<1>青空の下の約束
大雨が去って十日余りが過ぎようとしていた。穏やかというよりは、やや強い陽射しが大地を照らす。
しかし、吹き抜ける風はまだ冷たく、日陰でじっとしていると感じるのは、肌寒さ。
フォゼスタの王宮は、普段に比べて慌ただしくなっている。ジェイクの指示により、部隊の編成をやり直したからだ。国境付近に居たジェイクの部隊は二つに分かれ、そのうち一つはフォゼスタ王宮の警備……というよりアリシアの警護に入った。
フォゼスタ王の協力により、フォゼスタの一部の騎士も国境の警備に当たっている。
カイル達一行は、既にサマーシアでの潜伏活動を開始しているだろう。
準備は万端だった。
「兵士は足りますかね。隣国の応援要請も視野に入れますか?」
「……いや。あまり露骨に動くと、サマーシアに変に警戒されるかもしれない。今はこの位で良いだろう」
「そうですね……。では、いつでも応援要請が出来るように、準備しておきます」
「ああ、頼んだ」
此処は、ジェイクとアリシアが使用しているフォゼスタ王宮の客間。
ジェイクとマーカスが熱心に打ち合わせをしている中、アリシアは二人から座るソファから少し離れたベッドの上で、ちょこんと所在なさげに座り、二人を眺めていた。
ソファの間にあるテーブルには一枚の紙が広げられている。アリシアが書いたサマーシア王宮の見取り図だ。
「それにしても……内乱はいつなんですかね……」
「……待ち遠しいのか。不謹慎だぞ」
「いえ、そういう訳ではありませんが……」
ジェイクの咎めるような言葉に、マーカスが身を竦める。
しかし、マーカスの言い分が、分からない訳ではなかった。何しろ内乱が始まらない限り、此方は身動きが取れないのだ。
「……今は、アリシアの身の安全が最優先だ」
ジェイクはソファの背もたれに腕を置き、瞳を細める。
視線の先に──アリシア。
申し訳なさげに身を縮めて座るその姿が、少し可笑しくて……クスリと小さく笑った。
「アリシア」
ジェイクが、声をアリシアに投げる。……いつもの涼しげな声。
けれど、アリシアに向ける時のそれは、少し優しげに響く。
アリシアがその声に、ジェイクへ眼差しを向けた。
「気晴らしに、庭園にでも散歩に行くか?」
「……え……でも……」
アリシアは、気遣うようにマーカスを見遣る。今はまだ、話し合いの最中だった筈だ。
けれどマーカスは、頷くように首を傾げながら笑みを
「大丈夫ですよ。大体の話は終わってますから。お気に為さらず行ってらっしゃい」
「……マーカス様は?」
「外は暑そうですからねぇ……。此処でゆっくり涼ませていただきます」
言いながら、掌を自身に向けて仰ぐ。
と、思い出したようにアリシアに向き直ると
「フィオナ殿。流石にマーカス様はやめましょうよ。私が殿下みたいじゃないですか」
「ああ……良いんじゃないか? たまに俺になるのも」
既にソファから立ち上がり、アリシアの方へと歩み寄っているジェイクが、間に入るように言葉を。
マーカスは、慌てて大きく首を振った。
「とんでもない! おかしな冗談はやめてくださいっ。……もう、フィオナ殿のせいですよ?」
その声に、アリシアは新緑の瞳を数回瞬かせ、口元を指先で覆った。
「……あら……ごめんなさい。──マーカス様?」
「わざとですね。……絶対わざとですね……」
その言葉に、マーカスがヒクヒクと口元を震わせ、怒りにも似た表情をアリシアに向ける。
アリシアは楽しげに、傍らへと辿り着いたジェイクの陰に隠れた。
ジェイクもアリシアの肩に腕を回し、マーカスから隠すように誘導しながら、入口へと歩き出す。
「……じゃ、後は頼んだぞ。……マーカス様?」
「――――でんかああぁっ!!」
マーカスの怒鳴り声を背中に、慌てて二人は部屋の外へと。
残されたマーカスは、肩で大きく呼吸をしながら入口の扉を睨みつける。
やがて、ドカッと大きくソファの背もたれに身体を預けた。
「……全く。殿下まであんな事仰るとは……」
言いながら大きく息を吐き、巻き毛の髪をクシャクシャと掻き上げる。
……けれど、不機嫌だった表情は変わっていく。
楽しいような……嬉しいような……そんな笑み。
「……良い傾向です……」
そう呟くと、マーカスはバルコニーへ続く大きな扉から、空の青を遠く見つめた。
「……気持ち良い……」
庭園に出て、大きな空の真下。
景色を吸い込んでしまうかのような、大きな深呼吸をしたアリシアは、空の色を眺めながら、声にした。
日差しを強く感じるからか、風の冷たさが心地良い。
風に流れる銀の髪を、片手で押さえながら、歩き出す。
「ああ……良い天気だ」
ジェイクはアリシアの少し後を歩く。
視界に庭園の花々や木々の緑を映し出しながらも、見つめるのはアリシア。
その瞳は眩しげに細められた。
二人から離れた場所で、数人の騎士が二人を見守る。アリシアの警護の騎士達だ。この景色に不釣り合いではあるが、この際それは仕方ない。
「最近……ヴェール付けないな。俺に正体ばれたからか?」
ジェイクがアリシアに向けた言葉は、問い掛け。あの晩、ヴェールを外して以降……アリシアはそれを付けていない。
アリシアは、掛けられた言葉に立ち止まると、ジェイクに向き直り、考えながら緩く頷いた。
「確かに……ヴェール付けてる時は、外したら流石に分かっちゃうなって……思ってた。……でも……」
「……でも……?」
繰り返される言葉は、再び問い掛けに変わる。
ジェイクのその声に、アリシアは軽く眼差しを下げる。
「……ヴェールを付けている間は、フィオナで居られたの。……フィオナとして生きる事を許されていた。だから……外すのが怖かったの。……私はもう……アリシアではないから。アリシアは居ないから……。ヴェールを外した私は、誰なんだろう……って……」
「……アリシア……」
「……でもね?」
切なげに揺れたジェイクの眼差し。
その名を呟く声が痛々しく聞こえて、アリシアは殊更弾むように言葉を繋げる。
両の手を後ろで組みながら、ジェイクの表情を下から覗き込むように見上げ
「あの晩……貴方が言ってくれたの。アリシアなんてどうでもいいって」
まるで、アリシアがジェイクを慰めているような……そんな構図。
ジェイクに向けた笑みは酷く穏やかで、同じように紡がれる言葉も穏やかな……優しい声。
その言葉に────ジェイクは、驚いたように大きく瞳を開いた。
「ジェイクの傍なら……私は誰でなくても良いんだ……って。……そう思えた。……だから外したの」
アリシアはクルリと反転。ジェイクに背を向け、数歩進む。
そうしてまた立ち止まると、再びジェイクへと向き直り。
「思えば、出会ってから今まで……ジェイクの言葉に救われてばかりよ? ……私、ジェイクに生かされてるんだわ。まるで、私の神様みたい」
無邪気に向けた表情は満面の笑み。新緑の瞳が柔らかく細められる。
広がる銀の髪が太陽の光を浴びて、空の青に溶けていく。
……それはあまりにも眩しくて──。
「──っ……──」
ジェイクは大きく一歩踏み出し、アリシアの腕を捕まえた。
そのまま強引に自身の胸元へ抱き寄せる。
「……ジェイク?」
抵抗する事もないアリシアの身体は、すんなりとジェイクの元に辿り着く。
一瞬何が起きたのか分からなくて……不思議そうな眼差しでジェイクを見上げた。
ジェイクは切なげな笑みをアリシアに見せると、強く抱き締める。
──アリシアの耳元に……声が響く。
「アリシア……結婚しよう」
「……え……?……」
──トクン──
大きく……アリシアの胸の鼓動が跳ねた。
ジェイクの言葉は続いていく。
耳元で響く、涼しげな声。
「……本当はこの件が終わって、落ち着いたらゆっくり言おうと思ってた。……お前の居場所は俺の隣にある。この先もずっと……お前と一緒に生きていきたい」
アリシアの表情は、驚きの色を映し出す。そのまま……固まったように動けない。
ジェイクは、アリシアの身体を少し離し、固まったままのアリシアの眼差しを、真っ直ぐに見つめた。
「ずっと傍にいる。──もう、離さない」
「……ジェイク……でも……」
固まったアリシアの表情が、漸く……戸惑いがちに動く。
向けた言葉は、ぎこちなく揺れた声に乗って。
「私には今、何の後ろ盾も無いのよ。……コーエンウルフ王太子の貴方が、私と結婚しても……何の得にもならない。……貴方のお父様が……許してくれないわ」
「──なんだ。そんな事か……」
ジェイクは、アリシアの言葉を軽く一蹴するかのように、細く息を吐く。
「そんな事って……」
「俺が、婚姻の申し出を全て断った時点で、その話はついてる。これは、国同士の契約結婚じゃない」
「ジェイク……」
「他に何か、言う事があるか?」
「…………」
「返事なら、イエスしか聞かない」
「それ……横暴……」
アリシアの瞳から、見る見るうちに涙が溢れた。
──胸の奥が熱い。
ジェイクは笑みを浮かべながら、指先をアリシアの目元へ伸ばし、優しく涙を拭う。
「……返事は?」
「……勿論……イエスよ……」
アリシアは、潤んだ眼差しのまま笑みを浮かべる。そうして、ジェイクの胸の中に顔を埋めた。
ジェイクはアリシアの頭を優しく撫でながら、静かに……けれどアリシアに届く確かな声で、言葉を紡ぐ。
「……大事にする。……大切にする」
「──これ以上? 私これまでも十分……大切にして貰ってるわ」
アリシアが顔を上げ、驚いたように瞳を瞬かせた。
ジェイクはその表情を包むように、片方の掌をアリシアの頬に添える。
────その時だった。
「……なんだ……?」
王宮入口付近が急に騒がしくなる。
王宮の門と此処……庭園は然程距離が離れていない。
ジェイクは、遠く入口に視線を投げた。
「────!?────」
──途端。ジェイクの瞳が、驚愕に包まれる。アリシアを抱き締める腕に、知らず力が入った。
アリシアからは、ジェイクの腕が壁となるため、入口の様子が見えない。
ジェイクの表情の変化に、戸惑うように言葉を掛ける。
「……ジェイク……?……」
「…………ディクソン・バーナムだ」
「──!?──」
その言葉に、アリシアの身体が大きく揺れた。




