第4話「ネットイナゴ」
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、集団で行動したがる人たちが集まっている。そして日々、アリのように並んで動き、日々を過ごしている。
かくいう僕も、そういった周りの評判に右往左往する系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、仲間はずれを恐れる面々の文芸部にも、孤高の心を保つ人が一人だけいます。赤信号、みんなで渡れば怖くない。そういった集団の中で、たった一人だけ、自分の考えで青信号を待つ少女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の右横にちょこんと座る。楓先輩は、いつも規則を律儀に守っている。周りの女の子にならってスカートを上げたり、こっそりと化粧をしたりしていない。こざっぱりとした姿を、いつもしている。僕は、そんな楓先輩のことを、好ましく思いながら声を返す。
「どうしたのですか、先輩。意味不明の言葉を、ネットで見つけましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。ハーメルンの笛吹き男が、笛を鳴らしてネズミの群れを引きつけたように、僕は、キーボードを鳴らして、ネット民の群れを引きつけています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
楓先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。ネットに触れていなかった先輩は、そのパソコンでウェブを見始めたせいで、ずぶずぶとネットの世界にはまりつつあるのだ。
「ネットイナゴって何?」
楓先輩は、とても不思議そうな顔をして、僕に尋ねる。おそらく、楓先輩の頭の中には、ネットの電子の海を飛びまくる、無数のイナゴの姿が浮かんでいるのだろう。そして、そのイナゴが何をしているのか、さっぱり分からないと考えているのだろう。
ネットイナゴは、匿名のネットユーザーが、大挙して押し寄せ、人やサイトを蹂躙する際に用いられる言葉だ。自分自身が標的になると危険な言葉だが、説明する分には、特に危ない用語ではない。
僕は、たまにサイトを炎上させて、ネットイナゴの突撃を受ける。でも大丈夫だ。その際は、サイト閉鎖を素早く断行する。僕は、そういった自身の引き際の見事さを、気に入っている。そして、素早く兵を退く戦国武将になぞらえて、にやりとしている。
そういった、機を見るに敏な僕だから、この言葉の説明で、よもや致命的な失策など犯すはずなどない。
「そうですね。ネットイナゴとは、大量の鷹子さんが押し寄せるような現象です」
僕は、文芸部の三年生で女番長、吉崎鷹子さんの名前を口にする。
「ああん? 何だって!」
その時である。部室の扉が開いて、拳を鮮血に染めた鷹子さんが入ってきた。
鷹子さんは、高圧的で、暴力的で、僕にアニメや、マンガや、ゲームをよく持ってこさせるモヒカン族だ。そして、僕を部室の真ん中に立たせて、それらの作品の批評や解説をさせる、恐ろしい人だ。
その鷹子さんは、長身でスタイルがとてもよく、黙っていればモデルのような美人さんだ。でも、しゃべると怖い。手もすぐに出る。武道を身に付けていて、腕力もある。ヤクザの事務所に、よくケンカに行く。そして、何もしていなくても、周囲に恐るべき殺気を放っている危険な人なのだ。
その鷹子さんが、ケンカの興奮冷めやらぬ様子で、僕を激しくにらんでいた。
「え、あの、いや、何でもないです」
「何でもないことはないだろう! ネットイナゴとは、大量の鷹子さんが押し寄せるような現象です。今、そう言ったよな?」
鷹子さんは、ずんずんと歩いてきて、僕の左隣にどかりと座る。僕は、ちらりと鷹子さんの姿を見る。空間がゆがんでいる。あれだ。闘気だ。圧倒的な戦闘オーラが、空間をゆがめて、ぐんにゃりとさせているのだ。
「ねえ、サカキくん。ネットイナゴって何?」
楓先輩が、僕に体をぴったりと付けて聞いてくる。
「なあ、サカキ。ネットイナゴって、何だ?」
鷹子さんが、僕の脇腹に拳をぴったりと付けて聞いてくる。
これは、あれか。寸勁か? それを、僕の肉体で試みようとしているのか。
僕は、自分の肉体が、破滅的ダメージを受ける様子を想像する。これは、何としても回避しなければならない。僕は、必死に作戦を練り上げる。
「ねえ、サカキくん。早く教えて」
楓先輩がせっついて来る。自分の身を守りながらも、楓先輩の要求には応えなければならない。僕は、脳みそをロータリーエンジンのように回転させる。
そうだ! 楓先輩に説明したあと、素早く鷹子さんをヨイショしよう。イナゴは、虫に皇帝の皇で、蝗と書く。実はすごい虫なんですよ。そう締めればよいだろう。
僕は、自分の脳に降ってきたアイデアに満足しながら、説明を開始する。
「楓先輩。ネットイナゴとは、ブログやウェブサイト、特定の個人などの周囲に、突然殺到する、匿名のネットユーザーの集団のことです。
このネットイナゴは、大量発生した現実世界のイナゴが、田畑を食い尽くしながら移動するように、ブログなどのコメント欄に、大量の罵倒の言葉を投下して、標的になった人の心を、完膚なきまでに蹂躙していきます。
ネットイナゴとはよく言ったもので、その様子は、現実のイナゴに酷似しています。無数に湧いてきて、自分の腹を満たすためだけにその場を荒らして、何事もなかったように去って行くのです。
このネットイナゴは、短くイナゴと呼ぶこともあります。言葉の発祥は、はてなダイアリーと言われており、その後新聞で何度か取り上げられたことで、定着したとされています。
このネットイナゴの恐ろしいところは、そういった加害者となる無数の匿名ユーザーに、実はそれほど悪意がなかったりすることです。一言の文句を言う。ちょっとした罵倒の言葉を投げかける。少しだけ意地の悪いコメントを書く。
本人たちは、明日には忘れてしまうような、気軽なことをしたつもりかもしれません。しかし、それが百人、千人集まると、ものすごい負のエネルギーになります。
想像してください。個人で運営していたブログのコメント欄が、ある日、数百の罵倒の言葉で埋まる様子を。その圧倒的な負の波動は、人の魂を削ることになります。
こういった、イナゴ行為は、多くの場合、一過性のものです。しかし、時に粘着質に続き、加害者の鬱憤のはけ口と化してしまうことがあります。
――この人は叩かれる行為をした人だ。だから、自分は叩く。それは正義だ。自分は、正しいおこないをしている。
そう考えて、日常の不満を解消する場にしてしまうのです。
そういった事例として有名な事件に、スマイリーキクチ中傷被害事件があります。スマイリーキクチという芸能人が、女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者であるという、ネットのデマを信じて、全国の不特定多数の人たちが、誹謗中傷、脅迫恫喝を、ネットで続けたという事件です。
この事件は、最終的にスマイリーキクチ氏が警察に相談して、全国で一斉摘発がおこなわれるという事態になりました。そう書くと、簡単に問題が解決したように見えますが、実際には十年近くの被害の上での対応でした。
このスマイリーキクチ事件は、メディアでも取り上げられ、ネットで中傷行為をする人たちの実態が明らかになりました。
警察に、『二度としません』と反省の色を見せた三時間後に、ふたたびネットに中傷を書き込んだ中傷犯。『自分はやっていない』と強弁し続けた者。『むしゃくしゃしてやった』『日常生活で辛いことがあった、自分の方が辛い』と語った犯人。
また、『キクチは芸能人だから書かれてもよいが、自分は一般人で将来もある』と、独りよがりのことを主張した人間もいました。そして、それらの犯人はほとんどみんな、普通の人に見えたそうです。
このように、ネットで他人を中傷する人は、それが重大事だとは思っていないということ、また、自分に都合のよい理由を作り、自己を正当化していることが分かりました。
こういった人間の心理は、学校や社会でのいじめと、非常に似ています。ネットで相手が見えないと、そういった人間の負の側面が加速するのでしょう。
この事件から分かることは、人間はイナゴ化する動物だということです。そして、ネットの罵詈雑言も暴力となるということです。
僕たちは、現実世界だけでなく、ネット社会でも、そういった加害者に、イナゴにならないように、気を付ける必要があるでしょう。
ところでイナゴは、虫に皇帝の皇で、蝗と書きます。とても強そうですね。鷹子さんに相応しい生き物だと思いますよ!」
僕は、最後にヨイショする話を付けて、最後を締めくくった。
僕は右を向く。楓先輩は、僕の説明に満足したようだ。左を向く。鷹子さんは、僕の話に、ご不満なようだ。鷹子さんは、眉間にしわを寄せ、全身に力を込めている。
こ、これはやばい。僕は、鷹子さんの殺気におよび腰になり、楓先輩に体を密着させる。
「サカキ!」
「何でしょうか、鷹子さん?」
「イナゴが虫の皇帝だって。取って付けたように言うな! それで、現実のイナゴは、皇帝のように偉いのか?」
暴発寸前の原発といった風情で、鷹子さんが僕をにらむ。僕は、乱高下する圧力計のように、目を左右に動かして返答する。
「えー、あの、そうですね。あれです。害虫です」
鷹子さんが、立ち上がった。その目は、怒りの光で爛々と輝いている。殺される。僕は、被害から逃れるために席を立ち、扉に向けて一目散に逃げ出す。
「サカキ、許さん!」
鷹子さんは、床を蹴った。まるで、バッタの能力を持った、仮面ライダーのような跳躍力だ。そして、そのまま、ライダーキックの要領で、僕に蹴りを放ってきた。
「ほんげー!」
僕は奇声を発し、ショッカーの怪人のように、鷹子さんに倒されてしまった。
それから三日ほど、鷹子さんは、自身がイナゴではないということを主張し続けた。
「集団で、一人の人間に危害を与えるような奴は、ダメ人間だ。私は違う。戦う場合は、一対一だ。私は自分の拳だけで、サカキを殴る!」
「殴らないでください!!!」
僕は、暴徒と化した鷹子さんから逃げ回った。楓先輩は、とてもうるさい部室の中で、一人で熱中して読書をし続けた。
今回は、一周目で書こうと思っていて、書くタイミングを失っていた話を入れました。