<5>王宮最後の
カサカサと葉擦れの音がする。少し風があるのだろうか。
細く穏やかな月が見下ろす大地は、あんな大きな騒動があった事など、嘘のように静けさを湛えていた。
コンコン……。扉を叩く音がする。
バルコニーへ続く扉から、夜空を見ていたジェイクは、軽く扉へと振り返った。
「殿下。マーカスでございます」
「ああ。入れ」
その言葉を合図に扉が開かれる。
入ってきたのは、言うまでもなくマーカスだ。
「失礼します」
「……準備が終わったんだな」
「はい。明朝……いつでも出発出来ます」
「そうか。……ご苦労だった」
その言葉を言い終える前に、歩き出したジェイクは、入口からすぐ見えるソファへと、腰を掛ける。
テーブルには、まだアリシアの手作りの見取り図が置いてあった。
ジェイクがマーカスに座るよう指先で促すと、マーカスはジェイクの向かいに腰を下ろした。
「外を……見てらしたんですか?」
「ああ……」
「恐らく……アリシア様は、国境を過ぎた所でしょうかね」
「……そうだな」
マーカスの言葉にジェイクは言葉を返す。……けれど、その声はいつになく覇気がない。
ジェイクの眼差しも、何処を見ているかよく分からないような、ぼんやりとした目線。
マーカスは、静かに言葉を向けた。
「……心此処に非ず……ですか?」
「ああ……いや……すまん……」
向けられた声に、ジェイクは軽く手を上げるけれど。
眼差しの弱さは変わらない。
……細く息を吐いた。
「この部屋……こんなに広かったんだな……」
ぼんやりと部屋を見回しながら、呟くのはそんな事。ソファに深く座り直すと、いつも寝ていたベッドへと視線を流した。
「……もともと、二人部屋ですからね……」
マーカスが、声を返す。
ジェイクに釣られたのか……マーカスの声もいつになく沈んだ様に聞こえた。
不意にジェイクが小さく笑う。
「……殿下?」
「いや……らしくないな……」
視線はベッドの方へ向いたまま、涼しげな眼差しが淡く揺れる。
切なげなジェイクの表情をマーカスは見ていられなくなったのだろう。緩やかに視線を外した。
「無理もありません。先程まで、ずっと傍に居られた方ですから……」
「ああ……。傍に居た……。この先も……それが当然だと思っていた」
薄く浮かべる笑み。眼差しは静かに閉じられる。
──瞳の奥……映し出される笑顔を思い出すように。
「結婚の約束をしたんだ……。ディクソンが来る……少し前に……」
その言葉に、驚いたようにマーカスは逸らした瞳をジェイクへと戻した。
「……それは……」
ジェイクのあまりにも憔悴した姿に、マーカスはため息のような言葉を向ける。こんなにもジェイクを小さく感じた事は無い。────けれど。
……それは無理もない話だ。結婚の約束の直後に連れ去られるなど……天国から地獄へ突き落されるようなもの。なんてタイミングの悪さだ。
……マーカスの瞳に涙が潤む。
「……お前が泣く事ないだろ……」
不意に向けた眼差しの先……ジェイクが見たのは、マーカスの涙。
自身より年上のはずなのに……少し可笑しくて、笑った。
「す……すみません……」
「いや、別に謝ることもないが……」
慌てて涙を拭うその姿に、また笑みを重ねる。
マーカスも、ジェイクの笑みに安堵したのか、釣られるように小さく笑った。
「そういえば……意外でしたよ? 殿下が公衆の面前で、あんな大胆な口づけをされるとは……」
思い出したようにマーカスが告げる。
ジェイクに向けたのは、少し涙交じりの何処か楽しげな声。
「あれは……っ……」
途端にジェイクの頬が淡く染まっていく。慌てたようにマーカスへ視線を移すけれど、恥ずかしそうに直ぐさまその視線を外す。
「……あんなのキスじゃない……」
言葉は言い捨てるように。腕で赤らんだ顔全体を隠すように、口元を隠した。
「必死だったんだ……。あいつ……俺と別れるつもりだった……。そんなの……許せるはず無いだろ……。夢中だったんだ」
途切れ途切れに紡がれるジェイクの言葉は、普段の涼しげな口調とはまるで違う声だった。
前髪をかき上げながら、背中を後ろに反らし、眼差しを天井へと。
露わになる感情は、愛しさも悲しさも内包する。
感情のままを言葉にするジェイクに、マーカスは切なげに瞳を揺らした。
「殿下……」
「……初めてのキスが、あれだなんて……認めない……」
「…………は?」
続いたジェイクの言葉に、マーカスの表情が固まる。
驚いたようにジェイクをまじまじと見つめた。
どうしても……聞き捨て出来ない言葉だった。
「……殿下……初めてって……。今までアリシア様と……」
「……何もない……」
「……あれだけ一緒に居て? この部屋で一体、何日二人だけの時間を過ごしたと思ってるんですか。全く何も無かったわけ……」
「何もしてない。……手なんか出せない」
「……ええええええぇぇっ!!」
驚きに満ちたマーカスの声は、部屋中に響き渡る程の大きな音。
ジェイクは天井に向けていた視線をマーカスへと戻した。表情は、未だ仄かに赤みを帯びている。
「……なんだ。何か問題でもあるのか」
「いいえっ……。寧ろ婚姻前のお二人に、何かあった方が問題です。何事もなく……それは喜ばしい事だと思います。……が……」
マーカスは、両の掌で前方を押し出すように腕を出し、その手をひらひらと横に振る。しかし、その後ジェイクを上目遣いに見遣った。
「……よく……耐えられましたね……?」
「…………自分でも驚いてる…………」
ジェイクは足を組み、背もたれに腕を乗せ身体を横に向ける。そのまま視線も横に逸らした。
「……大切なんだ……。強引な事して傷付けたくない……」
「殿下……それほどまでに……」
マーカスが呟いた言葉は、驚嘆に満ちていた。
どんな感情も表す事の無かったジェイクが……王と共に歩むこと以外に、何の興味も示さなかったジェイクが……この短期間で、こんなにも表情豊かな青年に、変わってしまった。
婚姻ですら、外交の一つとして捉えていなかった青年が、たった一人の女性を、こんなにも大切に想っている。
「アリシア様……」
「……どうした?」
驚嘆の表情のまま、不意にマーカスはその名を呟く。
ジェイクは不思議そうに、マーカスを見遣った。
「いえ……偉大な方だなと思いまして……」
「アリシアが?」
「ええ……まだ出会って二か月足らずですよ? なのに、殿下の変わりようと言ったら……」
「変わった……か……」
ジェイクは考えるように、瞳を彷徨わせる。
……前にもそんな事を、言われた気がする。あれは、いつだったか……。
──不意に、笑みを零した。
「殿下?」
「いや……そうだな」
浮かべた笑みを、不思議そうに見つめるマーカスに、ジェイクは軽く片手を上げた。
「変わったのは、アリシアのせいだ」
告げた言葉は、いつかの夜に呟いたそれ。
悪戯じみた笑みと共に、涼しげな声色が僅かに弾んだ。
その表情……その口調にマーカスも笑みが零れる。
「酷いですね。悪者扱いですか? 私はアリシア様を、尊敬しますが」
「……もう、戻れない」
「殿下?」
「俺は、アリシアに出会ってしまった。……気持ちが動いた。──出会う前には戻れない」
それは、強い言葉だった。眼差しの奥に光が輝く。
マーカスは、ジェイクの強い表情に安堵したように、瞳を細める。
「初めての出会いが三年前でしたっけ……? 殿下の傷が、消えた晩の事でしょう?」
「……その話。したことあったか?……」
「聞かなくても、もうわかります」
不思議そうに問いかけるジェイクに、マーカスはゆっくりと頷いた。
三年前……重症だった傷が、あっという間に消えた事。
急に婚姻の申し出を、全て断った事。
アリシアがレイアの娘だった事。
アリシアの顔を見て、ジェイクが動揺した事。
──全ての点が、一本の線に繋がる。
「全て……あの三年前の夜から、始まっていたのですね」
「そう言われると……運命的だな」
あの月の夜……まるで夢みたいな景色の中で、輝く花を見た。
遠く思いを馳せるジェイクの言葉は、呟くような小さな声。
告げながら、テーブルに置かれたアリシアの見取り図を見つめる。細かく丁寧に描かれている間取り。繊細な印象を与える、柔らかな文字を指でなぞった。
「アリシアは俺を信じると……待つと言ってくれた。俺は……あいつを諦めない」
「……ええ。勿論です」
「必ず……取り戻す」
「お供しますよ。……私も、アリシア様が居ないと寂しいので」
「はは……。喋り相手だからな」
ジェイクの言葉に楽しげに頷くと、マーカスは立ち上がる。
「そろそろ失礼しますね。……明朝一番に、お迎えに上がります」
「ああ……頼んだ」
一礼して扉へ向かうマーカスをジェイクは軽く見つめて、自身も立ち上がる。
マーカスが扉の向こうへと消えるのを確かめると、再びバルコニーへ繋がる扉へと向かった。
「……同じ空を……あいつも見ている……」
扉から大きく見える空。アリシアは此処から見える景色が好きだった。
夜の闇を淡く払う月の光。頼りなさげに降り注ぐその光を受けて優しく色づく庭園の花々……木々の緑。
ジェイクは、映し出されるその景色を、焼き付けるように……見つめ続けた。




