第13話「残当」
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、残念な者たちが集まっている。そして日々、ダメ人間の終着駅に向けて、星々を旅し続けている。
かくいう僕も、そうした人生を送って、ネジの体を手に入れる系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、短所だらけの面々の文芸部にも、完璧超人始祖な人が一人だけいます。ダメ超人たちの上に君臨する、超人閻魔。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、とてとてとて、と駆けてきて、僕の隣にお行儀よく座る。僕は、そんな楓先輩の姿をそっと見つめる。優しげな顔に、好奇心の塊のような瞳。小さな体で、ぴしっと背筋を伸ばしている素敵なお姿。楓先輩は、僕にとって理想の女性だ。人によっては、胸が控えめなことが不満みたいだけど、それこそが楓先輩の魅力のひとつだ。そんな先輩のことを残念とは言わせない。僕は、マリア様を崇めるような気持ちで、楓先輩を眺めながら、嬉々として声を返した。
「どうしたのですか、先輩。初見の言葉がネットにありましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの言葉に詳しいよね?」
「ええ。丹波哲郎が死後の世界に詳しいように、僕は死語の世界に精通しております。ネットにも、様々な死語がありましてねえ……」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
楓先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。ネットに触れていなかった先輩は、そのパソコンでウェブを見始めた。そのせいで知らず知らずのうちに、ずぶずぶとネットの世界にはまりつつあるのだ。
「残当って何?」
真面目な顔をして、楓先輩は尋ねてきた。
よかった。今日は、危険な言葉ではない。僕は、そのことに胸をなで下ろす。僕は気軽な気持ちで、楓先輩に逆に質問した。
「楓先輩は、何だと思いますか?
「そうねえ。残業手当とか?」
「でも、それじゃあ、意味が通じませんよ」
「そうなのよね。だから、サカキくんの力を借りようと思ったの」
ふっ。頼られている。僕はそのことを誇りに思う。
残当は、残念だが当然、の略だ。最近、その用法に変化が生じているが、いずれにしても危険な言葉ではない。頼りがいのある男は辛いなあ。僕は、そう思いながら答えようとして立ち止まる。
待てよ。僕の脳細胞が、無数の未来の中から、ひとつの未来を探り当てる。起こりうる可能性の中から、最悪の出来事を予想してしまう。
この言葉を解説したら、僕のダメ人間っぷりを楓先輩が気付くのではないか? そして、僕の不本意な成績のことに思いいたり、「サカキくんはダメ人間だから、残念ながら当然」と思われてしまうのではないか?
いや、菩薩のように心優しい楓先輩が、そんな思考にいたるはずがない。しかし、楓先輩は、お釈迦様が孫悟空をもてあそぶように、僕の逃げる先に移動して、僕を悶絶させるお方だ。
気をつけなければ。些細なミスが、危険な未来へと繋がってしまう。すべての選択肢を、慎重に選び、バッドエンドを避けなければならない。僕は、フェムト秒の精度で意識を制御しながら、楓先輩への説明を開始した。
「楓先輩。残当という言葉は、『残念だが当然』を略した言葉になります」
「残念だが当然? ちょっと変わったシチュエーションね。残念と思っていながら、当然と思うのよね。テスト勉強を頑張ったけど、テストが難しすぎて、いい点を取るのが難しかったとか?」
楓先輩は、体を僕に密着させて、僕の顔を見上げながら、熱心に尋ねてくる。僕は、触れ合った場所の、体温が上昇するのを感じながら、先輩の台詞に特大の警報を鳴らす。
ワーニング! ワーニング! 警戒せよ自分! 警戒せよ自分!
真面目な楓先輩は、物のたとえを、隙あらば勉強方面に持っていこうとする。しかし、それは地雷だ。僕の成績の悪さに移行しかねない、極めて危険な話題だ。修正しなければ。僕と楓先輩の未来を、僕の巧みな話術で誘導するのだ!
「そうですね。ロケットの打ち上げを頑張ったけれど、まだ国内技術の蓄積が足りず、宇宙までは届かなかった。そんな感じですかね」
僕は、理知的な物理学者の顔をしながら語る。楓先輩は、なるほどといった顔をしながら、赤べこのように頭をうんうんと動かす。
よし、軌道修正成功! これで大丈夫だ。急いで本題に戻ろう。僕は、すぐに残当の話を再開する。
「楓先輩。残当という言葉が出てきたのは、二〇〇六年のネット掲示板の書き込みだとされています。その文章を、ちょっと検索してお見せしますね」
僕は、キーボードを叩き、目の前のモニターに文章を表示した。
首都高4号線外苑出口付近で読売巨人軍の豊田投手(32)が大型トラックに飛び込み即死した。
度重なるリリーフ失敗
苦にして発作的に飛び込んだものと見られる。
巨人原監督の話
「残念だが当然。男らしい最期といえる」
モニターを熱心に眺めていた楓先輩が、ぽつりと感想を漏らした。
「ねえ、サカキくん。原監督の台詞、ちょっとひどくない?」
「えー、これは嘘の書き込みです。こんな事件も起きていませんし、原監督もこんなことは言っていません」
「えっ。嘘なの?」
「そうです。ただ、この文章は、みんなに受けたのですね。特に、『残念だが当然』というフレーズが。そして、この部分が一人歩きして、残当という略語が誕生したのです。
その後、この一文は、残当と略して使われるようになりました。しかし、先ほど述べたような経緯を知らない人は、どういった言葉か分からないまま、略語を見せられることになったのです。
そうした人たちは、文脈と漢字から、この言葉の元の姿を想像して、自分たちも使い始めました。そして数年後には、複数のニュアンスで、この言葉が用いられることになったのです。
もともとの意味の、残念だが当然。
派生的な意味とも言える、残念でもないし当然。
言葉というものは、生き物です。時代が下るにつれ、派生的な意味が増えていきます。それは辞書を見ても分かることです。そうした言葉の意味の変遷を、短い十年ほどのスパンで見ることができるのが、この残当という言葉です。
残念でもないし当然の方は、誤用ではあるのですが、時折見かけます。この場合は、残念というニュアンスは、だいぶ薄れた用法になります。
このように、二つの用法が見られるのですが、あくまでも、もともとの形は『残念だが当然』です。現状、元の意味の方が正しいと認識されていますので、こちらを中心に使った方がよいでしょう。
まあ、読む分には『当然』と置き換えて、何の問題もないと思いますが」
僕は、残当の意味を楓先輩に伝えた。これで満足して、この話題を打ち切ってくれるだろう。そして、よもや僕の成績が残念だなどと、言い出すことはないだろう。
「なるほどね。そういった意味だったのね」
「そうです」
「ねえ、サカキくん。私、この言葉を実際に使ってみたいわ。もともとの意味で」
「え?」
僕の心の中で、警報ランプが点滅し始める。
「そ、そうですね。先ほどの、ロケットの話のようなエピソードを考えると、いいんじゃないですかね……」
僕は、楓先輩の意識を、身近な勉強の話題から必死に逸らそうとする。まるで物理学者のような顔をして。
「そうね……。ロケットと言えば、サカキくん。今日、物理のテストの結果が帰ってきたって、言っていたわよね」
「えっ? ぶぶぶぶぶ、物理ですか?」
僕は、狼狽しながら声を返す。
なぜ、そんな話をしたんだ自分! そして、なぜ物理学者のような顔をしたんだ自分? 僕は、熟練の墓穴掘りか! それとも天然の自爆野郎か?
「ねえ、サカキくん。今日のテストは、何点だったの?」
「えっ、ええっ……」
僕の点数は、衛星軌道には乗らず、魂を重力に引かれて、飛ぶことができなかった。つまり墜落した。
空は高い。人類にとって、いつでも空は高いのさ。僕は、心の中で涙を浮かべながら、頭上を見上げる。
「じゅっ、十点です」
「……」
気まずい空気が流れる。僕は、その場から逃げ出したくなる。そして、場を取り繕うために、必死に言葉を尽くした。
「か、楓先輩。聞いてください。テストの結果は、今回たまたま悪かったんですよ。だから楓先輩が、残当の例文に使うのは不適切です。この話題は、ここで終わりにしましょう。そう、もうおしまい!」
僕は、心の涙を必死に拭きながら、楓先輩に懇願した。
「うん。サカキくんのテストの点数は、残当には当たらないと思うし」
「楓先輩!」
僕は、感謝の心で胸をふくらませながら、楓先輩の名前を呼んだ。
「だって、サカキくんのテストの点数は、残念でもないし当然という感じだもの。サカキくんが、ちゃんとテスト勉強していたら残念だと思ったけど。……テスト勉強してないよね?」
楓先輩は、眼鏡の下の目を、僕にまっすぐ向けて尋ねた。
う、う、……うわあん!!!!!
僕は、声を出さずに、涙を出さずに、心で泣いた。
僕は残念ですらなかった。ただのダメ人間だった。テストの点数が悪いのは、当然だと思われていた。
「サカキくん、ちゃんと勉強しようね」
楓先輩は、先輩らしい視線を僕に向けて、笑顔で僕に言った。
「は、はい。楓先輩」
僕は、口から魂を吐き出しながら返事をした。
それから三日ほど、楓先輩は、僕の周りで残当探しをした。
「ねえ、サカキくんの残当探しって、とても難しいね。サカキくんは、努力をしないから、残念と思うのが大変なんだもの」
「そ、そうですか。そうですよね。僕は、残念とも思えないような人間のクズですから」
僕は、全身を真っ白にしながら答えた。
三日経ち、楓先輩は、残当探しを飽きたのかやめた。僕は、心の残党狩りをされ尽くして、もぬけの殻になってしまった。
残党は、ここ一年ぐらいで、見かける頻度が上がってきた言葉かなあと思います。
登場自体は十年ぐらい前の言葉なのですが、どういう流れで目に付き始めるのか、言葉はそれぞれだなと思います。