<12>国境にて
カイルが国境を越えてフォゼスタ入りしたのは、太陽が西の空へと消えて行く頃だった。山間の中にあるその場所に、消え行こうとする陽の光が漏れて差し込む。
外套のフードを深々と被っていたカイルは、見慣れた場所に辿り着いて漸くそのフードを外した。
寒かったわけではない。寧ろ今の時期……日中は汗ばむほどに暑くなる。どちらかと言えば陽射し除けの為だ。そして、顔を隠すため。
サマーシアに傭兵部隊として潜入していたカイルだ。ある程度ではあるが、傭兵に顔を知られている。幸い、行き交う者とも何事も無く……無事に国境を越えることが出来たが、国境に難民として潜伏している傭兵が、その顔を知らないとも限らないのだ。
「……カイル殿?」
朽ちかけた建物の陰から出てきた一人の騎士が、カイルに気付く。
カイルは、元々フォゼスタの国境警備の任務に就いていた。見慣れた場所に辿り着けば、カイルを見知ったものも現れるだろう。
声の方へと視線を向けたカイルが、軽く片手を上げる。カイルにも見知った騎士だったのだろう。其方へと歩みを進めた。
「戻ってらしたんですね。殿下も今こちらにいらっしゃいますよ」
その声に、カイルは一際大きく瞳を開く。
「──どちらにいらっしゃいますか?」
「案内致しましょう。……こちらです」
そう言うと、先に騎士が歩き出した。
カイルは誘導されるままに、歩みを進めていく。
ジェイクが居るというその場所は、二人が出会った場所から目と鼻の先だった。
その建物は、周囲に点在する他のそれより大きく……状態が良い。恐らく、集落の中でも、大きな権力を持った誰かの家だったのだろう。
カイルは、案内をしてくれた騎士に一礼すると、その建物の中に入って行った。
「失礼します」
やや大きく張り上げた声が広めの室内に響き渡る。──聞き覚えのある声。
奥の机で一枚の紙を眺めていたジェイクが、弾かれたように顔を上げた。
サラリ……藍の髪が揺れる。
「──カイルか?」
涼しげな眼差しが、入口へと向けられる。視界に映ったのは騎士にしてはやや細身の青年。その茶混じりの灰色の髪には、見覚えがある。
入り口の青年……カイルは、ジェイクを認めると上半身を傾け、一礼を。
「こちらにいらっしゃると伺いまして」
その言葉に、ジェイクが考えるように涼しげな眼差しを少し伏せた。返答に悩んだのかもしれない。
ややあって、小さく肩を竦めると静かに声を出す。
「──アリシアがサマーシアに居るからな。王宮に留まる理由が無くなった」
言葉は極めて淡々と告げられた。けれど、その音が逆に切なげに響く。
カイルはジェイクの表情を見ていられなくて、視線を横へと逸らした。
「……存じております。姫様のお戻りの時は、王都が大騒ぎでしたから……」
「────だろうな」
カイルの声に、ジェイクが細く息を吐く。
悲劇によって亡くなったとされていた王女が、生きて戻ってきたのだ。それは大騒ぎにもなるだろう。
連れ帰ったディクソンは、その時ばかりは英雄扱いされたのかもしれない。
ジェイクの表情がやや憮然とした色を仄めかせる。
……その時。
「……カイル? 戻って来てたのか」
入口付近で声が掛かる。カイルに向けてのものだ。
その声にカイルが振り返ると、栗色の巻き毛が視界に入る。見覚えのあるやや垂れ目の瞳……マーカスだ。
カイルはすぐさまマーカスへと向き直り、一礼を。
「今戻った所です」
「ああ、そうだったのか。……まあ、入口で立ち話もなんだろう。奥へ入ったらどうだ?」
「そうだな。カイル、此方へ来ると良い」
マーカスの言葉に、ジェイクが頷く。
カイルも静かに頷くと、マーカスが先に誘導するようにジェイクの元へと歩みを進めた。
それについて行くように、カイルも足を運ぶ。
「──戻ってきたと言う事は、何か掴んだという事だな?」
ジェイクの元へと歩み寄ったカイルに、ジェイクが問い掛ける。
カイルはコクリと頷いた。
「四日後……サマーシアの部隊がフォゼスタに侵攻します」
「……そうか。……来るか」
ジェイクはその言葉に、大きく肩で息を吐いた。
これで漸く動くことが出来る。不謹慎だとは思うが、それを待っていた。
「指揮を執るのは、王国騎士団長のラルフ・スタンリー殿です」
「──なんだと?」
しかし、続いた言葉にジェイクの涼しげな眼差しが固まる。思わず立ち上がった。
スタンリー……。アリシアを手放した時に、傍に居たサマーシアの騎士だ。
アリシアの身の安全を、託した人物でもある。
「……騎士団長だったのか……」
ジェイクは藍色の前髪を大きく掻き上げながら、椅子に座る。
まさか、スタンリーと対峙する事になるとは思わなかった。……しかし、立場が騎士団長なら有り得る事だ。
ジェイクは思案するように瞳を閉じた。
その困惑の表情を視界に捉えながら、カイルが言葉を続ける。
「殿下……。スタンリー殿からの伝言があります」
その言葉に、閉じられたジェイクの瞳が開かれる。
……ゆっくりとカイルへ、眼差しを向けた。
「なんだ……?」
「スタンリー殿が、フォゼスタへ向かう四日後……。サマーシアを攻め入るように……と」
「──!──」
その言葉には、傍に居たマーカスも驚いたように大きな瞳を瞬かせる。
「……確かに……。サマーシアが攻めて来た時に、此処を出る計画にはしているが……」
「スタンリー殿も、ディクソンを倒したいのでしょう。──王国騎士団は、ディクソン・バーナムによって冷遇されておりますので」
「……どういう意味だ?」
ジェイクが、その言葉に訝しげに眉を顰める。
カイルは、軽く頷くとサマーシアの現状……赤の傭兵部隊の存在と、王国騎士団の事を語り始めた。
「成程。……じゃあ、お前は傭兵部隊として王宮に潜り込んだわけか」
「ええ。そこで縁あって、スタンリー殿とお会いする事が出来まして……殿下」
「──ああ、分かった。……出撃の準備を」
促すようなカイルの言葉にジェイクが頷くと、眼差しをマーカスへと移す。
マーカスは無言で頷くと、静かにその場を後にした。
「──それでは殿下。私も失礼いたします」
堅苦しい……カイルらしい一礼を済ませると、マーカスに続くよう踵を返す。
「……待て」
しかし、その背中にジェイクが制止の言葉。静かな声……けれど何処か圧力を感じるような音。
──カイルはその場で立ち止まった。
「はい。……何か」
カイルはゆっくりと振り返る。眼差しが、ジェイクの涼しげなそれと重なった。
カイルは、やや動揺するように視線を逸らす。
けれど、ジェイクがその表情から視線を外す事は無い。
真っ直ぐにカイルを見つめたまま、静かに言葉を……問い掛けを。
「……アリシアに会ったか?」
その言葉に、僅かカイルの眼差しが揺れる。
無理だとは思ったが……出来ればその話題には、触れたくなかった。問われれば、先日の事を思い出す。だから簡潔に、用件だけを述べて立ち去りたかったのだ。
けれどその行動が逆に、ジェイクに不審に思われたのかもしれない。
ややあって、カイルは小さく頷くと
「お会いしました。……お元気で……」
「本当か?」
「…………」
「嘘はつくなよ」
ジェイクの眼差しは、カイルを捉えたまま。口調はカイルを責めているわけではない。いつもと変わらない涼しげな音だ。
しかし、真っ直ぐにカイルを見つめるその眼差し……カイルは耐えることが出来なかった。
カイルは心の中で、アリシアに謝罪を述べる。
「……申し訳ありません。……恐らく今は、回復されていると思いますが……」
「……何かあったのか」
「ディクソンに……薬物を……」
「──!──」
ジェイクは思わず立ち上がる。机に突いた腕が……知らず震えた。カイルは、絞り出すように言葉を続ける。
「私は……見たわけではありませんが……薬物を飲まされた後に、ディクソンとの対峙があって……」
「…………」
「ディクソンから逃げる為に……ご自身でご自分の喉を……貫こうとされたようです」
「なんだと──!?」
静かに……カイルの言葉を一言一句逃さないように、耳を傾けていたジェイクが、その言葉に反射的に声を上げる。
その表情は、驚愕に満ちていた。
──身体が硬直する──。
「私がお会いしたのは……その後……気を失われた後で……」
「…………」
「意識が戻られた後……姫様は……殿下に心配を掛けたくないから……元気だと……伝えて欲しいと……」
「……は……相変わらず……バカだな……」
ジェイクは、カイルの言葉に苦しげに笑った。
アリシアの言いそうな事だ。カイルがジェイクの問い掛けに動揺したのも、それを忠実に守ろうとした為。
ジェイクは項垂れるように座り込むと、大きく息を吐く。
憔悴しきったジェイクの姿にカイルが、気遣うように声を掛けた。
「……殿下……」
「……無事なんだな?」
「はい。体調に問題はありますが……。命に別状はありません」
「そうか……。辛い報告をさせてすまなかった」
「いえ……」
ジェイクは机に片肘をつくと、その腕……掌で自身の額を支えた。色んな思いが交錯する。……立ち上がる力など無かった。
カイルは軽く一礼を向けると、ジェイクから眼差しを逸らす。
あまりにも痛々しい姿を、もう……見ていられなかった。
「殿下……。それでは……」
「……ああ。引き留めてすまなかった」
カイルの声に軽く手を上げ……一呼吸の後……ジェイクは漸く顔を上げる。
カイルは既に……ジェイクに背を向け歩き出していた。
「アリシア……」
カイルが姿を消した後……ジェイクは切なげに声を漏らした。言葉は名前。
愛しい……その人の名。
「俺は、いつも守ってやれないな……」
浮かべた笑みは、自嘲に満ちていた。
肝心な時に傍に居てやれない。
もう辛い思いはさせないと誓った筈なのに……。
──もどかしい──
これほどまでに無力さを感じた事は無い。
ジェイクは片手に握り締めた拳を、机に強く叩きつけた。
──ドン!──
大きな音が響き渡る。
机に乗せたままの拳は握りしめたまま……やがてジェイクの表情が怒りの色に変わっていった。
「ディクソン……。お前だけは……決して許さない……!……」
静かに告げられる言葉はけれど、震える声に乗る。
気迫に満ちた表情……その強い眼差しは、射抜くようにサマーシアの方角へと向けられていた──。




