第6話「クンカクンカ」
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、匂いに敏感な人たちが集まっている。そして日々、フェロモンに翻弄されて暮らし続けている。
かくいう僕も、そういった匂いフェチを疑われる系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、野性に従い生きる面々の文芸部にも、理性的に生きている人が一人だけいます。人の行動を嗅ぎ回る、ストーカー男たちの中に紛れ込んだ、つけ回され体質のお姉さん。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座る。僕は隣に座った楓先輩の匂いを嗅ぐ。それは、どんな香水よりもかぐわしく、僕の嗅覚を満たしてくれる。僕は、その匂いの成分を可能な限り吸い込もうとして、思わず鼻息を荒くしてしまう。そして、こほんと咳払いしてから、楓先輩に返事をした。
「どうしたのですか、先輩。知らない言葉にネットで出会いましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。ロシアで生まれたエルネスト・ボーが、パリでココ・シャネルに出会い、『シャネルNo.5』を作ったように、僕はネットで『ここで寝る』と言い張り、様々な場所で寝落ちしています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
楓先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。ネットに触れていなかった先輩は、そのパソコンでウェブを見始めた。そのせいで、ずぶずぶとネットの世界にはまりつつあるのだ。
「クンカクンカって何?」
お、おう。僕は、思わず口ごもる。これはまた、いかにも変態チックな言葉が来てしまった。まるで僕のいつもの行為を見透かすようなネットスラングだ。
しかし大丈夫だ、僕は、楓先輩に気付かれるようには、クンカクンカしない男だ。だから問題ない。僕が、楓先輩の匂いを嗅いで喜んでいるなど、気付かれるはずがない。ましてや、僕が変態認定されることなど、あり得ようはずがない。
僕は、自分に自信を持ちながら、楓先輩の質問に答えようとする。
その時である。部室の一角から、慌てるような声が聞こえてきた。
「サカキくん! 今日の昼休みに、サカキくんが屋上で、クンカクンカしたことは秘密だよ」
ええっ!? 何だろうと思い、視線を向けると、そこには僕と同じ二年生の、鈴村真くんが立っていた。鈴村くんは、焦った様子で、顔を真っ赤に染めて、僕の方を見ている。
鈴村くんは、華奢な体に、女の子のような顔立ちの男の子だ。そんな鈴村くんには、他人に隠している秘密がある。
実は鈴村くんは、女装が大好きな、男の娘なのだ。鈴村くんは家に帰ると、女物の洋服を着て、等身大の姿見の前で、様々な可愛いポーズを練習している。そして、女の子の格好をする時には、「真琴」という女の子ネームに変わるのだ。
僕は、その真琴の姿を、これまでに何回か見たことがある。そして、数々のエッチなシチュエーションに巻き込まれたのだ。
その鈴村くんが、「サカキくんが屋上で、クンカクンカしたことは秘密だよ」と声をかけてきたのだ。
「す、鈴村くん。それはどういう意味かな?」
僕はおそるおそる尋ねる。
「ねえ、サカキくん。クンカクンカって何?」
楓先輩は、僕の体をぐいぐいと押しながら聞く。
「だから、サカキくん。今日の昼休みに、サカキくんが屋上で、クンカクンカしたことだよ!」
鈴村くんは、顔をはち切れそうなほど赤くして、目をつぶりながら恥ずかしそうに言った。
いったい昼休みに何があったのか? 僕は記憶の歯車を、数時間前に逆回転させた。
今日の昼休みのことである。僕は教室の自分の席で、お弁当に挑んでいた。いつも、理解不能な弁当を仕込んでくる僕の母。その、アーティスト性が無駄に高い母の今日の作品は、キャラクター弁当だった。
キャラクターは、アンパンマンなのだろう。元は丸かったと思われるあんパンは、弁当箱の長方形の領域に合わせて、無残にも四角く押し込められていた。そして、あまったスペースに唐揚げやサラダが、何の調和も考えずに詰め込まれていた。
僕は毎度のことながら、母の感性を疑う。これはあれだ。カレーライスに、いちごやチョコレートを適当に放り込むという、味覚障害者の料理に近い。いや、それよりも、手抜きな分、たちが悪いかもしれない。
そんなことを考えながら、唐揚げの油と、サラダの水分が染み込んだ、潰れたあんパンを、僕は頬張り始めた。
「ねえ、サカキくん」
顔を上げると、鈴村くんがいた。鈴村くんは、購買で買ってきたサンドイッチを持っている。一緒に食べようということだろう。鈴村くんが持っているのは、薄切りにした鶏肉と野菜がはさまったサンドイッチだ。僕のお弁当と組成は似ている。しかし、鈴村くんの食事は美味しそうで、僕の食事は残飯だった。
「実は、相談があるんだ」
「うん。乗るよ。今僕は、食事以外の行為に、現実逃避したい気分なんだ」
「そ、そうなんだ」
「ああ、僕は大いなる精神の飛躍を求めている。母のことを、考えなくて済むようにね」
鈴村くんは、怪訝そうな顔をしたあと、僕を連れて屋上へと移動した。
空はとても青かった。屋上には、僕と鈴村くんしかいなかった。
また、いつもの女装がらみの話かな? 鈴村くんが僕を屋上に連れて行く時は、たいていそうだ。経験豊かな僕は、いまさら鈴村くんが、女装の話を出しても、うろたえたりはしない。どーんと大きな気持ちで、受け止める度量を持っている。
「今日は、どんな話なの?」
僕は、鈴村くんを促す。鈴村くんはうなずいたあと、そっと僕に近づいてきた。距離を詰めてきた鈴村くんは、とてもよい匂いがした。それは、いつもの匂いとわずかに違うような気がした。
「うん?」
僕は、違和感を覚えて声を出す。鈴村くんが、僕の表情をじっと見ている。
「気付いた?」
「えーと、何かいつもと違う?」
「実は、女装の新しい段階として、女性の匂いも模倣しようと試みたんだ。そして、そのための香水を、ネット経由で手に入れた。そして、サカキくんに、その匂いを確かめてもらおうと思い、その香水を付けたんだ。
ねえ、サカキくん。いつものように、僕の女装をチェックして欲しいんだけど」
鈴村くんは、懇願するようにして言う。
僕は、美少女鑑定士だ。その僕の眼鏡に適えば、それは美少女としてきちんと成立しているということになる。鈴村くんは、僕のチェックを受けることで、女装がどれだけ素晴らしく成功しているかを確認しているのだ。
「いいよ。女性の匂いだね」
「うん。塗ったのはここだから、ここを確認して欲しいんだ」
鈴村くんは、学生服のボタンをいくつか外す。そして、服を寄せて胸元を隠しながら、わずかだけ露出させた。
こ、これはやばいのではないか? 僕は鈴村くんの姿を見る。鈴村くんは、目をつむり、顔を恥じらいの色に染めている。そして、僕が胸元に顔をうずめ、匂いを確かめるのを待っている。
僕は、ごくりと唾を飲み込む。僕は鈴村くんのために、鈴村くんの胸の匂いをクンカクンカしなければならない。
僕は顔を真っ赤にする。そして、鈴村くんの服に指をかけ、その胸元に顔を近づける。びくん。鈴村くんの体がわずかに動いた。それだけではない。緊張しているのか、体の震えが伝わってくる。
僕は顔をそっと寄せる。そして、服のあいだに顔を入れる。鈴村くんの心臓の音が聞こえてきそうだった。僕は、鼻で息を吸い込み、口で空気を吐き出す。鈴村くんから放たれる香りを、呼吸器全体に馴染ませるようにして、その香水の匂いをかぎ取った。
「こ、これは、完璧な女性の匂いだ」
僕は驚きとともに言う。
「うん。僕が付けているのは、女性の汗の匂いの香水なんだ。だから、女性そのものの匂いが感じられると思うよ」
それは、甘いだけでなく、どこか懐かしい気持ちになる香りだった。
「鈴村くん!」
「サカキくん。もっときちんと確かめて!」
鈴村くんは、はだけさせた服で、僕の頭を包み込む。僕は鈴村くんの胸に抱かれた状態になる。
その時である。屋上の扉の向こうから、人の声が聞こえてきた。誰かがやって来たのだ。
「鈴村くん、急いでボタンを留めて!」
「う、うん!」
鈴村くんは慌てて服を着た。僕は、少し離れた場所で、青空を見上げて、文芸部らしく詩をつぶやき始めた。
その直後に、扉が開き、他の生徒たちが現れた。そんなことが、今日の昼休みにあったのである。
「ねえ、サカキくん。それで、クンカクンカって何?」
「はっ!」
僕は、現実の世界に意識を戻す。そして、楓先輩に質問されていたことを思い出す。
先輩は僕の隣で、今か今かと待っている。これは申し訳ないと思い、僕は慌てて説明を開始する。
「楓先輩。クンカクンカというのは、匂い、それもよい匂いを嗅ぐ時の擬音です。普通の擬音であるクンクンよりも、さらに激しく、情熱的に、むさぼるようにして香りを堪能しようとする時に用いられる擬音になります。
このクンカクンカという表現は、ネット時代よりも前から存在していました。たとえば、蛭田達也のマンガ『コータローまかりとおる!』で、匂いを嗅ぐ際の強調表現として使われていました。
このクンカクンカは、そういった嗅覚行動の中でも、特に性的な刺激を伴う行為で、用いられることが多いものでした。
こういったクンカクンカが、ネットで注目されるようになったのは、ヤマグチノボルのライトノベル『ゼロの使い魔』のヒロイン、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール、通称ルイズが、好きで好きでたまらない人が、ネットに書いた文章でした。
それは、ルイズコピペとして、ネットでよく知られたものになりました。ルイズコピペ自体は長いので、その冒頭部分だけを少し読み上げてみましょう。
ルイズ! ルイズ! ルイズ! ルイズ ぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!
あぁああああ…ああ…あっあっー! あぁああああああ!!! ルイズルイズルイズ ぅううぁわぁああああ!!!
あぁ クンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー! スーハースーハー! いい匂いだなぁ…くんくん
んはぁっ! ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお! クンカクンカ! あぁあ!!
……実際には、この六倍ぐらいの長さがあります。
このように、ルイズコピペは、非常に印象的かつ変態的な愛情の吐露だったために、ネットで何度もコピペされて知られるようになりました。また、この文章内で登場するクンカクンカという言葉も、ネタとして引用されるようになりました。
こうして、ネットでクンカクンカという言葉が、よく用いられるようになったのです。そして、ただ匂いを嗅ぐという行為ではなく、とても変態的で、その対象に抑えきれない愛情を注ぐというニュアンスが、明瞭になったのです」
僕は、説明を終えた。ルイズコピペのところで、楓先輩が、かなりどん引きしたが、それは僕に対してのものではないので、まあ大丈夫だろう。僕は、これで今日の質問は終わりだろうと思い、先輩の反応を待った。
「なるほどね。クンカクンカは、匂いを嗅ぐことだったのね」
「そうです。そういった行為になります」
「それで、サカキくんは何をクンカクンカしていたの?」
うっ。そこに話が戻ったか。僕は、どうしたものかと考える。まさか、鈴村くんの胸元でクンカクンカしたとは話せない。鈴村くんの胸に顔をうずめて、その空気を吸い込んだとは、死んでも言えない。
僕は、必死に言い逃れの方法を考える。そして、ひとつの答えを導き出した。
「屋上で、鈴村くんと香合わせをしていたんです!」
香合わせは、香を焚いて、歌合わせのようにその優劣を競う遊びだ。それは雅やかな、平安貴族の行為である。
そこには、何の変態性もない。それどころか、文化的な香りすらする。これで上手く危地を脱した。僕はそのことを確信しながら、楓先輩の様子を観察した。
「へー、どんな香を用意したの?」
えっ? 僕は何の香も用意していない。用意したのは、鈴村くんだけだ。そして、それは、女性の汗の匂いの香水という、変態としか思えないものだ。言えない。絶対に言えない。言えば、鈴村くんが変態だということを、文芸部のみんなに暴露することになる。そして、それを嗅いだ僕も、変態さんということになる。
仕方がない。ここは僕が十字架にかけられるべきだ。僕は、鈴村くんの名誉を守るために、この敗戦処理を引き受けることにした。尊い犠牲を払うことにした。
「用意した香は、僕の汗の匂いです!」
僕は、学生服のボタンを外して、胸元をさらけ出した。
「きゃーっ!!!!!」
楓先輩が悲鳴を上げた。そして、目をつむって、チョロQのように部室内を走り回った。
それから三日ほど、僕は自分の汗の匂いをクンカクンカする人として、楓先輩に避けられ続けた。
いや、ちょっと待ってください。僕はそんな変態さんではないですよ!
しかし、自分で言ったことなので、どうしようもなかった。懸命に否定しても、楓先輩は信じてくれず、僕に近づこうとしなかった。
仕方がないので僕は、逃げた先輩の残り香を求めて、楓先輩のあとを追跡し続けた。
今回は、匂い中心のお話でした。