<2>意外な立候補
「……今、何と仰いました?」
静かだが、明らかに敵意を感じるイレーナの言葉。一瞬にして張りつめた空気がその場を支配した。コップへと伸ばそうとしていたマーカスの指先もその場で止まる。
ジェイクは再度……慎重に……ゆっくりと言葉に出した。
「レイアの娘が欲しい……と」
ガタン!
大きな音を立てて勢い良く立ち上がったのは、イレーナの隣に座っていた娘だった。握りしめた拳が震えている。ヴェールの中の表情は、怒りに満ちているに違いない。
一気に緊張が走る。
「……落ち着きなさい」
静かに……窘めるようにイレーナが声を掛ける。娘は納得いかない様子だったが、渋々座り直した。それを確認するとイレーナが声を掛ける。
「……事情をお伺いしましょう」
「……恐れ入ります」
ジェイクは軽くお辞儀を向けた。冷静に振る舞うイレーナに対して、敬意を表すように。
それに習うかのように、隣のマーカスも頭を下げ、コップの中を一気に飲み干した。
イレーナは微動だにしない。
ジェイクは丁寧に、言葉を選びながら声を出した。
「……フォゼスタという国をご存知ですか? 」
「ええ。此処からだとやや南にある国ですね。海が近いことから港での交易が盛んだとか」
「はい。……その国で今、隣国サマーシアからの難民が流入している事が、問題になっているようです」
「……そうでしたね」
ジェイクの言葉にイレーナは頷く。
サマーシアでは三年前、国政を揺るがす大きな事件があった。
王子が実父である王を暗殺し逃亡。その王子の悪行を咎めて宰相が王子を処罰したらしい。
その時傍に居た王女は兄の罪の深さに嘆き、谷底へ身を投げたという……。
東側諸国では有名な悲しい話だ。
それ以降、王位不在のまま宰相が国政を任されている。
「王子が王を暗殺など……誰も信じていませんがね」
「……よく御存じですね?」
苦々しげに告げるジェイクの言葉は、イレーナには意外だった。
西側……それも北寄りにあるコーエンウルフの者が南東側の細かな情報など、自ら調べない限り伝わるはずも無いからだ。
ジェイクはその言葉に苦笑で返す。
イレーナは静かに言葉を続けた。
「サマーシア宰相による軍事主体の国政への転換と、それに伴う税率の高騰に民が苦しみ、それを逃れようと厳しい山間を超えて、西側フォゼスタの辺境へ流入してきているという話は、聞いております」
「その難民にフォゼスタが苦慮しておりまして……。我々に協力を求めてきたのです。この問題を解決できるなら、我が国の統治下に入っても良いと」
フォゼスタの申し出は、コーエンウルフにとっては願ってもない事だった。
東側諸国に隣接するフォゼスタを統治下に置けば、東側統治の足掛かりになる。この絶好の機会を逃すわけにはいかなかった。
「……確かに……。このまま難民が増えれば、サマーシアの侵略行為とも受け取られかねません。お互いに不穏な空気は漂いましょう。当然争いが始まり、怪我人も出るでしょうし……」
「小さな争いは、既に出始めているようです。無益な争いや、それによる負傷者は……食い止めなくてはなりません。……その争いは我々が収めます。ですが、怪我人はどうすることも出来ません」
「それは理解しますが……」
イレーナは、ジェイクの言葉に軽く頷くものの、次の言葉は良いよどむ。
サシャーナにとって到底受け入れがたい事実がそこにはあった。
「結局は其方の国の侵略行為に、我々が協力するようなものです。ましてや娘を渡すなど……」
サシャーナは中立の存在でなくてはならない。何処の国にも加担する事は無いのだ。
しかも、レイアの娘はサシャーナの宝。
幼い時分から、手塩にかけて育ててきた数少ない貴重な能力者が、他国へ渡るなど有り得ない事だ。
イレーナはゆっくりと首を横に振る。
「……では。私が参りましょう」
──それは、意外な場所からの突然の言葉だった。
皆が一斉に発せられた声の場所へと注目する。その場所……部屋の扉付近。
──飲み物を持ってきた娘の声だった。
「駄目よ!! 何を言っているの!? そんなこと許さないわ!」
すかさず異議を唱えたのは、イレーナの隣に座っていた娘。その叫声は部屋中に響き渡る。
ジェイクとマーカスはいきなり何が起きたのか分からず、唖然としていた。
扉の娘はトレイを胸に抱えたまま、ゆっくりとイレーナ達の座るテーブルへと歩き出す。一歩……また一歩。
この場に、おおよそ似つかわしくない──高らかに弾む声と共に。
「あらだって、いつも私たち教わっているでしょう? 大陸の民は皆、女神レイア様の子供だと。何処の国の者だろうと、レイア様のお子に違いないわ。傷ついたお子が居るなら、救いの手を差し伸べるのが私達の務めです」
まるで歌っているかのようなその声と、今にも踊りだすのではないかと思える軽やかな足取り。
イレーナは大きく頭を抱えた。隣の娘も、ポカンと……放心状態に陥る。
その娘の一人舞台を見ているようだった。
漸く、絞り出すようにイレーナが声を出す。
「ちょ……ちょっと。お黙りなさいフィオナ……」
その娘の名を呼び、片手を上げて制するように娘……フィオナの顔の前で掌を広げた。フィオナはその場で立ち止まり、きょとんと首を傾げる。
けれど、立ち止まったのは歩みだけ。
言葉は再び滑り出す。
「イレーナ様も御存じでしょう? ……サマーシアの民が、サシャーナへも流れてきている事を」
「フィオナ……?」
「サシャーナの中での争いは厳禁です。だから表面上の争いは無いでしょう。……ですが、サシャーナの民は心中穏やかではありません」
先程の弾むような声とは裏腹に、今度は静かに語るような口調。その場に居る皆がフィオナの声に耳を傾けた。
フィオナは続ける。
「フォゼスタの案件が上手くいけば、サシャーナまで足を運ぶ者も減るかもしれません。道のりは緩やかですが、フォゼスタに較べるとサシャーナは遠いですからね」
「フィオナ……ですが……」
イレーナが立ち上がり、フィオナへと向き直る。同じように傍に居た娘も立ち上がる。
フィオナは二人に向かって軽く……会釈のように頭を下げた。
「私なら……何の問題もありません」
「フィオナいやよ! 私はいや!」
娘が叫んだ。同時にフィオナへ飛び込むように駆け出す。
そうしてフィオナに抱きつくと、人目もはばからず泣き出した。
「マリア……。落ち着いて?」
フィオナが諭すように声を掛ける。しかし娘……マリアの涙は止まらない。イレーナは、深い……深いため息をついた。
「……すみません。見苦しい所をお見せしました……。この件は、改めてお返事させていただきます。……今日はこのままお泊りになってください。後程迎えをよこしますので」
イレーナは、青年に向き直り丁寧にお辞儀を向けると、娘たちを連れて部屋を後にした。
取り残された二人は、返事をする事も忘れ、そのまま動けずに居た。茫然自失……といったところだろう。
「な……んだったんだ……今のは」
そう呟いたのは、どれくらい経っての事だったろうか。
ジェイクはゆっくりと、娘たちが出て行った扉へと視線を向けた。
「なんだかこう……持ってかれちゃいましたね……」
マーカスもぎこちない動きで扉を見つめる。
ジェイクはその言葉を聞いていたのか、いなかったのか……。
返事は返さなかった。
「……フィオナ……」
声にしたのは、娘の名前。
呟いて……考える。何か……前にもこんな事なかったか……?
「殿下?」
考え込むジェイクの姿に、マーカスが声を掛けるもやはり返事は無く。
そのままマーカスも黙り込む。
──二人に迎えが来たのは、もう暫く後の事だった。