルに無視され続けた一さんに挨拶だけはしておいた。

「じゃ、一さん、失礼します」

「あ? あ、ああ、いってらっしゃい」

 うーん、あんな娘を持ったお父さんというのもなかなか大変なものだろうなー。まー、父親が魔王というのもアレはアレでなかなか苦労があるものなのだろうけど。


 しかし本当に大変で苦労しているのはこの僕・天堂貢だ。僕がなぜ朝っぱらからスバルの家に行ったのか。それはもちろん(もちろんか?)自転車の後ろに乗せてスバルを浮動高校まで送っていくためだった。

 そうです僕はスバルの幼なじみ兼運転手。スバルは一さんからちゃんともらっている交通費を一銭でも使うのがもったいなくて、僕に自転車を強要しているのだ。僕的には高校までは遠すぎるからせめて朧町までの駅まで自転車で行って、そこから電車を使って登校したいし、そうすれば毎朝HRの時には自転車の漕ぎすぎで疲れてぐったりなんてこともなくなるのに、僕にはそんな自由は与えられていないからなんてこった。

 でもまあそれはいい。それならせめて、乗せてもらっているのだし、途中で少しぐらい自転車を漕ぐのを交換するのが常識人の態度だけど、もちろんスバルはそれもしない。スバルがすることと言えば自分のせいで遅刻しそうなのに「は・や・く! は・や・く!」とか「前の自転車抜かしちゃえー!」とか僕の後ろでぬかすだけだ。うーん。

 だいたいスバルというのは〈魔王の娘〉で、普通はそれだけでも目立ちすぎるぐらいに目立つパーソナルになるというのに、彼女はその上にクリクリお目めがキュートなアイドル真っ青なスーパー美少女、しかもその美少女ぶりは〈白菊のような〉とか〈はかなげ〉とかとは一切あいなれないポップな感じで、外見だけでもやっぱり人の目を惹きまくる。にも関わらず、こんなに常識がない!

 そんなスバルは高校でも入学早々から目立ちに目立った。親が魔王だからではなく、スーパー美少女だからでもなく、そのあまりのハチャメチャな性格で。(そもそも親が魔王というのは高校では内緒になっている)。

「な、なあきみ、どこ中?」

「……なに、きみ?」

「オレよ、※※中から来たムラセ。ヨロシク! ところでさ、きみ、彼氏とかいる? もしよかったら今日どっか遊びに――」

「行きません。失せろ」

「う。や、やだなあ、はは、そんな照れなくてもいいじゃない。そんな風にムリに怒ったふりすると、カワイイ顔が――」

「いいから消えろってボケ」

「て、テメー――」

「もーうっさいからだまれって」

 これは入学式の当日、教室に入ってすぐにクラスメートのムラセくんとスバルとの間に交わされた心温まる会話である。うーん、失せろって。ただならぬ二人の雰囲気に、クラスに沈黙が訪れる。きみってイカす反応するねーなんてことにはならず、当然コケにされた金髪坊主頭のムラセくんは顔を赤らめ激怒する。思わず伸びるムラセくんの右拳。

 女の子を殴ってはいけません。ムラセくんは次の瞬間そのことを思い知らされた。彼の拳よりも早く、スバルのナックルがカウンター気味にクリーンヒットしたのである。信じられない、そんな風にムラセくんは目を大きく見開いて、左に二、三歩よろめいて、そのまま片膝をついてバッタンキュー。

 恐るべしスバルちゃん。クラス中がザワザワザワ。僕は自分の席で頭を抱えて唸った。「あー、さっそくやりやがった」。スバルだけが何事もなかったかのように自分の机に戻り、カバンから月刊の少女漫画を取り出しゲラゲラゲラ。またまたクラスのギョッとした視線がスバルへと集中した。

 すぐに担任が教室の中に入ってきて、ムラセくんもべそをかいて自分の席に戻ったので、結局はなにごともなかったことにされたけど、僕がこのとき一番ア然としたのは、スバルが読んでいたマンガの内容にだった。後で知ったのだけど恋愛マンガでしかも主人公の女の子が恋人と死に別れるというシーンで、それでなぜ笑えるスバル? お前はいったいどういう神経をしているのだ?

 しかしまあこの件で、スバルはすっかりクラスの人気者になったのだった。なぜなら彼女は〈男をグーで殴る女子高生※しかも美少女〉!。そんなのって、ちょっとカッコいーじゃーん、てなわけである。スバルの常識はないにせよ話してみるとなかなかフレンドリーな性格もそれには幸いした。

 現在では《スバルちゃんファン倶楽部》なるものまで存在する。完全非公式の地下組織だ。だから僕も詳しくは知らない。知っているのはその会長が、例のスバルにぶっ叩かれたムラセくんだということだけである。……殴られてMの道に目覚めてしまったんだね。やだやだアブノーマルな人って。

 だからまあこのぐらい非常識なスバルだから、僕を運転手代わりに使うのなんて驚くには値しない。彼女に運転手代わりに使われたり「ボケ」だの「カス」だの「役立たず」だの「根性なし」だの言われるだけで殴られたりしない事を神さまに感謝するべきなのかも知れません。

 それに、僕がこんな目にあっているのも自業自得とも言えるのだ。僕は受験の時に教師から止められたのも無視してムリしてスバルのレベルに合わせてこの浮動高校を受験したのだ。そのために中三最後の半年間、僕は必死こいて死に物狂いで勉強した。だから、この今の境遇も、ある意味ではこの僕の望んだことなのだ。

 しかもナーガの蛇子さんに比べればずっとずっと貧乳だとはいえ、背中越しのスバルの胸の感触を楽しむ僕も確かにいるわけだし。

 僕は今日も自転車を漕いでジリリリーン。僕の後ろでスバルが言う。「ねー、もっと早くなんないのー? 遅れちゃうじゃーん、このボケー!」

 でもやっぱり、もう少し僕を労わってくれてもいいと思うんだけどね。ぐっすん。


   3


 九月一日の学校なんてものは始業式しかやらないし、始業式というものは校長やら何ならの教訓的に聞こえてその実何の意味もないスピーチだけは異常に長くて生徒が熱射病で倒れたりするけど全体としてはすこぶるシンプルで短いものだから、僕らは昼前に学校から解放され自由になる。

 普段は「帰りも送ってけよー」と勝手に僕のMyチャリンコに飛び乗るスバルだけど、この日は「わたし、友達と遊んでくからー」などとぬかして掃除もサボってさっさと下校してしまったので、僕も一人で自転車に乗って家に帰ってゲームでもやってやろうと思った。ついでに残っている宿題の一部もやろうかな、やれるといいな、やりたいな、なんて風にも思っていた。

 が、予定は常に変わるもの。一人だしペダルが軽い。などと順調に自転車を漕ぎだそうとした矢先、校門をくぐってすぐに、いきなり僕は横からがっとハンドルをつかまれ止められてしまった。

「な、なに?」

 僕の自転車を無礼な方法で止めたのは、僕のクラスメートだった。ハンドルをつかんでいるのは《スバルちゃんファンクラブ》会長こと、ムラセくん。その後ろにもクラスは違うけど見たことのある顔が二つ並んでいる。

「オマエさ、ちょっと顔貸してくんねー?」

 イヤです。絶対。僕の顔はアタッチメントではないので首と切り離したりはできません。と言えたらどれほど楽で幸せだろうか。僕には言えなかった。辺りに人がいなくて強面三人に囲まれて、どうしてそんなことが言えるというのだ?

 僕はハンドルを引っ張られて、「な、なんだよ? 何の用?」という丁寧な抗議の声も無視されて、ただでさえ辺りに人がいなかったのにさらに人気のない場所まで引きずられていってしまった。学校近くのマンションの駐車場だ。暗い上に誰もいない。

 到着してすぐに、ムラセが言った。

「よーよー、テンドーよー、テメー調子のってんじゃねーの?」

「はあ?」

「はあじゃねーよ」と今度は別のクラスの男子(名前がわからないので男子Aと僕は心の中で呼ぶことにした)が言った。「幼なじみだからっていー気になってんじゃねーぞ」

「ええ?」

「とぼけてやがんのか?」とこれは男子Bだ。「スバルだよ、スバルさんのことだよ!」

 はーはん。こいつら全員スバルちゃんファンクラブのメンバーだ。よってこれからは『メンバーA』『メンバーB』『ムラセメンバー』と呼ぶことにしよう。って、そんな余裕かましてる場合じゃないよ! ええ?! こいつらもしかして僕のこと怒ってる?

「テメーよぉ」ムラセメンバーが僕の胸倉をつかみあげる。「今日もスバルさんと一緒に登校してきやがったよなー、アン?」

「そ、それは、オレとスバルが家隣だから」

「馴れ馴れしく呼び捨てにすんじゃねーよ」

 メンバーBが僕の頭を小突いて僕は目の前がぐらーん。

「テンドーよー、オレたち、オマエにはちょっとたまりかねてるんだよねー。ズルくねーか、オマエ? うちのクラブの会員でもねーのにスバルちゃんと親しくしやがってよ」

「じゃ、じゃあ、どうしろっつーんだよ」

 僕は頭がクラクラに耐えながらムラセメンバーに問いかけた。ムラセメンバーはニヤリと不細工に、もとい不気味に笑った。

「申し訳ねーと思うなら、オレらに協力しろろ。な? かまわねーよな?」

 握手会とかサイン会とかセッティングしろとか言うわけか?

 いいえ全然ちがいました。「夜の公園にスバルちゃんを呼び出してくれ」。ムラセメンバーはそう言ったのです。

 ……つーかそんなの聞けるかボケ! 夜の公園! なんて刺激的な単語だ。やばいやばい、そんな場所絶対やばすぎる!

 しかし僕の周りには目をギラギラと光らせたバカどもがいて、ストレートにそんな意見を言ったが最後、何をされるかわかったものではない。どうしよう? 僕はどうするべきだろう?

 逃げました。思いっきり。「あっ」と言ってメンバーたちの注意をそらして僕は不意をついて自転車ドーン! 自転車はムラセメンバーとメンバーAに激突して二人は「うぐぉ!」とよろめいて、同時に僕は驚くメンバーBを蹴り上げてその隙に全力ダッシュ! 自転車を置きっぱなしにしていくのはいかにも心苦しいのだけれど、今は何より身の安全が第一なのだ。

 なので僕は走って走って走りまくる。実は僕は今でこそ単なる帰宅部でスバルのお抱え運転手で「あれじゃーミツグくんっつーよりアッシーくんだよなー」みたいな上手くもなんともない陰口を叩かれてる身分だが、中学時代はれっきとした陸上部で、足にはそれなりに自信がある。なぜ足に自信があるかと言えばこれはガキの頃のスバルのやろー、映画を見たりアクションドラマを見たりアニメを見たりするとすぐに感化されやがって、正義の味方になったつもりになってしまって、しかも僕を悪の手先に見立ててビニールバットやら新聞紙を丸めたものやらで追い回すので、僕としても捕まって殴られるのが嫌なので逃げているうちに、すっかり足が速くなっていたのだ。それでもよくスバルには痛い目に合わされたけれど、とにかく僕は筋金入りのエスケーパー。足には自信があるし逃げ足にはさらにさらに自信がある。

 が、好事魔多し。脱出に成功して油断していたのだろうか。いきなり僕の視点がぐわんと下がった。え? と思った時にはすでに遅い。僕は盛大に地面に転んでスッテンコロリン膝をコンクリートに打ちつけのたうち回る。まぬけなことに石につまづいてしまったのだ。

 僕は急いで立ち上がってまた逃げようと思って実際に中腰までは立ち上がった。しかしいきなりその背中に強烈な衝撃を受けてまたもや僕は地面に向けてダイビング。痛い! 痛すぎる! 誰かがオレの背中にドロップキックをかましやがった。

 誰かとはファンクラブのメンバーで、どうやらそれはムラセだった。いつのまにかムラセは僕に追いついていたのだ。

 ぐわし、と僕の背中を踏みつけムラセが言う。「ナメた真似してんじゃねーよ」

 ざっざっざっ。さらに迫る足音。ちくしょう、メンバーA、Bも追いついて来やがった。

 僕はメンバーA、Bに両手をつかまれ無理やり立ち上がらされた。「アン? 自分の立場がわかってねーの?」。ムラセメンバーのボディフックが突き刺さる。ぐふっ、と九の字に折れ曲がる僕の身体。「うめいてんじゃねーよ」。とほざいて僕の顔面に一発ばちん。両手を放され僕はみたび地面に倒れこんだ。ふたたび駐車場まで引きずられていき、そして始まる暴力の宴。

「オラ、なに逃げてんだよテンドー!」ゲシゲシ。「何とか言ってみろよ、オラ」ベシバシ。「あふあふ言ってんじゃねえ気持ちわりー」ボコボコボコ。「どうなのオラ、いい加減協力する気になったんかよー?」バキンボキン。

 ひどい。ひどすぎる。お腹を蹴ったりするから胃液が出そうになっちゃうじゃないか。僕が何をしたというのだ。ただスバルの隣に住んでいるというだけで、なぜに嫉妬に狂ったバカどもに襲われなければいけないのだ。僕はもう完全にグロッキー。このまま殴られつづければ死んでしまうかもしれないし、今だってとっくに鼻血ブーだ。だけど口が裂けても「イエス」なんて言うわけにはいかない。でももう痛いのは嫌だ。

 僕は、どうすればいいのでしょう?

 どうもしなかった。ボコボコにされボロ雑巾のようになった僕を、この後予想もできない急展開が待ち受けていたのだ。

「なあ、きみたち」

 その声は、唐突に僕の耳に届いた。

 ムラセメンバー、およびメンバーA、Bの手が止まる。「ああん、何だテメー?」

 僕も弱々しく顔を上げた。駐車場の入り口に、見たことない男が立っていた。年は僕と同じくらいか? ウェーブのかかった髪の毛はやや長め、切れ長で印象的な漆黒の瞳がまっすぐに僕らを見つめていた。なんちゅう二枚目だ。ボコボコに殴られ全身を覆うズキズキとかギリギリとかの痛みに苛まれながらぼんやりと僕は思った。髪も瞳も黒いけど、まるで日本人には見えない。いや、リアルな人間には見えない。それはそう、絵画の中から抜け出してきたかのような、あるいはギリシャ彫刻が生身の肉体を得て動き出してしまったかのような、それほどの美少年だ。こんな状況にも関わらず、僕はこの突然現れた美少年に惚れ惚れとしてしまった。

 少年は言った。

「そこの人、痛がっているじゃないか?」

「言いから失せろ、ボケ!」

「気取った喋り方してんじゃねーよ!」

 メンバーA、Bが交互に吠える。しかし少年は臆した様子もなく僕らの方に歩み寄る。驚いたことに歩いているだけなのにその足取りが優雅だった。少年は僕らの側まで近寄ると、また優雅に言った。

「困っている人を見過ごすわけにはいかないよ。きみたち、不幸になりたくなかったら、早々にここを立ち去ったらどうかな?」

「あんだとこのヤロー!」

 ターゲット変更とばかりに、メンバーA、Bが少年に飛びかった。「でりゃー!」「おりゃー!」。勇ましい掛け声と共に繰り出されるダブルナックル! が! なんと! 少年はスエーバックで華麗にかわし、両腕をA、Bそれぞれの首に巻きつけてそのまま地面にダイブした! おおお! スゲェ! ありゃーDDTじゃん! しかもダブルのDDTなんてプロレスでも滅多に出ないのにスゲーよこいつは驚きだ!

 顔面と胸と膝とをしこたま地面に打ちつけたメンバーA、Bは「あごぉぉぉぉ」「うごぉぉぉぉ」と地面をのたうち回っている。

 少年は優雅に立ち上がり、唖然呆然のムラセに言う。「さ、きみはどうする?」

 ムラセは殴りかかりました。「くそがぁぁー!」そんでもって軽々パンチをかわされ一本背負いで宙を舞って地面に墜落。「ぶぎゃ!」。ヒキガエルかきみは? ムラセとメンバーA、Bはよろよろと立ち上がり、「ちくしょう、覚えてろよ~!」とスタンダードすぎる捨て台詞を残して、「ひぃー!」「ひぃー!」とショ●カーの戦闘員みたいな声をあげながらそそくさと逃げ去った。

「あ、ありがとう」立ち上がって袖で鼻血を拭って顔についた砂ぼこりとかを払って僕は少年に礼を言った。「助かったよ。スンゲー助かった、マジで」

「気にしないでくれたまえ」優雅に僕の前にたたずみながら、少年は優雅に答える。「困っている人を助けるのは当然のことさ」

 おおお、かっくいー! なかなかいないよこんな人。僕はそのあまりの好青年ぶりに相手が男ながら少しうっとり。お礼がしたいから名前だけでも教えて欲しいと少年に言った。

「はは、本当に気にしないでくれ。僕はきみがそうして元気でいてくれるだけで充分だよ。それじゃあ」

 少年はさわやかに笑って引き止める僕の声を無視して優雅に立ち去った。一人駐車場に残されて鼻血をボタボタたらしながら僕は少し思った。つーか、カッコいいんだけど、ティッシュとかハンカチとか、鼻血を止めるものを貸してくれてもよかないか?


   4


 痛いねー、痛い。夜になって風呂に入ったりしても殴られたところがズキズキ痛い。眠って翌日になってもベッドの中で僕はやっぱり痛い。うーん。鏡を見たらやっぱり顔が腫れている。ひどい。

 そんな有様だから、鈴木家に迎えに行ったら早速僕は一さんやら蛇子さんやら牛頭さんやら鬼島さんに顔のことを聞かれ、僕はあいまいにお茶を濁すのに苦労を強いられた。僕が殴られたのはスバルのためだし――スバルが悪いとまでは言わないけれど――僕を殴ったのはムラセメンバーと愚かな仲間たちだ。僕は何一つとして悪かないのに、それで苦労しなければいけないなんてこんな不幸な人間がこの世界に他にいるだろうか。

 一さんたち鈴木家の皆さんをごまかすことができたけれど、スバルに対してはそうはいかない。スバルとは学校までの道を四十分近く二人きりでいるわけだし、その間尋問に耐え続けるのはちょっと無理だ。それにごまかしてばかりいたら今度はスバルの鉄拳が僕のボディに突き刺さるかもしれないし。

 僕は僕の後ろに乗るスバルに、正直に事情を話した。僕の話を聞いたスバルは怒った。まず僕に。

「なにやられっぱなしになってんだよー!」

 ムチャなことを言う女だ。僕はスバルじゃない。三対一でどうしろと言うのだ。しかし反論すると怖いので僕はペダルを踏みながらうつむいて「ゴメン」。

「バカ! ちゃんと前見て漕いでよっ!」

 ……それからスバルはもちろんムラセメンバーたちにも怒り心頭になった。「あのボケ!」。スバルも僕と同じくメンバーA、Bについて知らないので(知っていても僕がわからないのだから、誰だかわかりようがない)、自然と怒りはムラセメンバーに集中する。「ったく、いつもいつもウザいんだよねー」。スバルはムラセメンバーに「スバルちゃんスバルちゃんスバルちゃん!」と犬みたいにしつこくつきまとわれることにただでさえウンザリしていたのである。

「オッケー、ミツグ、こうしよ?」

「は、なにが?」

「何がじゃないよバカ」……あんまりバカバカ言わないで欲しい。「二度とこんなマネできないように、あのアホにお仕置きだー!」

 だー! って……。哀れなムラセくん。これできみの運命は決ってしまったよ。残りの学校までの道すがら、スバルは『リベンジ・ムラセ』のプランを練って練って練りまくって楽しんでいた。とは言ってもそんなに複雑なものではなく、最終的に残された案は二つ。ムラセをどこかに呼び出して(多分スバルが『ムラセくん、話があるの。うふ』とか言うか手紙に書くかするのだろう)、それを牛頭さんにボコボコにしてもらう。それかもう一つは、ムラセをどこかに呼び出して、スバルが直々にムラセをボコボコにする。って、おい! どっちもあんまりかわらねー。女の子が男をあんまりグーで殴るな! 関係ない牛頭さんを巻き込むな!

 しかしスバルはもうどちらかの案に固めてわくわくドキドキしているようだ。「ね、どっちの方が楽しいかね?」などと自転車を漕ぐ僕に聞く始末である。どっちだろう? 肉体的には巨人牛頭さんに殴られる方が辛いだろうし、しかも牛頭さんはミノタウロスなので初対面の人はそれだけで小便ジョォーってなっちゃうだろうが、好きな女に殴られってのもそれはそれで精神的にかなり辛い。僕ならどっちが嫌だろう? うん、どっちも嫌!

 そうこうしているうちに僕らは学校に到着して自転車を置いて教室に入った。ムラセはすでに登校してきていて僕とは目を合わせない。席についた僕もムラセは見ない。スバルは何も知らない素振りで自分の席についてまわりの友達と談笑し始める。それを見てムラセがちょっとほっとした雰囲気を漂わせる。バカだなムラセメンバー。スバルはああやってオマエを油断させて放課後になったら天国から地獄に突き落とすつもりなんだ。怖いんだよ、あいつは。

 そんな義理もないけど僕がこれからのムラセの運命を思いやって少しばかり同情していると、八時半になってチャイムが鳴った。ほとんどのクラスメートがもう来ている。教室の前のドアが開いた。おなじみの中肉中背中年の担任教諭(男性)が入ってくる。その後ろにもう一人うちの高校の制服に身を包んだ生徒が続いていた。教室がどよめく。特に女子が。「あっ」と僕とムラセが叫んだ。

「きりーつ」「礼!」「ちゃくせーき」とお決まりの儀式を終えた後、担任が言った。

「えー、もうわかったと思うが、今日からうちのクラスに転入生になりました。カジウラ・キリヒトくんです」

 担任は僕らにお尻を向けて小汚い字で黒板に〈梶浦桐人〉と書いた。

「梶浦くんは何と編入試験ですべてA判定を取った優秀な生徒なんだぞ。みんな、梶浦くんに負けないようにしっかりやれよー」

 それを聞いて女子どものどよめきはさらに大きくなる。ざわざわざわ。男子どもは皆むっつりとした顔をし、中には餓狼のような目つきで梶浦を睨んでグルルルル。でも僕はただビックリしていた。その梶浦と名乗る一発で女子どもを虜にした二枚目こそ、昨日僕をムラセメンバーの手から救い出してくれた謎の美少年だったのだ。ムラセメンバーの方を見ると、奴も怒ってんのかビビってんのか顔を赤らめ梶浦のことを睨みつけていた。

「じゃ、梶浦くん、みんなに挨拶を」

「ハイ」梶浦は担任に優雅に一礼して、言った。「梶浦桐人です。よろしく」

 そして今度は僕らに向かって一礼。前髪がぱさりと落ちて梶浦は右手でそれをかきあげた。華麗に。信じられますかお客さん? 髪をかきあげるだけで華麗なんですよ。しかしそれは、現実に目の前で起こったことなのだ。

 クラスの大半の女子どもが梶浦の顔をみつめてうっとりしていた。僕は恩人との再会を喜び神に感謝すべきところだったが、なぜだか心の中がムカムカしていた。何なんでしょう、この気持ちは。

「それじゃ、梶浦くん。この列の一番後ろのスペースが空いてるから、あそこに座って。目は大丈夫だよね?」

 梶浦は指示されたのは何と僕の席の後ろだった。「はい」と優雅に返事し、舞踏のような足取りで優雅に席と席の間を進み、僕の横を通り抜けて、優雅に自分の席に着席した。そして穏やかさの中にも気品を漂わせる声で、後ろから僕に話しかけた。

「やあ、昨日は大丈夫だったかい? 同じクラスだったんだね。僕は梶浦桐人、よろしく」

「あ、ああ」慌てて僕も差し出された右手を握り返して挨拶した。「オ、オレは天堂。天堂貢、ってんだ。昨日はホントにありがとな」

「やだなあ、気にしないでくれたまえ」

 なんてさわやかな男なんだ梶浦桐人。僕はクラスを見回した。すでに女子の大半は梶浦にぞっこんイカれちゃっている顔になっていた。僕は思った。《スバルちゃんファンクラブ》ができたように梶浦にも親衛隊みたいのができるかもしれない。しかも男子どもの顔見ると、何やら一騒動があるかもしれない。


「ねーねーミツグぅ。ひょっとして昨日助けてくれたって人って……」

「イエース。あの梶浦。オレももうビックリしちゃったよ、マジで」

「へえー、あんまり強そうに見えないけど、あいつがねぇー」

 一時間目の国語が終わるなりスバルが僕のところへやってきて僕を教室の隅に連れて行って尋ねてきたので、僕は答えた。スバルは「へえー」を連発して席に座る桐人に目をやってしきりに感心していた。ところが、梶浦を見ていてスバルの声が急に弾んだ。

「ね、ね、ミツグ、何だか面白いことになりそうだよー?」

 僕もスバルの見ている方向を見た。梶浦の席に、四、五人の男子が群がっている。険悪な雰囲気だ。会話の内容が聞こえるであろう周囲の生徒たちは、怯えの走った表情を浮かべている。囲んでいる男子達はみなそもそもがガラの悪い奴ばかりだ。昨日僕をボコってくれたムラセメンバーの姿もある。

 桐人が席を立った。連中に前後左右を囲まれて、後ろのドアをくぐって教室を出て行った。スバルは小走りに空席になった桐人の席に近寄り、まわりの女子に率直に聞いた。

「ねーねー、あれってもしかして呼び出し?」

 周りの女子の答えはイエス。どうも連中は桐人を西校舎の男子トイレに連れて行ったらしい。僕らの通う浮動高校は東校舎と西校舎に別れていて、僕らの教室があるのは東校舎。西校舎は旧校舎とも言って化学実験室とか家庭科室とかがあるけど、通常あまり使われることはなく、ひとけも東に比べて極端に少ない。トイレに至っては言わずもがなだ。

「ね、ミツグ、おもしろそーだから見に行こうよ!」

「……おもしろそうってお前ね……」

「いやいやほら、彼ってミツグの恩人なんでしょ? だったらさ、いざとなったら助けられるわけだし、なんだったらその場でムラセに痛い目見せてやってもいいわけじゃん?」

 じゃん? と聞かれてNOと答える勇気などこの僕にあるはずがない。僕はルンルンうきうきステップ全開のスバルについて、梶浦たちが向かったはずの西校舎へと足を向けた。

 渡り廊下を通り西校舎に入る。一直線の廊下に人影は何もない。「ね? ほら急ごー!」とスバルは僕の腕を引っ張ったので、僕らは二人で男子トイレの前に駆け寄った。

「なんか、静かだね」

 ドアの前でスバルが首を傾げた。僕はスバルに促され耳をドアに当て中の音を聞こうとした(僕が耳を当てる係りを担当したのは、『ドアに耳当てんのなんてきたなーい』と誰かさんが言ったためである)。わずかに何かが聞こえる。僕はスバルに小声で報告する。

「なんか聞こえるけど、よーわからん」

「じゃ、開けてみよーよ」

 というわけで僕は中腰になってドアに触れて、僕の背中からスバルが興味津々で中の様子をうかがおうとしているのを感じながら、僕はゆっくりとドアを押し開けようとした。

 ギギギー。「うわぁっ!」

 びっくりして飛びずさる僕とスバル。僕が力を入れるよりも早く、自動ドアよろしく便所の木製のドアが小さく開いて、身体をすべりこませるように中から梶浦桐人が出てきたのである。梶浦は僕らの顔を見るなり言った。

「やあ、天堂くん。それから、えーと」

「あ、わたし、鈴木。鈴木昴。よろしく」

「知っていると思うが、僕は梶浦桐人だ。よろしく、鈴木さん」

 何をのんきに挨拶しとるんだ、きみたちは。

「なあ、梶浦」僕は言った。「オレさ、ちっとその便所使いたいんだけど、入っていい?」

「え? 女性連れでそこに?」

「いや、入るのはオレだけだけど」と僕は梶浦に不審がらせてはいけないと思って言い訳を考えた。「ほ、ほら、最近物騒じゃん、この辺って。だからさ、襲われると怖いんでスバルに一緒に来てもらったんだけど」

 ってなんて下手な言い訳なんだオレ! スバルの冷たい視線が僕の横顔に突き刺さる。これではますます桐人に不信感を抱かれてしまう。と思ったのも束の間、桐人は真顔で僕にこう返事した。

「ああ、なるほど」ポカーンと口が半開きになる僕とスバル。しかし桐人はそんな僕たちに追い討ちをかけてきた。「でも残念だな。ここ、今清掃中のようだよ」

『……今、お前出てきたじゃん』

 僕はそう心でつぶやいたし、スバルもきっとそうだったろう。しかし僕らは桐人の「さ、トイレなら向こうにもあるからそっちに行こうじゃないか」という言葉に従って、今来た道を歩き出した。

 と思いきや、先頭を進む桐人に気づかれないようにして、スバルが急いでトイレに走り寄り、少しだけドアを開いてまたすぐに足音を殺して僕のところに駆け戻ってきた。

「床に倒れて『うー』とか『あー』とか言ってたよー」スバルは前に聞こえないように僕にそっと耳打ちした。

 僕の頭の中に血まみれ地獄トイレの想像図が広がっていく。『ううぅ』『ああぁ』。鼻血ブーで顔面ボコボコでそんな風にトイレのタイルの上を這いつくばっているのだろう。おーこわ。巻き込まれなくてよかった。さらば、哀れなムラセメンバーとその愉快な仲間たち。

「どうかしたかい?」

「ううん、なんでも!」

 振り向き声をかけてくる桐人に、僕とスバルは同時に手を振って否定する。ふたたび桐人が前を向いた途端、スバルはもう一度僕に耳打ちした。

「けっこーやるじゃん、カジウラくんって」

 僕の心臓が大きく一度ドキン! と鳴った。……え? なんで?


 追記。一時間目が始まって十分ぐらい経ってから、ムラセメンバーと愚かな仲間たちは僕らの教室に帰還した。ある者は顔を腫らし、ある者は鼻にティッシュを詰め、そして五人が五人とも青ざめうつむき休み時間になっても、決して梶浦と目を合わせようとはしなかった。事情はクラス中に知れ渡っている。教室のそこらかしこから、主に女子たちの「ぷぷぷ、かっこわるー」という後ろ指を差す声が聞こえてきていた。かわいそー。だから僕はあえて言おう。ぷぷぷ、かっこわるー。


   5


 六時間目まできっちり授業が終わり「きりーつ」「礼!」とHRが終わって僕が変える準備をしていると、スバルが僕の席にやってきた。「ねーねーミツグ」とスバルは言う。

「おう、もう帰る?」

「カジウラくんがさー、剣道部に入ったんだって」

「ああ、らしいね」

 その話はとっくに知っていた。というのも昼休み、梶浦を剣道部の顧問のところに連れて行ってやったのはこの僕だからだ。

 これはその昼休みに僕と梶浦との間に交わされた会話である。

「やあ、天堂くん」

「やあって、何? 便所?」

「ははは、違うよ。ちょっと教えてもらいたいんだが、この学校には、剣を学ぶ施設みたいなものはあるのかな?」

「はあ?」一瞬、僕は考えた。「それって……剣道部のことか?」

「剣道部」と梶浦は優雅に眉根を寄せた。「……ああ、なるほど、剣の道で剣道か。そう、それだ。そこに入るにはどうしたらいい?」

 なんというヘンチクリンな会話だろう、とその時の僕は思ったし、今でも思っている。でもとにかく聞かれたので、僕は飯を食う時間をわずかにおくらせやつを職員室に連れて行き剣道部の顧問と引き合わせたのである。

「……で、スバル、それがどうかした?」

 言いながら僕は首を後ろに向けた。梶浦の席は空いている。どうやらもう、部活に向かったみたいだ。

「ね、様子見にいかねー?」

「えーなんでだよー?」

「なによ、カジウラくん、あんたの恩人でしょ? その彼がさ、初めて部活に出るんだよ? 心配してあげてもいいんじゃねー?」

「お前ねー、あいつだって子供じゃないんだから」と言いかけて、しかしふと思いついて僕はスバルに言った。「トラブルを期待してないか?」

「あは、バレた?」がスバルの返事だった。ふざけた女だねどうも。休み時間に具体的にどんな目に合わされたかはわからないけどとにかく梶浦にバキベキやられた連中の中に剣道部の奴が混じっていて、であるからには絶対ただでは済まないはずだとスバルは考えたらしい。なるほど、確かにそうだ。

「ね? いくべ」

 ってなわけで僕はスバルと一緒に剣道場に足を向けることになった。我が校の剣道場は一階の体育館の手前にある階段を上ったところにある。僕らは階段の下まで行った。「なんかうるさくねー?」スバルが僕に聞く。彼女の言葉通り階段の上から騒音のようなものが聞こえてきている。

「やっぱ、なんかあったんだ!」

「っておい! 走るなよ!」

 スバルは三段抜かしという荒業で階段を駆け上がってしまった。僕も慌ててスバルの後を追った。そして剣道場についた僕はその光景に愕然とすることになる。

 汗臭さが専売特許のはずの剣道部。それなのに、剣道場の外にはたくさんの女子どもが駆けつけ「わー」「きゃー」「わー」「きゃー」言っていた。大半はうちのクラスの女子。でも少しは他のクラスの女も混じっている。どうやらこいつら梶浦の雄姿を見学しに来たらしかった。やはり親衛隊みたいなものが設立されつつあるようだ。

 剣道場に目をやると、中心に袴姿の梶浦が一枚の絵画のように悠然と立っていて、その周りを胴まで装着した五人の剣道部員たちが囲んでいた。剣道部員たちの顔には険悪なものが浮かんでいる。対する梶浦は余裕綽々で、うっすらと微笑みさえ浮かべている。

「……なあなあ、なによこれ?」

 僕は前にいた顔見知りの女子に訊ねた。「うっさいわね」犬でも追い払いでもするかのような心温まる言葉が返ってきた。僕の相手をしている暇はないですかそうですか。仕方がないので僕は自分でこの事態について推測を働かせる。ビカビカビーン! 僕のドドメ色の脳細胞が答えを弾き出す。

『こんにちは。僕は今日からこの剣道部でお世話になる梶浦桐人だよ。どうぞよろしく』『キャー、キリぃー、ステキー!』『な、なんだこの女どもは?』『僕のファンの子たちだね、ハハン』『こ、こいつもしかして、女にモテ男かぁ?』『センパーイ! センパーイ!』『あ、きみは僕にトイレで痛めつけられた人』『ど、どうしたんだお前、その顔は』『そ、そいつにやられたんですぅ』『テメエ、本当か?』『僕の名前はテメエじゃなくて梶浦桐人だ。きみの耳は腐っているのかな』『な、こ、この野郎』『センパイ、オレ、くやっしいっす』『キャー、キリィィィィー』『女にモテモテ野郎なんて許せねえ。汗臭い剣道部の恐ろしさを教えてやんぞこの野郎が! フクロにしてやる!』『ははん、望むところだよプリティボーイ』

 おそらく、こんな感じのやりとりがあったに違いない。

 僕は辺りを見回しスバルを見つけ、彼女の側に近寄った。僕に気づいたスバルは言った。

「ね、なーんかおもしろそーでしょ?」

 梶浦を囲んでいた連中は敵意むきだしの視線で梶浦を睨みつけていた。が、不意に囲みをとき梶浦から離れた。梶浦はなぜかギャラリーを見回した。

「キリーがわたしを見た!」「わたしを見てるのよ!」僕の周囲の近くの女子からそんな声があがったけど、こいつらはバカ?

「ああ、いてくれてよかった」梶浦が歩み寄ったのはこの僕のところだった。「様子を身に来てくれたのだね、ありがとう天堂くん」

「ああ、うん、まあな」

「ところで、すまないがちょっと僕を助けてはくれないだろうか?」

「は? オレが?」

「大したことではないんだけど、困ってしまったことが一つあってね」

 何を頼まれるのか知らないけど、僕はこんな騒ぎに巻き込まれて僕まで先輩たちに目をつけられるのはまっぴら。ボコボコにされるぐらいならまわりの女子どもから冷たい目で見られて「さいあくー」とか罵られるほうがまだマシだ。が、僕は一人で来たのではなく、スバルが僕の目を覗き込んで言った。

「だいじょーぶだよ、カジウラくん。ミツグは頼りになるナイスガイだよー。ねーミツグ?」

「……お、おう」

「じゃあこっちへ来てくれたまえ」などと偉そうに言葉を吐きながら、梶浦は優雅に僕を剣道場の隅へ引っ張っていった。

「何だか知らないのだけど彼らが僕の実力を知りたがってね、どうも僕に腹を立てているみたいなんだが、試合をやらなくてはいけないことになってしまった」

 ほら見ろ、やっぱり僕の想像どおりだ。で梶浦は僕に何を聞きたいのだろう? できるだけ無様にならない詫びの入れ方か?

「しかし僕は、この剣道というもののルールをよく知らないのだよ」……はあ?「これは一体どうやって使う物なのかな?」

 梶浦は、つかんだ胴を少し掲げて優雅に小首を傾げた。

「な、何言ってんのお前? 自分でやりたいから剣道部に入ったんだろ?」

「人にはそれぞれ事情があるものさ」

「テメエらー、何ゴチャゴチャやってんだー。早く準備しやがれー」

 剣道の胴ぐらい子供だって知ってるぜベイビー、いったいどんな事情があるって言うんだよ! 疑問が僕の胸でムクムクともたげるけど、反対側で恐ろしい顔をした剣道部の先輩たちが怒鳴ってきたので、僕はさっさと梶浦に剣道の防具のつけ方を教え、あまつさえ装着の手助けまでしてやった。うーむ、僕はこいつのヘルパーか? こっちも恩義があるからいいんだけどさ。

「ふむ、なるほど、これは身体を守るものなのか」「ふーむ、この面という物はたしかに頭部を守る効果はあるようだけど、しかし、少し視界が狭くなりすぎはしないかな」僕が防具をつけてやっている間中、梶浦はいちいちコメントする。ひどかったのは篭手の時だ。「うわ、臭い! 臭いよ天堂くん! 酸っぱい臭いがするじゃないか!」うるさいねお前。篭手ってのはそういうものなんだ。

「ほらよ、それでこいつで相手の防具のところを狙うんだよ」

 僕は、桐人に竹刀を手渡した。

 桐人はしげしげと竹刀を眺め回した。

「なるほど、訓練用の武器というわけだ」

「……まさか、それ見んのも初めてとか言わんよね?」

「え? いや、はは、やだなあ天堂くん。そんなわけがないじゃないか」

「テメエら、いい加減早くしやがれ!」

「……なんか、センパイ怒鳴ってるから、早く行ってこいよ」

「まかしてくれたまえ」

 自信満々の態で剣道場の真ん中へと進み出ていく梶浦の背中を見つめながら僕はしみじみ思った。絶対コイツ竹刀のことも知らなかったな、と。ひょっとして、外国帰りか何かなのかしら。……ますますカッコいいじゃないか、うーらやーましー。

 防具をつけて梶浦と対峙したのは例のムラセメンバーの愉快な仲間だった。喧嘩で勝てなくても剣道なら勝てると踏んだらしい。剣道歴五ヶ月のくせに大した自信だ。梶浦は何しろ竹刀も胴も知らないような男だから、この戦いがどうなるかはわからないけど。

 そのようにして試合は始まった。先に動いたのは便所でベキバキやられた男の方、すり足で間合いを詰め、一気に勝負をつけるべく竹刀を振りあげる。

 バッチーンという音が鳴って竹刀を持った一方の男が水平に吹き飛びバッタンキューと倒れこんだ。

 会場にいた誰もが、審判役の先輩でさえ、驚きのあまり言葉を失った。倒れたのは剣道部員の方だった。梶浦だけが平然と倒れてひくひくする相手を見下ろしていた。

 梶浦の動きは信じられないほど速かった。速すぎた。目にもとまらないという表現があるけど、僕の目にはほとんど残像しか映らなかった。なんというアンビリーバブル。

 だが、それだけではない。僕らが驚いたのは梶浦のスピードにじゃなかった。梶浦は竹刀を、水平の横殴りに相手の面へと叩きつけたのだ。あんな剣道の技があるかボケっ!

 剣道部員は、完全にのびてしまったようで、剣道部の仲間たちに抱えられて剣道場から退場させられてしまった。彼を介抱していた審判役の男は、仲間の死に怒りの色を隠せなかった――もちろん死んではいないけど。

「テメエ、なめてやがんのかっ!!」

「ああ、ストォーップ! ちょっと待ってくださーい!」梶浦に掴みかからんばかりの先輩に、僕は慌てて走り寄った。

「何だテメエはっ?!」

「い、いや、あのですね、じ、実は彼、まだルールをよく把握してないらしくてですね、その、決してワザとやったわけじゃないと思うんですよ」

 梶浦に代わって弁明する僕。梶浦はというと、その整った顔立ちにわずかに困惑の色を浮かべて、やっぱり優雅に小首を傾げていた。

「あっ? テメエ、なめてやがんのかっ?」

「ちょ、ちょっとだけお待ちください。今すぐ彼にルールを教え込むので」

 僕は早口でまくしたてると、歯をむきだしにしている先輩や他の剣道部連中とは目を合わせないようにして、ふたたびすみっこに梶浦を引きずって行く。

「彼は何をあんなに怒っているのかな?」

「ありゃルール違反だっつーの」

「ええ? きみが僕に防具のところを攻撃するのだと教えてくれたんじゃないか」

「……いや、そりゃそうだけど」

 これで真顔なのだから恐れ入る。何はともあれ僕は今度は自分でも竹刀を持って『面』『篭手』『胴』『突き』を実演つきでレクチャーした。ついでに技を出す時は声も出さないと『一本』にならないことも教えた。

「それは変だな天堂くん。それでは僕がどこを攻撃しようとしているか相手にわかってしまう。そんなのは不自然だ」

「不自然でも何でもそういうルールなの! ゴチャゴチャ言わずにさっさと行け!」

「ふうむ、どうにも不思議だな」

 不思議なのはきみの頭の中です。まだ納得できないらしく、首を何度もひねりつつ、それでも梶浦は剣道場の中心へと戻った。すでにそこには防具をつけ終えた新たな相手がボクシンググローブのように篭手と篭手とを打ちあわせながら待ち受けている。

 さっきまで審判だった先輩だ。

「次にインチキしやがったら、仲間を使ってフクロにしてやんからな。ギャラリーがいようと関係あるか」

 先輩がデカい声で宣言し、ギャラリーの間からは「ヤダー」「やばーん」「汗クサ~イ」などの声があがる。

 第二試合が始まった。

 だが僕たちはこの後梶浦桐人の真の恐ろしさを目の当たりにする。「メーン」バシっ!「コテーっ!」バシッ!「ドーッ!」バシっ!「ツキっ!」バシっ!「篭手、面、突きィィィー!」スドドドドーン! すべての試合に三十秒をかけずして、梶浦はいとも簡単に脅威の五人抜きをやってみせてしまったのだ。

 みんな口をあんぐり。僕だって自分の目で見たものが信じられなかった。だって信じられますかお客さん? ルールも知らない奴が五人抜きなんて!

 やがてギャラリーたちは驚愕から回復し、「イヤァァァーン、キリィィィー!」の大合唱。剣道場は歓声に支配された。

「すごいぞ、梶浦!」

 人ごみの中からもろてをあげて、一人の人物が梶浦に駆け寄った。剣道部の顧問だ。ってアンタ、いたんなら止めろよ。そして負けた連中のことも労わってやれよ。しかし脅威の新人の登場に浮かれ喜ぶ顧問は、うなだれうずくまる敗北者たちのことなんか眼中にないとばかりに叫んだ。

「お前なら全国制覇だって夢じゃないぞ! ヤッタぁぁぁー」

 やっぱこの学校の連中はバカばっかか?

 梶浦だけは表情を変えずに竹刀を納めて立っている。そのクールなたたずまいにまたも見守る女子たちはクラクラクラ。

 僕はため息をつき、新たなヒーローの誕生に狂喜する女子どもをかき分けスバルのところへと戻った。

「やるねー、あいつ。な、スバル?」

 僕は周囲の歓声にかき消されぬよう大声で喋った。ところが、スバルはまるで反応しない。不審に思って僕は横からスバルの顔を覗き込んだ。「うっ」と僕は思わずうめく。

 スバルの目は梶浦にくぎ付けになっていた。瞳は長い付き合いの僕が見たこともないほどキラキラと輝いていた。僕にはたしかに彼女の瞳の中に星が見えた。ハートが見えた。

 僕を見ずにスバルは言った。

「あの人ってカッコ良くない?」

 この瞬間、僕は世界の真理を悟った。

〈およそこの世界においては、どんなことでも起こりえる。(ミツグ・テンドーの定理)〉

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