<3>悲劇の真相
太陽が真上に届くのにはまだ少し早い空の下。
傭兵部隊から離れるように庭園へとやってきたアリシアとクリスは、強い日差しを避けるように、木陰へと身を隠していた。
「妹は私の一つ下……姫様より三つ年上でしたが、私と違って小柄でしたので、幼く見られることが多々ありました」
クリスは、眼差しを遠くに投げたまま──静かに話を続ける。
アリシアは、クリスの言葉を聞き逃さないように耳を澄まし……じっとクリスを見つめていた。
「侍女として王宮に勤務したのは、姫様が王宮へ住まいを移動された頃と同じ時期です。私はもう……王国騎士団として王宮に勤務しておりましたが」
「……ちょっと待って……」
アリシアは、掌をクリスに向けるとクリスの言葉を止める。
何か考える事があるのか、こめかみに指先を添えつつ瞳を閉じた。
「侍女……だったの?」
「ええ。姫様付きの侍女でした」
「…………」
王女付きの侍女なら、アリシアが知らない筈が無い。当時、アリシアは全員の侍女の名を憶えていた。
アリシアは記憶を探る。そもそも『バラード』という姓には何か思うところがあった。
──そうだ、バラード……──。
アリシアは弾かれたようにクリスを見上げた。
「シェリル……? シェリル・バラード……?」
「……思い出されましたか」
「……そう……だったの……」
振り返るクリスに、アリシアは大きく頷いた。
当時シェリルとしか呼ぶことのなかったアリシアが、その名に気付くのに時間を要したのは当然の事だ。
アリシアは口元を両の指先で覆い、大きく息を吐く。
……あれは、いつの頃だっただろう。ディクソンが夜中にアリシアの部屋に忍び込む事件があった。
元々王家の間には、王家の者以外は入ることが出来ない。
ディクソンが、アリシアの部屋に忍び込むことが出来たのは、誰かの手引きがあったからだ。
誰かの手引き……そう……それがシェリル・バラードだった。恐らくディクソンに脅されでもしたのだろう。入ったばかりの侍女なら容易く利用出来たに違いない。
逆らえなかったとはいえシェリルは、仕えている筈の主人を……しかも、王女を危険に晒したのだ。本来なら、シェリルはその場で処刑される筈だった。
けれど、アリシアはシェリルの名を一切口にはしなかった。
そもそもディクソンが、一介の侍女の顔と名前を憶えているはずも無く……ディクソンからシェリルの名が浮かび上がる事は無い。
アリシアが名を出さなかった事と、追及を求めなかった事で……シェリルは事なきを得たのだ。
──この一件は、アリシアと、シェリルだけの秘密の筈だった。
「あの時は……妹がお世話になりました」
「……何の話かしら? 貴方にお礼を言われる事なんて、何もないわ」
緩やかなクリスのお辞儀に、アリシアは視線を逸らすように顔を背けた。
その様子に……その仕草に……クリスが小さな笑みを浮かべる。
「良いんですよ。私は妹から全てを聞いています」
「…………何の話? わからないわ」
これは今更……何の誘導尋問か。
アリシアは極力表情を変えない。平静を保ちながら……けれど、これ以上会話を続けたくなくて、その場を離れるように歩き出す。
──その行く手を、長い腕が遮った。
「全く……。何処まで貴女は優しいんだ……」
あっという間に、ゼロになる二人の距離。
その一瞬の出来事に、アリシアの眼差しが大きく瞬く。
見上げればそこにクリスの表情。
──何故だろう。見た事も無いような切なげな笑みが、そこにあった。
「あの日……姫様に命を救って頂いた時に、妹は姫様の為に命を差し出す覚悟を決めたのです」
「…………何を言っているの?」
「……あの夜……姫様の身代わりとなって、崖から落ちたのは妹です」
「────────」
訝しげにクリスを見上げていたアリシアの表情が、止まった。
──頭の中は真っ白になる。クリスの言葉が呑み込めない。
彼は今……何を言ったのだろう。……崖から落ちた……?……誰が?……
────シェリルが────
「……何を……言っているの……?……」
再び口にする同じ言葉。
けれど先程のそれとは、意味合いが全く異なるものだった。
両の手で口元を抑えながら、アリシアはじわじわと後退る。
その表情から、色という色がことごとく抜け落ちていった──。
身体が震える……。トン……。
程無いままにアリシアの背が木の幹に当たる。震える身体は、そのままズルズル地面へ落ち……。
クリスは崩れ落ちるアリシアを支えようと手を差し伸べたが、ショックを受けたのだろうアリシアの変貌ぶりに、思わず驚き……その手を止めてしまった。
そのまま落ちていくアリシアと目線を合わせるように、自身も同じように腰を落とす。
「……姫様……」
「……嘘よ……。あの夜の事を……どうして貴方が知っているの……」
「シェリルから事前に聞いていました。あの晩……殿下と同行してサシャーナへ向かう……と」
「──!──」
その言葉に、アリシアの瞳が大きく開かれた。
震える身体を抑えるように、両腕で自身を抱き締める。
……大きく首を横に振った。何度も──何度も。
「……元々殿下は、姫様の身代わりなど連れていくつもりは、ありませんでした」
「…………」
「その話を何処かで聞いてしまったシェリルが、半ば強引に殿下に同行したのです」
「……どうして……そんな……」
途切れ途切れの言葉。アリシアの声は震えていた。
……新緑の瞳に滴が生まれる。
やがてそれは瞳から溢れて……頬を伝った。
「シェリルは、どうしても姫様のお役に立ちたかったのです」
「そんなこと……私は望んでない。……嬉しくない……」
「それも、シェリルは分かっていました」
頬を伝う涙。クリスはそれを拭おうと、長い指先を伸ばした。
──すると。
「……ごめんなさい……」
その手に、アリシアの細い指先が触れた。
大きなその掌を、震える両の手で包み込むとギュッと握りしめる。
その上に、自身の額をそっと乗せた。
クリスの瞳が、驚いたように大きく瞬く。
「私の所為で……シェリルが……」
「それは違います」
「でも…………」
「……顔を上げてください」
クリスの言葉に、アリシアはゆっくりとその表情をクリスへと向けた。
未だ止まらない涙に、クリスは瞳を細める。
「シェリルの為に泣いてくださって、有難うございます」
「クリス……」
「シェリルが望んだことです。……事前に聞いていた私は、それを止めることも出来た」
「…………」
「ですが、妹の決意はとても固く……幸せそうでした」
そう告げるクリスの言葉は、もう無機質なものではなかった。
酷く寂しげに揺れる声。
その声色そのままに、寂しげな笑みを浮かべる。
「私は、妹が羨ましかった……。あんな風に、真っ直ぐに輝けるシェリルが……」
クリスの笑みは、そのまま遠く空へと向かう。
──強い日差し。
クリスは眩しげに瞳を細めた。
「そして……シェリルより三つも年下の少女なのに、命を懸けてしまえるほどに思える姫様は、一体どんな方なのだろう……と、興味が湧きました。……我々騎士は、護衛隊でない限り姫様との接点はありませんから」
「……それで護衛隊に?」
涙交じりの声。
……けれど、静かに言葉を紡ぐクリスの声に、落ち着いてきたのだろう。
アリシアの表情に、先程の激しい喪失感はない。
──色が、戻りつつあった。
「ええ、志願しました。生きていれば……いつか会えるだろうと思いまして」
「……気の長い話ね……」
その言葉に、クリスの手を握ったままのアリシアが小さく笑った。
視線をアリシアに戻したクリスの眼差しの中に、アリシアの潤んだ瞳が映る。
「漸く笑ってくださいましたね」
「……え……?」
「貴女には、笑顔が良くお似合いです」
その言葉は、優しい声に乗る。
そうしてクリスが浮かべる笑みも淡く……柔らかなもの。
────風が通り抜けた。……大きく空気が動き出す。
木々がざわめく音が……耳元に響いた。
アリシアは、緩やかに瞳を閉じ……深呼吸を。──自然に、言葉が生まれた。
「私は……貴方に会う為に戻って来たのね……。私の知らない……あの夜と向き合う為に……」
「姫様……」
「これは──私の罪。どんな経緯があったにしろ……私が貴方からシェリルを奪ったのは、事実」
アリシアの言葉は、一つ一つを確かめるように……自身に刻み付けるように……ゆっくりと音になる。
閉じた新緑の瞳を開き、見つめたのは……クリス。
「全て……受け止めるわ。……貴方の言葉も……思いも……」
「……強いお方だ……」
決意を込めたようなアリシアの言葉。
クリスは、アリシアの凛とした眼差しを受け取ると、小さく息を吐いた。
「妹が、姫様に惹かれたのも納得できます」
未だ十六歳の少女だ。この華奢な身体の何処にこれだけの強さと、しなやかさがあるのか……。
クリスは、眼前のアリシアを……風に揺れて柔らかに揺れる銀の髪の下──輝く新緑の瞳を、自身の中に焼き付けるように見つめた。
「ところで……」
見つめ合う二人の時間が静かに流れた後……クリスが不意に声を掛ける。
……コホンと一つ咳払いをすると、
「そろそろ私の手を、開放していただけませんか」
告げた言葉は、僅か楽しげに弾んだ音。
クリスは、ほんの少しだけ……アリシアに握り締められている片手を上げた。
「……え?……。……あっ……!……」
不意に両手が浮く感覚。そして──その言葉……声に。
アリシアは、恐らく此処で初めてクリスの手を握り締めたままだったことに気付く。
途端に、恥ずかしげに頬が染まる。慌てて両手を離すと、勢いよく身体が後方へと跳ねた。
「──ひめ……っ……!──」
直ぐ後ろは木の幹だ。流石にクリスの伸ばす手も間に合わない。
アリシアは、勢いそのままに後頭部を木の幹に打ち付けた。
「……いった……」
「大丈夫ですか」
強かに打ち付けた後頭部を両手で押さえながら、アリシアの身体が前方へ倒れ込む。
その身体をクリスが自身の胸元で受け止めると、頭を押さえるアリシアの両手に自身の片手を重ねた。
「……大丈夫……」
「全く……。危なっかしい方ですね。目が離せない……」
溜息交じりにそう告げると、クリスは安堵したように肩を落とした。
零れ出た言葉には、アリシアも身に覚えがあるのだろう。
申し訳なさげに身を縮めると、叱られた子犬のような眼差しでクリスを見上げた。
「ごめんなさい……。いつもクリスには、みっともないところばかり……」
「みっともないとは、思っていません」
アリシアの声に、サラリと返す言葉はいつものような無機質な声。
けれどもう、アリシアには今までと同じようには聞こえなかった。
クリスは、アリシアの後頭部から手を離すと緩やかに立ち上がり、アリシアへと手を差し出す。
「貴女ほど凛々しい方を、私は他に知りません。貴女はどうか……貴女のままで」
「クリス……」
「……戻りましょう。少しでも休まれてください。──傍に居ます」
クリスのアリシアへ向ける眼差しはいつものような無表情。
ほんの少し……笑みが見えるのは気のせいかもしれない。
「……はい」
アリシアは、クリスの声に頷くと、差し出された大きな手に、自身の指先を重ねた。




