<3>鮮やかな時
それは一瞬だったのか。それとも永い時だったのか。──不思議な感覚だった。少女の唇が触れる傷口から、緩やかに何かが流れ込んでくる。心地良さすら感じるその感覚に、少年はいつしか身を任せていた。やがて、静かに瞳を開くと、視界の先……遠く……流れる雲を見つめた。
──その時。
「……っ……!!……おいっ……!」
急激に少女の体重が少年にかかる。そのまま力なくズルズルと落ちていくその身体を、慌てて抱き留めた。少女は、かけられた声に反応したのか腕を伸ばし、少年の服にギュッとしがみつく。
「……大丈夫……。ちょっと……食べ過ぎたみたい……」
そう言うと、立ち上がろうとしているのか、少年の服を掴んだ腕に力を込める。少年は身体を支えるように少女の腰に手を回した。少女は立ち上がりはしたものの、自信を支える力は到底無く。少年の胸元へと体重を預ける。少年はそれに応えるように少女の背中にもう片方の手を回した。
「……食べ過ぎた……?」
胸元に感じる少女の浅い息遣い。少年は少女を気遣うように見下ろすも、言葉が理解出来ず。問いかけるように同じ言葉を呟いた。
「……まだ、痛む……?」
問いかけには答えず。それともそれが答えなのか。吐息の合間に声を乗せるように、途切れ途切れの言葉を返す。少女の視線は足元へと落ちたまま。その表情を伺うことは少年には出来なかった。返された言葉に、ほんの僅か……悩むように視線を彷徨わせる。
痛む……? そうだ……痛みがあった。……痛く……?
「……ない」
そう。痛みがなかった。つい先程までのあの激しい痛み。呼吸すらままならなかった程の、あの痛みが。心なしか腕の傷の痛みすら……今は感じない。
──刹那。少女を抱きしめる腕に力を込め、驚いたように声を上げた。
「まさか……!……!」
「……ああ……良かった……。もう……大丈夫……ね……」
「食べたって……この傷……? レイアの娘なのか……?」
「………………」
痛くない。その言葉に、少女は安堵したように息を吐いた。続く言葉には声で返す力が無いのか……。少年の腕の中でゆっくりと首を横に振る。絹糸のような髪が揺れた。その否定がどの言葉に対してなのかは、確認せずとも理解出来る。
「……レイアの娘じゃなくても、こんなことが出来るのか……。サシャーナは凄いな……」
「……残念……私……この土地の者……じゃないわ……」
頭上から降り注ぐその言葉に少女は力なく笑った。そして、深い呼吸を何度も何度も繰り返す。強引に自身を取り戻そうとしているようだった。時折、ゴホゴホ……と深く咳き込む。少年は気遣うように腕の中の少女を見つめた。
「……横になった方が良いんじゃないのか?」
こうして、立ったままじっとしているより、横になった方が呼吸も楽だろう。そう思って声を掛けるものの、少女は再び首を横に振り
「大丈夫……。もう少し……このままでいて……」
「……ああ……」
「……ありがと……」
そう言うと、コツンと小さな額を少年の胸元に当てた。その仕草に少年は、はにかむような表情を。……知らず……笑みが生まれる。
涼しげな眼差しは優しく少女を見下ろした。
「……ね…………名前は……?」
「……あぁ……」
その問いに、ジェイクはふと首を傾げたけれど。そういえば……と言葉を続けた。
「名乗ってなかったな。俺はジェイクだ」
これまでの一連の流れを振り返る。あまりの展開。名乗り合う余裕などあっただろうか。フゥ……と、ため息交じりの息を漏らす。
頭上から感じたその小さな風に、少女はクスリと声を漏らした。そうしてゆっくりと呼吸を整え、自身の名を告げる。
「……アリシアよ……」
「……アリシア。……済まなかったな。俺の為に……」
その名を、繰り返し。少女……アリシアに謝辞を。
するとアリシアは、少年……ジェイクがアリシアの背に回している腕にそっと指先を添え、その腕をポンポンと軽く叩いた。それはまるで、幼子をあやすかのような仕草。
「気に……しないの……。目の前の……幼い少年が……痛がってるのに……見過ごすわけには……いかないでしょう……?」
「…………。だから、俺の方が年上だって……」
その言葉に、ジェイクはガクリと肩を落とす。この……息も途切れ途切れの状態で、何を言い出すのかと思えばそれ。腕の中の少女に振り回されている気が拭えない。アリシアの頭上に自身の額を乗せる。その耳元に……確かに声が届くように。
「……俺、一五だぞ」
「あら……。兄より……年下よ?……私とも……二つしか……違わないわ……」
「二つも下じゃないか」
「……大差無いわ……女の子の方が……成長早いって……言うでしょ……?」
「…………ハハッ…………」
ああ言えばこう言うとはこのことか。なかなか、引き下がらない。喋る事すら苦痛な筈なのに。その様子に、感嘆の意味も込めてジェイクは小さく笑った。
──その時。
「…………さま~っ?…………」
誰かを呼ぶ声。まだ遠くよく聞き取れはしなかったが……。その声は、ジェイクがやってきた道とは逆方向から。向こうにも道があったのか。ジェイクは顔を上げ、声の聞こえた先を見つめた。すると……
「…………行って…………」
「……アリシア?」
ジェイクの胸元を、両手で押し。アリシアはジェイクから離れようとする。途端……力なく崩れ落ちそうになるから、ジェイクは再びアリシアを抱き留める。けれど、アリシアは大きく首を振って、ジェイクから身を引き剥がそうとする。
ジェイクは、アリシアの様子に困惑の色を隠せずにいた。
「大丈夫だから……私……置いて……行って」
「……行けるわけないだろう?……」
こんな状態で、置いて行くなどと。何を言っているんだと……言葉を返そうとしたとき。近づく声に、今度は確かに言葉が聞こえた。
「姫様ー? 居るなら返事してくださいー」
「……姫……?」
呟くように、言葉を繰り返し。……ゆっくりと、俯くアリシアを見る。それは、酷くぎこちない動作だった。
アリシアは、身体全体で大きく呼吸をし……一気に声を。
「こんな状態の私と一緒に居たら……貴方が私に何かしたのだと……疑われるわ……ジェイクお願い……私は大丈夫だから……っ……!」
懇願───。それは悲鳴にも似て……。ジェイクから離れようとする細い腕は、小刻みに震えていた。
ジェイクは何かを考えるように、緩やかに瞳を閉じて……開く。
次いでアリシアを抱き寄せ、自身のすぐ傍にある木の幹にもたれかかるように座らせた。
アリシアを見つめる。新緑を想わせる澄んだ眼差し、白い肌……口元が少し汚れているのは、ジェイクの血の跡だろう──。
「汚れてるから……あまり見ないで……」
そう言いながら、アリシアは両手で軽く口元を隠す。けれどジェイクに見せたのは、安堵のような眼差し。ジェイクは、向けられた言葉に、呆れたように
「……バカ。……俺の血だ」
告げて。アリシアの頬に手を添える。そのまま自身の顔を近づけて、その小さな額に唇を乗せた。
──ほんの一瞬。それは触れるだけの口づけ。
「……本当に、大丈夫なんだな?」
「大丈夫よ……。ありがとう……」
「それは俺のセリフだ」
「……良いじゃない……?どちらでも……」
短い言葉を交わした後、二人は小さく笑い合う。
────酷く優しいひと時だった。程なくしてジェイクは立ち上がる。足音が近づいてきたのだ。傍に座るアリシアを見下ろし
「また逢おう……必ず」
言い残すように告げながら走り去った。無駄のない鮮やかな身のこなし。
やがてその姿は木々の先……茂みの向こう……暗闇の向こうへ消えていく。
「ええ……いつか……」
ジェイクの足音が消えた頃。呟くように、それを告げ。アリシアは緩やかに瞳を閉じる。逆方向から大きくなる声に耳を澄ませながら……その意識を途切れさせた。