<13>収束(2)
それは一日の終わり。
大地を照らす陽の光が、その姿を休めようと傾き始めた頃だった。
王宮に向かう大きな街道を、ゆるゆると一頭の馬が歩いてくる。馬上には女性の影一つ。
柔らかに揺れる銀の髪が、夕日の茜に染まっていくその人は、アリシアだった。
アリシアは遠く視線を伸ばし、静かに下りていく夕陽に瞳を細めた後、気遣うようにその眼差しを下ろした。
馬の傍にはもう一つの人影。装いから察するに騎士なのだろう。
どうやら馬の手綱は、その騎士が握っているようだった。
「疲れたでしょう? いつも遅くまで有難う」
その声に、チラリと青年がアリシアを見上げる。無機質な鋭い眼差しは、紛れもなくクリスのもの。
クリスはすぐさま視線を前方へ戻すと、いつもと変わらない声で、淡々と言葉を発した。
「お疲れは姫様の方でしょう。怪我人の治療は、姫様でしか出来ません。私は、道具や薬草を、姫様にお渡ししただけに過ぎませんから」
「十分助かったわ。街の人もたくさん協力してくれたし」
嬉しげに弾むアリシアの声。
けれど、疲れているのだろうか。その声にさほどの力は感じられない。
クリスは前方を見つめたまま、気付かれないように細く息を吐いた。
内乱の傷跡は大きいわけではなかったが、全く無いわけでもなかった。
戦闘で壊れた建物や街道は、観光地を優先にして修復作業が始まっている。踏みつぶされた花壇や、庭園も同様だ。
そして、何より優先されたのは戦闘で負傷した者の治療。この事案に関して主導権を握ったのは、他でもないアリシアだった。
勿論この国にも、医者と呼ばれる者はいる。しかし、国内にいる医者は、日常的な怪我や、わずかに症状を改善出来るような治療しかしない。
する必要が無いのだ。
何故なら、大きな怪我や手に負えないと思われる病気の時は、何処の国も例に漏れず、聖地サシャーナにあるカーティス神殿に向かうから。
三年前、ジェイクがマーカスを伴って向かったように。
数日前。国王執務室でアリシアが発した言葉は、その場に集まっていた皆に驚愕を与えた。
「レイアの娘? 姫様が?」
スタンリーが、あからさまに大きく目を見開いたままアリシアを見つめる。
アリシアは、その形相に申し訳なさげに肩を竦めると、ぎこちない笑みで頷いた。
アリシアの能力は、その時期外れの目覚めのために、公表されることが無かったのだ。
「だから、正確には能力があるだけで、娘の資格は持ってないんだけど」
「力は保障するぜ。俺はアリシアに命を救われた」
そう言って、何故かアランが胸を張る。
ジェイクはそれを横目でジロリと見つめながら、アランの言葉を付け足すように口を開いた。
「元々アリシアが、私の旅に同行していたのは、フォゼスタ国境付近の争いで出た、負傷者の治療の為でした」
ジェイクはそこで言葉を止め、隣にいるアリシアへ眼差しを向けた。
それは気遣うというよりは、諫めるような表情。
ジェイクは、再び口を開く。アリシアに向かって。
「だが、それと今回の内乱とでは、規模がまるで違う。アリシア一人で、手に負える人数じゃない」
すかさず、スタンリーが大きく頷いた。
「そうです。姫様おひとりで治療にかかるというのは、あまりにも姫様の負担が大きすぎます」
ジェイクとスタンリー。二人に責められるように声を投げられたアリシアは、苦笑しながら二人を交互に見遣った。
しかし、その強い眼差しから窺える意思は、変わらないように見える。
「全ての人を診るわけではないわ。ここの医者に任せられる患者は、そちらに任せるつもり。重傷の患者も、私の力が必要なくなれば、他の人が看病にあたればいいでしょう?」
「いや、しかし」
「スタンリー」
なおも止めようとするスタンリーの言葉を、アリシアは遮るように声を掛けた。
「私はこの三年間で、たくさんのものを、大切な人を、失って……奪いもしたわ」
ゆっくりと伏せられる眼差しと共に、アリシアの声が静かに響く。
言葉に反応したのか、入口の扉付近で立っていたクリスの、色を成さない瞳が僅かに開く。
けれど、それ以上の反応を見せることは無い。
声を返したのはスタンリーだった。
「姫様」
「全てを守りたいと願うのは、傲慢な事かしら」
掛けられた声に、ゆっくりとアリシアはスタンリーを見上げる。
浮かべたのは、空気に透けてしまいそうな淡い笑み。
声が、震えた。
「もうこれ以上……何一つ失いたくないの」
「今日が、約束の三日目ですからね」
「分かってるわ。私が治療に出るのは、今日で終わり」
手綱を引くクリスが、前方を見つめたまま、アリシアに声を掛ける。
馬上のアリシアは、クスリと小さく笑うと頷いた。
アリシアの意思は固く、スタンリーは折れる他なかった。
けれどジェイクは、無条件で了承する事は出来なかった。
力を使うという事が、どれだけアリシアの身体に負担が掛かるかという事を、知っている。アランの治療の時に目撃しているからだ。傷の程度の差はあれ、今回患者は一人じゃない。
大勢の治療を際限なく続けるとなると、アリシアの身体にかかる負担は、はかりしれないものがある。
そこで、ジェイクは三日間だけの条件付きで、アリシアを送り出すことにしたのだ。
ジェイクの提示した条件を考えるように聞いていたアリシアだったが、やがて納得するように頷いた。
内乱の始まりがルデカ地区だったのは、今思えば幸いだったかもしれない。
王宮からルデカ地区は半日とかからずに行くことができる。ルデカ地区より離れた場所での負傷者は、いないはずだ。
故に、アリシアは治療に専念できる時間を比較的長く見積もることができたのだ。
三日あれば何とかなる。アリシアはそう思ったのだろう。
「もう、私が治療しなければならないほど重傷な人は、いないはずよ」
「ならば、よろしいのですが。勝手に一人で行こうとは、なさらないでください」
馬上からアリシアが降ろす声は、前方を見つめたままのクリスによって、淡々と跳ね返って来る。
アリシアは、首を傾げながら、艶やかなクリスの黒髪を見つめ
「信用ないのね。私」
「感情的になると、走り出す事は知っていますから」
その言葉に、アリシアは「うっ」と声を詰まらせた。
クリスの頭部を見つめていたアリシアの眼差しは、ゆっくりとぎこちなく逸らされる。
返す言葉はない。否定のしようがないのだから。
内乱が始まった時、兄が生きているかもしれないと言って、アリシアが部屋を飛び出そうとした事は、記憶に新しい。
あの時、身体を張ってアリシアを止めたのは、他の誰でもないクリスだ。
アリシアの頬が仄かに染まる。それは、景色を茜に染める夕日の色なのか、アリシアの気恥ずかしさから湧き上がる色なのか。
到底見分けはつかなかったけれど。
「もう、クリスを困らせるようなことはしないわ」
アリシアの声が、透明な空気の動きとともに静かに流れた。
それは、傍に居るクリスにだけ届けばいい。そんな、小さな音だった。
アリシアの罪を唯一知りながら、誰よりも、何よりも真っ先に自分の心配をしてくれるクリス。
もう彼に心配をかけたくはない。
誓うような言葉は、難なくクリスの耳元に届く。
クリスは驚いたように瞳を瞬かせ
「意外に素直ですね」
「失礼ね。私はいつも素直よ?」
「そうでしたか。会うたびに違う一面を見るので、気付きませんでした」
「……っ……」
その言葉には、再び反論の余地がない。
思えばクリスとは出会いから今の今まで、普通に接する事がほとんど無い。
妙なところしか見せていないと言っても過言ではなかった。
アリシアは恐縮するように身を縮め、拗ねたように声を漏らした。
「……意地悪」
「承知してます」
頭上に下りてくるアリシアの声に、クリスは変わらぬ口調で返答を。
けれど、その表情は薄い笑みを湛えているように見えた。
無論、その表情をアリシアが知る事は無い。




