<3>さよならは言わない
「……いやあああああぁぁっ!!……!……」
庭園に響き渡る──声…………悲鳴。
────アリシアだ。
身体全体で声を張り上げるそれは、まさに絶叫。
ジェイクはアリシアに惨劇を見せないように、咄嗟にアリシアの頭部を自身に押し付け、腕で囲う。
叫んだ後……そのまま、アリシアは力を失ったように、ジェイクの身体に全体重を預けた。
──呼吸が荒い。
その身体を支えるように抱き締めるジェイクは、アリシアの耳元に顔を寄せる。
静かに、落ち着かせるように……言葉を告げた。
「……大丈夫だ。何も起きてない」
そう。振り下ろされた剣はスタンリーを斬り裂いてはいなかった。
スタンリーも細く息を吐く。元々、スタンリーを斬るつもりはないのかもしれない。
しかし、こんな事を繰り返されては、アリシアの心が持たない……。
ジェイクはディクソンを睨み付けた。
ディクソンは、響いたアリシアの声に満面の笑みを浮かべ、わなわなと両腕を震わせながら高く上げていく……。
やがて歓喜の声を上げた。
「なんと……なんと美しい声でしょう! 姫様が……漸く声を上げてくださった。こんな……こんな素晴らしい事はございません」
「…………狂ってるのか…………」
唸るように、ただそれだけを呟くとディクソンを見るジェイクの表情は、異形の者を見るようなものへと変化していく。
ディクソンは高らかに宣言する。恍惚な笑みを浮かべながら
「さあ姫様! 今回は何事もありませんでしたが、次はどうでしょう?」
「……やめて……」
アリシアが、震えながら呟く。その声はあまりにも小さく……ディクソンには届かないだろう。
けれど、ジェイクにその声は届く。
ジェイクは、アリシアの声の代弁をするように強く言葉を向けた。
「やめろ! 王宮の中で血を流す気か!」
「姫様の御決断一つですよ!」
そう言って、ディクソンは再びその手を振り上げ────。
「やめてええぇぇっ!!」
同時に、大きく叫ぶアリシアの声。
ディクソンは上げた手を途中で止めた。
ニヤリと口角が上がる。
アリシアは震える身体を必死で抑えようと、身体に力を込める。
ややあって、何か決意するようにジェイクの胸元の服をギュッと握りしめた。
……ジェイクの瞳が強張る。
「……ジェイク……」
「……駄目だ」
ジェイクにはもう、アリシアが何をしようとしているかは、分かっていた。
アリシアの言葉を止める。動けないように……きつく抱きしめた。
「……私……」
「言うな」
言葉を遮るその声は、願いのようなものも織り交ざる。
知らず……腕が震えていた。
アリシアは……首を横に振る。
そして、ゆっくりと顔を起こし……ジェイクを見つめた。
…………涙が溢れていた。
アリシアは、ジェイクに声を────。
────ジェイクはアリシアに顔を寄せる。
「ごめんなさ……────」
アリシアの柔らかな唇に、ジェイクの唇が重なる――。
……アリシアが、言葉を最後まで声にすることは、出来なかった──。
こんなにも空が青くて。
こんなにも太陽が眩しい。
咲き誇る花々は色鮮やかで。
二人だけが余りにも切ない────。
口を塞ぐだけの口づけだった。
言葉を止める為の口づけだった。
けれど、その時間は永遠のような、刹那のような……二人だけの時間だった。
やがて……ジェイクはアリシアの唇を開放する。
いつの間にか閉じられていたアリシアの瞳が、緩やかに開いて……。
「……ジェイ……」
「聞くんだ」
アリシアの言葉を遮ると、ジェイクが静かに言葉を落とした。
見上げるアリシアの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「────必ず迎えに行く。……待って居てくれ。お前は一人じゃない」
アリシアの瞳が、大きく開かれる。……その言葉に。……その眼差しに。
「お前は俺と生きる。そうだろ?」
ジェイクの言葉が、耳の奥で優しく響いていく。
アリシアはコクリと頷いた。
そうだ……そんな幸せな話をしたのは、つい先程の話だ。
「必ず行く。迎えに行く。……信じて欲しい」
「──待つわ。……信じてる……」
涙交じりのアリシアの瞳が、細められる。
ジェイクに向けたのは、柔らかな笑み。
どうしてこの人の言葉は、こんなにも温かいのだろう。
いつも私を、前に押し出してくれる。……包んでくれる。
「ジェイク……有難う」
「……まだ何にもしてない」
感謝の言葉を告げるアリシアの声は、もう先程までの震える小さな声ではなく、確かに響く強い声。
ジェイクはアリシアに優しい笑みを向けた。
そんな二人の様子を見つめるディクソンの表情は、怒りに満ちていると言っても過言ではなかった。
突然訪れた二人だけの世界に、誰も介入することが出来ない。
忌々しげに唇を噛みしめると、強引に空気を打ち破るように、殊更大きな声を張り上げた。
「姫様! 何をなさっておいでですか! この者の命は良いのですね!?」
その言葉に────アリシアの表情は一変した。
ジェイクは瞳を見開く。
アリシアの気品にも似たその強い眼差しは……いつか見たあの時と同じ──。
変わるアリシアの、凛とした佇まいに驚愕し……微笑んだ。
「ディクソン……。剣を下げさせてください……」
そう告げると、ジェイクの元から身体を離し……ディクソンに向き直る。
「私の名は、アリシア・プリムローズ。サマーシアの第一王女です」
声は、ジェイクのような圧倒的な響きは持たない。
優しく包み込むようなその音は、耳の奥で静かに響く。
ディクソンは、喜びに打ち震えた。
「ああ……やはり貴女様は、姫様で御座いましたね。何という美しい声でしょう……」
アリシアの声を、全身に染み渡らせるように大きく息を吸うと、瞳を閉じたディクソンは恍惚の笑みを漏らす。
アリシアは、強い眼差しのままディクソンを見据えた。
「剣を下げて。────此処は王宮です。恥ずかしい行為はお止めください。サマーシアの品位を疑われます」
「その通りでございます。──これ。何をしておるのだ! 剣を収めよ!」
ディクソンは、アリシアに恭しく一礼すると、慌てて騎士達に剣を収めさせる。
騎士は、一斉にスタンリーから離れ、剣を鞘に戻した。
これでスタンリーは、漸く命の危機から解放されることになる。
アリシアは、それを見届けると安堵したように息を吐き……振り返る。
「……ジェイク……」
「……ああ……」
お互い見つめ合い、重ねる笑み。交わした言葉は、たったそれだけ。
アリシアはゆっくりとディクソンの元へと歩き出す。
ジェイクは、守るようにアリシアを見つめた。
「……スタンリー」
「……はっ」
数歩進んだところで不意に立ち止まり、アリシアがスタンリーへ声を掛ける。ディクソンとの距離はまだ遠い。
スタンリーは短い声と共に即座に駆け寄り、アリシアの元で跪いた。
「…………お願い……。私を守って……」
やや俯くことでスタンリーと眼差しを合わせたアリシアは、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
小さな声……その表情は切実で。
……誰からとも、何からとも言わない。しかし、王室を見守ってきたスタンリーには、その言葉だけで十分理解出来ただろう。
スタンリーは、顔を動かさず視線だけをジェイクに向ける。
ジェイクは何も言わず、表情も変わらない。けれど、強い眼差しがスタンリーを見つめていた。
スタンリーは静かに頷きを返す。
「勿論です。……姫様。私は貴女様のもの。我が命に代えましても……」
「あ……駄目。命は駄目。……それは良いの」
その言葉に、慌ててアリシアが両手を横に振る。……スタンリーは小さく笑った。
「……相変わらずですな。姫様は」
言いながら立ち上がると、アリシアへ自身の手を差し出す。
アリシアは、その手に指先を重ねた。そのまま二人は歩き出す。
「……挨拶は宜しいのですか?」
チラリ。後ろを振り返りながら、スタンリーは気遣うようにアリシアに声を掛ける。
その言葉を受けてもアリシアが振り返る事は無い。
──切なげに瞳を揺らした。
「……良いの……。振り返ったら……行けなくなってしまう……」
振り返れば、間違いなくジェイクの元へと掛けていく。それ程に心が求めている。
アリシアは胸元の服にそっと触れ……ギュッと握りしめた──。
「……声を掛けなくて良かったんですか?」
いつの間にか隣に来ていたマーカスが、ジェイクに声を掛けた。
既にディクソンと合流したアリシアは、王宮の門を出ようとしていた。
ジェイクは、その場に立ち止まったまま……ずっとアリシアから眼差しを外さない。
やがて、その姿は王宮から姿を消した──。
「……良いんだ……。声を掛けたら引き留めてしまう……」
「引き留めたらよろしいじゃないですか!」
「そんなことしたら、またディクソンが何しでかすか、分からない」
「殿下……」
「……アリシアが壊れてしまう……」
ジェイクは、藍の前髪を掻き上げながら、表情を隠すように俯いた。
「……愛してらっしゃるんですね……フィオナ……。いえ……アリシア様を」
その言葉にジェイクがゆるりと顔を上げ、薄く笑みを浮かべた。
「……別に、言い直さなくても良いだろ」
「いえ……流石にもう……さっき名前宣言しちゃってましたし……」
「ああ……そうだな……」
そう呟くと、ジェイクは庭園をぼんやりと見つめた。
来た時と何一つ変わらない花々。見上げれば空の青さが眩しい。
……静かな景色だった。
「愛してる……。その言葉が、俺の気持ちを代弁するのに、妥当な言葉なのか分からないが……」
「殿下……」
「──その言葉以外に、適当な言葉が無いのなら……何度もその言葉を重ねよう」
告げた言葉は、優しげな……愛しげな音。酷く柔らかな笑みを零した。
そうしてジェイクは踵を返す。
「殿下。どちらへ?」
「王に謁見だ。今の事と、これからの事を報告する。──明朝には出発するぞ」
「ええっ? どちらへですか?」
「サマーシア国境だ。アリシアが居ない以上、此処に留まる理由はもう無い。サマーシアの情報を知るにも、サマーシアに入るにも、国境なら直ぐだ。……行くぞ」
「……はいっ!」
既に歩き出しているジェイクを、追い掛けるようにマーカスも歩き出す。
その足取りは迷いのない確かなもの。
やがて二人は王宮の中へと消えて行く────。




