<1>嵐の序章ともいうべきそれは
フォゼスタ王都に着いた頃、フィオナの首の傷は随分良くなっていた。傷自体が浅かったこともあるが、フィオナ始め……レイアの娘の自己治癒力は人一倍高い。傷跡はまだ痛々しく残っているものの、これもいずれ消えてしまうだろう。
そのフィオナの言葉にジェイクもマーカスも、ほっと胸を撫で下ろした。
「王都はやはり……違いますね」
行き交う人の多さは、サシャーナの村の方が多かったかもしれない。しかし整備された道路、統一感のある街並みは村のそれとは比べ物にならない。
フィオナは、瞳を輝かせながら景色を眺めていた。
ジェイクは、そんなフィオナを穏やかな眼差しで見つめる。
あの夜、男が話した情報を唯一知らなかったマーカスも、この道中でジェイクから事細かに聞いていた。
一行にとって、サマーシアは今や、警戒すべき国となっている。
「王が違うだけで随分変わるものですね。……あ、あそこは王ではありませんが」
マーカスがしみじみ告げる。
「……そうだな」
フェイクはフィオナをそっと見下ろしながら、軽く呟くように言葉を出した。
フィオナはこの話になると、表情が曇りがちになる。それだけでなく、時折不意に寂しげに新緑の瞳を揺らした。男が話した宰相の事が、余程衝撃的だったのだろうか。
その視線に気づいたフィオナが、淡い笑みをジェイクに向ける。
その笑みに答えるように、ジェイクも涼しげな瞳を細めた。
「……もう王宮です。今日はゆっくり休めますよ」
「……という事は、フォゼスタの王様にお会いするんですね? ちょっとドキドキします……」
フィオナは胸元に指先を添えながら、やや緊張した面持ちでジェイクの言葉を返す。すると、後ろから二人の会話に参加するマーカス。殊更驚いたように声を弾ませた。
「フィオナ殿が緊張するんですか!? 全く想像がつきませんけど」
「まあっ。マーカス様ったら酷いです。私、こんなにか弱い女の子なのに」
マーカスへ振り替えると拗ねたような、抗議のような口調でフィオナが言葉を返す。両の頬に両手を添えマーカスに表情をアピール。すると、
「……すみません。フィオナ殿が眩しすぎて、よく見えません……」
マーカスは、眩しげに手を翳しながら顔を背けた。
「もうっ。マーカス様ったら」
フィオナは腰に手を当てながら、頬を膨らませる。
いつものような二人のやり取りに、道行く人が笑みを零した。
その声に恥ずかしげに恐縮するフィオナ。
街角に小さな笑いが生まれた。
王宮の門を潜ると、直ぐに謁見の間に通された。話が通っているからだろう。名前を告げると、確認されることもなく馬と荷物を受け取られ、丁重に王宮の中へと案内された。
フィオナは恐縮するのか、ジェイクの陰に隠れるように歩みを進める。時折ジェイクの腕に触れる細い肩が可笑しくて、ジェイクは微かな笑みを浮かべた。
……そんな時だった。
「──!──」
今まさに、謁見の間から出てきたと思われる一行と、すれ違う直前……触れたフィオナの肩が、大きく揺れた。
ジェイクはすれ違う一行を見つめる。その中央に居る、中年男性の白髪がやけに印象的だった。
フィオナは顔を俯かせ、今まで以上にジェイクの陰に隠れる。……身体が震えているような気がした。
ジェイクは、フィオナの様子を気にしながらも、案内されるまま謁見の間へ入った。
「失礼致します」
「おお……コーエンウルフ王太子ジェイク・ハルフォード殿下。遠い所わざわざ御足労頂き、感謝いたしますぞ」
玉座に座っていたフォゼスタの王は、ジェイクを認めるや否や瞳を輝かせ、そこへ歩み寄ろうと玉座を下りる。
ジェイクは慌てて両手を王の前で広げ
「王様。どうかそのままで……」
「いえいえ。そういうわけには……」
ジェイクの制止も聞かず、王はジェイクの元へと下りてきた。その時だ。
「……?……」
何やら入口が騒がしい。何事かとそちらを見れば、近衛兵の制止を振り切って、一人の男性が入ってきた。先程すれ違った白髪の中年男性だ。
「……バーナム殿。どうしました?」
「……バーナム?」
王の言葉に、ジェイクの表情は険しく変わる。その名前は知っている。何故なら調べたからだ。
バーナムと呼ばれた男性は、王に掛けられた言葉など気にも留めず、入ってきた勢いのまま、一直線にジェイクの元へと歩いてくる。しかし目線はジェイクより下。その男……バーナムは明らかにフィオナを目指していた。……赤い瞳が怪しく光る。ジェイクは、とっさにフィオナを自身の背後に隠した。マーカスが、素早くジェイクの前に立つ。
「貴様! 入ってくるなり無礼ではないか!」
マーカスがバーナムに言い放つ。その声で漸くバーナムは立ち止まるも、目線は変わらずジェイクの背後に居るフィオナだ。
バーナムは震える声で、話しかける。……恐らくフィオナに向かっての、それは言葉。
「姫……。姫様なのでしょう……? 先程お見かけした時は、心臓が止まるかと思いました……」
「? 何を言って……」
マーカスの言葉に、耳を貸す様子など微塵も無い。バーナムは言葉を続けた。その眼差しは、何かに陶酔しているような……恍惚な光を宿していた。
「ああ……。生きておられたのですね。……この三年間私は貴女を失って、暗黒の世界を彷徨っていました。……しかし女神は、私を見離してはいなかった。姫……貴女は私の光そのもの。──さあ、私の手をお取りください。我らの国へ帰りましょう」
それはまるで演説だ。自分に酔っている。バーナムは高らかに歌い上げるような声で、告げたいだけ告げると、再びフィオナへと近付こうとする。その異様な様子に、マーカスはたじろぐ様に後退した。
「……何を勘違いしているのか分からないが……」
フィオナを背後に隠したまま、ジェイクの視線がバーナムを据え、言葉を。それは、研ぎ澄まされた静けさを宿した……声。
「彼女の名はフィオナ・ハルフォード。……私の妻だ」
「な……に……?」
ジェイクの言葉に、ゆるゆると眼差しをジェイクへと変えたバーナムは、そのままジェイクを睨みつけた。ジェイクを指差し、大きく声を荒げる。
「……妻……? 貴様……何を言っている? ふざけた事を申すな!!」
バーナムは大きく一歩……前へ踏み出た。マーカスが両手を広げ、ジェイクを庇う。今にもジェイクに襲いかかりそうな勢いに、近衛兵がバーナムの両腕を掴み取った。
「無礼な!! 何をする!」
「無礼なのは貴方の方ですぞ。バーナム殿」
近衛兵に怒鳴るバーナムを、諌めるように声を掛けたのは、フォゼスタ王だ。バーナムはそこで漸く我に返った。フォゼスタ王は深く息を吐く。
「貴方……今しがた帰国の途に就いたのでは? それを、いきなり戻ってきたかと思えば、制止する誰の声も聞かず。……あろう事かコーエンウルフの王太子殿に怒鳴りかかるとは」
「……コーエンウルフ……ですと……?」
バーナムの顔色が変わった。如何にバーナムの国が辺境の小国でも、流石にその大国の名前は知っている。西国の覇者だ。改めてバーナムはジェイクを……恐る恐る……見遣った。
涼しげ……というよりは冷たく、鋭い眼差しがバーナムを突き刺すように見据えていた。一瞬にしてバーナムの血の気が引いていく。
ジェイクは、バーナムにとっては息子と呼んでも過言ではない程……歳の離れた若者だ。
しかし、持って生まれた者なのだろう。
その身体から沸き立つ威圧感……そしてその気高さは圧倒的だった。
「しっ……しかし……その方は、私の……」
「黙れ」
それでも言葉を続けようとするバーナムに、ジェイクは静かに言葉を。短い台詞……しかし、そこに凄まじい圧力があった。
「礼儀をわきまえない者に、敬意を払うつもりはない」
「……くっ……!……」
「さあ、お帰り下さい。お連れの方も、待っておられるでしょう」
ジェイクの驚異的な言葉に、屈するように項垂れるバーナムを、宥めるように王が言葉を続けた。
王の言葉が合図だったのか、バーナムの腕を捉えていた近衛兵が強引にバーナムを歩かせる。
程なくして、バーナムは謁見の間を後にした。その様子を見つめ、マーカスがほっと胸を撫で下ろした……その時。
「姫! 諦めませんよ!──貴女が国を捨てるはずが無い!」
バーナムの声が謁見の間に響き渡る。──捨て台詞か。ジェイクは声の先を睨みつけた。しかしその声を最後に、騒々しい足音が遠ざかっていく。ジェイクも漸く細く息を吐いた。
次いで後ろを振り返る。……気がかりなその姿を見るために。
「フィオ…………!……」
──その名を呼び終える前に、ジェイクの表情が固まった。




