<9>二つの思惑
雲一つない夜空だった。先日の大雨の名残など、とうになく。
煌々と輝く月の光は、鮮やかに彩り美しい庭園を照らし出した。
丁寧に育てられている庭園の花々は、王の執務室の窓からよく見える。
仕事の合間に庭園を眺めるのは、サマーシア王の楽しみの一つだった。
「……あんな花の何処が良いのか……」
ディクソンは吐き捨てるようにそう言うと、窓のカーテンを閉めた。王亡き後この執務室は、ディクソンが我が物顔で使用している。勿論、それを咎める者など一人も居ない。
程なくして、執務室の扉を叩く音が聞こえた。
「おお。待っていました。お入りください」
ディクソンは来訪者を待っていたらしい。
その音に誰かを訪ねることもなく、その者を迎えようとする。
キイ……。
扉が静かに開かれた。
「……バーナム殿……。こんな時間にどうされたのです」
入って来たのは筋肉質の精悍な男だ。年齢はディクソンより少し若い位だろうか。
日に焼けた肌と赤茶の髪が、より一層男の逞しさを際立たせる。
「良い話があるんですよ。スタンリー殿」
「……良い話?」
スタンリーと呼ばれたその男は、あからさまに訝しげに表情を歪めた。
白髪のこの男の良い話に良い事など今まで何一つ無いのだ。
しかしディクソンはそんな表情を意に介した風でもなく、言葉を続ける。
「ええ……。言おうか言うまいかこの数日ずっと悩んでいたのですが……先に貴方にはお話ししておいた方が良いと思いまして」
「…………はあ……」
いやに勿体付けた話しぶりに、スタンリーは若干うんざりする様な返答を。
この男はいつも前振りが長い。
その上に自己陶酔をし始めるから、厄介なのだ。
「ほら。貴方、王室護衛隊の護衛隊長でしたでしょう?今はその才能と資質を買われて王国騎士団の騎士団長にまで上り詰めていますが」
「──!──。陛下に関わることなのですか?」
スタンリーの目の色が変わった。先程とは口調も違う。
ディクソンは向けられたその言葉に、ニヤリと口角を少し上げた。
「ええ……。実は、アリシア様が見つかったのです」
「──なん……ですと……!……」
スタンリーの表情が驚愕の色に包まれた。
有り得ない。信じられないのだと、全身がそう表現する。
「……ですが……。貴方は姫様が崖から落ちるのを目の前でご覧になったのでしょう? 翌朝の滝壺の探索には私も同行しました。……確かにお姿は見つかりませんでしたが、あのような状況で生きておられるとは到底信じ難い……」
「ええ。私もそう思います。ですからこれは奇跡なのです。まさに女神がこの国を御救いなさろうと、姫を甦らせたのです。……若しくは」
「……若しくは?」
ディクソンが言葉を区切る。嫌に意味ありげだ。
スタンリーの先を促すような問い掛けに、わざとらしく顎に指先を引っ掛けながら、不気味にも見える笑みをスタンリーに向ける。
「……あの晩は、雨の降る夜でした。月の光も届かない場所で、姫様は外套のフードを深く被って……その美しいお姿を隠してしまっておられました。……私の呼びかけに返事をくださることもなく……」
「……何が言いたいのですか」
怪しく光るディクソンの赤い瞳。
スタンリーは警戒しながらも、不可解な言葉を口にするディクソンに不満げに眉を顰めた。
そもそもディクソンの呼びかけに、姫が返事をする筈が無い。それだけ姫は、ディクソンに怯えていたのだ。
それは当時の誰もが知っている。
「……あの時、殿下と共におられた方は、姫様ではなかった……という事です」
「バカな……!」
「殿下が、その方をあたかも姫様のように扱っていらしたので、私もてっきり姫様なのだと思っていましたが……これは、殿下にまんまと騙されましたかな」
明らかに、王子を軽視するような物言いに、スタンリーは怒りを覚えた。
王を暗殺した王子が、王女を連れて逃亡。
それを追いかけて制裁を加えた者がディクソンだという事は、誰でも知っている。
しかし、王子を悪く言う者は誰も居ない。
寧ろ今でも愛すべき人物だ。
何故なら、この悲劇には裏があると誰もが思っている。あんなに仲の良い家族に、そんな悲劇が起こる訳がない。
しかも王子の性格は酷く穏やかで、激情に駆られて誰かを傷つける事など決して有り得ないのだ。
スタンリーは、人知れずため息のような息を吐き、静かに言葉を声にした。
「……貴方が見つけたという、その女性が人違い……という可能性の方が高いと思いますが?」
その言葉に、ディクソンは逆上したかのように、一際大きな声を張り上げた。
「そんな事はありません! 私が姫様を見間違う訳がないでしょう!?」
赤い瞳がスタンリーを睨みつける。
スタンリーはその勢いに、若干圧されそうになるものの、一呼吸置いて冷静に言葉を繋げた。
「……一体、何処でそのような方とお会いしたのです?」
「先日……フォゼスタへ、我が国の難民の件で謝罪しに行った時の事です」
「ああ……」
スタンリーの気の無い返事が室内に漂う。
フォゼスタとサマーシアの国境にいる難民が、実は傭兵だという話は騎士団長のスタンリーは知っていた。
サシャーナへ向かう民が、本当の難民なのだ。
「謝罪という名の様子見ですな」
「人聞きの悪い事を仰る。……まあ良いでしょう。そこでコーエンウルフの王太子殿の一行とお会いしました」
「コーエンウルフ……!? 西国の覇者ではないですか!?」
フォゼスタは西国に位置する国だ。
コーエンウルフの同盟国なのか従属国なのかは知らないが、もしどちらかならフォゼスタへ訪問するのも納得出来る。
「しかも王太子殿とは……!」
スタンリーは、驚愕をそのまま口にした。
ディクソンはしかし苦々しい表情を浮かべる。
「王太子殿の奥様も同行していましてね。……その奥様が、我が姫様だったのです……」
「…………バーナム殿。それは間違いなく人違いでしょう。王太子妃殿下ですぞ」
スタンリーはその言葉に、こめかみに指先を当てつつ大きく息を吐いた。
「まさか、御夫妻に無礼な真似はしてないでしょうね?」
ディクソンは、姫の事となると見境が無くなる。我を忘れると言っても過言ではない。
流石に、西国の覇者を敵には回したくないスタンリーは、ディクソンに確認するように尋ねた。
「……王太子殿には、嫌われたようですが。……しかし、あの方は間違いなく姫様なのです! あのようなお美しい方が、この世に二人も存在するはずがありません!」
「一体何をしたんだ貴方は……」
ディクソンの言葉に返す声は、呆れたような表情と共に。
「……仮に姫様が生きておいでで、今コーエンウルフの王太子妃殿下になられて居られるなら、それはそれで素晴らしい事ですよ。コーエンウルフという、大きな後ろ盾を得る事が出来ます」
スタンリーは努めて冷静に、諭すようにディクソンに告げる。その言葉は誰が聞いても納得出来る、極めて正論だった。
「……いいえ。……いいえ……いいえ!!」
ディクソンは、大きく首を横に振り声を荒げて否定する。
……否定というよりは拒否……だろうか。
「姫様は、王太子殿に誑かされておいでなのです! 私を……サマーシアを捨てて、他国の王子と結婚なさるなど有り得ません!! ……私は、姫様をお救いしなければ」
明らかに独り善がりの解釈だ。どう考えればそうなるのか、理解出来ない。
スタンリーは呆気に取られて言葉を失う。
「サマーシアはともかく……お前からは逃げるだろうよ……」
スタンリーは表情を隠すように、壁際に視線を移す。
吐き捨てるように告げた言葉は、極々小さな声で。
逆上に身を任せるディクソンには、聞こえていない。
言葉は続く。朗々と。
「そもそも国の王族同士の婚姻は、両国の王の合意の元に成立するものでしょう。今、我が国に王は居ませんから、宰相を務める私の合意が必要な筈です。しかし私は合意などしていない。この婚姻は無効なのです。…………ははっ……そうだ。……無効だ!!」
ディクソンはそこで何か思い付いたのか、高らかに笑い始めた。
「スタンリー殿。姫様をお迎えに参りましょう。あの方はサマーシア王家プリムローズの最後の姫様。プリムローズを名乗る、たった一人の尊いお方です」
「人違いでなければの話でしょう? その方が、アリシア様という確証はありませんよ」
「確証など必要ありません。あのお方は姫様なのです。私の目に狂いはありません」
「──無茶苦茶だ!! 貴方コーエンウルフを、敵に回すおつもりですか!?」
スタンリーが珍しく声を荒げて抗議した。
元々思慮深く、厳しくもあるが温和なスタンリーが、声を荒げる事など滅多に無い。
ディクソンは、胸の前で両の手を開きスタンリーに向けた。
「落ち着いてください。敵に回すなど……正当な主張を申し述べるだけです。婚姻は無効とし、姫様は我が国にお帰り頂く。その上で改めてお互いが婚姻を求めるなら、両国の合意を経て、婚姻なされば良いだけの事」
──落ち着くのはどっちだ。
スタンリーは喉から今にも出そうなその言葉を、寸前のところで呑み込んだ。傍にあるソファに、徐に座り込み頭を抱える。
「……念の為伺うが、お二人が婚姻を求めれば、その結婚に合意なさるおつもりが、あるのですか」
スタンリーは、投げやりに声を落とし問いかける。
……返事など聞かずともわかっていたが。
「……姫様が婚姻を求めるはずがありません。騙されているだけなのです。……第一、サマーシアの正当な血を絶やしてはなりません。他国での婚姻などあってはならない事です」
──やはりだ。あまりにも想像通りの返答に、笑みすら漏れる。
「姫様は、サマーシアの女王となられ、宰相である私と結ばれるのです。そして私との愛の結晶であるお子が、後の王となられる。……おお……なんと素晴らしい……輝かしいサマーシアの未来が見えます」
最早聞くに堪えない。ディクソンは既に自己陶酔の中だ。
スタンリーは、立ち上がると入口の扉へと歩き出す。
「バーナム殿。私はこれで失礼します」
そう言って、入口の扉に手を掛けた。
──その時。
「スタンリー殿。姫様のお迎えには貴方も同行してもらいますよ」
ディクソンがスタンリーの背中に、声を掛ける。
スタンリーは、それには言葉を返さず部屋を後にした。
──パタン。
扉の閉まる音がする。
「……姫様。もうすぐです。──漸く愛し合う二人が、結ばれる時が訪れます」
ディクソンは、誰も居なくなったその部屋で、酷く幸せそうな笑みを浮かべた。
「……居たのか……」
執務室から出たスタンリーが目にしたのは、一人の若い騎士だった。
切れ長で鋭い眼差し。スラリとした体形……身長は大柄なスタンリーと同等か。
闇に紛れそうなほどの漆黒の髪が美しい。
スタンリーはその青年に一瞥すると、そのまま自身の仕事場である騎士団長の執務室へと足と向け歩き出す。
青年は、スタンリーに一礼すると後ろに控えるように歩き出した。
「……話を聞いていたのか」
本来ならば、皆が寝静まる時間であった。通路を歩く者はこの二人しかいない。
カツカツと足音だけが響く中で、スタンリーは後ろを振り向きもせず、静かに言葉を口にした。
「……大体は……」
青年も、足音に紛れるような小さな声で短く返す。
スタンリーは僅かに頷いた。
「そうか……準備を」
「……分かりました」
短い会話。小さな声。けれど、二人にはそれで十分だった。
青年は次の曲がり角でスタンリーの後ろを離れると、スタスタと、軽い身のこなしで消えて行く。
スタンリーは、後ろの様子は全く気にしない。
まるで最初から一人だったかのように、コツコツと、響かせる足音。
やがてその音も、自身の部屋へと消えて行った──。




