<7>さよならの一歩
「この薬は、必ず一日二回。……ちゃんと飲んでね? まだ完治してないんだからね?」
翌朝、念を押すように声を出しているのは、フィオナ。勿論それを聞いているのは、既に黒のマスクで顔を覆っている男だ。
「ああ、分かった。忘れてなければ、ちゃんと飲む」
「……忘れちゃダメでしょ」
男は、自身の目の前に出された小袋を受け取ると、抗議の眼差しを送るフィオナの前で、それを指先でクルクル回す。身体に痛みは感じない。
寧ろ傷を作る前よりも、身体が軽くなったように感じていた。
「ありがとな」
フィオナに向けた言葉は、心からの感謝を込めて。
フィオナは嬉しそうに微笑んだ。
「……これは、お前にやる荷物だ。水も食料も十分にある」
続けて声を掛けたのは、ジェイクだ。ジェイクの後ろで、マーカスが馬を引いている。それは、今までフィオナが引いていた馬で、その上に荷物が載せてあった。
それを見た男は、驚いたような声に言葉を乗せ、制止するように片手を前に出した。
「ちょっと待て。馬はいらん。その荷物も多すぎだろ」
「馬は売れば金になる。食料も元々大目に載せてたから、問題はない」
男の制止は聞かず、ジェイクは馬を男の前まで連れてくる。そうして、男の目の前に立つと
「……夜の情報の礼だ」
「あんたら……揃いも揃ってお人好しだな」
男は呆れたように息を吐く。ジェイクは含んだような笑みを、口元に忍ばせると
「……移ったのかもな」
ちらりと。傍らのフィオナを見つめた。
フィオナは、名残惜しげに男の黒の顔をじっと眺めていた。
「……また会える?」
「おいおい……会えたらびっくりだぞ」
フィオナの問いかけに男は瞳を丸くし、頭上のヴェール越しに、フィオナの頭をポンポンと叩く。
「じゃあな」
「……ああ」
先に男が立ち去る。朝の陽ざしもこの場所には淡い光で、そんな中、馬を引き連れながらも、器用に樹木の間を縫ってゆく。
──男が振り返ることはなかった。
「お二人とも……いつあの男と親しくなったんですか?」
男の姿が見えなくなった頃。おずおずとマーカスが問いかけた。
夜のあの時間……マーカスは仮眠中で、何があったのかを知らない。
ジェイクとフィオナはマーカスを見た後、お互いに眼差しを合わせ、小さく笑った。
「……行こう」
短くジェイクが告げる。──それが合図。
二人はジェイクに頷くと、ゆっくりと歩き出した。
あれほど彷徨った樹海も、抜けて元の道に戻れば、厳しい道のりではなかった。
道の狭さは変わらないものの、うっそうと茂る樹木に感じた薄闇の心細さを、もう感じる事は無い。
木々の隙間から零れる光の眩しさに、それぞれが瞳を細めた。
フィオナの馬は、男に渡してしまった為、ジェイクの隣を歩くフィオナは手ぶらだった。荷物は、ジェイクとマーカスの馬に分けて載せてある。
フィオナの荷物の大半は、乾燥させた薬草の類だ。かさばりはするものの、重量はそれほどでも無い。
「お手数掛けさせてしまって……すみません」
申し訳なさげに、フィオナがジェイクとマーカスに謝辞を。
二人の後ろを歩くマーカスが、慌てて首を振った。
「とんでもない! フィオナ殿の責任なんて、欠片程もありませんよ」
ジェイクもその言葉に頷く。
「貴女の馬をあの男に渡したのは、私の独断です。寧ろ、謝るのは私の方だと思いますが」
涼やかな眼差しが、フィオナを捉える。
フィオナは向けられたその言葉に、軽く顔を横に振り
「いえ……。あの人を思っての事でしょう? 異論はありません」
「…………」
「……?……」
フィオナのその言葉にジェイクは肯定を示さず、突然黙り込んでしまった。
フィオナは不思議そうにジェイクを見上げた。
「いえ……そうですね」
ジェイクは、濁すように返事をした。
馬を男に渡したのは、男を気遣ったわけではない。自身が手の届く場所に、フィオナに居て欲しかったからだ。
馬が間に入ると、どうしても手が届かない。
男に荷物を渡した事で、フィオナの馬に載せていた物を分割できたのは、逆に好都合だった。食料に不安はあるものの、今後今回のような事が無いとも限らない。
考え得るあらゆる対策を、打っておきたかった。
「体調はどうですか?」
「私ですか? 普段通りですよ」
ジェイクの声に、フィオナは笑みを浮かべながら、言葉を返した。
しかし、その言葉とは裏腹に、フィオナの顔色は誰が見ても明らかに悪い。白い肌が、いつも以上に白く感じる。つまりは病的だ。
フィオナは、前日から寝ていないに等しい。しかもほぼ一日中、男につきっきりで光を放っていた。体力など、とうの昔に失っている筈だ。
フィオナの体調を考えると、一日何処かで休息を取りたいところだったが、あの惨劇の後の場所で、もう一泊は勘弁したい。
そうなると、この山間を早く抜けるしか方法が無かった。
「今朝は、あまり食事を摂りませんでしたが……」
「力を使った後は、食欲が無くて……。いけませんね……これからこんな事が増えるのに、これでは……」
「何をバカな……。こんな事二度とありませんよ」
ヴェール越しに、頭を押さえつつ笑うフィオナの表情に、力はなく。
ジェイクは、フィオナの言葉にやや眉を顰め、フィオナの首筋に触れた。包帯の巻かれたその場所が痛々しい。
フィオナの瞳が僅かに揺れた。
「あ……いえ。治療の話です。これから沢山の怪我人の方と、向き合わなくてはならないのに……」
「一日中治療に従事するような、過酷な環境にするつもりはありません。……というか……」
ジェイクは、何かを言いかけて止めた。
フィオナから視線を外し、考えるように前を向く。
フィオナが首を傾げた。
「……何でしょう?」
「……貴女を、お連れして良いものか……悩んでいます」
「……? その為に同行しているんですけど」
「…………」
確かにフィオナの言う通りだ。部隊を離れ、わざわざ神殿に出向いたのもその為だ。
しかし、あの男の言葉が頭に響く。
──あそこは近いうちに戦場になる──
そんな場所へ……わざわざ危険だとわかっている場所へ……フィオナを連れて行くのか……。
「戦場になれば、私の出番が増えますね。……頑張りますよ?」
思いつめたような表情にも見える、ジェイクの眼差し。
フィオナは、その目線に映るようにジェイクを覗き込み、楽しげな笑みを向けた。そうして、弾むような足取りでジェイクの少し前を歩く。
ジェイクはその後ろ姿を眩しげに見つめた。
「私は、神殿を出てしまいました。帰る場所は、無いと思っています」
続ける言葉は、歌うように軽やかな声に乗せて。
「だから……この役割を頂けてるこの期間だけは……」
クルリと、ジェイクの方を振り返る。
──そうして見せたのは満面の笑み。
「……私に居場所をください」
朝焼けの木漏れ日が、フィオナと溶け合う。
朝露の残る木々の葉が、光を生み……フィオナと重なる。
その景色は、まるで一枚の絵画のように煌めいて……ジェイクはフィオナから目が離せなかった。
「……あ……っ……」
ジェイクに微笑みながら、後ろ向きで歩いていたフィオナは、何かに躓いたのか、足が絡まったのか……体勢を大きく崩した。
ジェイクは大きく一歩を踏み出し、フィオナの腕を引く。
「……有難うございます。失敗しちゃいました」
力強く引かれた身体は崩れ落ちることなく、そのままジェイクの胸元へ。
フィオナはジェイクを見上げ、小さく舌を出すと、軽く肩を竦めた。
「……あまり……無理をなさらないでください……」
ジェイクのその言葉は、絞り出すような声。煌めくフィオナを眼前にして、その言葉が精いっぱいだった。
顔色なんて無い……体力なんて無いのに。精いっぱいの明るさで……精いっぱいの笑顔。不安も不満も表情に出さず、いつものように弾む足。──心が震える。
そっと、フィオナを傍らに開放すると、そのまま歩調を合わせて歩みを進めた。
「……気を付けます」
こつんと。片手で拳を作り、頭に乗せたフィオナ。
ジェイクと同じように歩みを進めた。
早くもなく遅くもなく……フィオナに合わせた歩調。向けられる気遣いも、優しさも……いつもそこにある。見上げれば、いつもそこに居る。
──あたたかい。
傍に居るだけで安心できる。……心が穏やかになれる。
フィオナは、少し……ほんの少しだけ。ジェイクに寄り添うようにその距離を縮めた。
けれど時は残酷で、それは誰にでも平等で
いつかその時が来るのでしょう
だからせめてそれまでは────




