<9>緊迫の時間
「……どういう事だ。説明しろフランク」
カイルを扉の陰に隠したスタンリーが、ヒョイとそこから顔を出し、フランクに問いかける。平静は装うものの、その言葉に余裕は感じられなかった。
クリスは、無言でフランクの言葉の続きを待つ。カイルは、扉の陰でその表情を失っていた。
フランクが、促されるままに言葉を続ける。
「姫様が……団長に会いたいと仰るので……此処までご案内差し上げていた途中で……。国王執務室から……」
「ディクソンと出くわしたんだな」
荒い呼吸の合間から繰り出される言葉は、途切れ途切れでなかなか先に進まない。堪らずスタンリーが口を挟んだ。
フランクはその言葉に頷く。
「急に具合を悪くされた姫様を休ませると言って……強引に執務室に連れて入られて……」
「……急に? やけにタイミングが良いじゃないか」
「姫様が部屋を出る前に……ロザリー殿から貰った……ホットミルクを、召し上がったそうです」
漸く呼吸が落ち着いてきたフランクは、スタンリーの問い掛けに、素早く反応する。
スタンリーは、その言葉に大きく瞳を開いた。
「ロザリー……侍女長か。あれは確か……」
「ディクソンの女ですね」
スタンリーの呟きに、クリスが短く返答を。それを告げた後、素早く動き出す。────国王執務室へと。
歩みはやがて、駆け足に変わった。
「あっ……隊長……!」
走り出すクリスの背中を追いかけるように、フランクも走り出す。
スタンリーは二人の背中を見つめながら、扉の陰へと声を掛けた。
「……カイル殿。姫様は我々が必ず此処へ連れ戻します。もどかしいでしょうが、暫く此処で待って居てください」
その言葉の返答は待たない。
スタンリーは部屋から出ると、静かにその扉を閉じた。
聞こえる大きな足音……やがてその音も小さく消えて──。
「……姫様……」
閉じられた部屋の中……扉の陰になる片隅で一人佇むカイルは、表情が固まったまま動けずにいた。
本来なら、いち早く助けに行きたい所だが、今の状況でそんな事が出来るはずも無く……。スタンリーの帰りを待つしかない。
カイルは、身体を反転させ、扉へと向かうと指先を伸ばす。
扉に触れる……指先に力を込めた。
ディクソンは、歓喜に打ち震えていた。フランクから奪ったアリシアが、この腕の中に居る。もう、湧き上がる衝動を抑える事など出来やしない。
掴んだアリシアの腕に更に力を込めた。
「……っ……!……」
痛みに表情を歪ませるアリシア。そんな表情も愛おしい。アリシアを見つめるディクソンの眼差しが、ギラギラと輝く瞬間だった。
「さあ、姫様。其方のソファに横になられてください。懐かしい部屋でしょう?」
言いながら、ディクソンはアリシアをソファに座らせた。そのまま、アリシアを押し倒そうと肩に手を掛ける。
「──やめて──」
その手を、片手でアリシアは振り払った。真っ直ぐにディクソンを見上げる。
その眼差しにディクソンの動作が止まった。ディクソンがアリシアに与えた痛みのお蔭か、アリシアのぼやけた思考が少しはっきりしてくる。
アリシアは、ディクソンの動作が止まるのを見て、ゆっくりとソファから立ち上がった。
「……私は貴方に用は無いと言った筈。休むなら此処ではなく……別の場所でも出来るわ」
じわじわと移動しながら、ディクソンと距離を置く。ただでさえ密室に二人きり……何が起きても避けられない恐怖が、アリシアの脳裏を過ぎる。
──此処で倒れるわけにはいかなかった。
「姫様……。我儘もほどほどに為さいませ。姫様は、私と共に有る事が一番の幸せなのですよ」
「……よくもそんな事が言えるわね。貴方は父と兄を殺した大罪人よ。……誰が許しても私は貴方を許さない」
アリシアは、ディクソンに言葉を投げかけた。あからさまに責めるような口調。それは、ディクソンと口論をする為。自身にできる精一杯の時間稼ぎだった。
「──そうでしたね。その話がありました」
ディクソンの赤い瞳が冷たく光った。どうやら、話に乗ったらしい。
ディクソンは、アリシアが座っていたソファに腰を掛けると、足を組みながらアリシアに眼差しを向けた。
「……実は、私はあの時崖から落ちたのは、姫様ではなく、姫様に成りすました別の誰かだと思っていましたが……」
その言葉に、アリシアがドキリとする。まさにその通りだ。けれど、それを悟られるわけにいかない。
よく分からないが、それは兄の計画だった筈だ。ディクソンが確信を持てないでいるなら、此処で自身がそれを崩してしまうわけにはいかない。
ゴクリ……唾を飲み込んだ。
「しかし姫様は、あの時にしか話していない妻の死を憶えていらっしゃる。……私の考え違いだったようですね」
ディクソンの言葉に、アリシアは表情一つ変えなかった。しかし、今の言葉で謎は解けた。
食事の場で言っていた『あの場』は、アリシアの知らない夜の出来事の事だ。バーナム夫人……つまりアリシアの伯母の死は、そこで語られていた事だった。
ディクソンは知らないのだ。帰路の途中で、スタンリーからその話を聞いていた事を。
「一体あの谷底からどうやって生還したのか……謎ですが……。しかし、そうなると……姫様は、私が陛下と殿下を殺した事を知る……たった一人の人間という事になるのです……姫様。……この秘密は二人で大事にしようではありませんか」
「──バカな事言わないで! 私の家族を奪っておいて、よくもそんな……っ……」
今の言葉で確定した。ディクソンが、実際に国王と王子を手に掛けている。
アリシアは、自身の中から沸々と湧き上がるものを感じていた。
しかし……再びアリシアの身体を脱力感が襲う。思考が晴れたのは僅かな時間だったか。
アリシアは重い頭を支えるようにこめかみを指先で押さえた。
「──何もかも──全て姫様と私の為なのです……」
アリシアの怒りにまかせた言葉を静かに受け取ると、ディクソンは徐に立ち上がった。アリシアに近づくつもりなのだろうか。
アリシアは警戒するように、ディクソンの動きに注視する。
「姫様……お辛いのでしょう? 私の腕の中でお休みください」
「……来ないで。……家族を殺したのが、私の為だなんて……よくもそんな戯言……」
「……戯言? とんでもございません。愛し合う姫様と結ばれる為には、他に方法が無かったのです」
「愛し合う?……私は……貴方と結ばれることを……望んではいないわ」
じりじりと近付いてくるディクソンから逃げるように、アリシアはゆっくりと後退していく。
──視界がぼやける。この身体はいつまで動けるだろうか……。
霞んでいく思考の中で、薄らとそんな事を考えた時……。
「……っ……!……」
足が止まった────。後ろはもう壁だ。これ以上は下がれない。他に動ける場所は無いだろうか……。
アリシアは、虚ろな眼差しを彷徨わせる。傍らに見えたのは、執務机。重ねられた書類の束と、ガラス製の水差しの瓶……そしてコップが視界に入る。
恐らくディクソンは、普段から此処で仕事をしているのだろう。たまに出入りするだけなら、水差しなど必要無い。
アリシアは呆れたように小さく笑った。
「どうされました?」
アリシアの不意の笑みに、ディクソンは訝しげに眉を顰めたけれど。
フラリ……。
アリシアの身体が大きく揺れる。
……ディクソンの表情が、妖艶な笑みに変わった。ここぞとばかりに、アリシアへと大きく一歩を踏みだす。
────刹那────
「──近づかないで──!──……」
──バリーン──
何かが割れる大きな音。
アリシアが、手に取った水差しの瓶を机に叩きつけたのだ。一瞬にして周囲が水浸しになる。ガラスの破片がアリシアの頬を掠めたのだろう。
アリシアの頬に、一筋の赤い線が浮かび上がった。
「──姫様!」
悲鳴にも似た声は、ディクソンだ。一瞬にして表情から血の気が消える。
アリシアは手にした水差しをゆっくりと持ち替え……割れて尖った瓶の先を自身の喉に向けた。
「……来ないで……」
両の手で握ったガラスに力を込める。虚ろな眼差しのまま……震える身体を壁につけると、精一杯の力をその場所に集中させた。
「貴方と一緒になる位なら……私は死を選びます……」
たどたどしいながらも、その言葉は確かな声。ハッキリとした、アリシアの意志。
ディクソンは、その声に立ち尽くすほか無かった。
「……何故だ……」
ややあって……声。ディクソンが、絞り出すように呟く。
「……何故だ……何故だ……何故だ!!」
繰り返される呟きは、徐々に大きく──叫び声へと。
「どうして私じゃないんだ!! ナタリアも!……貴女も!」
「……え?……」
室内に大きく響く声──。
アリシアは、ディクソンの言葉に疑問符を投げた。
揺れる身体を……ガラスを握ったまま震える指先を……支える足も既におぼつかない。背中に壁が無かったら、とうに倒れているだろう。
けれど、聞こえたその声は……虚ろな瞳を僅か開かせた。──その時。
──バタン──!──
大きな音を立てて、扉が開かれた。




