三題小説第二十弾『手足』『好き』『未対応』タイトル『夢も希望も未対応室』
「未来ちゃーん!」
大きさの割にくっきり聞こえるその声に、私は慌てて唇に人差し指を当てて、里佳子に哀願するような視線を向ける。
里佳子もすぐに気付いて私を見つめ返し、自分の唇に人差し指をあてがった。
中学のセーラー服を着た里佳子が病室に入って来た。まだ幼さの抜けきらない申し訳なさそうな笑顔で腰低く小走りでやってくる。
ここは病院の大部屋で、私以外にも二人の入院患者がいる。片方はご老人だからか昼間だけどよく寝ていた。けれど、もう一人のご婦人は週刊誌から顔を上げて私を睨みつけている、みたい。視界の端に視線を感じるけれど、そちらに目を向ける勇気はない。
「病院なんだよ。里佳子の声はよく通るんだから」
「ごめんごめん。ついついうっかり。もう骨折もほぼ治ったみたいな話をお母さんに聞いて浮かれちゃった」
気持ち小さく抑えても里佳子の声はやはり通りが良くてはっきり聞こえる。なんというかハリがある。病院にいる時以外は羨ましい。
「お見舞いありがとうね」
里佳子は傍らに置いてあるパイプ椅子に座った。膝の上に抱えたリュックサックにはキャラクターもののキーホルダーや缶バッジがいくつかぶら下がっている。
「本当は毎日来たいんだよ? だけど騒がしい里佳子が毎日お見舞いなんてしたら治るものも治らなくなるってお父さんがさ。それでどうなの? ギプスは取れてるし、もう動かせたり?」
その言葉を受けて私はシーツの上に投げ出された私の両手をじっと見る。イカのような生白い二本の腕が横たわっている。
動かないわけじゃない。痛みとか痺れとかもない。でも、何か強張っているような感じがして、上手く動かせない。
「足もそうなの?」
「うん。全く動かないわけじゃないけど。松葉杖すらまだ使えない感じ」
「そっかあ。大変だなあ。ご飯とかどうしてるの?」
「お母さんが手伝ってくれるけど、いない時はスプーンとフォークを鷲掴みでちびちび食べてるよ」
「結局じゃあまだ治ってないって事じゃんね。お母さんたらいい加減な事言って」
「うん。でもお医者様が言うには何も異常が無いんだって。あとは気持ちの問題って言われちゃった」
「うーん。気持ちかあ。心のどこかで治りたくないってこと?」
「まさか。そんなわけないよう。早く体動かしたいし」
部活動するほどの熱心さはないが体を動かすのは好きな方だ。
「少なくとも、告白に臆してるよねえ」
里佳子が意地悪な表情でからかうような視線を投げかけてくる。
「う……それは、そうだけど。それは関係ないでしょっ……」
でも普通は臆するものだよね? 怖いものだよね? これでも勇気を振り絞って告白しようとしたんだけど。
「まさか、直前に車に轢かれるだなんてさ。命があったから良かったものの。兄と親友を同時に亡くしでもしたら……想像もつかないよ」
「ごめんなさい。気を付けます」
「反省しているならよろしい。少なくともショックで入試落ちちゃうね私。せっかく二人と同じ高校に入ろうとしてるのに」
「でも、その場合受かったとしても私達はいないわけで……」
「なにぃ?」
里佳子の威嚇のような一睨みを受けて口を閉じる。意図せずしてブラックな事を言ってしまった事も反省する。
「受験勉強どう? 捗ってる?」
少し矛先を逸らす。
「捗ってる訳ないでしょう。未来ちゃんもお兄ちゃんもいないのに誰に勉強を教えてもらえばいいのよ。まったく!」
里佳子は止まらない。
「だいたい未来ちゃんが入るような高校に私が入れるの? って話なんだよ。まあお兄ちゃんが入れるような高校なんだから入れるに決まってるけどさ!」
二人して唇の前に人差し指を立てて小さく笑う。同室のご婦人は週刊誌に集中しているようだ。里佳子は大げさに腕を組んで首を傾げた。
「……っていうか勉強疲れか何なのか寝不足続きなんだよね。睡眠薬まで処方してもらったよ。未来ちゃんはよく寝れる?」
「んー。睡眠不足ってほどじゃないけど、やっぱり病室は落ち着かなくて寝付きが悪いかな」
里佳子はにやにやして、キーホルダーをいじりだす。
「そんなあなたにこの商品」
何やら突然通販番組が始まったみたい。里佳子がリュックサックからキーホルダーの一つを外した。
「ぱんぱかぱあん。ヨクネムレール!」
私はそれを受け取った。それは白い羊を模した何かだ。デジタル時計のように見える。液晶表示と小さな3つのボタンが付いていた。
「なに? 可愛いけど。どう使うの?」
裏返すと『め~トロノーム』と書いてあった。ヨクネムレールなんて言葉はどこにもない。
里佳子は一つ咳払いをして滔々と語り出す。
「ある都市伝説によれば」
「あっ、はい。えっ、都市伝説?」
「そのメトロノームを使うと好きな夢が見られるそうです」
「へえ。面白いね」
里佳子は身振り手振りを交える。
「ある少年は夢の中で大空を飛び、ある少女はどこぞの国の王女様になったそうです。それは願いを叶える魔法の道具」
「そうなんだあ。まさに夢のアイテムだね」
「まあそれは眉つばでした。試してみたんだけどね」
「今の話は……。でもまあそうだよね」
「だけど代わりと言ってはなんだけど私はヨクネムレータ」
「ふうん」
「ええ? 反応薄いなあ。本当だよ? 科学的な根拠もあるんだよ? 単調なリズムを聞くと人は睡魔に襲われるっていう」
「ああ、なんか聞いた事あるかも」
「でしょう? まあメトロノームなら何でも良いだろって話だけど。それはデジタルなのでイヤホンジャックも付いていて病室でも平気ってわけよ。さらにタイマー機能も付いてて超便利」
鎖をつまんで目線の高さでぶら下げる。くるくると羊が何度も裏返った。
「そっかあ。とにかく使ってみるよ。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、受験生はそろそろ本業に戻る為に帰りますよ」
里佳子がパイプ椅子を引いて立ち上がり、リュックサックを背負う。
「うん、お見舞いありがとね。勉強頑張って」
「早く治してまた勉強教えてよね」
「あと、それと……辰己君に、よろしくというか何というか」
「おっけえおっけえ。良いように言っとくよ」
里佳子はからかうようににやにやと笑いながら、手をひらひらと振って病室から出ていった。
消灯になった病室のベッドの上でめ~トロノームを弄る。強張る指先でなんとか電源を入れてイヤホンを差し込む。テンポは適当に設定し、音量とタイマーだけはきちんと設定しておいた。
一度病室を見渡す。他の二人の患者は眠っているし、扉も閉じている。扉の外を誰かが通る気配もない。病院の夜はそれ以外の夜よりも一段と濃い夜のように思える。
布団を頭までかぶり、め~トロノームをスタートする。
『め~』
え?
『め~』
『め~』
羊? 羊の鳴き声?
『め~』
『め~』
羊を数えるの? 今何匹目?
『め~』
『め~』
『め~』
白いふわふわとした雲のような綿毛のようなものの上に私は寝転がっている。上下左右どこを見ても真っ白で、無限に広がるもこもこの真ん中にパジャマ姿の私がいた。
腹筋だけで状態を起こす。どこにも何もない。ふかふかのそれ以外には何も。
ここはどこ?
心の中でそう呟いた瞬間、飛び出す絵本のように目の前に一軒の古びた家が突然現れた。
小さな黒ずんだ門と郵便ポスト。その横を抜けると、小高い丘と玄関までの煉瓦の階段がある。小さな庭の小さな池に小さな蛙の置物が腰かけていた。もくもくと煙を吐く煙突に、ゆらゆらと方向の定まらない風見鶏が鎮座する赤い屋根はひしゃげたキノコのような三角形だ。白い漆喰の壁には蔦が大いに繁殖して、その西洋風の民家を覆っている。
軒下には大きな古めかしい木の看板が掲げられている。
『夢も希望も未対応室』
これは夢? でもとても現実感があるというか。め~トロノームの効果なのかな。
ドアベルがからんからんと鳴り、軋む木の扉を押し開いて、誰かが『夢も希望も未対応室』から出て来た。
それももこもこしている。羊が二足歩行で出て来た。生地のよさそうなパリッとしたスーツを着こなしている。
これ見よがしに赤いネクタイを直して煉瓦の階段を下りてくる。まるで社交ダンスでも踊るかのような優雅な身のこなしでよく磨かれた鏡面のような革靴を鳴らし、私の前までやって来た。そうして礼儀正しく腰を曲げて羊は喋った。
「ゆめ~も希望も未対応室へようこそ。本日はご指め~ありがとうございます。私室長のめ~ナードと申します。以後お見知りおきを。どうぞ、め~刺です」
私はできるだけ失礼にならないように、両腕に万感の力を込めて恭しく名刺を受取った。名刺には夢も希望も未対応室室長、メーナード、そしてメールアドレスが書いてあった。それともめ~ルアドレス?
「夢も希望も未対応室?」
メーナードが私の顔を覗きこむように顔を傾ける。水平に細長い瞳孔が私を見つめた。
「め~。ゆめ~も希望も未対応室です」
「ゆめ~もきぼうも『ひつじ』たいおうしつ?」
「め~。ところで貴女様は?」
「あ、あの私、名刺とか持ってなくて」
「いいのです。いいのです。お客様なのですから。お名前だけ戴いてもよろしいですか?」
「はい。えっと、未来といいます。よろしくお願いします」
そこで少し冷静になった。何で私は羊と挨拶しているの?
「それで今宵はどのようなお願いをお持ちになったのでしょう?」
ぽかんとした表情になっていたかもしれない。何一つ分からないまま進んでいく話についていけなくなってきた。
「あの、お願いって? も、もちろんお願いなんて沢山ありますけど。ここはどこなんですか?」
「なるほど。どなたかのご紹介でいらしたのですか?」
「紹介っていうか、何というか。め~トロノームっていうメトロノームを友達に貰ってそれを聞きながら寝てたらいつの間にかここにいて」
「め~。合点承知でございます」
メーナードさんはそう言って両腕を広げ、芝居がかった口調に切り替えて続ける。
「ここはゆめ~も希望も未対応室! あなたの願いを三つだけ何でも叶えるゆめ~の事務所! ただしゆめ~を叶えるのはゆめ~の中だけのお話! 時間制限はめ~覚め~るまで! どうか心一杯め~一杯お楽しみください!」
里佳子の言葉を思い出す。何でも好きな夢が見られるんだっけ? こういう事なのね。
「じゃあ、目が覚めても願いが叶っている訳じゃないんですね」
「ごめ~察! あくまでゆめ~の中でゆめ~の時間を過ごしていただこうという、そういう事務所でございます」
手足を治してもらえるんじゃないかと思ったけど、そう上手い話はないよね。
「でも、それでも精神的なリハビリ代わりになるかもだし。夢の中だけでも飛んだり跳ねたり走り回ったりしたいです」
「め~。お安い御用でございます」
メーナードさんが蹄を一つカチンと鳴らすと私の体はすっくと立ち上がった。
つむじから足の指の先まできっちりと神経が張り巡っているのを感じる。
同時に白いもこもこの風景は色鮮やかな遊具や器具に溢れたアスレチック公園へと様変わりした。見た事もない巨大な遊具が視界一杯に現れた。
こういう場所で遊ぶなんて小学生ぶりかもしれない。他の大多数の人々と同じように、そういう物への興味は年を経るにつれ薄れていった。それでも今の私の体はとてもうずうずして勝手に駈け出しそうになっている。
「アスレチックはサービスです。ご要望があればもっと非現実的な遊具も用意できますよ」
「それは任せます。ちょっと行ってきます」
私は我慢できずに駆けだした。本当の体より遥かに軽く感じる。まるで私の体という乗り物を走り回らせているかのようだ。
木組みの塔をよじ登り、蜘蛛の巣のような橋を駆け抜ける。
泡立つ滝を滑り降り、逆巻く川に身を委ねる。
銀のポールに掴まるとフリーフォールさながらに打ち上げられ、分厚い雲を突き抜けると星々の瞬く夜空が広がった。
赤青黄の星々が視界一杯を埋め尽くし、重さはどこかへ消え去った。
何もかもから解放された気分、薫り豊かな風が体を吹き抜けるよう。随分風通しが良くなったみたい。
私はいくつもの流星と共に落ちて行き、気が付くとメーナードの横に寝転んでいた。
「とても晴れやかな表情をされています」
「それはとても晴れやかな気分だからに違いないよ」
こんなにも心地よい気分は後にも先にもないだろうし、夢にも現にもなかった。
「ゆめ~の時間は残り四分の一といったところでしょうか」
「そう。次はどうしよう。今なら辰己君に告白だって出来そうだよ」
そんな言葉を、夢の中とはいえ呟けるほどに私は浮かれ切っている。
「め~。お安い御用でございます」
メーナードさんが蹄を一つカチンと鳴らすと私の隣に辰己君が寝転んだ。
「え?」
「え?」
二人同時に飛び起きてお互いの顔をまじまじと見る。
「それではお邪魔虫はこの辺で」
メーナードさんはそう言うとその場から消え失せた。
代わりに私達の周りにコスモスの花畑が地平線の彼方まで広がった。これもサービス?
「未来? ここは? 何で俺こんな所にいるんだ? これは夢なのか?」
辰己君の顔を見るのは久しぶりだった。事故以来の事だ。
「う、うん。夢だよ。ほら見て。手足も自由なんだから」
私は立ち上がり、両手を広げてくるりと回る。
辰己君は私の顔ではなく服を見ていた。
パジャマ姿だった事に気が付いて慌ててしゃがみ込むが、どうにも隠しようがない。メーナードさんは気がきくんだかきかないんだか。
「そうか……。夢なのか……」
もうまともに顔を見れない。夢の中なのに心臓がバクバクなっているし、それが聞こえる。さっきまでの浮かれた気分が嘘のよう。さっきの浮かれ切った言葉は何なの?
でも、ここでの告白が現実にはならないとしても、予行練習くらいにはなるかもしれないよね。
「た! 辰己君……」
一呼吸。
もう一呼吸。
さらに一呼吸。
「どうした? 未来。言いたい事があるなら言ってくれ」
私はただただ地面を見つめていて、つむじの方で辰己君が言った。
勇気を振り絞ろうにも微塵も出てこない。染み出る気配もない。
何て言えば良いの? どのタイミングで言えば良いの? 突然言うの? 話の流れで言うの?
ほんの少し顔を上げて上目遣いで辰己君を見る、つもりだったけど辰己君はいなかった。
「あれ? 辰己君?」
「残念ですね。告白できませんでしたか」
いつの間にかメーナードさんが隣に立っていた。私も立ち上がってメーナードさんを睨みつける。
「メーナードさん……。一体どういうつもりなんですか? とっても緊張したんですから」
「め~。告白したかったのでは? 私はやとちりしてしまいましたか?」
「それはそうですけど、それにしたって結局願いも叶ってないですし。私、告白出来なかったじゃないですか……」
「そりゃそうです。そうですとも。貴女が告白するという願いなのですから。私が貴女に告白させてしまっては願いを叶えた事にはならないでしょう? 言ってしまえば一種の洗脳状態ではありませんか」
どうにも納得がいかない。それじゃあお安い御用とは言えないでしょ。
「そうだとしても何で途中で消しちゃったんですか? 告白するまで待っててくれればいいのに。練習したかったんですから」
「め~。それは致し方ないのです。辰己さんが目を覚ましてしまったのですから」
「え?」
「め~」
「だって、あれは……これは私の夢でしょう? 何で辰己君がやってくるの?」
メーナードさんは己の胸を叩いて偉そうにふんぞり返った。
「それもまたゆめ~も希望も未対応室室長の成せる技なのです! ゆめ~とゆめ~をつなげる事くらい造作もありません!」
私は三度地面にへたり込む。夢の中なのに顔が熱くなるのを感じる。さっきまで本物の辰己君が目の前にいて、私は告白しようとしていた。
いや、落ち着くんだ私。そもそも夢なんだから、夢の中でこれは本物だと言っても結局夢の中の出来事であって……。
「め~。どうやら未来さんにも覚醒の時が迫っているようです。願いはまだあと一つ残っておりますが」
「もういいですよ。好きな夢を見られるだけで、願いが叶うだなんて言えないよ。後には何も残らないじゃない」
「あながち否定はできませんが、ゆめ~もまた現実に内包されるものですよ」
「ええそうでしょうね。そうでしょうとも」
「め~。なにはともあれゆめ~の時間もそろそろお終いです」
世界が薄らいでいく。私が夢から覚めようとしている。
「どうでもいいですけど、そのめ~ってのはイエスなんですか? ノーなんですか?」
「イエスであり、ノーであり、め~であり、め~ではないのです」
「よく分からないですね」
「め~」
現実が徐々に色味を帯びていく。どちらにせよ、いつの間にか私のベッドを囲んでいるカーテンに、大した彩りはないけれど。
体を横たえたまま、天井をじっと見つめる。そこに自分の体がある事を確認するように、全身の感覚を一つ一つ点検する。
私の体はちゃんとあったけれど、私の手足の感覚はまだぼんやりとしていた。まるで、そこだけ夢の世界に忘れて来たかのように。でも、それが現実なんだ。
イヤホンは耳の中にきっちりと収まっている。音は何も聞こえない。
妙に現実感のある夢だった。確かに私はさっきまでそこに居た、と確信してしまう自分に混乱した。そこにあった物もメーナードさんの一言一句もはっきりと覚えている。そして辰己君の事も。
さっきは緊張して気を払えなかったけど、今思えば辰己君はどこかおかしかったように思う。それは勿論あんな所に突然呼び出されれば、誰だって混乱するけど、それだけではないような気がする。
ううん、違う。どうしてそう考えてしまうの。そもそもさっきのは夢で、さっき会った辰己君もまた夢の産物なのに。その現実感、存在感が頭の中や肌感覚にこびり付いて離れない。
イヤホンを耳から引き抜きつつ、ふと枕元のケータイを見ると、まだ朝の五時を回ったところ。病院の設定している起床時間は六時だったっけ。
突然カーテンが開いた。そこには里佳子が突っ立っていた。パジャマ姿で、その上顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「未来ちゃん!」
里佳子は私に抱きついて、私は何も分からないまま彼女を慰めにかかる。しっかりと抱きしめ頭をなでる。
「どうしたの? 里佳子。こんな時間にこんな所に。何があったの?」
里佳子は私の胸の中で一しきり泣いた。
「お兄ちゃんが睡眠薬を沢山のんだの。それで意識不明になって、病院に担ぎ込まれて、今胃洗浄とか色々治療中で」
「自殺しようとしたって事? 何で?」
私の頭も混乱するが努めて冷静でいようとする。友達とはいえ、たった一つだけとはいえ、私は年上なのだから、彼女は今とても苦しんでいるのだから。
里佳子は涙声で何度も喉を詰まらせながら話す。
「分かんない。だけど、お兄ちゃん事故の事で思いつめてたから」
「辰己君は軽傷でしょう? 私もほとんど治ってるし」
「私もそう言ったけど、お兄ちゃんは、自分のせいだって、そればかりで」
私達は点滅する青信号の前で二通りの選択に迫られた。
私は一度は立ち止まる事を選び、彼は走って渡る事を選んだ。
結果として彼に手を引かれてようやく渡り始めた私は、私達は車に轢かれてしまった。
辰己君のせい? 確かに見方によってはそうかもしれない。私は私達二人の不注意だったと考えていたのに。
「それにしても何で今日突然」
「分かんない。私は早めに起きて勉強してて、そしたらお兄ちゃんが寝れないから睡眠薬くれって。本当は駄目なんだけど勉強に集中してたから適当に返事して。それで……」
里佳子が嗚咽する。背中をさすってやり、自分がさすってやれている事に気付く。手がきちんと動いている。
「ちょっと休憩しようとした時に薬の入った袋を見たら睡眠薬がごっそり無くなってて。私がちゃんと断ってれば……」
「里佳子はしっかり勉強に集中してただけでしょ? タイミングの問題だよ」
誰かに責任があるとしても、それが里佳子であるなんて事は絶対にない。
しばらく二人でお互いを抱きしめていた。里佳子が鼻をすする音だけが病室の中に聞こえていた。
里佳子は落ち着きを取り戻すと、顔を上げて私とようやく目を合わせた。まだ瞳は濡れ、赤くなっている。
「そういえば未来ちゃんの夢を見たって言ってた。パジャマ姿で踊ってたって」
パジャマ姿だったけど、私踊ったっけ? そういえば一度くるりと回転してみせたっけ。
気が付けば私はあの夢を受け入れていた。ううん、本当はとっくに心の奥底で受け入れていたんだ。夢の中で羊に出会って、久しぶりに辰己君に再会したんだ。
「ご両親は?」
「待合室で待ってる」
「じゃあ、一緒にいてあげないとね。きっと不安で仕方ないはずだから。私も後で行くから」
「うん」
里佳子は手で顔を拭って立ち上がった。
「そうそう。め~トロノーム。よく眠れたよ。ありがとうね」
私が微笑むと、里佳子もまた微笑み返した。
「うん」
そう言って里佳子は病室から出て行った。
私は少しでも里佳子の助けになれただろうか。兄のもとへ向かう彼女の表情には決意のようなものが見てとれた。
私はもう一度イヤホンを耳の穴に押しこんだ。はたから見れば馬鹿な考えかもしれない。けれど今や全ては確信に変わっていた。
め~トロノームをスタートさせる。
『め~』
羊が一匹。
『め~』
羊が二匹。
『め~』
羊が三匹。
『め~』
羊が四匹。
『め~』
羊が五匹。
『め~』
羊が六匹。
『め~』
羊が七匹。
『め~』
羊が八匹。
今度は初めから 『夢も希望も未対応室』がそこにあった。そしてメーナードさんもそこにいた。
「め~。昨日の今日どころか、さっきお別れしたばかりで再会するとは思いませんでしたよ」
「早く願いを叶えてください。もう一度辰己君を呼び出してください。彼また寝てるんでしょ?」
「め~」
メーナードさんが蹄を一つカチンと鳴らすと私の目の前に辰己君が直立姿勢で現れた。
すかさず平手打ちを喰らわせる。
辰己君はよろめきつつ、ただただ驚いている。だけど、その目はどこか遠くを見ているみたいだ。
「え? 未来? 夢なのに痛い……」
「ずっとずっと好きでした。付きあって下さい」
辰己君は一瞬呆けたような表情になってから慌てて体勢を立て直す。
「ちょ、ちょっと待って。今のビンタは一体……」
「それは別問題なの。里佳子を泣かせたからだよ」
辰己君はまたも沈黙し、視線をふわふわの綿雲の上に落とした。
「里佳子泣いてたか……」
「当たり前でしょ? ご両親だってきっとそう。辰己君がいなくなって喜ぶ人なんてどこにもいない。私だってそうだよ」
「でも、俺は、未来に酷い怪我させてしまって……」
「悪いと思ってるの?」
「ああ」
「なら悪いと思ってればいいよ。悪いと思ってずっと生きてよ」
辰己君は何も言わなかった。私の言葉を一言一句聞き逃さないように耳を傾けているように見えた。
「何だっていいよ。生きていてくれるなら。私は死ぬなんてごめんだし、辰己君のいる今までの人生はとても楽しくて、生きる価値があったよ。辰己君は違うの?」
「俺もそうだ。未来と生きていたい。未来が……」
辰己君はそこで言葉を止めて顔を上げた。その目には輝きが戻っていた。
「やっぱりやめておく。ここは夢だもんな。大切な事は目が覚めてる時に言わないと。待っててくれるか?」
辰己君の体が透けて、向こうが見えてきた。
「どうかなあ。私だって言いたい事は沢山あるよ。どっちが先に治るか競争だね」
辰己君は微笑みを残して夢から目覚めた。
私は一気に力が抜けてへたり込んだ。
「どうやら丸く収まったようですね」
またもいつの間にかメーナードが傍に立っていた。
「お陰さまです。色々とありがとうございました」
「なに、私はいつも通り、通常業務をこなしたにすぎませんよ。それがお客様の幸せになったならば私の幸いです」
私の体が薄らいできた。私もまた病院で目覚めようとしている。
「また会えるでしょうか?」
「ううむ。難しいですね。それが願いごとの一つになってしまうのか。いやいや、でもそれだと意図せずして無駄に一つ消費してしまいかねないですし、いやしかしそれを言うなら……」
「それならご心配なく。今度は自分の願いは自分で叶えますよ。きっとまた会いましょう」
「ならば何も問題ありますまい。また会える日を楽しみにしております」
「め~。さようなら」
「め~。また今度」
私はベッドに腰掛けて、立てかけられた松葉づえに手を伸ばす。
「もういらないと思うんだけどなあ」
私は唇を尖らせて拗ねたふりをする。
ご老人はまだ寝ているし、ご婦人は週刊誌を読んでいる。
「駄目だよ未来ちゃん。まだ完全には動かせないでしょ」
「分かったよ」
里佳子が抑えてくれる二本の松葉杖を脇に挟む。全身に力を込めて立ち上がった。と、同時に病室の扉が開いた。
「ああ、そういえば競争してたんだっけ? 未来ちゃんの負けだね」
私はもう一度ベッドに座った。
「別にいいよ。元々今度はあっちの番だったんだから」
私はその言葉を待つ。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
ご意見ご感想ご質問お待ちしております。
記念すべき第二十弾。
だから何だという事もないけど。
今回はアイデア出しの段階で少し人に手伝ってもらった。
はたしていつもと違う感は出ているだろうか。
自分ではよく分からない。
羊といえば村○春樹の羊男は大好きなキャラなのに今の今まで忘れてた。
まあ方向性が全然違うけど。