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月の光で咲く花は  作者: 紫乃咲
混沌の大地
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<10>救出

 騎士団長の執務室から、国王の執務室まではそう距離は遠くない。二回角を曲がるだけだ。なのに今日は、やけに長い距離を走っているように感じた。

 通路を駆け抜ける足音は、三人分。時折すれ違う騎士が、何事かと三人を凝視する。

 何より、騎士団長が走っているのだ。間違いなくそれは事件だろう。けれど、何があったかを問いかける者は居なかった。話しかけられるような、雰囲気ではなかったのだ。切迫した空気を醸し出す三人を、誰もが息を呑んで見つめていた。

 二つ目の角を、先頭を走るクリスが曲がる。此処を曲がれば後は真っ直ぐ進めば良い。

 クリスが、角を曲がった先……その場所へと眼差しを向けたその時──。

 ──バリーン──


「──!──」


 見定めた通路の奥から、何かが割れるような音。そして叫び声──。

 クリスの瞳が、珍しく大きく見開いた。

 背後に続くフランクは、表情を強張らせる。


「……今の音は……」


 フランクの問い掛けに、クリスは答えを返さない。その代りなのだろうか。クリスの掛ける足が一段と早くなる。

 長身のクリスは歩幅も広い。あっという間に、フランクとの距離が広がった。国王執務室の扉はもう目前。

 クリスは長い手を伸ばし、その扉に手を掛けると、一気にその扉を開いた。

 ──バタン──!──


「──!──」


 クリスの眼前に広がったのは、異様な光景だった。

 部屋の奥……虚ろな眼差しで、今にも崩れ落ちてしまいそうなアリシア。割れたガラス瓶の先端を、自身の喉元に突き付けている。

 先程の音は、この瓶が割れた音なのだろうという事は、容易に見て取れた。

 アリシアの頬を伝う赤い滴……。ガラスの破片で頬を切ったに違いない。

 そのアリシアに、手が届くか届かないかの微妙な位置に、ディクソンが立ち尽くしていた。


「──姫様!!」

「……バーナム殿。これは一体どういう事ですか」


 続いて入って来たフランクとスタンリーが、次々に声を出す。

 ディクソンは、スタンリーの声にゆっくりと振り返った。


「……大したことではありません。些細な口論があっただけですよ」


 そう言って肩を竦めると、ディクソンはスタンリーに笑みを向ける。

 ──いつものディクソンの表情だ。


「この状況の何処が些細な事ですか。尋常じゃないでしょう」

「ああ……なんというか……。説明が難しいですね。私も少し疲れました……説明はまた後日」


 睨みつけるスタンリーに、澄ました表情を向けるといつもの平然とした足取りで、歩き出す。その表情がいつもと同じようで……違うようで。

 スタンリーは、去っていくディクソンを不思議そうに見送った。

 程無いままにディクソンの姿は部屋から消える。

 ──途端。気が抜けたのか、アリシアの身体が壁を伝ってズルリと落ちそうになる。

 即座にクリスが、アリシアの元へと歩み寄ろうと足を進めた。


「……来ないで……」


 近づく気配。アリシアが、重い頭を緩慢に其方へと向けると、長身の姿が霞んで見えた。

 思わず出した小さな声。けれどそれが、今のアリシアの精一杯の声だった。

 近寄るクリスがその場で立ち止まる。まじまじとアリシアを見つめた。

 未だにガラスの切っ先を、自身に向けたままの姿。……頬から流れる赤い筋が痛々しい。


「……私……ガラスの破片を……浴びて……。怪我するから……」

「…………」


 ──その言葉に。クリスは、再び歩みを進めた。

 躊躇することなくアリシアに近寄ると、ガラス瓶を持つアリシアの両手に自身の片手……その掌を重ね……強引にアリシアの喉元から引き離す。


「……っ……」


 不意に動かされるアリシアの両腕。懸命に保っていた身体のバランスが、大きく崩れた。

 揺れるアリシアの身体を、もう片方のクリスの腕が支える。アリシアは難なくクリスの腕の中に収まった。

 苦しげに揺れるアリシアの眼差しが、クリスのそれと重なる。


「……そんなボロボロの身体で、人の心配をしている場合じゃないでしょう」


 アリシアに向けたのは、窘めるような言葉。

 クリスのその口調は、相変わらず無機質なものだったが……アリシアを抱く腕に、知らず力が籠った。


「……瓶を離してください」


 淡々と、続く言葉。細められた眼差しが、アリシアの震える両手に向かった。けれど、アリシアが力なく首を横に振る。


「動か……なくて……」

「…………」


 途切れ途切れの小さな声。けれど、間近のクリスにはまだ聞こえる。

 恐らく握り締め過ぎて、指が固まってしまったのだろう。

 クリスは自身の身体でアリシアを支えると、アリシアの両手に自身の両手を添え、強張ったアリシアの指を開いていく。一つ一つゆっくりと……丁寧に。

 やがて、アリシアに向かっていたガラス瓶は、クリスの手に渡る。

 クリスはそれを、側にあった机の上に置いた。


「……ケガ……は……?」


 漸く解放されたアリシアの指先は、重力に逆らうことなく落ちていく。

 気遣ったのはクリスの指先。アリシアの指を解放する際に、ガラスが指に当たったかもしれない。

 その声に、クリスが静かに声を返す。


「ありません」


 淡々とした声。──変わらぬ表情。

 けれど、アリシアはその言葉に安堵するように、淡く笑みを浮かべ……。


「──!──……」


 アリシアの身体が力を失った。……もう、意識は途切れている。

 クリスは、ずり落ちていくアリシアの身体を支えると、そのままアリシアを抱き上げた。


「姫様!」


 クリスの腕の中で動かないアリシアに、フランクが駆け寄る。

 スタンリーも足早にクリスの元へと近づいた。


「……呼吸はしっかりしている。意識が無いだけだ」


 駆け寄るフランクに、クリスが声を返す。フランクを落ち着かせるために、穏やかに告げたつもりだった。

 けれど、フランクはアリシアの顔に付いた赤い筋を見つけると、瞳を揺らした。


「頬に傷が……」

「破片が飛んだようだな。──取り敢えず出よう。此処では何も対処が出来ない」


 背後からスタンリーが声を挟む。その声にクリスが頷いた。


「どちらへ?」

「……姫様の部屋が無難だろうな……」

「了解しました」


 考えるように視線を彷徨わせた後……。

 一つ息を吐きながら告げるスタンリーの言葉に、短く返答を向けるとクリスは軽くお辞儀をして歩き出す。

 その足取りはいつになく足早で、そのまま振り返ることなく部屋を後にした。


「──フランクは部屋の後始末を。終わったら姫様の様子を見に来ると良い。……心配なんだろう?」


 揺れる眼差しのまま、クリスが立ち去った後も扉の向こうを追いかけるように見つめ続けるフランク。

 スタンリーは肩を竦めると、フランクに穏やかな声を掛けた。

 その言葉に、フランクの表情が嬉しそうに輝いた。


「──はい! 有難うございます」


 そう告げると、スタンリーに深々とお辞儀を向けた。

 スタンリーは、その様子に笑みを浮かべると、ゆっくりと部屋を後に──。


「……まあ……。取り敢えずは、こっちだろうな……」


 部屋に出て立ち止まるスタンリー。軽く息を吐き、呟くと……歩き出す。

 向かったのは王家の間ではなく、来た道を戻るように自室……騎士団長の執務室へ。

 アリシアにはクリスがついている。

 取り立てて急ぐ必要の無くなったスタンリーの足取りは、緩やかなものだった。







 アリシアの意識が戻ったのは、自身の部屋に戻って随分の時間が経過した頃だった。

 ……微かに聞こえる人の声。聞き覚えのある声たちだ。


「ロザリーが持ってきたと言うホットミルクは、これだな」


「ええ。恐らく……。拭き取った布がありますから、零したんでしょう。全部は飲んでいないのでは?」

「ああ……。それでギリギリ意識を保てていたんだろう。全部飲んでいたら、ディクソンの思う壷だったかもしれない」

「…………姫様……大丈夫でしょうか……?」


 ……途切れなく声が聞こえる中で、緩やかに瞼を開く。ぼんやりと見える景色は、見慣れた天井だった。

 ……あれから、どうなったのだろう。……あれからって……いつ?……記憶が断続的で、あまりにも曖昧だった。


「……お目覚めですか」


 アリシアの瞳に最初に映ったのは、漆黒の髪。直ぐに眼差しが重なる。

 恐らく、ずっと傍に居てアリシアの様子を伺っていたのだろう。

 その声に、会話をしていた声の主がアリシアの元へとやってくる。


「姫様。気が付かれましたか」

「姫様……。申し訳ありません。私が至らなかったばかりに……」

「……スタンリー……。フランク……」


 アリシアは、二人の顔を見つめるとゆっくりと起き上った。まだ頭はズシリと重い。

 眩暈を抑えるように額に指先を添えると、クリスがアリシアの背を支えた。


「……私……」

「憶えていらっしゃいませんか? 姫様は陛下の執務室でお倒れになったのです」

「…………」

 スタンリーの説明に、記憶を掘り起こそうとアリシアは瞳を細めた。

 けれど、思考に霧がかかったようで……思い出せない。何より頭が重くて、考える事が苦痛に感じた。

 細く息を吐くと額に当てた指先で前髪を掻き上げる。


「……ごめんなさい。……水差しの瓶を割った所までは憶えてるんだけど……」


 そう、そうして割れた瓶の先を……自身の喉元に突き付けた。その記憶は鮮明にあった。

 知らず指先が喉元に触れる。けれど、その場所に痛みは無い。痛みは別の場所。

 喉に触れた指先は、頬へとゆっくり移動する。微かに感じる痛みは、ガラスの破片が掠めた場所。傷自体は掠り傷だから、傷跡が残る事も無い。

 ぼんやりとした思考の中で、アリシアは、頬の傷をなぞるように指先を這わせた。


「無理はなさいますな。今は安静になさってください」


 気遣うようなスタンリーの声。眼差しを其方へ向けると、心配そうに見下ろす表情が見えた。

 アリシアは、大丈夫だと言いたげな笑みを向ける。その笑みに力は無かったけれど……。

 そんな中……。


「……姫様……」


 アリシアを気遣う声。それは、スタンリーでもフランクでもなく……。

 アリシアは、ゆっくりと声の元へと眼差しを向けた。


「──カイル──!」


 眼差しを向けた先。アリシアの瞳に茶色混じりの灰色の髪……ほっそりとした顔立ちが映し出される。

 アリシアは、カイルを見つめるその表情に、驚愕の色を隠す事は無かった。


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