<7>温もり
捕らわれたかもしれないカイルを救い出すべく立ち上がったアリシアは、スタンリーの事を思い浮かべた。
カイルの隣に居た青年は、王国騎士団の護衛隊だ。騎士団長であるスタンリーに説明をすれば何とかなるだろう。ディクソンと共にフォゼスタへ来ていたスタンリーなら、コーエンウルフの事を話しても理解してもらえる。
それに、フォゼスタ侵攻の事も聞いておきたかった。フォゼスタにはジェイクが居る。このままだとジェイクとスタンリーが戦う事になってしまうのだ。それだけは何としても避けたい。
「スタンリー……」
アリシアと違って、多忙を極めるのであろうスタンリーとは、アリシアが帰国した当日以降……顔すら合わせていない。今は何処に居るのだろう。
アリシアは、顎に指先を添えながら、考えるように俯いた。
ややあって、何か思い付いたのか、ポン……と、一つ手をを叩く。
「……騎士なら知ってるよね」
顔の横で人差し指をピンと立てると、軽く頷く。そのまま歩き出そうと一歩踏み出し
「……いけない。寝間着だった……」
足が止まる。恥ずかしげに呟くと、着替えるべく踵を返した。
──その時。
──コンコン──
扉を叩く音。……誰だろう。
アリシアは扉へと眼差しを向けつつ首を傾げた。陽が落ちてしまったこの時間は、侍女が勤務する時間帯でもない。
……まさか……。食事の間での、あの言葉が蘇る──。
──続きは姫様のお部屋でゆっくりといたしましょう……──
アリシアの表情に緊張の色が走った──。
「……はい……」
扉からの音にアリシアがぎこちない返事を返したのは、数秒の空白の後。
扉へと眼差しを向けたまま、無意識に胸元の服を、握りしめる。
「姫様。侍女のロザリーと申します。ホットミルクをお持ちしました」
「……え……?……あ、はい」
扉の向こうで聞こえてきた声は、アリシアが想像していた人物とは違っていた。途端に肩の力が抜ける。
……けれど、侍女の勤務時間は既に終わっている。アリシアは何処か引っかかるものを感じた。
そもそも、ホットミルクなど頼んでもいないのに、何故……?
アリシアの返答の後、すぐさま扉は開かれた。ロザリーと名乗った侍女が、部屋の中へと入ってくる。
アリシアに軽く一礼すると、ニコリと笑みを浮かべた。如何にも年上の、落ち着いた雰囲気を漂わせる女性だ。
「もうお休みになられているかと思いました。起きていらっしゃって良かったですわ」
「あの……」
やや困惑気味のアリシアを他所に、ロザリーはスタスタと歩みを進め、ソファの前に備え付けてあるテーブルにミルクを置いた。
クルリと振り返り、アリシアを見つめると
「食事の間から此方へ戻られる時、具合が悪いようでしたので……ホットミルクでも如何かと思いまして」
「……ああ……」
確かに、この部屋に戻ってきた時は護衛隊の騎士に抱えられていた。周囲から見れば具合でも悪くなったのかと思うだろう。
それなら、この侍女はアリシアの具合を気遣ってくれたという事か。
「わざわざ……有難う」
アリシアは、戸惑いながらもロザリーに謝辞を。戸惑うのは、こんな風にアリシアを気遣う侍女が居なかった事からだ。
ディクソンを主人と仰ぐ今の侍女たちのアリシアへの対応は、義務的、機械的と言って良い。アリシアから話しかけても、会話が続く事も無い。会話という会話が、今初めて成立したような気がしていた。
そんなアリシアの色合いに、漸くロザリーが気付いたのか……申し訳なさげに淡く笑みを浮かべた。
「私は、侍女長を任されている身なのですが……今まで誰も居なかったこの場所に、初めてご主人様が入られて……私も侍女達も緊張しています。まだまだ対応もぎこちないかと思いますが……精一杯務めさせて頂きますので、これからもよろしくお願い致します」
言葉は、大人の包容力とでもいうのだろうか。落ち着いた響きで、アリシアに安堵と納得をさせるのに十分な力があった。
アリシアの表情に戸惑いの色は消え、浮かんだのは嬉しげな……笑み。
言葉の後、ロザリーはアリシアに丁寧なお辞儀を。
「温かいうちに召し上がってくださいませ。……それでは失礼いたします」
そう告げると、ロザリーは踵を返し部屋から出ようと歩き出す。
「あっ……あのっ……」
その背中を、アリシアは呼び止めた。
扉へと向かっていたロザリーは、その足を止める。
「……何か?」
「あの……心遣いを有難う……。私こそ……これからもよろしくお願いします」
振り返ったロザリーに、アリシアは照れたように頬を染めながら軽くお辞儀をした。小さな花が咲いたような……そんな表情だった。
ロザリーは柔らかく笑みを返すと
「……はい。飲み終えたカップは、朝片付けますのでそのまま置いておいてくださいませ」
そう告げて、再び歩き出すと扉の向こうへと……。
──パタン──
閉じられた扉。ロザリーは小さな笑みを浮かべながら、歩き出す。
「…………容易い小娘だこと……」
言葉は低く……くぐもった音。
笑みは、次第に不敵なものへと変わっていった──。
「冷めないうちに、飲んじゃわないとね」
ロザリーが立ち去った後、アリシアは弾むような声でホットミルクが置かれたテーブルの場所へと、歩み寄る。その足取りも、分かりやすく弾んでいた。
テーブルの前のソファに腰を落とすのと、カップへ手を伸ばすのは同時。
待ちきれないのか、素早く口元にカップを近付け──。
「────あつ……っ……!……」
カップを近づける勢いがつき過ぎたのかもしれない。
唇に触れた瞬間、その熱さに驚いたアリシアは、反射的に口元からカップを外す。
大きく揺れたカップの中のミルクが、テーブルに零れてしまった。
「……いけない……」
アリシアは、慌てて傍に置いてあったハンカチで零れたミルクを拭きとると、フウ……と息を吐いて。
「ああもう……。零すなんて……子供みたい……」
今度は、そっと手にしたカップ。中身を覗いて見れば、半分ほどしか残っていない。
アリシアは、残念そうに肩を落とした。
「折角の好意だったのに……」
力なく呟くと、残りのミルクはゆっくりと味わいながら、飲み干していく。
「温かい……」
程なくして自然と浮かぶ笑み。
少しずつ……温もりがアリシアの身体の中に沁みていくような気がした……。
「有難う。ロザリー」
半分になってしまったカップの中身は、ゆったりと過ぎていく時間と共に空っぽに。
アリシアはカップに向かって感謝の言葉を述べた。暫くそのまま嬉しそうに空のカップを見つめる。
……と、そこで我に返ったように顔を上げた。
「行かなきゃ……」
弾かれたように呟くと、立ち上がり……着替えを始める。
スタンリーに逢わなくてはならないのだ。
アリシアは、いつもの動きやすい普段着に着替えると、即座に部屋を後にした。
早足で向かったのは控えの間。王家の間からは何処へ行くにも控えの間を通らなくてはならないが、アリシアの最初の用事はその場所にある。
「……姫様。どうされましたか? こんな時間に……」
控えの間に常駐する騎士の青年が、出てきたアリシアに声を掛ける。その顔立ちには見覚えがあった。
最初にスタンリーと此処に来た時に常駐していた騎士の一人だ。
優しい物言い……穏やかな顔立ちは、何処か懐かしい人を想起させる。
「こんばんは。……あの……スタンリーって、今……何処に居るか分かるかしら」
「団長ですか? そうですね……」
青年は、控えの間に飾られてある大きな絵画を眺めながら、考えるように表情を止める。そう、アリシアの最初の目的は此処の騎士にスタンリーの居場所を聞く事だった。
騎士なら、お互いの行動も把握しているだろうし、ましてや上司なら緊急事態が起きた時に、直ぐに情報を受け取らなくてはならない。部下には必ず居場所を告げている筈だ。
「今なら執務室に居ると思いますよ。ご案内しましょうか」
「良いの?……でも此処は?」
「大丈夫ですよ。少々お待ちください」
青年はアリシアにそう言うと、王家の間の中に入って行く。
アリシアは、青年の徐々に小さくなる背中を、ぼんやりと追いかけた。
暫くの間も無いままに、青年は一人の騎士を連れて来る。恐らく巡回していた騎士の一人だ。その騎士が、代わりに控えの間に常駐するという事なのだろう。
アリシアは、戻ってきた二人に軽くお辞儀を向けた。
「お待たせしました。参りましょうか」
優しげな眼差しがアリシアを見つめる。
アリシアがコクリと頷くと青年は先を歩き出した。
「勤務中なのに……有難う」
「いえ、寧ろこちらの方が大事な私の任務ですよ?」
アリシアの掛ける声に、青年は丁寧に振り返り笑みを向ける。
フワリと温もりを感じるような笑みが嬉しくて、アリシアの足元が、心なしか弾んだ。
「貴方……お名前は?」
「あ……失礼しました。フランクとお呼びください」
「フランク……。素敵な名前ね」
「有難うございます。お褒め頂き光栄です」
「少し……雰囲気がお兄様に似てる……」
「……殿下にですか? それは……恐れ多いお言葉です」
恐らくこの青年は、生前の王子を見知っているのだろう。アリシアの言葉に、驚いたように瞳を開いた。
「なんていうか……フランクは温かな感じがして……。お兄様もそんな方だったから」
「…………恐縮です…………」
遠く……懐かしむように瞳を細めるアリシアの表情は、柔らかな笑み。
それを見たフランクの顔が、一気に紅潮した。恥ずかしげに俯くと、瞳を逸らすように先へ進む。
丁度東側の回廊に入ったところ。此処を抜けて王宮の玄関を横切るように通り過ぎれば、謁見の間や執務室が集まる通路へと繋がる。
「そういえば……もう具合はよろしいのですか?」
「……え? ああ……」
まだ赤みの残った表情が、再びアリシアに向けられる。
フランクの気遣いに満ちたその問いかけが、何を指すのか……アリシアにはもうわかっていた。
申し訳なさげに苦笑すると
「着慣れない服と、ディクソンのお蔭で疲れちゃったみたい。もう大丈夫よ。……有難う」
「それは良かったです。隊長に抱えられて来た時は、どうしたかと思いましたよ」
「…………隊長?」
フランクのその言葉に、アリシアは大きく首を傾げた。返した言葉は問いかけに。
その言葉にフランクは、弾かれたように瞳を大きく開いた。
「ああ。ご存知無かったんですね。姫様を抱えていたのは、王室護衛隊の護衛隊長で、クリス・バラードと言います。」
「そうだったの……。じゃあ、スタンリーの?」
「ええ。後任に当たります」
アリシアの重なる問いかけに、フランクは頷きながら笑みを向ける。
アリシアは納得するように頷きながら、その人を思い起こしていた。
「バラード……」
その名前に聞き覚えがあるような気がして、アリシアは繰り返し呟く。瞳を伏せながら……その人影を思い出そうとするけれど、記憶の片隅に指先が届かない。もどかしげに瞳を揺らした。
……二つの足音は、穏やかな音を刻みながら進んでいく。王宮の玄関を通り過ぎ……謁見の間も過ぎた所。
この辺りは、傭兵部隊の警備の場所なのだろうか。視界に映る赤い騎士服を着た青年を見つめながら、アリシアは緊張に肩を強張らせた。
その様子を見たフランクが、アリシアに声を掛ける。
「大丈夫ですよ。赤の騎士が多いですが、通路によっては我々も巡回しております」
彼の優しさが、そのまま音になったような柔らかな声色。
それはアリシアを安堵させるに十分な台詞だった。
「有難う。……赤の騎士って呼ぶのね……」
「そう呼ぶのは我々だけですけどね。傭兵部隊は宰相様の私兵のようなものですし……」
言いながら、やや苦笑染みた笑みを浮かべると
「もうすぐ着きますよ。此処を抜けて……」
そう言って、ある部屋を指さした──それは瞬間──。
突然その扉が開かれた。
反射的に、フランクはアリシアを庇うように、アリシアの前に立つ。
中から出てきたのは────。
「……ディクソン・バーナム……」
アリシアの言葉は、音にすらならない。身体が一つ……大きく震えた。




