第1話「サザエさん時空」
花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、同じことを繰り返す人たちが集まっている。そして日々、自分の行動を忘れたかのように振る舞い続けている。
かくいう僕も、そういった健忘症を疑われる系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。
そんな、無限ループな面々の文芸部にも、まっすぐに人生を歩んでいる人が一人だけいます。樹海の中で、何度も同じ場所を通る遭難者たちの前に現れた、ひたすら直進し続ける暴走機関車。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。
「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」
間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にちょこんと座る。僕は楓先輩の姿を観察する。周りの人々が、どんどん姿を変えていく中、その容姿を保ち続けている。子供から大人に変わる時間を、見事に切り取り、その姿を維持している。そんな楓先輩の姿は、まるで時を止めた永遠の美少女のようだ。僕は、そんな楓先輩に魅了されながら、声を返す。
「どうしたのですか、先輩。初めて見る言葉が、ネットにありましたか?」
「そうなの。サカキくんは、ネットの達人よね?」
「ええ。不死鳥が何度死んでも蘇り、永遠の時を生きるように、僕は何度ネットで炎上しても、その灰の中から復活し続けています」
「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」
「何でしょうか?」
楓先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。そのパソコンでウェブを見始めたせいで、ネット初心者の先輩は、ずぶずぶとネットの世界にはまりつつあるのだ。
「サザエさん時空って何?」
楓先輩は、謎で謎で仕方がないといった表情で、僕に尋ねてきた。
なるほど。楓先輩は、アニメに詳しくない。だから、国民的アニメ『サザエさん』を知らなくても仕方がない。いや、知っていたからといって、サザエさん時空というネットスラングを、知っているとは限らない。
僕は、この言葉について考える。僕の立場を危険にさらす言葉でもなく、楓先輩を恥ずかしがらせるエッチな言葉でもない。しかし、なぜか、メタな視点で疑問を感じる言葉だ。たとえば僕が、実はサザエさん時空をさまよっているとか……。
いや、まさかそんなことはない。僕が生きている世界は、アニメの中の世界でもないし、SF的な世界でもない。そんな僕が、サザエさん時空に巻き込まれるわけなど、ないではないか。
杞憂ですよ、杞憂。僕は安心して、楓先輩に、サザエさん時空の説明を開始した。
「楓先輩。サザエさん時空とは、一九六九年から続く国民的テレビアニメ『サザエさん』を元ネタにした言葉です。
この『サザエさん』という作品では、キャラクターはいつまで経っても年齢が変わらず、主人公のサザエさんは、ずっと二十四歳のままです。周囲の人々も歳を取りません。そして、一年がすぎるごとに、新しい年の、新しい季節の、過去とは違う話が放映され続けています。
その際、登場人物の年齢は同じであるのにも関わらず、作中に時事ネタが入ってきたり、携帯電話やインターネットなどの社会の変化が取り入れられたりするのです。これは、よく考えると、謎で仕方がない状況なわけです。
こういった、長期に連載が続いた作品において、時間が流れず一定の期間で留まり続ける状態を、『サザエさん』にちなんで、サザエさん時空と呼ぶのです。その際、季節や社会状況だけは変化するというパターンが、往々にして見られます。
この『サザエさん』のように長く続く作品では、時間の進行に問題が生じて、何らかの解決が必要になることはよくあります。
たとえば、学校を舞台にした作品では、主人公たちが卒業すると、作品自体が続けられなくなります。
その際の、解決方法はいくつかあります。時間の進行を、極端にゆっくりする。進級させて、中学や高校の三年間だけを描く。そして、サザエさん時空を採用する。
また、過去には、『ハイスクール!奇面組』というマンガのように、高校三年の最後に、作者がタイムマシンで一年前に戻るといった形式で、この問題を乗り切った作品もあります。
ともあれ、人気があり、やめるにやめられない作品にとって、この時間の問題は、避けて通れないものなのです。そして、連載の最終回間際に、サザエさん時空が崩壊して、時が進みだすといった終わり方も、よく見られるものなのです。
さて、こういったサザエさん時空的設定は、ギャグマンガにおいて、ネタにされることがあります。進級せずに、同じ学年を繰り返すといった展開を、メタ的なネタにするわけです。
その中でも、僕の印象に残っているのは、実は留年していたという設定です。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』や『さよなら絶望先生』では、こういったネタが展開されました。
このように、マンガやアニメが長期連載されている日本では、様々な作品でサザエさん時空が発生したり、時間のゆがみが生じたりするのです」
僕は、サザエさん時空の説明を終えた。そして、これで納得してくれたかなと思い、楓先輩の様子を窺った。
「ねえ、サカキくん。サザエさん時空の中に入っている人は、自分がサザエさん時空にいることを認識できるのかなあ?」
自分で小説を書く先輩は、サザエさん時空に対して、創作的興味を覚えたようだ。
確かに、そのことは僕も気になる。それは、物語の中の登場人物が、自分のいる場所が物語の中だと気付くのかという、古典的疑問に通じるものだ。
「ギャグマンガでは、サザエさん時空に入っていること自体を、ネタにすることがあるので、認識は可能だと思います。自分が、いつの間にか留年していることに気付き、それがサザエさん時空的何かであると、気付くケースもありますので」
僕は、過去に見た様々な作品を思い出しながら答える。そして、留年的サザエさん時空では、主要登場人物たちだけがサザエさん時空に留まり、周囲のモブの生徒たちは進級する、つまり学校という社会情勢が変化すると、楓先輩に告げた。
「なるほどね。サザエさん時空にも、その効果がおよぶ範囲があるのね。そしてその範囲は、作品の人間関係の規模を反映しているのね。ということは、一人だけサザエさん時空に入り、周囲から取り残されていくということも、あり得るのよね?」
「ええ。サザエさん時空では、周囲の社会はいつの間にか変化します。物語の作者が、スポットライトを当てる範囲によっては、町内や家族、学校の仲よしグループではなく、一人だけが時間の流れに取り残されるケースも、当然あり得ると思います」
「そうなのね。じゃあ、たとえば、私が卒業して、サカキくんだけが、永遠に二年生を繰り返すといったケースも考えられるわけね?」
「えっ?」
僕は、楓先輩の台詞に、思わず驚きの声を上げた。
そんな馬鹿な! 僕は心の中で叫ぶ。
いや、しかし、よく考えるとあり得ることだ。僕は厨二病患者だ。中学二年生のような思考に陥るだけでなく、さまよえる中学二年生になっても、おかしくはない。
人は、思いこみによって死ねるという。だから、中学二年生だという強い思いが、僕の周囲にサザエさん時空を発生させる可能性だってあるのだ。
世の中には、永遠の十七歳である人が、一定数存在する。僕がサザエさん時空に迷い込み、永遠の中学二年生になっても、何の不思議もない。
いや、しかし、僕に限って、そんなことが起きるはずがない。僕は、どこにでもいる、普通のオタク的中学二年生だ。アニメやマンガの登場人物というわけでもない。まさか、そんな平凡な人間である僕に限って、サザエさん時空に巻き込まれるはずはない。それに、現実社会で、そんな異常現象があってよいはずがない。
「楓先輩。サザエさん時空は、フィクションの中での時間の流れです。現実世界では、そういったことは起きません」
僕は、生徒に教え諭す教師のように、楓先輩に語りかける。楓先輩は、僕の言葉を聞いたあと、真面目な顔をして、僕を見上げてきた。
「分からないよ。サカキくんだけ、永遠に中学二年生を、続けているのかもしれないよ」
いや、もしそうなら、僕は楓先輩を伴って、その永遠の時間を楽しみますよ! それに、楓先輩と無限の時を過ごせるのならば、望むところですよ! 僕は、そう思った。
しかし、そろそろこの議論も、切り上げ時だろう。きっと楓先輩も、サザエさん時空など、現実には存在しないと分かっていながら言っているのだ。
僕は、楓先輩との、仮想戦記的イフ話を上手く締めるために、大胆な発言をおこなうことにした。
「楓先輩。僕が、サザエさん時空に飲み込まれたわけではないことを、証明してみせます」
それはまるで、一流のマジシャンが、新しいネタを披露する時のような、自信に溢れた台詞だった。
「でも、どうやって?」
当然の疑問を、楓先輩は口にする。
「簡単ですよ。僕が三年生に進級すれば、サザエさん時空に巻き込まれていないことの証明になりますから!」
僕は、胸を張って、サザエさん時空破りの秘策を、楓先輩に語った。しかし、楓先輩は、微妙な顔をした。どういうことですか? 僕は、楓先輩に表情の理由を尋ねた。
「サカキくん、先週のテストの点数は?」
先週、全学年で小テストが実施された。その結果が、今日戻ってきた。楓先輩は、その点数を尋ねているのだ。
「えー、九点でした」
僕の点数は、十段階評価なら、かなりいい線行っている点数だった。ちなみに、テストは、百点が満点だ。そして、僕の点数は、見まごうことなき赤点であった。
その点数を聞いた楓先輩は、残念そうに大きく息を吐いた。そして、僕の顔を見上げて、言いにくそうに声をかけてきた。
「サカキくん、三年生になれなさそうね。それって、もしかして、単身でサザエさん時空に飲み込まれるということなのかな?」
えっ、そんな馬鹿な! う、う、うわあああん!
僕は、楓先輩に置いていかれて、永遠に中学二年生を繰り返すと言うのか? フィクションの中だけだと思っていたサザエさん時空が、僕の背後まで迫っていることを知り、僕は絶望の涙を流した。
それから三日ほど、僕はサザエさん時空から逃れるために、部室で勉強をしまくった。楓先輩は、そんな僕を応援してくれた。
そして三日後、僕は新たなテストを受けた。結果は赤点。うわああん!!!
僕は、このままサザエさん時空に巻き込まれるのか? それはもしかして、僕と楓先輩の運命が、一向に進展しないことを意味しているのか? それとも、僕だけ置いてけぼりにされるのか?
僕は、自分の運命の、サザエさん的展開を予想して、よよよと泣いた。
二周目始まりました~。
というわけで、「サザエさん時空」に突入です。