<2>動揺の先
「フィオナ殿!?」
ジェイクの途切れた声に、マーカスが振り返る。けれど、ジェイクの陰に隠れてフィオナは見えなかった。慌ててジェイクの向こうへと回り込むと……。
「──!?」
マーカスは驚くように目を見開いた。フィオナの様子がおかしい。胸を抑えて苦しそうに……浅い息を何度も何度も繰り返す。
時折ふらつく体を必死に支えていた。先程のバーナムの衝撃が強すぎて、心身が混乱しているのだ。
ジェイクは、すぐさまフィオナを抱き寄せる。
「……ジェイ……」
「喋らなくていい」
苦しげに息を吸いながら……それでも無理に声を出そうとするフィオナ。
ジェイクはその言葉を止めた。ジェイクの胸元で大きく体を震わせ、酷く浅い呼吸を繰り返すフィオナの背中を、静かに撫でる。
優しく……耳元に届く大きさで言葉を流しながら。
「大丈夫……此処に……傍に居ます」
「…………」
「ゆっくり……ゆっくり呼吸をしてください。……大丈夫……」
耳元に届くその言葉。温かな……いつも傍に居る優しい声。
知っている……穏やかに包み込む力強い腕。
フィオナはジェイクに身を任せた。
──言葉に応えるように、ゆっくり……息を吐く。
「そう……ゆっくり……」
ジェイクに言われるままに、緩やかな呼吸を繰り返すフィオナ。時折咳き込むその背中をジェイクは変わらず優しく撫でる。繰り返し……繰り返し……。
次第に息苦しさは消えていくのか、強張らせていた身体が緩やかに解け始める。呼吸も落ち着いていつもの規則的なものへと変わっていく。
──ジェイクは静かに息を吐いた。
「……もう大丈夫ですよ……」
その声に、フィオナがゆっくりとジェイクを見上げた。……まだ不安の残る眼差しがジェイクの穏やかな表情を捉える。
ジェイクの言葉にコクンと頷き、その表情をジェイクの胸元へぶつけた。
その仕草にやや頬を赤らめながらも、ジェイクはヴェール越しにフィオナの頭に触れ
「……怖かったですね……」
静かに笑みを浮かべた。
「本当にびっくりしましたね。私もちょっと怖かったです」
フィオナの症状が落ち着いたことに安堵したのか、マーカスが胸元に手を当てながら息を吐く。
その様子にジェイクは眉を顰め
「お前が驚いてどうする」
「いやだって、凄かったですよ。あの赤い目つき。……バーナムでしたっけ?」
──その声に。
ジェイクから離れようとしていたフィオナの肩が微かに揺れたのを、ジェイクは見逃さなかった。
しかし、ジェイクはフォゼスタ王へ向き直り
「あの者は、サマーシアの宰相ですね。……どうして此方へ?」
「流石……よくご存じですね。その通り。あの方は、サマーシアの宰相を務めるディクソン・バーナム殿です」
ジェイクの問いかけに、フォゼスタの王は感嘆の声を上げた。
まさか東国のそんな細かい情報を把握しているなど、思いもよらなかったからだ。
「殿下。宰相ってことは……」
マーカスが気色ばんだ表情でジェイクを見遣る。
言いたい事は概ね理解できるジェイクは、静かに頷いた。
フォゼスタの王の言葉は続く。
「今回、国境地帯にサマーシアの民が流れている事を謝罪しに来られたのですよ。必ず解決するからと言って……穏やかな良い印象の方だったのですがね」
先手を打たれたか。下手に出て油断させるつもりなのだろう。
ジェイクは考えるように俯いた。
「しかし、王太子妃殿下を見てあんな風に乱心されるとは……。というか」
王はそこで言葉を止め、フィオナを見遣った。
フィオナは向けられた眼差しを不思議に思いながら、笑みを向けた。
王はその笑みに、ニコニコしながら言葉を続ける。
「こんなに美しい方とご結婚されていたなんて、存じ上げませんでしたよ。早速お祝いしなくては」
「……えっ……?」
フィオナがきょとんと首を傾げた。
この様子では先程のジェイクの台詞は聞こえていなかったようで……、何の話か分からず聞き返そうと──。
「申し訳ありませんが、その件は此処だけの話にして頂けると助かります。この一件が落ち着いてから公表するつもりで……」
「ああ! そうでしたか! それは申し訳ありません。他国の事なのに、そこまで心を砕いてくださるとは……感謝いたします」
横からジェイクが声を出した。ジェイクの言葉に王は心底感激したように、言葉を弾ませる。
二人の会話はそのまま順調に進み、フィオナは訳が分からないまま二人の会話を聞いていた。
「……では、今日はこのままごゆっくりされてください。長旅で疲れている事でしょう。今後の事は明日にでも。……部屋は用意させてありますので」
「有難うございます。気遣い感謝いたします」
ジェイクの言葉に合わせて、マーカスとフィオナもフォゼスタ王にお辞儀を向けた。
「……どうしてこうなってしまったのでしょう……」
日没が近いこともあって、三人は先に夕食を取ることになった。勿論王との会食だ。
軽い夕食にしてはやけにそのメニューは豪華で、何かの祝い事かと思わせるほど。
そこでも話題は、ジェイクとフィオナの話だった。
出会いは何処から告白は誰からまで……フォゼスタの王は痴話話が好きなようで、食事中ずっと質問攻めだった。
その質問に、曖昧な笑みを浮かべながら答えるのはジェイク。
フィオナは、頭上に沢山のハテナマークを生産しながら、相槌を打つことしか出来なかった。
長い長い質問攻めの食事を終え、ややぐったりした様子の三人は、漸く各自の部屋へと通されることになる。
そうして発せられたのが最初の台詞。
もう一度繰り返そう。
「……どうしてこうなってしまったのでしょう……」
乾いた笑みを張り付けながら、フィオナは部屋全体を見回し呟いた。
いくら客室にしても、一人用にしてはかなりの広さ。
しかしベッドは一つ。けれどそのベッドも明らかに一人で寝るには広すぎる。
傍らに居るジェイクも、何とも言い難い笑みを湛えていた。
「まあ……夫婦だから……って事ですかね……」
そう。この大きすぎる部屋に通されたのは、ジェイクとフィオナだった。
戸惑う二人を他所に、マーカスは一人別の部屋へ楽しげに行ってしまった。
「その夫婦設定です!」
フィオナが顔の少し前方に人差し指を出すと、ジェイクへと身体を向けた。
ジェイクは、その仕草にやや恐縮したように身を縮め、苦笑を浮かべる。
「その設定は、何処からどうしてやってきたんでしょう? 私さっぱりわからないんですけど」
「ああ……。フィオナ殿がパニックを起こしていた時だったのでしょう。覚えてないのも無理ありません」
ジェイクは部屋の中へと歩き出し、羽織っていた上着を緩慢に脱いだ。
それをソファの端に引っ掛けると、ソファにどっかりと座り。
「私は此処で寝ます。ベッドはフィオナ殿が使ってください」
「──駄目です。ジェイク様が其方で寝るなんてとんでもない。寝るなら私です」
そう言うと、フィオナはジェイクの元へと駆け寄った。
「私なら何処でも眠れますので、気になさらなくても大丈夫ですよ」
「それを言うなら、私だって何処でも眠れます。そもそも身体の大きさで言うなら、私の方がソファに相応しいでしょ?」
「……相応しい?」
その言葉に、ジェイクはクスクス笑った。
フィオナはソファの縁へ手を置くと、ジェイクを見つめ
「笑い事じゃありません」
それは、少し叱るような口調。ジェイクは薄く笑みを浮かべたまま
「ああ言わなければ、守れそうになかったんです──」
「え……?」
不意に向けられた言葉。
ジェイクは静かに瞳を閉じて……開く。
そうしてフィオナに向けたのは真剣な眼差し。
「あの男は、強引にでも貴女を連れ去るつもりだった」
「──!──」
あの男とは、言うまでもなく白髪の男……ディクソン・バーナムだ。
フィオナの瞳が大きく開かれる。
「私の妻だという事にしておけば、迂闊に手出しは出来なくなります。我が国を敵に回すほど、あの男も無能ではないでしょうから」
フィオナが自身を見失っている間に、あの男は居なくなっていた。
そんな攻防戦が繰り広げられていたことなど……気づきもしなかった。
──なんて事を言わせてしまったのだろう。
フィオナは口元を指先で覆うと、新緑の瞳を揺らした。
「……気にする事ではありませんよ。……それより」
ジェイクは此処で一つ言葉を区切った。
そうして一呼吸置き
「フィオナ殿。────あの男を知っていますね」
……フィオナの表情が止まった。




