<4>馬上の夜
夜が、景色を呑み込もうとしていた。
夕焼けの赤は既に無く、淡い光が遠い大地を照らすのみ。
アリシアは、スタンリーと共に馬上に居た。
ディクソンは、前を行く馬の上。
アリシアと一緒に馬に乗ると主張して聞かなかったのだが、何かあった時に守れるようにと、スタンリーが提案し、アリシアがそれを了承した。
スタンリーは気にも留めないが、時折振り返るその赤い眼差しは、恨めしそうに見えた。
「姫様……大きくなられましたね……」
その言葉にアリシアはスタンリーを見上げる。一見強面だが、実際は穏やかな性格の持ち主だ。その性格が口調にも表れている。
ジワリと温もりを感じる声に、アリシアは微笑んだ。
「もう一六歳よ? 大人だもの」
「いえ……まあ……。そうですね」
無邪気な言葉に、スタンリーは乾いた笑みを浮かべる。スタンリーから見れば十分子供なのだが、そこは反論するわけにもいかないだろう。
────それでも。
「……三年……ですからね……」
感慨深げに、息を吐く。三年前……まだあどけない蕾のような少女だった。
光に触れると花のように輝く銀の髪と、大きな緑の瞳がとても印象的で、弾けるように笑う少女だった。
──今はどうだろう。随分と身長も伸び、しなやかな体の曲線は、優美さを漂わせる。
時折見せる凛とした表情は、もうあの頃の少女のものではなかった。
アリシアの横顔を見下ろす、スタンリーの瞳が潤みがちになる。
「よく……生きておいででした……」
今にも涙ぐみそうなスタンリーの表情に、アリシアは瞳を細める。
……スタンリーは知らないはずだ。アリシアが先にサシャーナへ旅立っていたことを。
恐らくスタンリーは、アリシアが谷底から、奇跡の生還を遂げたと思っている。
──返答に気を付けなくてはならない。
アリシアは考えるように、眼差しを下へ落とした。
「……姫様?」
「この三年……。何か変わったことはある?」
逸らされた瞳。訝しげに問いかけたスタンリー。返ってきた言葉は、アリシアの知らない三年間の出来事の問い掛け。
確かに何があったかは気になるだろう。ゆっくりと頷いた。
「この三年間、サマーシアの王位は空白のままです。政治はバーナム殿が宰相として取り仕切っていますが……」
言葉を告げながら、スタンリーの表情が徐々に曇っていく。
口調すら沈むような声に、アリシアはスタンリーを見上げた。
「……噂は聞いているわ。軍事政策に転換したとか……。フォゼスタを狙っているの?」
その言葉に、スタンリーは驚愕した様にアリシアを見つめた。
軍事政策はともかく、フォゼスタの話は、国内でも少数の者しか話を知らないはずだ。
「一体……何処でそのような話を……?」
「ああ……えと。フォゼスタに来る途中の森の中で……傭兵の方とお会いして……」
「傭兵……成程……。傭兵の中では、噂にもなりましょうな……」
納得した様にスタンリーは息を吐いた。
とかくディクソンは、傭兵を使いたがる。今もこの道中……スタンリー以外はディクソンが雇った傭兵だ。──だからこそ、躊躇なくスタンリーに剣先を向けることが出来たのだ。
元々スタンリーを使って、アリシアを強引に奪う計画だったのだろう。スタンリーを同行させたかった理由も、これでよく理解出来た。
……理解出来ても、了承は到底出来るものではないが……。
スタンリーはディクソンの背中を睨むように見つめた。
「……大きな声では言えませんが……バーナム殿は、銀細工市場拡大のため、フォゼスタの港を利用したいようです」
「……だったら、フォゼスタと話し合えば良いじゃない」
「姫様の言う通りです。……ですが、バーナム殿は港を意のままに使いたいのでしょう。そうなると、占領するしかありませんからな……」
「そんな……!……」
アリシアの声は、やや責めるような音。知らず握った拳に力が入る。
けれど……スタンリーが決めた事ではない。……スタンリーを責めるべきではない。
刹那……アリシアは、勢いで出した言葉を後悔した。
「……ごめんなさい……」
呟くようにそう告げると、アリシアは申し訳なさげに俯いた。スタンリーは俯くアリシアに、穏やかに笑った。
「良いのですよ……。バーナム殿に、何も言えない私達にも非はあります。……ですが」
スタンリーは、そう告げて言葉を一つ区切った。
途切れた言葉に、アリシアがスタンリーを不思議そうに見上げる。
笑みを湛えたままのスタンリーと瞳が重なった。
「近いうちに……何とかして見せます」
力強い声と共に……言葉が、アリシアに降り注ぐ。
アリシアはその言葉に……声に、嬉しそうに頷いた。
何か策があるのだろうか……。そんな問いかけは必要無いように思えて。
背筋を伸ばし、グイ……と顔をスタンリーに近づけた。
「私に出来る事があったら、教えてね? 手伝うから」
「ははっ! これは頼もしいですな」
楽しげに弾むアリシアの声。何か悪戯を目論むような眼差しに、スタンリーは声をあげて笑う。
アリシアもスタンリーの表情に釣られるように楽しげな笑みを浮かべた。
「それでは次は、何を話しましょうか……。三年前……ああ……」
紡がれた声はやや小さめのもの。スタンリーは前を行くディクソンを見遣る。ディクソンが此方を見ていない事を確認すると、低く声を落とし
「姫様がご存知の事か、分かりませんが……。バーナム侯爵夫人……姫様の伯母様はお亡くなりになられました」
「──え?──」
アリシアは、耳を疑った。
バーナム侯爵夫人……つまり、ディクソンの妻。……サマーシア王妃の姉の事である。
アリシアを産んで間もなく亡くなった母に比べ、とても快活な女性だったという記憶がある。
思いがけない言葉に、驚いたように瞳を開いた。
「やはり、これは御存じではありませんでしたか。……殿下と姫様が、あのような事になる少し前の事だそうです。私も事件後、暫くして知ったのですよ……」
「……御病気だったという話は、聞いてないわ……」
「御自宅のバルコニーから転落したそうです。……手すりが朽ちていたとかで」
「何てこと…………」
アリシアの表情から、見る見るうちに色が消えていく。
知らない間に、また一人親族を失っていたのだ。
フラリ……身体が揺れた。
「……大丈夫ですか……」
スタンリーの大きな手がアリシアを支える。……憔悴するのも無理はない。
アリシアには、もう家族と呼べる人物は、誰一人いない。
そしてまた、身近な人間を亡くしたのだ。心中察するに余りある。
「有難う……大丈夫……」
「……とてもそうは見えませんが」
言葉とは明らかに違うアリシアの様子に、スタンリーが息を吐く。何処でそんな平気なフリを、覚えてきたのか。
アリシアを叱るように見つめると、眉を顰めた。
「ふふ……。スタンリー……お父様みたいね?」
アリシアがスタンリーの様子に小さく笑うと、スタンリーは大きく瞳を開く。
「……いけません。恐れ多い事です」
「だって、そう思ったんだもの」
「……相変わらずですな……」
思ったことが直ぐ口に出る。そんな昔のままの、アリシアが居る。
アリシアを見つめるスタンリーの瞳が、懐かしさに緩んだ。
しかし、そんな瞳が直ぐに引き締まる。前方……ディクソンが、此方の様子を振り返り見た瞬間だった──。
スタンリーの声色が一段と低く下がる。
「姫様……お気を付けください」
「……え?」
「夫人が亡くなった今……姫様とバーナム殿の間にあった壁は、もうございません」
「……そうね……」
低く……小さく紡がれたスタンリーの言葉に、アリシアはゆっくりと視線を下げる。
独身に戻ったバーナムと、アリシアの間に障害はない。歳の差はともかくとして、バーナムは堂々とアリシアに求婚が出来るという事。
強引に婚姻を結ばれる可能性も、無いわけではない。
「……あちらの王太子殿を……愛してらっしゃるのでしょう?……」
スタンリーが言うその人は、ジェイクの事だ。
藍の髪の……圧倒的な存在感を持つ、涼しげな瞳の気高い青年。
けれど、彼がアリシアを見つめる瞳に、厳しいものなど何一つ無かった。
別れの時……向けられた眼差しの強さが、忘れられない。
「…………分かるの?」
「……秘密にしてらしたんですか?」
アリシアが、驚いたように問いかける。けれど、その言葉はスタンリーにとっても意外な言葉で。
お互いがお互いを驚いたように見つめた。刹那、二人は小さく笑い出す。
やがてアリシアは静かに言葉を。
呟くようなアリシアの声は、切なさ交じりの優しい音。
「大切な人なの……。気持ちが溢れすぎて……上手く言葉に出来ないけど……」
「ええ……よく分かります」
「あの人が居るから……私はもっと強くなれる。あの人は私を守ってくれるから……私もあの人を守りたいの」
そう告げるアリシアの声は、変わらず優しい音だったけれど……確かな強さを感じた。新緑の瞳に光が見える。
スタンリーはアリシアを眩しげに見つめた。
「姫様……。美しくなられましたな……」
「……なに? 突然……」
突然の言葉に、アリシアはスタンリーを不思議そうに見上げた。
問いかけには返答を返さず、穏やかに微笑むと
「……姫様の事は、何があっても私がお守りします。あちらの王太子殿と約束いたしましたので……」
返答の代わりに紡がれたスタンリーの言葉は、アリシアに更なる疑問を抱かせるものだった。
キョトンと首を傾げると
「……そんな話……。っていうか……。ジェイクとスタンリーは、言葉を交わしてもいないでしょう?」
「交わさなくとも、通じる言葉もあるのですよ」
アリシアの言葉を、スタンリーは穏やかな笑みのまま……曖昧な言葉で返した。
それ以上何かを説明することもないスタンリーに、アリシアは、頭に疑問符を乗せたまま頷くしかなった。
「……さあ。もうすぐサマーシアです。王都はまだ先ですので、今晩はこの先の村で、一晩過ごすことになるでしょう」
不可解な表情のままのアリシアに声を掛けると、スタンリーはまっすぐ前方へ視線を向ける。
それに習うようにアリシアも目線を前へ。既に景色は夜のものだ。
淡く光る月は、星の光に紛れそうなほど細く、心許無い……遠く見える村の明かりに向かって、一行は一本の道を進んでいった。




