<4>想いと決意
「殿下……! 何処にいらしてたんですか? 捜しましたよ……」
戻るなり、どこかの路地から聞きなれた声。そちらへ振り向けば、息を切らしながら駆け寄る青年の姿が。あちこちを駆け回っていたのだろう。緩やかなウェーブの栗色の髪は振り乱され、やや爆発したような……垂れ目がちの黒い瞳は、荒い呼吸と共に細められる。
ジェイクは青年の乱れた頭部を眺めると、バツが悪そうに後頭部に掌を当て
「……済まなかったな……。ちょっと……」
──言いかけて、言葉を止める。やがて……フ……と、柔らかな笑みを零し。
「……花を見ていた」
「花……ですか?」
青年は、視界を遠くに広げながら、周囲を観察する。しかし、今は緑に変わろうとする木々ばかりで、それらしきものは見当たらない。青年は微かに首を傾げた。 ジェイクは、そんな青年の様子にはお構いなしのようで
「宿は、見つかったのか?」
「あ、はい。此処からそう遠くはない場所に」
「そうか。……早朝には戻るぞ」
「はい…………はい!?」
かけられた声に、反射的に返答をしたものの、思いもよらない言葉に青年は慌て
「殿下……傷は……」
「もう痛みはない。心配するな。……宿は何処だ」
青年の声を、片手を上げながら制す。行き先を促すよう青年を見つめ、逆に問い掛けを。
「……こちらです」
言われるままに、青年は先を歩く。後ろを歩くジェイクを見る限り、足取りは確かなもので、痛みを感じさせるものは微塵もない。青年にはそれも不可思議の出来事で……時折……唸るような声を漏らす。その背中を、ジェイクは可笑しそうに見つめた。
やがてその涼しげな眼差しを空へと向け……月を仰ぐ。想うのは──────。
「……大丈夫だろうか……」
「……? 何か……?」
「……いや……」
それは呟きだったのだが。声は前を行く青年に届いたらしい。ジェイクは軽く首を横に振った。
二人が宿へと着いた暫く後……一台の馬車が慌ただしく神殿へと走り出した。無論、そのことに二人が気付くはずも無く──。
夕刻。陽の光が西の大地に隠れようとしている頃。コーエンウルフの王宮に二人分の足音が響き渡る。軽やかな足取り、颯爽とした身のこなしは真っ直ぐ謁見の前と向かっていた。謁見の間。その扉の両端には二人の近衛兵。向かってくる姿を認めると、姿勢を正し敬礼を。そして、速やかに扉を開けた。
「陛下。遅くなってしまい申し訳ありません。ただいま帰還いたしました」
開かれた扉。二人は部屋の中へと歩みを進めていく。中央の玉座に座るのは、コーエンウルフの王……その人だ。衣服の上からでも分かる非常に筋肉質なその体格は、数々の戦地で鍛え抜かれたのだろう。荒々しくも力強さを感じさせる眼差しが、部屋へと入る二人を捉える。
二人は軽く腰を折り、眼前の王へ一礼を。
「ああ、ジェイク。……いや思いのほか早い帰りだと思うが?神殿に寄ってきたのだろう?」
「……いえ。傷の痛みがなくなりましたので、途中で引き返してまいりました」
「ふむ……」
先に帰還してきた兵士に、報告を受けていたのだろう王は、二人の戻りの早さに意外そうに問いかけた。それもそのはず。仮に神殿まで足を延ばしていれば、治療を受けて戻ってくるのだ。早くてもあと3日はかかる計算だった。
「痛みが引いても、治ったわけではなかろう? 大丈夫なのか?」
王が気遣うように尋ねたその時……二人に割って入るように青年が声を上げた。
「陛下……! 申し訳ありません! 殿下をお守りする立場にありながら……私は……」
「ああ、良いマーカス。話は聞いている。二人とも無事だったのだから、それで良い」
「陛下……なんと……」
漸く名前が判明した青年……マーカスは、王の言葉に淡く涙を浮かべ、声を震わせた。
「私にそのようなお言葉……有難うございます……」
感激に打ち震えるマーカスを見つめるジェイクの眼差しは、何処か唖然としたような。僅か瞳を伏せ、意識を切り替えるように王へ向き直る。
「長旅で疲れただろう。今日はもう下がってゆっくり休むと良い」
「陛下……。なんとお優しいお言葉……」
王の言葉に感動をさらに深めたマーカスは、深々と頭を下げて謁見の間を後にした。
残った二人の間に、何とも言い難い空気が漂う。
「……あれは……前からあんな奴だったか……」
「……前からあんな奴でした……」
空気に耐えかねたように、王が先に声を出す。ジェイクはこめかみに指先を当て、やや俯き……絞り出すように声を出した。
「それはそうと……父上」
落とした目線を王に戻し、短い言葉を。──たったそれだけの事。
だが、先程の空気は一掃され、新たな緊張感が生まれた。
「なんだ? 遠征先で何かあったか?」
「いえ。そういう事ではなく……」
一旦言葉を止める。一呼吸置いているようだった。王は、玉座の肘掛けに肘を乗せ、ジェイクを見つめる。次の言葉を待つために。
程なくして届いた次の言葉……王は目を見開いた。
「今、俺に来ている縁談は全て断ってください。これから来る縁談も……全て」
「……どうした? ついこの前まで、外交の良いカードになるから、全部保留にすると言っていたお前が」
ジェイクは、一五にして自分の未来すら政争の切り札にしようとする……酷く冷静で頭の切れる少年だった。
王は、自身の片腕として息子を頼もしいと思う反面……不憫だと思うこともある。
だが、今の発言。それは王にとって……というよりは親として、非常に興味深いものがあった。
「事情が変わったんです。……代替案はこれから考えます」
「別に構わんが……。独身は貫くなよ?」
ニヤリと。上機嫌な笑みを浮かべて、王はジェイクを見遣った。ジェイクは、やや気恥ずかしそうに顔を背ける。それは王が今まで見たことのない表情だった。ジェイクは「失礼します」と言い残して、足早に謁見の間から去っていく。
後に残った王も、やがてゆるりと立ち上がり
「……面白い」
弾むような声で一言。
口元には楽しげな笑みを湛えたまま、その場を後にした──。
バサッ──。
一枚の大きな紙が机上いっぱいに広げられる。地図だ。ジェイクは書斎に居た。丸まった紙の端を両手で押さえながら、何かを探すように地図を端から端まで眺めていく。
長旅の疲れなど気にならないのか……鋭い眼差しに気迫のようなものが込められていた。
違う……此処にはいない……。
此処も……年齢が合わない……。
此処は……
「……はは……っ」
一通り見終えた後、目線を机上の地図に置いたまま自嘲気味に笑みを漏らし、力なく息を吐いた。
「そもそも、一三歳と姫だけじゃ情報が少なすぎるな。王女じゃなくて、貴族の娘かもしれないし……」
誰に語りかけるでもないその声は、非常に小さなもので。瞳に落ちてきた藍の髪を掻き上げる。手を放したことで広げられていた一面の地図がクルクルと丸まり、筒状に。ジェイクはそれを、丁寧に再び広げた。
……すると。
「殿下。こんな所でどうされましたか?」
「マーカス……なかなか神出鬼没だな……」
「……は……?」
地図に集中していた為か、足音に気付かなかったのだろう。
突如現れたようなマーカスの姿に、いささか当惑し。
「いや、何でもない。お前こそどうして此処に?」
「いえ、私は騎士団長に挨拶と報告を……で、その帰りです。」
「……ああ、そうか。通り道だな」
「はい。明かりがついていたので覗いてみましたら……調べものですか?」
そう言いながら、マーカスは部屋の中へ入ってくる。ジェイクは向けられた言葉に、しばし沈黙を。考えるように目線を周囲に彷徨わせた後
「……まあ……そんなところだ」
肩を竦めつつ、言葉を返した。マーカスはそれに軽く頷く。
……と、何か思い出したように
「そうだ!殿下。傷は本当にもうよろしいんですか? 」
「……あぁ……」
言われて。徐に、避けた服の間から傷口に触れる。……途端、地図はまた筒状になり、今度はジェイクの足元へと転がり落ちる。マーカスは慌ててそれを拾おうと手を伸ばした。
「……大丈夫だ。傷もない」
「ええ!? 本当ですか?」
「……不思議だな……」
横腹は勿論、腕の傷すら消えている。この状況に、ただただ驚きを隠せない。……けれど。
夢じゃない……。あの夜は……
確信できる現実に、知らず瞳に光を宿す。
マーカスが拾い上げた地図を受け取り、再び机上に広げた。
「……あ。この国……綺麗なところらしいですよ」
「え?……」
そう言ってマーカスが指差した場所は、もう地図から切れかかっている場所。
「……サマーシア?」
「はい。東側諸国なので、コーエンウルフと直接関わることはありませんが……」
コーエンウルフは所謂大陸の西側にある。故に、この地を中心に描かれているこの地図には、概ね中間寄りの聖地サシャーナから東側の地域は、ほぼ描かれていない。
マーカスが指差しているのは、その地図の端にあった。
「サマーシアは比較的平和な国で、此処に行くにはなかなか厳しい山地を抜けるようですが、四季折々の花が咲き誇り、それは綺麗な国だそうですよ。そのせいか『花の国』とも呼ばれているそうです」
「……詳しいな。マーカス」
「前に訪れていた旅の詩人に聞きました。銀細工も有名だそうで……これ。その時その詩人から買ったんですけど、精巧でしょう?」
言いながらジェイクに差し出したのは、マントの留め具。一見シンプルな一枚の葉に見えるが、よく見ると葉脈などが細かに描かれている。ジェイクは、感嘆したように
「……凄いなこれは」
地図を手放し、その留め具を受け取る。掌に乗せ、近づけたり、光にかざしてみたり……ひとしきり堪能するとマーカスにそれを戻し
「良い買い物だな」
「でしょう? 使うのが勿体無くて、持ち歩いてます」
「……ははっ……」
ジェイクは、相槌を打つような笑みを浮かべながら、地図を綺麗に巻き直して、所定の場所へと戻した。その様子を見ていたマーカスは
「……もう、よろしいのですか?」
「ああ。お前から良いヒントを貰った。……戻るぞ」
「あ……はい」
ジェイクの言葉にマーカスは、訳が分からないような表情を。
けれど、お構いなしに先を歩き出すジェイクに、慌ててついて行く。
「花の国……か」
呟きは、大きく響く足音に掻き消える。
その足音もやがて遠く──小さな音へと──。