<5>目覚めの後の
男が目を覚ましたのはジェイクが仮眠を終え、マーカスと火の番を交替して暫くの頃だった。
フィオナは食事を終えて直ぐに男の傍で治療を再開していた。山場を越えて、集中して治療する必要が無くなったのか、フィオナの光の放出は断続的なものに変わっていた。
遅まきながら首筋の処置もしたのだろう。フィオナの首には包帯が巻かれていた。
ジェイクの腕の中でうたた寝して以降……フィオナは一睡もしていない。
ジェイクはフィオナの様子を気にしつつも、邪魔にならないように静かに火の傍で座っていた。
「……う……」
呻くような男の声が聞こえる。
フィオナは瞳しか見えない男の表情を見つめた。
男の瞳がゆっくりと開かれる。
「……具合はどう?」
フィオナが、静かに声を掛ける。
男は声の主が何処かわからず、虚ろな瞳を彷徨わせた。ややあって、焦点が合ってくる。淡い光に浮かび上がるフィオナを見つけた。
……刹那、男の瞳が大きく見開く。
「……あんた……。目が覚めるくらい綺麗だな……」
「…………」
問い掛けの返答にしては、明らかに方向性の違う言葉にフィオナは眉を顰める。
「……お世辞を言える元気があるなら、もう大丈夫ね」
そう言うと、未だ治療中の腹部を軽く叩いた。
「いって……!……患者にはもっと優しく……」
「十分優しいわよ。もうそんなに辛くないでしょ」
「ああ……確かに……」
男が考えるまでもなかった。驚くほどに、身体が軽い。
フィオナに出会う前の苦しみも、痛みも……まるで嘘のように。
「……助かった……」
男は、心底安心したように息を吐いた。
「まだ完治とまではいかないけど、朝までには動けるようになるわ。今はまだゆっくりしてて」
フィオナの言葉に、軽く目線で頷くと、男はじっとフィオナを見つめ
「あんた本当に娘だったんだな……」
「嘘だと思ってたの?」
フィオナはその言葉に、呆れたように声を出す。
その声を耳の端で聞いたジェイクが、視線をフィオナへと向ける。
「あいつ……意識が戻ったのか……」
二人の会話の様子を認めると同時に立ち上がり、徐にフィオナの方へと歩き出した。
「いや……まあ。半信半疑では……あった。だって信じられるか? レイアの娘だぞ?」
レイアの娘と言えば、サシャーナの神殿だ。そもそも娘が神殿から出るなど考えられない。
そこはフィオナも頷かざるを得ないわけだが。
「……まあ。正確にはレイアの娘じゃないんだけど……」
「レイアの娘としての時期を逸しただけだ。娘としての能力は、誰よりも長けている」
会話に割り込むように、言葉を付け足したのはジェイクだ。憎々しげに男を見下ろしている。
男は驚いたようにジェイクを見上げた。
「よくこの場所に入れたな」
「……お蔭様で」
ジェイクは、男とフィオナとの間に割り込むように立った。故に、フィオナからジェイクの表情は一切見えない。
しかし、明らかに敵意むき出しのその口調に、その表情は容易に想像が出来た。
「あの……ジェイク様? 落ち着いてください……」
「貴女に傷をつけた男ですよ? どうやって落ち着けと」
「……それは悪かったと思ってるよ。仕方ないだろ。こっちだって、命がかかってたんだから」
「命がかかったら人を襲ってもいいのか」
「何でもするさ。あんただってそうだろ」
「貴様……!……」
「ジェイクさま……っ」
フィオナは治療中で身動きが取れない。
辛うじて空けた片手でジェイクの腕を引っ張ると、今にも男に殴りかかりそうなジェイクを見上げた。
「彼はもう私の患者です……! 彼に手を出したら許しません!」
「フィオナ殿……」
言葉とは裏腹な……必死に懇願するような表情。
ジェイクは、しがみつくフィオナの腕を、振り払う事は出来なかった。
「それと貴方。ジェイク様は命が関わるような事態には陥らないから、変なこと言わないで」
「ははっ……。あんたがお守りするってか? 良いご身分だな」
「……!!……」
ジェイクは再び激情に駆られる。
けれど、次の言葉が……それを止めた。
「……? 守られているのは私の方よ?」
フィオナは、不思議そうに首を傾げ男に告げた。
意外な言葉にジェイクも、男も……時が止まる。フィオナは言葉を続けた。
「ジェイク様は、いつも私を守ってくれてるわ。ジェイク様が居るから、私はいつでも安心して歩けるの」
言葉は弾むような音色を含む。告げるフィオナの表情は、あまりにも柔らかくて……幸福に満ちていて……。
見ている二人が赤面してしまう程だった。男がコホンと一つ咳払いする。
「ああ、分かった分かった。……ごちそうさん」
「……?……」
男が話を切るように言葉を告げると、そのまま視線を何処か違う方向へ向けてしまった。何かおかしな事を言ったのだろうか。問いかけるようにジェイクへと眼差しを向けると
「…………」
ジェイクは片手で顔を覆い、表情を隠すようにしていた。
「……私、変な事言いました?」
「……あ……いや……」
たどたどしく言葉を告げながら、ジェイクがフィオナに目線を合わせるように腰を下ろすと
「貴女が無邪気な方だという事を、忘れていました……」
フィオナの肩を、ポンポンと叩いた。フィオナはますます意味が分からない。
「……なに。彼女ってそういう感じの子なのか」
「まあ……そうだ」
「今時珍しいな。……ああ、神殿育ちか。わからなくはないな」
よく分からない会話がフィオナの目の前で繰り広げられる。
今、フィオナの頭の中は謎だらけだ。
──けれど。
「……有難うございます……」
耳元で、囁くように。ジェイクの声にならない声が、フィオナに届く。
フィオナにしか届かない……吐息交じりのその声は、くすぐったくて、優しくて……。フィオナは胸の奥で温もりを感じた。
「でも……それ……私の台詞……」
フィオナが告げようとした途端……ジェイクがフィオナの口元に、自身の指先を当てながら首を横に振る。
『救われる』……というのはこういう時に使う言葉なのだろう。
いつ衝突するか分からない緊迫した雰囲気を、言葉一つで変えてしまうフィオナには感心するしかない。
何よりその言葉にジェイクの心が救われた。
──守られているのは私の方──
嘘でもいい。フィオナがそう言ってくれたことが、嬉しかった。
「……何かあったら、直ぐに呼んでください。傍に来ます」
「……何もしねえよ」
「……そうだろうな」
一気に緊張感が無くなってしまったこの空間で、男も気概が失せてしまったのだろう。ジェイクの言葉に、割り込んで告げた言葉は、やや吐き捨てるように。
男はそのまま瞳を閉じた。
その様子を見届けるとジェイクも薄く笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がり、焚火の場所へと戻って行く。
「なんだか私一人仲間外れにされた気分……」
二人の様子を交互に見遣り、つまらなさそうにフィオナが呟くと、男がフィオナをちらっと横目で見た。
「首……悪かったな」
ボソリと。その言葉はフィオナにしか聞こえない音で。フィオナは緩く笑みを浮かべると、軽く首を横に振った。
「その傷……自分で治せば良いのに」
レイアの娘なのだから、それくらい簡単だろう。何より自身のこの傷を、ほぼ治しているくらいだ。
男は、フィオナの首の包帯を指差しながら軽く告げた。
フィオナは笑みを湛えたまま、静かに言葉を返す。
「自分の傷を自分で治すことは出来ないの」
「……そんな決まり、破れば良いじゃないか」
「決まりじゃないわ。自分の傷には力が働かないの。どういう理由かはわからないけど」
「へえ……。上手いこといかないもんだな」
男はガッカリしたように瞳を落とした。
フィオナは男の様子が少し可笑しくて、クスリと小さく笑った。
男が不思議そうに尋ねる。
「……なんだ?」
「ううん……。貴方って、優しい人なんだなあって思って」
「…………」
男は言葉に詰まる。
フィオナと顔を合わせたくないのか、フイ……と顔を背けてしまった。
「? どうかした?」
今度は逆に、フィオナが不思議そうに尋ねる。男がゆっくりとフィオナに視線を戻すと
「……あのな。仮にも自分を襲った奴だぞ」
「……だから?」
「ああもう……」
きょとんと首を傾げるフィオナをよそに、男は何故か恨めしそうに、遠くのジェイクを見遣った。ジェイクは、楽しげに二人のやり取りを見ているようで、クスクスと笑っている。
「だって悪かったって謝ったじゃない。それで終わりじゃないの?」
「あんた、お人好しにも程があるぞ。そんなんじゃ、どんな悪人だって良い奴になっちまう」
「…………」
「……?……」
フィオナの言葉が止まった。男は不意の沈黙に軽く首を傾げる。
フィオナは、男を見ているようで……何処か遠くを見ているようで
「……どうした?」
フィオナは問い掛けに視線を合わさないまま、緩やかに首を横に振る。
浮かべた表情は笑みだったけれど……何処か悲しげな笑みだった。
その印象的な表情に、男はドキリとする。
「残念だけど……そこまで心は広くないわ」
「へえ……。あんたが言う位だから、よっぽどの悪人だな……そいつ」
男が笑うように瞳を細めた。けれど、それ以上の追及はしない。
フィオナも言葉を続けることはしなかった。




