<3>夜に二人(1)
その場所は、マーカスが居る場所とは随分離れた場所だったが、樹木の連なりが比較的まばらで、月からの光が淡く届く場所だった。
地表に現れ出ている大小の岩が、樹木の生長を遮っているのだ。
ジェイクは大きめの岩を選んで、その場所にフィオナを下ろした。
その傍らにフィオナの荷物と水も添えて。
「あっちの木の陰に居ますので……終わったら呼んでください」
「有難うございます。……重かったでしょう? 長々運ばせてしまって……」
申し訳なさげに告げるフィオナに、ジェイクは瞳を大きく見開くと
「……フィオナ殿より剣の方が重いですよ」
「……そんな訳ないでしょ」
ニヤリと楽しげに笑うジェイクに、フィオナはプクリと頬を膨らませた。程なくしてジェイクは木々の向こうへと消えていく。
ジェイクが完全に見えなくなって、暫く立った頃、フィオナは肩の荷を下ろすように、長い……長い息を吐いた。
「……えっと……」
傍らに添えられた荷物を開き、中身をゴソゴソ探る。そうして取り出した布に水袋の中の水を浸した。
「つめた……っ」
跳ねる水が身体にかかる。その水温に驚きながらも小さく笑った。水袋の口を締め、傍らにそれを置き直すと、水を浸した布で、顔……手足を丁寧に拭いていく。
首筋の傷周辺は、傷口が開かないように……優しく。
「夜だし……水だから、ちょっと寒いかな……」
呟きながら、軽く身震い。頭上のヴェールを外すと、まじまじとそれを見つめた。
「今日一日で随分汚れちゃったな……」
感慨深げに独り言。それを傍らに置くと、キョロキョロと辺りを見回し……素早く汚れた服を脱ぐ。
……白い素肌が露になる。
「……ふう……」
露になった素肌に夜の空気が当たるだけで、急激に体温を奪われる気がした。それだけ外気が冷えてきているという事なのだろう。
身体を素早く拭き上げると再び荷物の中をガサゴソと探り、新たな衣服を取り出した。シンプルな形のワンピースを頭から被る。衣類を身に着ける事で外気を防げるからだろう、仄かに温かみを感じた。
使った布を固く絞り、汚れた衣類と共に片づけると……。
「……とりあえず完了。……かなあ?」
楽しげに呟くと、結い上げていた髪を解いた。淡い月光に、仄かな紅……花が咲くように銀の髪が広がる。
軽く手櫛で髪を解いて、結い上げ直そうとした時だった……。
「……いた……っ……」
髪を引き上げた時に、首筋に痛みが走った。黒の男に付けられた、あの時の傷。一瞬……フィオナの手が止まった。
「……気を付けないと……ね……」
極めて軽く呟きながら、気にした素振りも見せず、結い上げた髪にヴェールを留めた。
「月……綺麗だな……」
そのままぼんやりと、夜空を眺める。
つい最近も、こんな風に夜空を見た。
とても……とても幸せな夜空だった。
「……あの人が……無事で良かった……」
小さく声に出して笑いながら、思い出すように遠くに……遠くに視線を投げる。
「……傷跡……残っちゃうかなあ……?」
そっと首筋に手を当て……今は血で固まっているだけの傷跡に触れる。
…………涙が溢れた。
「あ……れ……? やだ……どうして……」
その涙に驚いたのは、他ならぬ自分自身だ。
指先で涙を拭う。何度も……何度も拭う。
泣くような事なんて、何もない……何もなかったのに。
「…………っ…………」
───嘘だ。本当はずっと怖かった。
突然男にさらわれた時も。
首筋に傷をつけられた時も。
二人と離れて森へ入った時も。
突然目の当たりにした惨劇の跡も。
たった一人で治療していた時も。
「…………」
声が漏れないように口元を抑えた。
精一杯声を押し殺す。
けれど、体がどうしようもなく震えて、それはもう隠す事も出来なくて──。
──岩の上でうずくまった。
フィオナが着替える場所からはそう遠くない場所で、出来るだけ樹木が密集している場所を探して、ジェイクは散策していた。
程無くして見つけたその場所は、一本の大きな木に寄り添うように木々が立ち並ぶ……闇の世界だった。振り返ればそこに光があるのに、数歩違うだけで随分世界が変わるものだと、感心する。
此処ならばフィオナの声も届く。フィオナの姿は見えない。
ジェイクはフィオナに背を向けるよう……一際大きな木の幹に背中を預けた。
「……寒いな……」
樹木が密集する闇の中は、きっと昼も陽の光は当たらないのだろう。
淡く吐いた息が白く見える。
ジェイクは不思議そうにそれを見つめた。
「…………」
酷く穏やかな時間だった。先ほどまでの苛立ちは、何処へ行ったのだろう。
自分でも驚くほどに落ち着いていた。
……理由なんてわかっている。フィオナが見つかったからだ。
この腕の中に居て、体温を感じた。重みを感じた。
両腕にはまだフィオナの感覚が残っている。
「フィオナ……」
その名前を口に出す。
声を掛けた時に見せた表情は、やや疲れたようにも見えたが、いつもと変わらない。
……思い出す。男に捕まった時に、マーカスに見せた気高き強さ。
あの強さは一体どこから来るのか。
──重なる……記憶の少女──
「……わかってる。アリシアじゃない……」
前髪をかき上げながら苦笑気味に呟くと、静かに瞳を閉じた。
……同じ顔だ。忘れたくても忘れようがない。
仕草も言葉も、向けられる気遣いも……何もかもが記憶の少女と合致する。
「……いや……」
同じだと思い込んでいるのかもしれない。
同じだと……思いたいだけなのかもしれない。
しんと静まり返った空気の中……自身の呟きが随分と大きく聞こえた。
「……遅いな……」
緩やかに瞳を開けると、考えるように眉をしかめた。
フィオナから未だ声が掛からない。
それなりに時間は経ったように思うのだが……。
いや、男と女では時間も変わるだろう。
「……もう少し待つか……?」
ジェイクは腕を組み背後の気配を気にしながら、もう暫くそのままで居る事にした。
「…………」
静寂が闇を包む。こうしていると、見えている足元すら徐々に見えなくなっていくようで。何度も視線を彷徨わせた。
そんな中で、背後の気配は先程と何一つ変わらず……声も掛からない。
流石にジェイクも胸騒ぎを覚えた。
「……いや。何かあれば気付くはずだ……」
フィオナとの距離はそれほど離れてはいない。
これだけの静けさだ。何か物音でもあればすぐに気付ける。
──逆だ。音がしなさすぎる。
ジェイクは、覚悟を決めた様に目を見開くと振り返り、木の陰からフィオナが居るだろう岩の上を見つめた。
「……?……」
……フィオナが居ない?……いや、フィオナは居る。
岩の上にうずくまるように。
ジェイクは、フィオナの元へと歩み寄る。
徐々にフィオナの姿が大きく……ハッキリ見えてくる。
「……!……」
──様子がおかしい。呼吸が荒く、全身を震わせている。
何か体調でも悪くなったのか。
慌てて傍へと駆け寄り、その肩に手を置いた。
「フィオナ殿?」
──ビクッ──
その声に……置かれた手に……。フィオナは過敏に反応した。
全身が飛び跳ねるのかと思える程に、身体を揺らす。
やがて、フィオナは振り返った。
「──!!──」
フィオナの瞳から大粒の涙…………泣いていた?
口元を両手で覆って……声を出さないように?
ジェイクは、驚いたように目を見開いた。
「……ゃ……っ……」
フィオナは微かに声を上げると、ジェイクから逃げるように、身体を動かした。
途端に身体がバランスを失い、大きく体が傾く。
ジェイクはフィオナへと腕を伸ばし、その身体ごと引き寄せた。
「……フィオナ……」
明らかに怯えている。
腕の中のフィオナは、小刻みに何度も首を振り、離れようとジェイクの胸板を押した。──無言で。
こんな姿のフィオナを見るのは初めてだ。
ジェイクは動揺しながらも、フィオナを離さないよう腕に力を込めた。
この短時間で、何があった?
──物音も何も無かったこの場所で……一体何が。
「……ぁ……っ……」
「……!……」
────不意に触れた。
フィオナの身体が、小さな声と共に跳ねた。……首筋の傷だ。
ジェイクは息を呑む。──愕然とする。
そう。何もないはずが無い。今日は色々な事が有り過ぎた。
──何があっただなんて、考える方がバカげてる──
「……ごめ……なさ……何でも……な……」
抵抗を諦めたのか、フィオナの腕の力が少し緩む。けれどジェイクに表情を向ける事は無い。
俯いたまま必死に息を殺し、途切れ途切れの声を出した。
「何でもないわけないだろう!」
ジェイクが声を荒げて叫ぶ。
──ビクン──
フィオナはその声に大きく肩を震わせた。
その動きに我に返ったのか、ジェイクは優しく包むようにフィオナを抱き締める。
「……すまない……」
怒鳴ったのはフィオナに対してではなく、自身に対してだ。
どうして気付かないのだろう。不甲斐なさに腹が立つ。
フィオナは、ゆっくりと首を横に振り、ジェイクに身を任せた。
──身体はまだ震えている。ジェイクは苦しげに息を吐いた。
「……守れなかった……」
いつも前向きで明るくて、弱音も一切吐かないフィオナ。いつも笑顔だ。
──笑顔しか知らない。
そうやって誰も知らない場所で、涙も……その声も……殺しながら泣くのか。
ジェイクは、切なげに瞳を揺らした。フィオナを抱く腕が小刻みに震える。
月の光は、変わらず淡い光で二人を照らしていた。




