<9>星空と貴方と
「……のどかな村ですね……」
翌日。一行が辿り着いたのは、最初の目的地でもあった場所。其処は、宿が一軒しかない小さな村だった。到着は夕暮れ前。夕食までには、まだ時間があるからと、三人はのんびり散策に出ていた。
こんなにもゆったりした時間は、初めてだったかもしれない。
「いろんな国から旅人がやってくるサシャーナの村とは比べられませんよ」
フィオナの言葉に笑みを浮かべて答えたのはマーカス。フィオナの視界に映るように、遠くの平地を指差し
「あそこ……羊が見えますよ。放牧しているんですね」
「まあ……」
差された指の先……辿るように遠くを見ると、小さく見える羊の姿。
普段動物など見る事の無いフィオナは、嬉しそうに瞳を輝かせた。
二人の一歩先を行くジェイクは、同じようにその場所を見つめながら
「旅人が訪れることも少ないんでしょうね。先程見た感じでは、宿泊客は我々しか居なかったようですし」
最初に訪れた宿屋の様子を思い出すように告げた。
「それは……宿の食事を独占出来ちゃいますね」
胸の前で両の手を合わせながら、フィオナは言葉を弾ませる。
その様子を見たマーカスはニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべ
「……そんなに言うほど食べれないでしょ?」
「あ……もうっ……」
フィオナはマーカスの声に、プクッと頬を膨らませ、拗ねたように
「マーカス様、意地悪です」
「……怒りました?」
「……怒りません」
そんな言葉遊び。そうして二人で笑いあう。
ジェイクは二人の様子を背中で感じながら、微笑ましげに瞳を細めた。
──見上げた空が、青から茜色に変わっていく。
光る朱色と紫を混ぜたような雲……光を受ける木々の色は影となる漆黒へ。
一面が鮮やかな夕焼けに染まった。
「……寒くはありませんか?」
陽が落ちれば気温が急激に下がってくる。ジェイクはフィオナを気遣うように声を掛けた。
「有難うございます。今は大丈夫です」
フィオナは言葉を返した後、軽く会釈を。そのまま……ジェイクをじっと見つめた。
「……何か?」
留め置かれたままの眼差しに、首を傾げジェイクもフィオナを見つめ
「あ……いえ。……何でもありません」
フィオナが恥ずかしげに顔を赤らめ俯くと、ジェイクは柔らかな笑みを浮かべた。
「そろそろ戻りましょう……暗くなる前に」
言葉は穏やかな優しい声。そう言うと、民家のある方角へと向きを変え、足を進めた。二人もその後をついて行く。
すらりと伸びた長身。揺れる藍の髪……その気高さ漂う姿を、フィオナは再び見つめていた。
──不思議だった。今朝から何故かジェイクが優しい。いや、今までも十分な気遣いと優しさがあったのだが……印象が違うのだ。口調も……向けられる眼差しも……。
思い当たる件は一つある。昨晩の出来事だ。二人を待つ間に、眠ってしまったらしいフィオナ。目覚めた時に、ジェイクが真っ先に謝罪を告げた。別に平気だと……そう返して、それは終わったのだが……。
「気のせいかしら……」
言葉は独り言。呟くような声。……なのに
「何がですか?」
隣を歩くマーカスが聞き返す。何故聞こえる? 地獄耳か?
「いえ……何でもありません」
フィオナはそういうと、何か誤魔化すようにコホンと咳払いをした。
夕食は豪華なものではなかったが、出来たてのものが頂けるのは、それだけで嬉しい事だった。まだ湯気の立つ羊肉と香草の入ったミルクスープに、硬めのパンを浸して食べる。焼きたてのソーセージは、割ると中から肉汁が溢れる。此処で出された羊のチーズも、なかなかのものだった。
お腹を十分に満たした三人は、翌日に備えそれぞれ部屋に戻る事にした。ジェイクはマーカスと同じ部屋……フィオナはその隣の部屋に。
ベッドの上で眠るのは何日ぶりだっただろうか。フィオナはベッドに寝転がりながら指折り数えた。
「……三日?……四日? 大して久しぶりじゃなかったかも……」
言いながら、クスクス笑う。こんな風に一人寛げるのも久しぶりのような気がした。
「……いけない。ヴェール……くしゃくしゃになっちゃう」
慌てて飛び起き、頭上のヴェールの留め具を外す。埃を払うように丁寧にヴェールを撫でると、綺麗に折りたたみ枕元へそっと置いた。次いで、きっちりと結い上げた髪を解く。
腰まである豊かな髪がサラリと落ちた。仄かな紅を纏った銀の髪。一見するとただの銀髪だが、光の中……遠くから見ると薄い紅が鮮やかに映える。──群生する花々のように。
ベッドの下に置いてある荷物の中から取り出した櫛で、丁寧に髪を梳いていく。元々くせ毛の無い直毛だから、難なく櫛は髪を通った。──不意に、フィオナは楽しげな笑みを浮かべ
「マーカス様って巻き毛だから……お手入れが大変かも……」
呟くと、梳き終えた櫛を荷物の中に戻した。今度こそゆっくり横になれる。フィオナは重力の任せるままに、身体をベッドへ落とした。
「……気持ちいい……」
緩やかに瞳を閉じると幸せそうな表情を浮かべた。
「あの人の髪は……私と同じでサラサラね……」
瞼の裏に映し出したのは紛れもなく藍の髪の……その人。
フィオナは、そのまま愛しい人を想うように眠りの底へと沈み込む……。
「フィオナ殿」
「…………」
……筈だった。
「フィオナ殿。……おやすみになられましたか? 」
コンコン……。ドアを叩く音と共に聞こえる声はジェイクのもの。
フィオナは些か不機嫌そうに眉をしかめた。
「……おやすみになられましたよおっ……!……」
あからさまにむくれた声をドアに投げつけると、ドアの向こうから「ぶっ……!……」と吹き出す声。
「し……失礼。おやすみなら、もう結構……」
明らかに笑いを堪えた……絞り出すような声が続く。
既に体を起こし、自身の髪を軽く結い上げていたフィオナは
「もう、目が覚めましたっ」
言いながら、枕元に置いていたヴェールを手に取り、頭上で留めた。そのまま、つかつかと部屋口まで歩き、勢いよく扉を開ける。
勿論そこには、笑みを浮かべたままのジェイクが。
「……眠くなるまで付き合って貰いますからねっ」
「……仰せのままに……」
責めるような目線でジェイクを睨みつけたのだが、ジェイクは全く動じる様子が無い。楽しげな笑みを湛えたまま、恭しくフィオナにお辞儀すると、フィオナを部屋の外へと連れ出した。
「……すごい……」
ジェイクに連れられてフィオナがやってきたのは、宿屋から見える小高い丘の上だった。視界を遮る木々など何一つ無いその場所に、広がるのは一面の星空。今宵も月は三日月。強い光を放つ事の無いそれは、星のきらめきを妨げることが無かった。
もう外は寒い。フィオナは上着を羽織っていたのだが、その上からジェイクが自身の外套をフィオナの肩へ掛けた。ジェイクは寒くないのだろうかと返そうとしたのだが、ジェイクは受け取らず。
お蔭でフィオナの防寒は完璧だった。
「綺麗でしょう? 部屋の窓から此処が見えたので、ちょっとお誘いしてみました」
フィオナに寄り添うジェイクは、フィオナの表情に嬉しそうに微笑んだ。
「……マーカス様は?」
「もう寝ていますよ。戻ってすぐでした」
「まあ……勿体無い」
「機嫌は……直していただけましたか?」
「勿論です。……有難うございます」
ジェイクの言葉に弾むような声を返して、フィオナは見上げた空に瞳を輝かせた。
宝石をちりばめたような星々の光は強く……淡く。まるで呼吸をしているかのように揺らめく。
けれど夜の闇の中、空と大地の境目すら見えないこの場所は、星空の中に一人放り出されたようで……足が竦んだ。
「……怖いですか?」
その不安げな様子にジェイクは腕を伸ばし、傍らにいるフィオナの肩を自身に寄せる。
──トクン──
フィオナの鼓動が大きく動く。
「あ……えと……」
思わずジェイクを見上げる。
ジェイクは不思議そうに、フィオナの顔を覗き込んだ。
──トクン──
「……大丈夫……です……」
──吸い込まれてしまう──
フィオナは、崩れ落ちてしまいそうな自身の身体を支えるために、ジェイクにしがみついた。
ジェイクは、怯えているのだろうフィオナを安堵させようと、肩に置いた手に力を込めた。
耳元に……届くように声を落とす。
「傍に居ますよ」
フィオナに向けた微笑みは、あまりにも穏やかで……あまりにも綺麗で……。
──トクン──
「……はい……」
夜空の恐怖など、既に何処かへ吹き飛んでいた。




